3.11-阪神大震災にはどうして幽霊譚がないのか

「論理思考・データ解析」の講師も務める自分だが、理屈では説明がつかない怪奇談などにがぜん興味を持つタイプである。説明がつかない話にヘリクツを付けたい天邪鬼な衝動を抑えられないだけ、かもしれない。

 

さて、表題である。29年前の昔を振り返りたい。

 

阪神大震災のとき、育休中で難を逃れたものの、神戸の自宅は一部損壊した。それから、生活のすべてに不自由を強いられる日が半年以上続いた。会社復帰後の仕事は地元での営業だった。担当エリアは、焼け跡が生々しい激震地域だった。営業を始めてからの客先では「身近な人を亡くした」という話をなんどか聞いた。

 

ただ、一番被害の大きかったその地域でも、震災後に幽霊を見かけたという話は、ついぞ聞かなかった。数千人の人が一日にしていなくなった瓦礫が残る町で、だ。一方で、整備が進む東北の被災地にはいまだに幽霊譚がつきまとう。この違いはどこから来るのか。

 

東北には、遠野物語やイタコなど、死者との対話を通底とする文化土壌があるからという言説がある。ということは、我々関西人にとって幽霊は身近な存在ではないのか?そんなはずはない。

 

「亡くなった人の夢が、やり場のない思いや孤独に寄り添い、支えてくれることもある。心の痛みを大切に書き記し記録に残すことが、心の安寧につながることもある(社会学者 金菱清)」

 

今になって思うのは、「復興、がんばろう神戸」の掛け声に追われたあの時、当事者らは死を悼む思いを吐き出すタイミングを失ったのではないか。あの地震は災害に対するノウハウがない中で起こった。まして心のケアという概念もなかった。SNSに心の声を書き留め、不特定多数に聴いてもらうことも当時はできなかった。 

 

幽霊とは、この世で亡き人との再会を託せる唯一の手段だ。その術すらを持たずに、嘆きを心に秘めたまま日常に戻ることを強いられたのが、95年のあの震災だったのだろう。改めてそう感じる。

 

※『呼び覚まされる霊性の震災学』2016金菱清

 

 

ドイツの鉄道事情

とにかく故障する、遅れる、がこの国の平常運転である。いきなりの欠便も当たり前。おかげさまで“kaputt(故障した)“と“Verspätung(遅延)についての車内放送ヒアリング力が飛躍的に伸びた。
なぜこんなにドイツの鉄道はお粗末なのか。こと国有鉄道であるDBの遅延問題に関しては、鈍行であっても200キロもの長距離を走る列車が多いことが理由として挙げられよう。ただ近距離電車(Sバーン)と地下鉄とも、当然のように時間に遅れる。やはり、ダイヤの組み方の杜撰さとオペレーションのまずさが主因に違いない。
おまけに、車体は落書きまみれ。駅は段差だらけ、電車とホームの間は、必ず20センチ以上はあいており、バリアフリーとはほど遠い。またエレベーターとトイレは50%くらいの確率で使えない。
鉄道一つとってもこの有様で、他の社会インフラは推して知るべし。周囲はあきらめ顔である、
「環境先進国ドイツに学べ」とご高説をたれる日本人たちよ、これがドイツを取り巻く環境である。

鏡開き

鏡開きといえば、かち割った餅&ぜんざい。皆さんの地方の鏡開きは、1月の何日だろうか?九州北部を祖とする父方のタハラ家、播州系の母方のオオキタ家では、ともに「15日」であった。

 

世間一般、すべからくそうだと思いこんでいたが、近所の家がしめ飾りを外すタイミングが、当家より早いことが以前から気になっていた。

 

Google先生に卦をたててみると、現在の多数派はなんと「11日」らしい。しかも江戸時代からの習わしだそうな。

 

鏡開きはもともと1月20日であったものが、将軍の月命日が20日だったために、松の内(正月の終わり)が短縮された、との御説だった。

  

いずれにしろ、年明けから10日も2週間もたつと、さすがに餅の状態が悪くなっている。青カビはおろか、黒や赤などの斑点が、色とりどりに発生していることがよくある。

 

昭和の昔はそれも「薬になる」と諭され、ぜんざいの具として供された。一理はある。

 

青カビはペニシリンの原材料だし、青カビ満載の「ブルーチーズ」は食品衛生法をクリアし高級食材としてまかりとおっている。だが赤や黒は?青カビでも、緑系と黒っぽい青があるぞ。見極めが難しいうえに、どのカビも未知の部分が多い。

 

あえて真空パックを選ばない同胞の方々に忠告する。

 

やはり、触らぬカビにタタリなし。カビの生えた餅は敬遠するのが無難のようだ。

 

※ (一社)微生物対策協会 餅のカビは危険?カビ毒の真実と安全な対処法 

 

歩く姿は百合の花?

