自分の中に情報を取りこんで習得したり、取り出して表現したりするときの感覚経路の代表格は視覚、聴覚、体感覚だ。ただし、どの経路を優位に使うかは人によってさまざまらしい。
タハラはといえば、情報を習得するときは、聴覚優位である。小さいときから目が悪かったことが影響している。
小学校の高学年には、教室の席が2,3列目より後ろになると、黒板が見えづらい状態だった。かといって、眼鏡はかけたくない。前列移動を志願して、チョークの粉や教師のツバキを浴びる覚悟があるほどまじめでもない。板書はあきらめるとしても、サボっていないぜアピールが必要となる。そこで、聞き書きすることが常となった。
耳に残った語を拾って、〇や△や→でとりあえずつなぎ描くのが私のノートだった。ほとんど暗号だとよく教師におこられたが、今からおもえば「思考の視覚化」である。小学生のくせにエライ高度な技をつかっていたことになる。すなおに黒板を写した方がよっぽど楽だったろう。
おかげさまで、情報のインプットは聴覚優位、アウトプットは視覚優位となって定着した。
苦手だったのが体感覚、つまり手を動かして体で覚えることだ。漢字の百字練習や英単語の書き取り訓練にいたってはほとんど罰ゲームに感じられた。あんなことをして覚えられるわけないだろう、と成人後に恨み言をいうと「そういう感覚が信じられない」と多くの人に返されたのには驚いた。本当に人それぞれなのだ。
学習のやり方やペース、そして表現の方法はそれぞれ異なっている。大切なのは「人はみな違う」という前提に立つことだ。特に伝える側は、教室でも仕事場でも、相手がどういうタイプなのかよく観察する必要がある。自分のやり方を押し付けちゃいけない、としみじみおもう今日この頃である。