「問わずにはいられない」編集後記

「どんな人にこの本を読んでほしいですか」。インタビューでこんな質問を受けることが多い。私はいつも「すべての保護者に、すべての教育関係者に」と答えている。


強烈な悲しみ、怒りのエネルギーがこもるこの本は、ともすれば学校を中心とする責任者糾弾の本と捉えられがちである。だが、執筆者が一番責めているのは、実は自分自身なのだ。あのとき、どうしてSOSを捉えてやれなかったのか、すぐそばにいたのにどうして救ってやれなかったのか、なぜあのとき「いってらっしゃい」と送り出してしまったのか…。一生涯、問い続けることなる。


そして、その問いに応えてあげることのできるのは、読者のみなさんしかいない。


読んで一しずく、涙を奉じてやってほしい。また身近でこのような事件があった時、手を差し伸べることができないとしても、じっと温かい目で見守ってやってほしい。万一、自分たちの身に同じようなことが起こってしまったら、この本を心のよりどころとしてほしい。


この本は、執筆者の子育てにおける痛恨の失敗談集なのだから。


「問わずにはいられない」編集中記(4)

面倒なのでブログタイトルは「編集中記」のままでおいているが、9/25の発刊よりはや10日がたつ。マスコミ対応や注文受付、発送作業での大忙しも少し落ち着いてきた。電話やメールなどで、ぼちぼち感想もいただきつつある。「一気に読んでしまいました」という声が意外に多く、おお、みなさんすごいぞ、と思ってしまう。

 

意外に、というのは私自身、執筆者の皆さんから原稿をいただいたとき、一挙に読み通せなかったからだ。あまりにも生々しい描写や写真、そして事実の重みにたじろぎ、編集者としてはお恥ずかしい話だが、半月ほど体調がすぐれなかった。その後執筆者と個々に話をすすめ、部分的に書き換えを依頼したり、写真を選別してもらったりと読みやすい形に整えていった。

 

「命を削って書きました」とはある執筆者の談である。筆を折りそうになるたびに、他の執筆者と励まし合って書き続けたということだった。

 

Amazonで「1つ1つ、大切に読み進めていきたい、そんないとおしい本」との書評をいただいた。これも含めて執筆者の方々に反響をお伝えすると、「とても切ないけれど、読者に痛みが伝わっている実感と言いますか、なんとも言えない感慨があります」とメールをもらった。


すべての保護者、学校関係者に読んでもらいたい。編集者として、一人の親として、そう願っている。


問わずにはいられない 編集中記(3)

9/25に発刊の運びとなった「問わずにはいられない」。マスコミ各社から取材を受けたが(というか執筆者の方のインタビューに同席しただけ、というのが実情)、記者の取材スタイルにもいろいろあっておもしろい。

 

周到にICレコーダーとノートを準備して背筋を伸ばして話に聞き入る記者、相手の目に見入りながら一語一語メモっている記者、簡単な質問だけを投げかけて雑談風に話を進める記者、なぜか遅刻してそのまま何事もなかったかのように取材に入る記者、事件の経緯を一から質問し相手を怒らせてしまった記者…

 

そんな記者さんたちが書いた記事のスクラップを下にまとめた。ぜひご覧いただきたい。

ん?これ著作権にはひっかからないよね?

 

続きを読む

『問わずにはいられない』編集中記(2)

最終校正、色校は終わった。あとは印刷を待つのみなので、この項は「編集後記」とするのが適当なのかもしれない。が、先週月曜日は校了のあと始末で、ブログを更新しそこねてしまった。というわけで「編集中記」としておく。

 

今回の編集方針の基本路線は「執筆者原文のまま載せること」だった。自分が書かないからラクなようにみえるのだが、これがかなり大変だった。

 

まずは字数の問題である。1人あたり10頁程度、文字にして5,000字MAXが原則である。しかしながら、あふれる思いを規定の字数に収めるのは至難の業だ。たちまち1.5倍ぐらいの文章量に達し、異口同音に「一字たりとも削れません」と訴えがくる。そこを「話の中心は何でしょう。お子さんの思い出、事故事件の経緯、それとも事後対応のひどさでしょうか」。などと話をしながら的を絞ってもらう。

 