最近、研修中の受講生のふるまいで、気になることがある。といっても受講態度のことではない。体の使い方だ。

 

「20-30代なのに、歩いているときに足裏が見えない」。この問題をまず挙げたい。

 

つまり、床を蹴らずに、まるでスリッパをつま先にひっかけているような感じで、すり足で平行移動する。そして両肩をいからせ上半身を固定させることによって、全身のバランスをとっている。

 

そう、まさに高齢者の歩き方である。

 

年齢が上がるとともに、足裏が見える歩き方をする人の割合は低くなる。学生が多く乗り降りする駅で、行き交う人を見ていたときに気づいた。一般的に、地面を蹴る力は年齢と逆比例する。ということは、若い層の脚力が衰えているのか。

 

次に「40代にもなると首と肩と腕ががっつり固まって一体化する」問題も指摘しておこう。

 

一日研修では気分転換と称して、午後の休み時間に必ずストレッチ体操をしている。ところが、働き盛りの年代、特に男性は次のような動作ができない傾向がある。もしや自分も、と思われる方はぜひ試していただきたい。

 

1 座ったまま、まっすぐ片手を上に伸ばす。手は耳のま横を通る形で、手のひらを体側に向けること

 

できれば、鏡で自分の姿を横からチェックしてほしい。手が前方に傾いていないか、傾いた手に上半身を合わせていないか、がチェックポイントだ

 

2 その姿勢を保ったまま、体側に向けていた手のひらを、親指からくるりと外側に向ける

 

上級管理職対象の研修では、1はなんとかなっても、2の動作ができない方が大半だ。でも、体を傾けて耳側にもっていく人、首をかしげてつじつまを合わせようする人、その懸命さがいじらしい。

 

そんなときは脇後ろの背中の肉をちょっとほぐしてもらう。すると、耳と腕の距離が縮まる。ちなみに、すり足現象を見た研修のストレッチタイムは、かかとを浮かせたままでの足首の曲げ伸ばし。2つとも好評で、感想欄に「ストレッチがとても楽しかった」とわざわざ書いてくれた方もいた。

 

研修メニューは「ロジカル・ライティング」。「ストレッチとても楽しかった」と書いてほしかった講師のタハラであった。

 

 

フランクフルトvsウインナー

フランクフルトが屋台のスタアとして登場したのは、昭和50年代ぐらいだっただろうか。それまでは、ソーセージといえば、いわゆるウインナー一択。しかも、なぜかすべて色はまっ赤だった。

 

そもそも、フランクフルトとウインナーはどう違うのか。イメージとしては「串ごとかじる屋台の味」と「タコ形で鎮座するお弁当の味」だが、H12年農林水産省のソーセージ品質表示基準によるとこうだ。

 

フランクフルト

豚の腸を使用したもの、又は製品の太さが20㎜以上36㎜未満のものをいう。

 

ウインナー

羊の腸を使用したもの、又は製品太さが20㎜未満のものをいう

 

要はもともとの材料だった腸の太さを基準にして、定義しているようだ。

 

 

ひるがえって、本家本元のソーセージ事情を調べて、ちょっとおどろいた。羊の腸につめたソーセージは「ウインナー」ではない。「フランクフルター(フランクフルト)」というらしい。ウインナーソーセージ(Wiener Wurst)なるものは存在するが、ベーコンやらなんやらいっぱいつめものをして低調調理。スライスしてハムに近い形で食べるようだ。うーむ、奥が深い。

 

このほかにも、血のソーセージやら白ソーセージやら、われわれ農耕民族にはなじみのないソーセージにめぐりあえるドイツ語圏。ただし、残念ながらおみやげに持ちかえることはできない。機会があれば、ぜひ現地で楽しんでほしい。

本場ウイーンのウインナー Wikipediaより

ドイツ基準の「きっちり」

google先生よ、君は勘違いしてはいまいか?「ドイツ人」と入力すると、「ドイツ人 きっちりしている」と検索の上位に出てくるぞ。

 

だがタハラは、わずかな期間の滞在ながら、実際のドイツが、日本人が持つ「時刻通り、勤勉、きれい好き」の標準イメージといかにかけ離れているか、思い知らされた。その恨み節を、下につづっておく。

 

1 列車の遅延はあたりまえ

 

ドイツ鉄道を利用する際、まずアプリのダウンロードを強く勧められる。「おお、AI化が進んでいる」と見当違いに感動してはいけない。乗るはずだった列車が運行ストップ、次に乗り遅れるなどは日常茶飯事。「先行の列車が5台渋滞しています」とアナウンスのあと、空調が切れた車両の中で、1時間以上放置されたこともあった。

 

どれぐらいの時間遅延しているのか、乗り継ぎの列車はちゃんと運行しているのか、たよれるのはアプリのみ。一番あてにならないのは、駅員のいうことだ。ドイツ人が車好きなのもムリはない。

 

2 夢のまた夢、宅配時間指定

 

高級店でもない限り、買い上げた荷物をそこから発送してもらうのは、リスクがある。中身まで影響がでていた経験はそんなにないが、包装材は確実によれよれになる。プレゼントのつもりが、到着時にプレゼントの体をなしていないことも多い。

 

もちろん、クール便なんてありがたいものはない。それどころか、時間指定や再配達制度もない。不在の場合は、もよりの郵便局なりDHLなりに、不在票をもって引き取りにいくことになる。だから互いの利便性のため、 勝手に置き配にされる。アパートの低層階のベランダに、地上から荷物を放り上げられたという声も聞いた。

 

3 きれい好き?

 

駅におりたつと、まずムッとするようなにおいが鼻を突いてくる。体臭、すえた食べ物の匂い、甘ったるいマリファナ臭。若者と女性の喫煙率が高いため、足元は吸い殻だらけである。ただ、ゴミはゴミ箱のまわりによせている点だけは、他のヨーロッパの国よりましかもしれない。

 

そして無料トイレには、清潔さを期待してはいけない。特に高速道路はお見事で、世界三大「汚トイレ」ランクインに迫るものもあった(タハラ独自認定)。ただ、ロシアほか旧(現)共産国にはかなわない。この点は作家の椎名誠と同意見である。

 

あ、ドイツも旧共産圏だったか。

 

 

いろはいろいろ

身辺整理中に「Tahara Keiko, hair blown, eyes hazel」と書かれた海外遊学中の古文書を発掘。へ?私の目の色は hazel(茶緑)なの?

