引き続き、大学の講義をインターネットで公開するOpenCourseWare(OCW)に関して。この試みに対する感想として「講義の聴講はそこに所属する学生だけの特権ではないか?」という、ある学生さんの反応があったとのこと。うむむ、興味深い発言だ、ぜひこれに対する意見をWebで広く募ってみよう、というまでが前回の話。
ところがほとんど書き込みが無かったので、やむなく知り合いの学生を中心に感想を聞きまわった。すると、「そこまでセコイこといわんでも」が多数派であったものの、「気持ちは分かる」というものも少なからずあった。またその声は、いわゆる偏差値が高い大学に特徴的であったような気がする。
ここで私感。
確かに知的所有権の帰属がかまびすしい世の中の趨勢から言えば、「門外不出」「一子相伝」タイプの講義があって当然かもしれない。でも「知」とは自分の血肉として取り込み継承するべきものという側面がある一方、それを触媒として新たな知見を生み出し、発展させるのが本来の形ではないか。科学なんていうのはまさにその申し子である。
上の学生さんの発言は、その発展開発プロジェクトのメンバーを、どこまでに限定するかという問題なのだろう。だからこそ、多様なメンバーでやいやい議論した方が、面白いものができるはずという考え方はできまいか。同じ事を聞いても、いろんな意味で「そこか~」、吸収・反応の仕方は十人十色なのだから。
あえてこのコラムを「シューカツへの応援歌」に入れたのはこの点にある。つまり、知識を「持っている」ことをほめてもらえたのはせいぜい中高生ぐらいまでで、大人に近づけば近づくほど「どう使うか」に価値が置かれるということ。知とはゴールではなく、議論を作るための出発点である、と私は考えている。