2017年
2月
20日
月
週末、ディベートの審判員をさせていただいた。(前々回物議をかもした『させていただく』だが、審議会答申に照らせば今回に限り適切かと)。その時おもったのは、「カウンセリングもコーチングもファシリテーションもじったものの、やっぱりわたしにゃディベートが一番」ということだった。
なぜか。ひとつめは、聴く時間としゃべる時間が担保されているからだ。カウンセリングだと特に初期段階では「それはおつらい体験だったでしょう」「無理もないですね」など、基本的に自分のセリフはあいづちのみ。根がおしゃべりな人間にとっては結構つらい。
ふたつめは、スピード感。相手の論点を追いかけ、頭をフル回転させて、チームでタッグを組んで論題に添ったカウンターコメントを考える。ハンパなく聴く力が要求される。
最後は、建設的であること。ディベートでは点数のほか、いかに論題の検証に貢献したかが俯瞰的に評価される。相手の揚げ足取りに終始すれば、点数という勝負には勝っても試合に負けてしまう。
しかしディベートは、ひところに比べて盛んではなくなったという。なぜか。確かに準備には手間がかかる。人数もそろえなきゃならない。
が、最大の理由はおそらく「討論」=真っ向から相手方とサシで勝負するというイメージが好まれないからに違いない。それが最近の、「共感」だの「絆」だのヨコのつながり大好き、白黒つけるの苦手、の風潮からは時代遅れに見えるのだろう。いやいや、どちらがより聴衆の支持、つまり共感を得られるかという勝負なのだが。もったいない話だ。
2016年
2月
22日
月
論理性(ロジカルである)とは何か。『考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式』という広辞苑の定義に異論を唱える方は少なかろう。
ただし、日常生活での行為や言動において「論理性がある」ことと「妥当である」ということは別だ。
日常生活と強調したのは、論理学でも「妥当である」という用語があるからだ。例を挙げると「タハラは哺乳類である。カエルは両生類である。(前提)」「ゆえにタハラはカエルではない(結論)」は、前提(正)→結論(正)なので「妥当である」。(ゆえにFBのアイコンでカエルを使用する私は、論理的に「妥当でない」行為をなしている?)
それはさておき「論理的じゃん」≠「フツーに妥当じゃないでしょ」という話に戻りたい。例えば「こんにちは」という言葉。これは「今日様(こんにちさま)」=太陽に呼び掛ける言葉だったとか、「今日は(よいお日柄で…)」といった話の枕の省略形であるとか、いろんな説がある。がとにかく意味をなさない、形骸化した言葉であることは間違いない。
そこに『筋道』を通すために言葉と行為の一致を追求したらどうなるか?「こんにちは」は、話相手ではなく常に太陽を見て言葉を向けるか、あるいは「こんにちは」に続く相手のセリフを待ちづけるか…単なる困りものである。ここは世の倣いに従い「こんにちは」と返すのが通例であろう(こーゆーのを言語学で`隣接ペア’という)。
論理性にこだわるあまり、妥当であることに目が向かず、単なる揚げ足取りになり果てる。ロジカルシンキングの習いたては、こうした傾向が出ることが多い。要注意だ。また、自称ロジカルシンキングのベテランでも、時々こういう人を見かける。自分が`賢い’と勘違いし、他人の言葉のアラさがしをして説教し、周囲の生産性を下げるのだ。こうした自己陶酔型の人とは、対話が成立しない。結果、人は離れていく。もったいない話である。
2017年
2月
20日
月
週末、ディベートの審判員をさせていただいた。(前々回物議をかもした『させていただく』だが、審議会答申に照らせば今回に限り適切かと)。その時おもったのは、「カウンセリングもコーチングもファシリテーションもじったものの、やっぱりわたしにゃディベートが一番」ということだった。