 

子どものころ「ガイジン」と呼ばれていた時期があったことは認める(昭和だからまかり通ったニックネームだ)。全体的に色素には乏しいが、目はblownじゃないのか…。

 

色のニュアンスは、文化によって微妙に変わってくる。赤毛のアンに登場する茶トラの猫は、英語では「オレンジ色の猫」。三銃士のダルダニアンの栗毛の愛馬も、原語は「オレンジ色の馬」だ。茶トラも栗毛も、日本人に言わせれば、「茶色」に違いないのに。

 

では欧米の茶色は、日本より薄いのか濃いのか。たとえば、平均的な東洋人の瞳は、どう表現すればいいのか。茶でblown?それとも黒でblack?

 

ロシアでは、黒い目は、魅力と誘惑のシンボルである。

 

「おお、燃える黒き瞳、そのときから私の苦しみははじまった…」ではじまる、民謡「黒い瞳(Очи чёрные)」の情熱的な歌詞を聞くがいい。また、金髪碧眼の美女がひしめくかの国の宮廷で、モテ男として有名だった詩人プーシキン。アフリカ系の血を引く彼の魅力は、黒髪に褐色の肌、そして黒い瞳にあった、とされている。

 

瞳は濃い方がモテるんだな、よっしゃー、海外ではI have black eyesとしてアピール…とおもったあなた、英語圏ではやめておいた方がいい。black eyeは、顔面を殴られたときにできるアザのことだからだ。「ケンカしたの?」とけげんな顔をされることまちがいない。

 

米国でIDをつくるときは、髪の色と目の色を申告することが多い。 黒っぽい瞳でもblownが無難。覚えておこう。

 

アンドロイドは造花のにおいを嗅ぐか?

木々の花や緑がいっせいに芽吹く春。私は匂いに敏感な方で、かつ花粉症の季節でもあるので、この時期はいつも鼻がむずがゆい。くしゃみを連発してしまうことも多い。ただ、コロナ収束の雰囲気の昨今、前ほど周囲の視線が冷たくないのはありがたい。

 

春のおとずれをまっさきに感じさせるのは沈丁花だ。街角で、グローブににた甘くヅンとした香りに出会うと、ああ、やっと春が来るのだと安心する。この樹にはあまり虫がつかないと思っていたら、樹皮などにまあまあの毒を仕込んでいるらしい。

 

次は梅見。不意に出くわす香りではないので、鼻腔を膨らませてめいっぱい楽しむ。色が濃いほど、匂いも重たくなるのは気のせいか。見た目のつつましさとはうらはらに、かなり華やに薫る。挿し木で増えるソメイヨシノとはちがい、匂いによって生存戦略をはかっているのだろう。

 

菜の花畑はダメだ。おしよせる花粉が鼻の奥を刺激する。花自体も生臭く、いかにも「食うなよ」のサインが伝わってくる。が、それをゆでて匂いをやわらげ食するのが人間のすごいところだ。さすが人類、食物連鎖の底辺から頂点にのし上がるまでのことはある。

 

などなど、人をさまざまな物思いにふけらせる春の匂いだが、そうなるにはちゃんと理由があるらしい。

 

匂いだけが、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)のうち、感情・本能に関わる「大脳辺縁系」とダイレクトにつながっているだとか。マドレーヌを紅茶に浸して口にしたら幸福だった子ども時代を思い出したぜ、という某小説の書き出しは、科学的にも根拠があるのだ。そんなこんなの人間の性質を利用して、我々の知らぬところでブランディングをしている企業もあるようだ。

 

総務省も、22年6月(たぶん。お役所の文書にはたいてい日付が入っていない)に報告書『五感情報通信技術に関する調査研究会』 で、触覚、嗅覚、味覚といった情報についても、視覚や聴覚と同様に、技術の枠組みの中に取り込んでいく姿勢を示している。目的は「世界に先駆け、五感情報のセンシングや再生を支える工学的技術に応用するとにより、国際競争力を高める」とあった。

 

報告書によると、嗅覚にはわからない部分が多くインパクトが大きいため、特に注目すべき分野らしい。なるほど。メタバースほかVRは視覚先行型だ。それだけに、五感を伴う情報技術を持てた時の競争力はハンパないはずだ。

 

しかしそれで我々人類は幸福になれるのか? とおもっていたら、こんな力強いまとめがあった

 

「もしも、実世界と乖離した情報をユーザ に与えるような五感通信技術が発達し日常的に利用されるようになると、学習が進んだ脳(成人)では違和感が生じストレスを誘引するようになるであろうし、学習途中の脳(子供)では実世界と乖離した形での学習が進んでしまう。…(中略)人間の情報処理の仕組みを総合的に理解することを通じてこそ、豊かな人間性を育み自然と調和する、安全で快適な五感情報通信技術を発展させることができるのである。」

 

そんな技術が実現するまで、しばらくはリアルで春の香りを楽しむこととしようっと。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五感情報通信技術に関する調査研究会(p123より)

