アンドロイドは造花のにおいを嗅ぐか?

木々の花や緑がいっせいに芽吹く春。私は匂いに敏感な方で、かつ花粉症の季節でもあるので、この時期はいつも鼻がむずがゆい。くしゃみを連発してしまうことも多い。ただ、コロナ収束の雰囲気の昨今、前ほど周囲の視線が冷たくないのはありがたい。

 

春のおとずれをまっさきに感じさせるのは沈丁花だ。街角で、グローブににた甘くヅンとした香りに出会うと、ああ、やっと春が来るのだと安心する。この樹にはあまり虫がつかないと思っていたら、樹皮などにまあまあの毒を仕込んでいるらしい。

 

次は梅見。不意に出くわす香りではないので、鼻腔を膨らませてめいっぱい楽しむ。色が濃いほど、匂いも重たくなるのは気のせいか。見た目のつつましさとはうらはらに、かなり華やに薫る。挿し木で増えるソメイヨシノとはちがい、匂いによって生存戦略をはかっているのだろう。

 

菜の花畑はダメだ。おしよせる花粉が鼻の奥を刺激する。花自体も生臭く、いかにも「食うなよ」のサインが伝わってくる。が、それをゆでて匂いをやわらげ食するのが人間のすごいところだ。さすが人類、食物連鎖の底辺から頂点にのし上がるまでのことはある。

 

などなど、人をさまざまな物思いにふけらせる春の匂いだが、そうなるにはちゃんと理由があるらしい。

 

匂いだけが、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)のうち、感情・本能に関わる「大脳辺縁系」とダイレクトにつながっているだとか。マドレーヌを紅茶に浸して口にしたら幸福だった子ども時代を思い出したぜ、という某小説の書き出しは、科学的にも根拠があるのだ。そんなこんなの人間の性質を利用して、我々の知らぬところでブランディングをしている企業もあるようだ。

 

総務省も、22年6月(たぶん。お役所の文書にはたいてい日付が入っていない)に報告書『五感情報通信技術に関する調査研究会』 で、触覚、嗅覚、味覚といった情報についても、視覚や聴覚と同様に、技術の枠組みの中に取り込んでいく姿勢を示している。目的は「世界に先駆け、五感情報のセンシングや再生を支える工学的技術に応用するとにより、国際競争力を高める」とあった。

 

報告書によると、嗅覚にはわからない部分が多くインパクトが大きいため、特に注目すべき分野らしい。なるほど。メタバースほかVRは視覚先行型だ。それだけに、五感を伴う情報技術を持てた時の競争力はハンパないはずだ。

 

しかしそれで我々人類は幸福になれるのか? とおもっていたら、こんな力強いまとめがあった

 

「もしも、実世界と乖離した情報をユーザ に与えるような五感通信技術が発達し日常的に利用されるようになると、学習が進んだ脳(成人)では違和感が生じストレスを誘引するようになるであろうし、学習途中の脳(子供)では実世界と乖離した形での学習が進んでしまう。…(中略)人間の情報処理の仕組みを総合的に理解することを通じてこそ、豊かな人間性を育み自然と調和する、安全で快適な五感情報通信技術を発展させることができるのである。」

 

そんな技術が実現するまで、しばらくはリアルで春の香りを楽しむこととしようっと。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五感情報通信技術に関する調査研究会(p123より)

子育てにまつわる三題噺「昔話、自慢話、説教」

3/27日経に掲載された鈴木亘・学習院大学教授による『少子化対策の視点 女性の逸失所得 防止が本筋』が話題になっているらしい。

 

「出産とは一種の投資行動だ。ただし、1,300万~3千万程度の子育てにかかる直接費用より考慮すべきは女性の機会費用だ。その逸失利益は1億から2億に達する。現金給付や現物給付の効果よりも、雇用と子育てを両立できるよう抜本的な対策を打て」が、話の趣旨である。

 

今さら、何を言っているんだ。

 

2023年時点での20歳の数は117万人。一方2022年の出生数は80万人を下回っているから、2043年あたりの20歳の3割減は自明の理である。この20年間、何をしていたのかな⁉

 

というなげきを、自らの半生に乗せて、高田純次が年寄りに禁じたという「昔話、自慢話、説教」で展開してみたい。

 

まず、昔話。

私が社会人になったのは、男女雇用機会均等法が導入されてしばらくのこと。総合職(管理職候補)、一般職(業務内容を限定)という呼称が定着したころだった。女性総合職は、東大・京大卒のみ、が不文律の時代であったので、当然私などは一般職でしか採用されなかった。生意気なことを言いまくって就活に苦労したが、NHKの朝ドラに取り上げられた中堅の某保険会社にもぐりこんだ。

 

つづいて昔話と微妙な自慢話。

ところがバブル時代に突入し、企業は女性総合職の数を、先進性を示す指標として競うようになった。勤務先からは大手にまけじと、人事考課のたびに「総合職にならないか」のお誘いが来る。保険会社だから、総合職は全国津々浦々にある支社への転勤をのむことが前提だ。当然、断っていた。だが敵もさるもの「優秀な君には、本社の管理部門勤務を保証するよ」と甘言をささやいてきた(支社配属の人たちが聞いたら憤死するであろう)。

 

さらに自慢話。

それを鵜吞みにして総合職へと転換したとたん、バブルが崩壊した。お飾りは不要と、手のひらを返したように、周囲の女性総合職は遠方の支社に配属されていった。結婚し子どもを授かったばかりの私も育休開けに、近隣ではあったが、容赦なく支社に営業として配置転換された。そこで一念奮起、めきめきと頭角を現した。クラッシャー上司のもと、なれない業務でミスを連発しするものの、やがて営業成績は全国数番目となった。

