得意=苦にならない+その分野でのアドバンテージがある、と定義しておく。世間を見ると、話すことが得意な人と書くことが得意な人では、人種が違うなあ、と感じることが多い。
昔々は司馬遼太郎のファンだった。が、ひとたび講演や対談となると、聴講中寝落ちするのがオチだった。文章であれほど滑らかにしゃべることができる人が、ひとたび肉声にのせると、どうしてあんなにつっかえるのか。
長じて、やや有名人のインタビューをまとめる仕事をしたが、ほぼ例外なく同じ感想を持った。あれだけユーモアあふれる作品を生み出す人たちが、なぜこんな四角四面な話しぶりなのかと。一方で、アナウンサーやタレントの魅力あふれる話を要約したら、たった1、2行になってしまうこともよくあった。(インタビュアーが下手クソだからという説は却下)
現在でも、筆達者な人々とは、おしゃべり自体が好きか嫌いかは別にして、電話で話すより、チャットでやり取りを優先する。逆もまたしかりで、講師仲間では、電話やZOOMなどがコミュニケーションの主体になる。そしていずれも、相手が得意な方法にゆだねた方が、やりとりに齟齬を生じないのだ。
頭に浮かんだことを文字(や絵)に移す作業と、瞬時に音声言語にのせる表現するのとでは、活動する脳の部位が違ったとしても不思議はないとは感じる。そのとき、一方の部位の活性化が、もう一方を抑制することに働くのか?それとも単に本人の怠慢で、一方のコミュニケーションで事足りるから、他方を手抜きするのか?最新の認知言語学の知見を問うてみたいところである。