子育てにまつわる三題噺「昔話、自慢話、説教」

3/27日経に掲載された鈴木亘・学習院大学教授による『少子化対策の視点 女性の逸失所得 防止が本筋』が話題になっているらしい。

 

「出産とは一種の投資行動だ。ただし、1,300万~3千万程度の子育てにかかる直接費用より考慮すべきは女性の機会費用だ。その逸失利益は1億から2億に達する。現金給付や現物給付の効果よりも、雇用と子育てを両立できるよう抜本的な対策を打て」が、話の趣旨である。

 

今さら、何を言っているんだ。

 

2023年時点での20歳の数は117万人。一方2022年の出生数は80万人を下回っているから、2043年あたりの20歳の3割減は自明の理である。この20年間、何をしていたのかな⁉

 

というなげきを、自らの半生に乗せて、高田純次が年寄りに禁じたという「昔話、自慢話、説教」で展開してみたい。

 

まず、昔話。

私が社会人になったのは、男女雇用機会均等法が導入されてしばらくのこと。総合職(管理職候補)、一般職(業務内容を限定)という呼称が定着したころだった。女性総合職は、東大・京大卒のみ、が不文律の時代であったので、当然私などは一般職でしか採用されなかった。生意気なことを言いまくって就活に苦労したが、NHKの朝ドラに取り上げられた中堅の某保険会社にもぐりこんだ。

 

つづいて昔話と微妙な自慢話。

ところがバブル時代に突入し、企業は女性総合職の数を、先進性を示す指標として競うようになった。勤務先からは大手にまけじと、人事考課のたびに「総合職にならないか」のお誘いが来る。保険会社だから、総合職は全国津々浦々にある支社への転勤をのむことが前提だ。当然、断っていた。だが敵もさるもの「優秀な君には、本社の管理部門勤務を保証するよ」と甘言をささやいてきた(支社配属の人たちが聞いたら憤死するであろう)。

 

さらに自慢話。

それを鵜吞みにして総合職へと転換したとたん、バブルが崩壊した。お飾りは不要と、手のひらを返したように、周囲の女性総合職は遠方の支社に配属されていった。結婚し子どもを授かったばかりの私も育休開けに、近隣ではあったが、容赦なく支社に営業として配置転換された。そこで一念奮起、めきめきと頭角を現した。クラッシャー上司のもと、なれない業務でミスを連発しするものの、やがて営業成績は全国数番目となった。

 

自慢話、その後。

ところが、忙しすぎて事務処理が追い付かず、心身がボロボロになった。つづく長時間労働に、子の面倒を見てくれていた私の両親もだんだん疲れていく。家族に、育児と家事について分担かアウトソーシングを打診した。分担については「ムリ」。アウトソーシングについては「家事のみOK。ただし自分の実家には言わないこと」を条件にした。

 

ここでまた子どもに恵まれたことが判明。上司はマタハラ上司に進化し、退職を迫ってくる。鉄の女といわれたタハラも、さすがに胃腸炎と切迫流産を併発した。絶対安静の布団の中から、ああ、ここで撤退か。女性は、平凡なサラリーマン人生すら全うすることが難しいのだ、と天井をながめたことを覚えている。

 

以上、約30年前の話。そして説教。

こうやって私は子育てによって退職を余儀なくされ、安定雇用を失い、多大な逸失利益を被ったーというと「お母さんより大切な職業はないのに」と血相をかえてたしなめる人は多い。その人に問いたい、なぜ、私は親業と職業の二者一択を迫られたのか、いや、今でも多くの女性がこれを迫られるのか。

 

どんなにがんばっても、今のところ、子どもを産めるのは女性に限られている。だが、この数十年で法律こそ作られたものの、税制や年金などの社会制度や雇用慣行、オジサン社会の流儀はそのままだ。多くの職場ではあいかわらず、仕事と子育ての綱渡りを強いられるような環境がつづく。働く女性にとって、少子化は当然の帰結であろう。

 

どうしてこの問題をたなざらしにしている?責任者、でてこい!

 

  

戦争と平和

たいそうなタイトルをつけてしまった。トルストイの不朽の名作のことではなく、年始のコラムに続いて、二進法のことを語りたかったのだが。

 

二進法といえば、「コンピュータ」であろう。命令に従い、0と1の入力を処理し、0と1を吐き出す機械。英国人のアラン・チューリングは、単なるハードウエアに過ぎなかったこれに「計算可能な問題は、すべて計算できる機械が存在する」という概念を編み出し(チューリングマシン)、ソフトウエアのもととなる考え方を提示した。

 

この考え方は、第二次世界大戦の英独戦で応用された。ドイツの暗号生成機’エニグマ’が発する膨大なデータ解読を、シンプルなやり方でコンピュータで解読させたのだ。

 

国と国との総力戦を通じ、コンピュータは急速に発達する。第一次世界大戦が飛行機の発展に寄与したのと、同じ構図だ。

 

一方でわが国。二進法は、なんと遊びであった。有名なもので『櫻目付字』がある。

 

三十一文字(みそひともじ)からなる和歌が、5本の桜の枝に割り付けてある。相手が思い浮かべたひとつの文字を、演者が、1~5までの枝にあるかないか、ひとつづつ問うていく。その答えを聞いて、演者がズバリその文字をあてる遊びだ。平安時代が発祥といわれる。

 

