忘却の彼方

最近、物忘れが激しい。ブログのネタをいくつか仕込んでいたが、パソコンを開いたとたん、何を書いていいか頭から飛んでしまった。

 

年齢のせいにしたいところだが、昔から非常に物忘れが激しかった。小学校時代から宿題を家でやったことは数えるほどしかない。家に帰ってカバンを置くと、すべてが記憶から消えてしまうのだ。ゆえに、学校に残ってやるか、当日の朝にするか。宿題をやっている現場に通りかかって、教師に叱責されることがたびたびだった(別に構わないんじゃね?いまだに叱られた理由が分からない)。

 

忘れ物も多かった。前の晩に連絡帳を見て一応用意をするのだが、カバンに詰め忘れたり置き忘れたりと、まともにすべて持っていった日には、一日気分が爽快だった。教科書も家への置き忘れが多かったので、ほとんどは机の中に入れて帰っていた。それらはしばしば掃除の際、机を移動するときに油を引いた床のうえに音を立てて落ちた。表紙と裏表紙は薄汚れ、油で異臭を放っていた。授業の時ぐらいしか開かないので、中身は比較的キレイだったが。

 

しかしながら、忘れるということは悪いことばかりではない。嫌なことをすぐ忘れるのだ。クラスメートともめごとがあっても、相手の「ごめんね」の一言できれいさっぱりである。反対に、オモシロいこと、良かったことはしつこく記憶にこびりつくたちなので、おめでたい性質ではある。

 

このような人物にとって、情報をクラウドに置ける今は、パラダイスのような時代である。考えた人間は、きっと忘れ物常習犯だったにちがいない。歩くのがめんどくさいから、馬を乗り物として使うことを考えた。そのメンテナンスの手抜きをめざし、車を作った。イノベーションとは、常に、世の中に自分を合わせるのを苦労する人間が起こす、というのが私の仮説である。