書き言葉と話し言葉

文章構成に関するコラムを書こうかと思ったが、忙しいのと面白いネタを見つけたのでこっちにしよう。

 

社員を社内報で「馬鹿」「アホ共よ」  かっぱ寿司のコロワイド「会長独特の言い回し」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170227-00000007-jct-soci

 

ネット記事の一部をコピペする。

「私が嫌いで、嫌悪感すら感じるのだろう。そのアホが、何故会社にいる? 辞めて転職したらいいのに」「生殺与奪の権は、私が握っている。さあ、今後どうする。どう生きて行くアホ共よ」。

といった具合だ

 

『生殺与奪の権を握っているのは私』というワードそのものの是非は、「総合労働相談コーナー」のパワハラ担当に問題を預けよう。しかし文の全体的なトーンをみると、この御仁(と側近ら)はそもそも、話し言葉と書き言葉との役割が全く理解できていない様子がうかがえる。

 

話し言葉は、「場」と不可分のものである。つまり、話し手の声の調子、聞き手は多数か少数か、両者の関係性はなど、文字ヅラよりもそれ以外の情報が意味を決する。データ量は、常に音声データ>テキストデータということを思い出してほしい。対面コミュニケーションであればなおさらだ。画像データとして相手を圧するので、言外の意味がメッセージの意味を決定する。

 

つまり、悪気はないよ、キミを発奮させるために言ってるんだぜ、という「想い」が伝わっていれば、乱暴な表現でも受け入れてもらえるのだ。

 

それに対し、書き言葉は純粋テキストデータである。かつその場で訂正や補足説明ができない。ヒエログリフしかり楔形文字しかり、古(いにしえ)より、時と場所を超えひとり歩きさせることを前提に成立したからだ。粗い言葉を(にしても度を越しているが)ひとり歩きさせれば、それはただの暴言となってしまう。

 

ご本人をはじめその側近らも、まさか社内報が外部に流出し万人の目に触れようとはおもっていなかったろう。が、書き言葉である以上、そのリスクはある。その認識の甘さが「会長独特の言い回し」に透けてみえる。

 

ちなみに、私見だがSNSやメールで使う言語は、話し言葉に近い。読み手との双方向性を前提し、かつ即時性が高いからだ。書き込みなどがやたら長い=一方的に長話されているように感じられるのはそのためだ。だから1回の書き込み量を少なくする、1文も短めに40字までにまとめるのがベターだ。覚えておこう。