次に、当事者と読み手の知識のずれである。悲しいことに、裁判を経験した被害者家族は、ヘタな弁護士よりある分野の法律に詳しくなる。その知識でもって「国賠法により最高裁で加害者側の個人的責任は退けられた」と書かれててもピンとこない。とはいえ、これを文中で説明すると余計に理解しづらい。そこで「ミニコラム」「編集者コラム」と銘打って各稿の終わりに解説を入れた。

 

そして、表記の統一の問題である。編集のセオリーとしては、たとえ執筆者がどう書こうとも「下さい/ください」「事/こと」といった送り仮名、また時刻(午前・午後か24時間制か)などは、全編統一することになっている。また、重複表現も削除する。

 

当初、これにのっとって『22時頃に、医師に「先生、助けてやって下さい!」と叫んだが』を『午後10時頃「助けてやってください!」と執刀医に訴えたが』などと直しかけたが、違和感が残った。やはり伝わる思いが違うのではないか。最後まで悩んだが、できるかぎり原文のままに留め置いた。ベテラン校正者からはさんざんイエローカードを入れられた。

 

これはかなり議論がある部分だろう。読みやすさを優先するか、それもひとつの表現と捉えるか。原稿を読んだ新聞記者から「ひとことひと言に、どれほどの重みがあるのだろう」と言ってもらいはしたが…判断は読み手である皆さまにお任せしたい。 


『問わずにはいられない』編集中記(1)

編集が終わった時に書くのが、編集後記だとすれば、編集中のつれづれなる思いを書くのは「編集中記」ともいうべきか。差支えない範囲で、ぼちぼちアップしていきたい。

学校でのいじめや事故・事件の原稿の編集にあたって、バックグラウンドとなる知識は欠かせない。とりわけいじめに関して一番眺めた資料が「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」である。この中身について、発行元である文部科学省 初等中等教育局 児童生徒課(長い呼称だなぁ)に、何度か電話で問い合わせたことがあった

確認はたいてい順調に進んだ。ところが最終段階のある日、話が詳細な数字部分に至ったせいか、何人か担当者が変わり、やがて情報分析ナントカ官が電話口に登場した。

「はい。何か?」
何かって、用事がないのにこんなところ電話する奴いないよ、と思いながら、いじめについてのある言葉の定義について聞いた。

「HPに載っていると思うんですけどね、いじめの定義は」
いやいやそれじゃなくて、いじめについてのこの項目の定義ですよ、と説明をした。すると「ありませんね」と瞬殺。ザ・官僚的応対というより、物言いに明らかな敵意を感じる。

気を取り直して、次の質問にうつる。その回答にナントカ官自身の解釈が入ったので、要はそれ、現場に判断が委ねられるということですよね、というと、沈黙する受話器から、怒りが立ち昇っているのが感じられる。何か、虎の尾を踏んでしまったらしい。

極め付けは、クロージングである。ありがとうございました、と礼を言うと、相手は早口で自分の名を名乗り「で、お名前は」と聞く。おい、前に取り次いだ奴、コイツにどこの誰からの電話か伝えとらんのか、と思った。と、一瞬の間があったのだろう、嘲笑うような口調で言われた。

「言えないんですか」
いえいえとんでもない、最初に名乗りはしたんですよ、タ・ハ・ラ、田んぼの田に原っぱの原です、ついでにあなたの名前の漢字をお聞きしてよろしいでしょうか、と聞いてみた。

「それって必要なんですかね」
まあそうおっしゃらずに、参考のためぜひ、と希望すると、相手は語気を荒げて漢字2文字を伝え、電話を叩き切った。ここまでの対応をされると、腹立たしいというよりは、話の小ネタを提供してもらった喜びの方が大きい。

電話を置いた後しげしげ考えた。めんどうくさいのか、やっかいな相手と思われたのか。しかし情報を欲している相手に自分の作ったデータの意図、中身を説明するのも彼女ら、彼らの仕事ではないのか。いやひょっとして、この人(たち)にとって、不登校の「1」も、いじめ自殺の「1」も、単なる「1」という数値にすぎないのか。

でもそのたった「1」の数字に、どれほどの子供の苦しみ、家族の苦悩が隠れているのだろう。少なくとも、文科省担当者の仕事の要諦は、数字を足し引きすることではない。その苦しみを取り除くためのデータを、提供することだ。そこに思いをはせてはもらえまいか、と願った次第である。