その後、江戸の太平の世で、源氏香だの魔法陣だのと組み合わされ、目付字遊びはおおいに発達した。目付字だけではなく、順列も組み合わせも、和算にかかれば遊びになる。「継子だて」「大原の花売り」などは、ストーリーとしても秀逸だ。

 

ところが、これほどまでに発達した和算も、富国強兵をめざす明治政府が、西洋数学を教育に導入してからは急激に廃れてしまった。まさに「戦争は文明を生み、平和は文化を育てる」だ。

 

*31文字と5本の枝が、どうして二進法と関係するかって?えっへん、ヒント。

二進数の11111は、十進法では、①2^4+②2^3+③2^2+④2^1+⑤2^0=31だぜい 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  櫻目付字(塵劫記)

縁の下の幸福論か、やりがい搾取か。 プロフェッショナル・仕事の流儀

1/13放送 NHK「縁の下の幸福論 プロフェッショナル 仕事の流儀」をご覧になっただろうか。

 

”出版物に記されたことばを一言一句チェックし改善策を提案する校正者。並みいる作家や編集者から絶大な信頼を受けるのが、大西寿男(60)。…小さな部屋で人知れず1文字の価値を守り続けてきた半生。”

 

というキャッチフレーズは伊達ではない。誤字脱字チェックだけではなく、語感からファクトチェックまで、ことばの森に入り、たちどまり一字一句に向き合っていく。その真摯な姿に胸を打たれた。

 

同時にうーむ、とうなってしまう。一字0.5円以下とは。私が小遣いを稼いでいた●●年前と、単価が変わっていないどころか、下がっているんじゃあ…。

 

取材する側も、その点が気になったのだろうか。キャッチコピーにあえて「小さな部屋」を入れたり、取材者をもてなす惣菜の2割引シールをアップにしたりして、ことさら、つつましさ(労力>労働対価)を強調していたのが興味深い。

 

そう、サラリーパーソンとちがって、校正にしろ翻訳にしろ何にしろ、自営業の受注仕事は、凝りはじめるとキリがないのだ。

 

「あれ、これでいいのかな…」と立ちどまってしまうと、もうダメだ。いろんなサイトを開き、手元の辞書を調べ、考え込んでしまい、自ら時給を下げてしまう。

 

一時期、それが気に入らず、時給の単価を頭で計算しながらやっていたことがある。だがそちらの方がよほど非効率だった。納品してからも気になって仕方ない。「やりがい搾取」と言われればそれまでだ。が、そういう性質でないと務まらないのだろう。

 

ちなみにこの大西さんは、私の出身高校の先輩らしい。

 

かの高校の風物詩は、興味のない授業から脱走することだった。映画評論家として有名な大先輩、淀川長春さんの脱走先は映画館。この方だったら、行先は図書館だろう。本の森に、静かに身を潜ませ開くページに心躍らせていたに違いない。

 

*現在、この高校は「脱走禁止」の校則がある。「出前厳禁」なんて校則もできてしまった。私も含め、一部のふらちな生徒の行動が目に余ったせいであろう。後輩たちよ、選択の自由を奪って申し訳ない

 

 

時の流れとN進法

この「とはずがたり」の前身となるブログをはじめて12年。週1どころか、月1近い息も絶え絶えのペースながら、これまで続いているのはめでたい限りである。卯年から卯年へと、干支が一周したことになる。

 

それにしても、干支にしろ月にしろ、時にまつわる数字に12が多いのはなぜか。今をさかのぼること数千年前の古代バビロニアで、モノを分けるときに重宝した数字だったから、がその理由のようだ。

 

たしかに、ピザをとりあえず12分割しておけば、

・6人→2ピース

・4人→3ピース

・3人→4ピース

・2人では6ピース

と、ケンカになりにくい。

 

まてよ、5人では?と、ツッコミたいあなた。1切れを5等分の細切れにして、1名ずつがそれを6ピース分もらっていけば公平だ(そんなもの食べたくないが)。少なくとも、古代バビロニア人はそんな発想で、12分割した1時間をさらに5つにわけ、60進法的にとらえる方式を編み出しだらしい。

 

1時間が60(12×5)分、1日が12時間2回、1年は12か月。12がらみで気持ちよくまとめた昔の人はエラい。なのに、なぜ曜日だけ、日月火水木金土と7進法チックに展開したのだ?本当にヒトって、ヘンな動物だ。

 

あるときは7進法チックに、あるときは12進法風に。流れゆく時間に刻みを与え、やれ日曜だ、正月だなどと、意味づけして大騒ぎしている。それでも月が変わっただけで、師走のあわただしさが影を潜め、正月独特のまったりした気分になるから不思議なものだ。

 

などと雑多なおもいをめぐらしつつ、あらためて、新年のごあいさつを申し上げたい。今年こそ、もう少しまめなブログ更新を実現したいものだ。

 

私の恐怖体験 ヨサク越え

そのとき、ちょうど16時ごろだったか。高知県西部の梼原町を出て約1時間、対向車をなんとかかわしながら、40キロほどの山道を走破、国道439号線にたどり着いた。

 

旧・大正町の道の駅に立ち寄り、買ったトマトでほっとひと息。やれやれ、文字通り峠は越えた、目的地・四万十市の中心地まで、この道を走れば40キロ弱。日暮れまでにはつけるだろう。

 

ところが、ナビにしたがって再スタートしたとたん、道は山にわけいり、険しく、細くなってきた。まずセンターラインが消え、次にガードレールが消え、そしてアスファルトが消えた。荒れた路面をおおう木の葉のうえに、うっすらタイヤ跡があるのみだ。