なぜか。ひとつめは、聴く時間としゃべる時間が担保されているからだ。カウンセリングだと特に初期段階では「それはおつらい体験だったでしょう」「無理もないですね」など、基本的に自分のセリフはあいづちのみ。根がおしゃべりな人間にとっては結構つらい。
ふたつめは、スピード感。相手の論点を追いかけ、頭をフル回転させて、チームでタッグを組んで論題に添ったカウンターコメントを考える。ハンパなく聴く力が要求される。
最後は、建設的であること。ディベートでは点数のほか、いかに論題の検証に貢献したかが俯瞰的に評価される。相手の揚げ足取りに終始すれば、点数という勝負には勝っても試合に負けてしまう。
しかしディベートは、ひところに比べて盛んではなくなったという。なぜか。確かに準備には手間がかかる。人数もそろえなきゃならない。
が、最大の理由はおそらく「討論」=真っ向から相手方とサシで勝負するというイメージが好まれないからに違いない。それが最近の、「共感」だの「絆」だのヨコのつながり大好き、白黒つけるの苦手、の風潮からは時代遅れに見えるのだろう。いやいや、どちらがより聴衆の支持、つまり共感を得られるかという勝負なのだが。もったいない話だ。
2016年
8月
29日
月
一徹:「ふん!!くだらんにも程がある」
2016年
5月
16日
月
『熊本地震、農業水産被害額1千億円超。…阪神上回る』というニュースタイトルに難癖をつける一徹。いったい何が気に入らないのか!?
アッコ:「ということは兵庫県は農業県ではないの?クワガタさんとデート…いえ、ある方にご馳走になったときのビフテキは、神戸牛と聞いたのだけど」
一徹:「そもそも兵庫県全体でも、野菜・果物出荷額を合わせて500億円に満たない金額じゃ。それに対し熊本県は1400億円を超える」
アッコ:「確かに、農業が基幹産業である県と、そうでない県と農業関係の被害額を比べても意味がないわね。何を元にするか、指標の意味をはっきりさせてこそ比較の意味があるのね」
おわり
2016年
5月
09日
月
一徹:「あわてるな、アッコよ。被害がばかばかしいと言ってるのではない。くだらんのは比較すべき対象よ」
2016年
2月
22日
月
論理性(ロジカルである)とは何か。『考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式』という広辞苑の定義に異論を唱える方は少なかろう。
ただし、日常生活での行為や言動において「論理性がある」ことと「妥当である」ということは別だ。
日常生活と強調したのは、論理学でも「妥当である」という用語があるからだ。例を挙げると「タハラは哺乳類である。カエルは両生類である。(前提)」「ゆえにタハラはカエルではない(結論)」は、前提(正)→結論(正)なので「妥当である」。(ゆえにFBのアイコンでカエルを使用する私は、論理的に「妥当でない」行為をなしている?)
それはさておき「論理的じゃん」≠「フツーに妥当じゃないでしょ」という話に戻りたい。例えば「こんにちは」という言葉。これは「今日様(こんにちさま)」=太陽に呼び掛ける言葉だったとか、「今日は(よいお日柄で…)」といった話の枕の省略形であるとか、いろんな説がある。がとにかく意味をなさない、形骸化した言葉であることは間違いない。
そこに『筋道』を通すために言葉と行為の一致を追求したらどうなるか?「こんにちは」は、話相手ではなく常に太陽を見て言葉を向けるか、あるいは「こんにちは」に続く相手のセリフを待ちづけるか…単なる困りものである。ここは世の倣いに従い「こんにちは」と返すのが通例であろう(こーゆーのを言語学で`隣接ペア’という)。
論理性にこだわるあまり、妥当であることに目が向かず、単なる揚げ足取りになり果てる。ロジカルシンキングの習いたては、こうした傾向が出ることが多い。要注意だ。また、自称ロジカルシンキングのベテランでも、時々こういう人を見かける。自分が`賢い’と勘違いし、他人の言葉のアラさがしをして説教し、周囲の生産性を下げるのだ。こうした自己陶酔型の人とは、対話が成立しない。結果、人は離れていく。もったいない話である。