成長という名の病(やまい)

あえて言う。私は成長という言葉が昔から嫌いだ。その程度を関西風に言えば「ゲェが出るぐらい」嫌いである。就活生が、「御社で成長したいです」なんてエントリーシートに書くと、即赤ペンで削除する。「当社では成長できます」なんてうたったパンフレットを持参して相談に来ると、「無理に行くとこやない」と断言する。

 

なぜか。

 

ひとつは、言葉の使い方として間違えているからだ。通常の場合の「成長する」は、身長が伸びることを指す。また評価としての「成長する」は、自分に対して使える言葉ではない。よって、第三者から「アイツは成長したなあ」と言われる用例以外は、辞書的に誤りだ。年若い学生ならともかく、法人なんかが公然と使うと常識の程度が疑われるぞ。

 

なに?「言葉は世につれ時代につれ変わる。辞書が正しいとは限らない」とな?

それでも嫌いだ。

 

百歩譲ってそういう用例が世間に定着しているとしよう。しかし「成長する」は、「どんな/何の」という文の要素なしには使えない。「アイツは成長したなぁ」は、評価する側と評価される側が共通の文脈理解を持っている(今まで歯が立たなかったタスクを一人でやり遂げたとか)から、成立するのだ。どんな点が成長したのかという点を明示せずして、この用法は成り立たない。

 

「いや、人として成長するという意味だ。わかってないのはお前だけ、世間では通る」と?

理解できてなくて大いに結構だ。

 

「人として成長する」という現象が仮にあったとしよう。しかし、人間とは千差万別である。命じられたことをそつなくこなすのが得意な人もいるし、不器用ながらも創意工夫に秀でた人もいる。結局、どの部分がどうなる状態を意味するのか?それを「成長」と十把ひとからげに表現するのは乱暴だし、相手に失礼だろう。仮に、これを他の言語に訳そうとしてごらん。とうてい不可能だ。

 

というわけで、超ハイコンテキスト言語「成長」は、ついみんなが分かったつもりになる、実体のないマジックワードと私は考え、使うのを避けている。ちなみに、この語を多用する会社は、いわゆるブラック企業が多いよ。みなさん、気を付けよう。