 

おまけに、山肌より染み出した水が、道路を横切り、反対側の路肩からポトポトと垂れている。こわごわのぞくと、はるか下に川が見えた。道を間違えて、異世界にでも迷い込んだか?引き返そう。

 

決死の覚悟で下り道をバックし、大木の根っこに乗り上げギリギリUターン。道の駅の手前までもどってルートを再検索した。

 

ところが、ナビ導師もグーグル先生も「先ほどの道をすすむしかないぞよ」とのご託宣だった。あれが国道?別の道はないのか?ピンチアウトすると、なぜか画面がとんでしまう。う回路がわからない。紙の地図をもってこなかったことが悔やまれた。

 

土地勘がないうえに、もともと、大変な方向音痴である。いたずらに道を探してとんでもないところで立ち往生するより、日暮れまでに、この狭路を一気に乗り切った方がよかろう、そう腹をくくった。

 

そこから、うっそうとした原生林にかこまれた夕暮れどきの約一時間。ライトも追いつかないクネクネ道を右に左に忙しくハンドルを切り、鉄板をわたしただけの橋(といえるかどうか)をいくつかこえ、ときどき濡れ落ち葉に後ろタイヤをとられながら、地崩れの箇所は気持ちだけよけつつ、走りとおした。

 

無事下山してから、5分ぐらいは放心状態だった。対向車との離合がほぼなかったのが、不幸中の幸いだった。

 

あとで調べると、そこは四国、いや全国最恐の国道のひとつ「酷道439号」だった。しかも通った区間は、道幅2.5m以下の通称「ヨサク(439)越え」。数年前、NHKがここを放送で取り上げている。怖いもの見たさで他府県ナンバーが殺到したために、レスキュー隊が出動しまくり地元は大迷惑したらしい。

 

学んだこと:

ドライブ中に、長い髪をたらした女が突然バックミラーに映ったり、フロントガラスに血の手形をベッタリつけたとしても、怖がる必要は全くない。ガードレールのない路肩から転げ落ちる思いをするよりはるかにマシである。(でも不審者なら110番、交通事故なら119番にすぐ通報のこと)

 

NHK ドキュメント72時間 「ゆきゆきて酷道439号線」 

 

 

3・3・7拍子と3拍子

「日本人は農耕民族だから、馬の駆け足をベースにした'3拍子'が苦手だ」はホントか?

 

駆け足とは「ばからっ、ぱからっ」といった、3拍子を体感させるリズムだ。が、いかに農耕に使う日本の在来馬が小柄とはいえ、洋の東西を問わず、走りのリズムは同じはず。

 

また、日本は世界に冠たるサムライの国。馬をゆるされたのは200石扶持以上(年収1500万~ぐらい?)といえども、乗馬人口としてはヨーロッパよりも多いのではないか??

 

そして何より「3・3・7拍子」がある。応援や宴会などのハレの場に欠かせないこのリズムは、3拍子だ!

 

…とおもっていたら、最後のはちがっていた。3・3・7のうしろに、いわゆるウラ拍が、1拍隠れていた。

 

では、検証。みなさんお手を拝借。ハイ!

「チャ、チャ、チャ、(ウン)。チャ、チャ、チャ、(ウン)。チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、(ウン)」。

 

そうです、リズムとしては4拍子。音がない部分が、しっかり音として成立しているのが、おもしろい。かのベートーヴェンの『運命』でも、うまくそれが使われている。

 

クイズ。この曲の超有名な冒頭「じゃじゃじゃじゃ~ん」の最初の音は?

 

耳のいい人なら「ソ」だろう。たしかにドレミファでいえば「ソソソミ~」。だが、正解は…八分休符。最初の音が、半拍分ない。だから「(ん)じゃじゃじゃじゃ~ん」が、正しいリズムだ。

 

聞こえない音が、聞こえる音に存在感を与える「間」。これは音楽だけでなく、トーク、文学、絵画。どのジャンルでもたいせつであるような気がする。 

 

 

ベートーヴェン『運命』 聴き比べ

 

21世紀・ドイツの教会税事情

世間では宗教と政治との問題でかまびすしいが、日本ほど、宗教・思想にユルイ国はないとおもっている。入国審査でうっかり「無宗教」なんて書くと、門前払いになる国もあるのが、世界の常識である。

 

いきおい、ほとんどの日本国籍者は、外国旅行や居住のさい、なんらかの宗教名をむりやり書く羽目になる。(どこだったか「共産主義(Communist)」がチェックリストにあって、笑ってしまった。それ、宗教か?)。ヨーロッパ方面で無難なのは、仏教徒(Buddhst)ではないだろうか。ほとんどスルーしてくれる。

 

ところが、郷に入っては郷に従えとばかり、「カトリック教徒」などと住民登録すると、税金をガッポリとられる国がある。その名はドイツ。所得税の8%だか10%らしいから、消費税以上の金額を支払う羽目になろう。

 

ドイツはプロテスタント発祥の国として有名だが、南部はカトリック信徒が多い。かの有名なルードヴィヒ狂王やオーストリア皇妃となったエリザーベトも、そう。観光地が集中する南部バイエルン州で、壮麗なカトリック教会を目にすることが多いのは、そのせいだ。

 

ところが、カネを支払いたくないのは、人の常。若者を中心に教会ばなれがつづいている。そのため、数年前「税金未払い者に対する、クリスマス参列、教会挙式禁止令」が出たらしい。たしかに、王侯貴族の庇護がない今、政府が教会税を代行収納してくれないと、建物の維持すらむずかしい。

 

だれが、宗教を支えるためのカネを払うのか?その存続に、どこまで政府が力を貸すのか?宗教と政治とカネの問題に、頭を悩ませるのは、どこの国も同じである。

 

 

君の名は

参院選が近づいてきた。さて、どこに投票すべきか。公約をよみくらべる。どれどれ。

 

子育てを支援し、学びを促進し、高齢者を大切にするための社会保障を充実させる。経済活性化のために、労働人口をふやし、最低賃金を上げ、企業の成長戦略を後押しする。持続可能社会をめざし、環境負荷を減らす。LGBTQや障がいなど、さまざまな多様性を前提に、社会における心と体とのバリアフリーをめざす…。

 

などなど国防以外、内政について各党の最大公約数をとれば、こんな感じだ。どこがちがうねん、7つのまちがいさがしクイズか~。とツッコミたくなる。

 

そのなかで、ビミョーな差異に注目してみた。テーマは「婚姻」、同性婚と、いわゆる夫婦別姓(選択制)である。

 

まず、最大与党の自民党。「性的マイノリティの理解促進」という、たいへん、ひかえめな表現が顔を出すにとどまる。別姓については、言及がない。第二与党の公明党は、同性婚と別姓を容認している。

 

一方で、野党は、同性婚と夫婦別姓を、積極的に推進しているところが大半だ。

 

ただ、維新の会だけは、おもしろい。「同性婚をみとめ」とあるものの、別姓については、「社会経済活動での旧姓使用の仕組みを考える」とある。つまり、同性カップルが役所に届け出を出すとき、姓は二者一択しろということになる。

 

この場合の「姓」は、一代限りの飼育を認めるマンションのペット規約、あるいは旧南アの名誉白人の同じ扱いだ。つまり、よくもわるくも、権利の継承、という観点が抜け落ちている。

 

そう、名前とは、相続権を含む、財産権の象徴だった。

 

だから、大河ドラマの北条政子は源政子でないし、時代が下り、相続権をうしなった江戸時代の女性が、名前を通称とされたのもそのせいだ。

 

いまの私たちにとって、姓とは何の象徴なのか?

 

そんな哲学的な問いの前に、改姓の手続きのめんどうくささ。またその後も、仕事での俗名(通称)と、金融機関決済の戒名(戸籍上の名)とがズレるややこしさ。責任者出てこい、といいたくなることだけは、強調しておきたい。

 

…はなしがどんどん本筋からはなれたような気がする。とりあえず、選挙に行こう。

 

メイド・イン・ジャパンのジレンマ

最近、着物にハマっている。

 

必要に迫られ、、なんとかひとりで着られるようになったのがきっかけだ。ハマるといっても、若いころあつらえたり、譲り受けたりした「おふる」を、着用可能か吟味しているレベルだ。 

新品の仕立てまでには、とてもいたらない。

 

反物からあつらえると、普段着でも数十万。よそいきだと、気合が入った帯や草履などとそろえると、2000CCクラスの国産車が買えるほどになる。まったく、シャネルやグッチなど海外ハイブランドの値段がかわいく思えてしまう。

 

というわけで、着られるおふるを選別している。虫食いや変色品、顔うつりの悪いものを処分。こうしたNG組のなかの古い襦袢(じゅばん)を解体してみた。

 

布は羽二重(正絹/シルク)なのだろう、薄手ながらずっしりした風合いで、なめらかさを失っていない。ミシンかと思われたミリ単位のステッチは、すべて手縫い。脇や裾にある生地の縫込みは、体型変化やオーナーチェンジによるリユースに備えたものだ。

 

細やかな手仕事ぶりに驚嘆する反面、21世紀のいまではオーバースペックであるという気もする。これじゃ気軽に洗濯にもだせない。襦袢はあくまでも下着で消耗品なのに。

 

ところが、呉服業界は、襦袢をはじめ、シルクや麻など天然繊維の手縫いを、現在でも主力商品としている。だからクルマ並みの価格帯になるのだ。ただしコスト削減のために、いまや原料を中国に、縫製をベトナムやインドネシアにたよっているときく。

 

原料と生産が国内でまかなえない状態で、正絹や手縫いの伝統にこだわるのはなぜか。高額品としてのブランドを保つためか?海外ハイブランドのオートクチュールが、シルクや手縫いに固執しているという話は聞かないが。

  

こだわりスペックで価格が高止まりし、売上が低迷する。利益率を確保するために、やむなく海外生産へシフトする。これに逆比例して、国内の生産者や技術継承者は減っていく。イノベーションも生まれない。旧態依然の商品にたいして、さらにマーケットが縮小する。

 

まさにメイド・イン・ジャパンが直面する悪循環。ハレの日の高額品として、生き残る道を選んだキモノの運命やいかに。

 

ポーランド語とロシア語とルンバ君

この1カ月間、不覚にもブログで沈黙してしまった。

 

ウクライナとロシアは、ともに学生時代に立ち寄ったことのある場所だ(当時はソ連邦)。今年に入って、その関係にきな臭さが立ち上っていたものの、まさか全面戦闘状態に入るとは。どう出口戦略を見出すつもりなのか。

 

気分が重い。うちのお掃除ロボット・ルンバ君から話をスタートさせようか。

 

ルンバ君は語学の達人で、15,16か国語をこなす。最初は「電源が切れました」などと日本語でしゃべっていたが、あちこちいじくっているうちに、どんどん言語が切り替わっていってしまった。今しゃべっているのは、たぶんポーランド語である。その前はロシア語だった。

 

この2つは言語として、とても近いらしい。使っている文字は違う。ポーランド語はアルファベット、ロシア語はキリル文字だ。文章を一読してもピンとこないが、話し言葉だとだいたい意味が通じちゃう、という間柄のようだ。

 

ウクライナ語とロシア語はもっと近い。標準語と標準関西弁ぐらいという人もいる(バラエティ番組の司会と吉本芸人とのトークぐらいか)。そして同じキリル文字を使う。だから大国ロシアは「内政問題」と捉えているのだ。

 

だが話せばわかる間柄なら、なんとか話し合いで解決できなかったのか。「国々の衝突(戦争)が進歩をもたらす」といった学者もいるが、今の戦争はなにものも生み出さない。

 

かつて米軍の地雷除去ロボットだった、ルンバ君の華麗な転身ぶりをみるがいい。iRobot社が昨年発表した売上高は全世界で 14 億 3,040 万ドルで、前年比プラス18%以上。ちなみにうちのルンバの生まれは中国。多くの国が平和的にかかわってこそ、新しいものが生み出せるのに。

 

 

ターゲティング広告のナゾ

「監視されているのか!?」「盗聴されたか!」。FBやウェブサイトなどのターゲティング広告をみて、そう感じる方も多いのではないだろうか。私もそのひとりだ。

 

最近あった例を挙げてみる。

 

1 有名皮革メーカーのバーゲン会場でアルバイトした知人と、お茶を飲んだ。ご婦人方の靴・バッグ争奪戦ばなしに大笑い。それから数日間、なぜかFBでそのメーカーの広告がつづいた

2 マッチングアプリの「いいね!」数について、電話で知人からの長い自慢話をきく。それ以降、『中高年マッチングサイト』の広告表示が、FBやウェブサイトでやたら目につく

3 家電の設置に来た業者から、外壁塗装をすすめられる。その後、外壁塗装の広告があらゆるウェブサイトに顔を出すようになった

 

スマホやタブレット、パソコンは盗聴器、監視カメラなのか。そして関係各所に情報を提供しているのか。ほかに原因はないのか。

 

3については、業者が原因とにらんでいる。外壁塗装見込み客の登録リストが、なにかの拍子に漏えいしたのではないだろうか。

 

2は、キーワード検索や位置情報からターゲットになった可能性はゼロ。だから、類似ユーザーターゲット+因果関係の取り違え、をうたがっている。

 

つまり、広告は、年齢などの属性情報などをもとに、もともと表示されていた。それをスルーしていたのだが、知人との話をきっかけに、その手の広告に注意がむくようになった。認知の問題、という説である。

 

1については、正直なところ、まったくわからない。

 

年齢など属性情報からの広告だとすれば、ピンポイントすぎる。そのメーカーの購入歴もなければ、検索履歴などもない。そもそもインターネットで靴やバッグは買わないから、この分野の広告表示自体がないといっていい。×ユーザー情報、×コンテンツ情報、ナゾは深まる。

 

そして、わたしにとってターゲティング広告最大のナゾは、本の広告がほとんど表示されないことだ。検索回数とネットでの購入頻度は群を抜いているし、金額もコンスタントに高い。優良顧客なのに、無視されている。AIにやる気がないのか。

 

ちなみに、アマゾンのAIはなかなかのポンコツで、購買歴のある本を、くりかえしおすすめしてくれる。

 

AIよアルゴリズムよ、ちゃんと私の嗜好をよみとってくれたまえ。聞こえましたか? 

パソコン(スマホ)病

肩こりに目のつかれ。パソコン(スマホ)病は数々あれど、漢字のド忘れは深刻だ。添削業務では、手書きがベターである場面もまだまだ多いので、ド忘れは非効率である。

 

だが、副産物もあった。漢字が多い手書きは読みにくいと悟ったのだ。「よろしく」「宜しく」「夜露死苦」、いずれが読みやすいかは、いうまでもない。機械入力であっても、ウェブではキーワード以外には漢字を使わない方がいいかもしれないとさえ感じている。

 

ところが最近、英語のつづりでも、同じ度忘れをおこしていることに気づいた。感謝するはapriciateだったかappreciateだったか、ハサミのつづりはじめはsからcからか。つづりを入力しかけると、機械が正しい単語を表示してくれることに慣れすぎた。

 

お礼ハガキ程度の文面が進まない。漢字と違い、ひらがなという別選択がないのでやっかいだ。読み返した結果、修正液に登場いただくことだってある。

 

その点、19世紀以前の英語は、おおらかだったようだ。つづりの間違いはあたりまえ。それが発音を変化させたり、逆に発音の間違いがつづりに影響したことも多いらしい。oftenでtを発音する人が意外に多いのも、そのなごりといわれる。

 

さて21世紀に生きる自分はどう対処したか。スマホに話しかけてつづりをチェック(滑舌が悪くいっぺんで聞き取ってもらえないこともあり)。画面の文字を、せっせと紙面に移した。

 

Google先生のいらっしゃる現代は、スペルミスに不寛容な時代でもあるのだ。

 

英語の特徴のいろいろ(2) 能澤正雄(2003)