 

自慢話、その後。

ところが、忙しすぎて事務処理が追い付かず、心身がボロボロになった。つづく長時間労働に、子の面倒を見てくれていた私の両親もだんだん疲れていく。家族に、育児と家事について分担かアウトソーシングを打診した。分担については「ムリ」。アウトソーシングについては「家事のみOK。ただし自分の実家には言わないこと」を条件にした。

 

ここでまた子どもに恵まれたことが判明。上司はマタハラ上司に進化し、退職を迫ってくる。鉄の女といわれたタハラも、さすがに胃腸炎と切迫流産を併発した。絶対安静の布団の中から、ああ、ここで撤退か。女性は、平凡なサラリーマン人生すら全うすることが難しいのだ、と天井をながめたことを覚えている。

 

以上、約30年前の話。そして説教。

こうやって私は子育てによって退職を余儀なくされ、安定雇用を失い、多大な逸失利益を被ったーというと「お母さんより大切な職業はないのに」と血相をかえてたしなめる人は多い。その人に問いたい、なぜ、私は親業と職業の二者一択を迫られたのか、いや、今でも多くの女性がこれを迫られるのか。

 

どんなにがんばっても、今のところ、子どもを産めるのは女性に限られている。だが、この数十年で法律こそ作られたものの、税制や年金などの社会制度や雇用慣行、オジサン社会の流儀はそのままだ。多くの職場ではあいかわらず、仕事と子育ての綱渡りを強いられるような環境がつづく。働く女性にとって、少子化は当然の帰結であろう。

 

どうしてこの問題をたなざらしにしている?責任者、でてこい!

 

  

戦争と平和

たいそうなタイトルをつけてしまった。トルストイの不朽の名作のことではなく、年始のコラムに続いて、二進法のことを語りたかったのだが。

 

二進法といえば、「コンピュータ」であろう。命令に従い、0と1の入力を処理し、0と1を吐き出す機械。英国人のアラン・チューリングは、単なるハードウエアに過ぎなかったこれに「計算可能な問題は、すべて計算できる機械が存在する」という概念を編み出し(チューリングマシン)、ソフトウエアのもととなる考え方を提示した。

 

この考え方は、第二次世界大戦の英独戦で応用された。ドイツの暗号生成機’エニグマ’が発する膨大なデータ解読を、シンプルなやり方でコンピュータで解読させたのだ。

 

国と国との総力戦を通じ、コンピュータは急速に発達する。第一次世界大戦が飛行機の発展に寄与したのと、同じ構図だ。

 

一方でわが国。二進法は、なんと遊びであった。有名なもので『櫻目付字』がある。

 

三十一文字(みそひともじ)からなる和歌が、5本の桜の枝に割り付けてある。相手が思い浮かべたひとつの文字を、演者が、1~5までの枝にあるかないか、ひとつづつ問うていく。その答えを聞いて、演者がズバリその文字をあてる遊びだ。平安時代が発祥といわれる。

 

その後、江戸の太平の世で、源氏香だの魔法陣だのと組み合わされ、目付字遊びはおおいに発達した。目付字だけではなく、順列も組み合わせも、和算にかかれば遊びになる。「継子だて」「大原の花売り」などは、ストーリーとしても秀逸だ。

 

ところが、これほどまでに発達した和算も、富国強兵をめざす明治政府が、西洋数学を教育に導入してからは急激に廃れてしまった。まさに「戦争は文明を生み、平和は文化を育てる」だ。

 

*31文字と5本の枝が、どうして二進法と関係するかって?えっへん、ヒント。

二進数の11111は、十進法では、①2^4+②2^3+③2^2+④2^1+⑤2^0=31だぜい 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  櫻目付字(塵劫記)

縁の下の幸福論か、やりがい搾取か。 プロフェッショナル・仕事の流儀

1/13放送 NHK「縁の下の幸福論 プロフェッショナル 仕事の流儀」をご覧になっただろうか。

 

”出版物に記されたことばを一言一句チェックし改善策を提案する校正者。並みいる作家や編集者から絶大な信頼を受けるのが、大西寿男(60)。…小さな部屋で人知れず1文字の価値を守り続けてきた半生。”

 

というキャッチフレーズは伊達ではない。誤字脱字チェックだけではなく、語感からファクトチェックまで、ことばの森に入り、たちどまり一字一句に向き合っていく。その真摯な姿に胸を打たれた。

 

同時にうーむ、とうなってしまう。一字0.5円以下とは。私が小遣いを稼いでいた●●年前と、単価が変わっていないどころか、下がっているんじゃあ…。

 

取材する側も、その点が気になったのだろうか。キャッチコピーにあえて「小さな部屋」を入れたり、取材者をもてなす惣菜の2割引シールをアップにしたりして、ことさら、つつましさ(労力>労働対価)を強調していたのが興味深い。

 

そう、サラリーパーソンとちがって、校正にしろ翻訳にしろ何にしろ、自営業の受注仕事は、凝りはじめるとキリがないのだ。

 

「あれ、これでいいのかな…」と立ちどまってしまうと、もうダメだ。いろんなサイトを開き、手元の辞書を調べ、考え込んでしまい、自ら時給を下げてしまう。

 

一時期、それが気に入らず、時給の単価を頭で計算しながらやっていたことがある。だがそちらの方がよほど非効率だった。納品してからも気になって仕方ない。「やりがい搾取」と言われればそれまでだ。が、そういう性質でないと務まらないのだろう。

 

ちなみにこの大西さんは、私の出身高校の先輩らしい。

 

かの高校の風物詩は、興味のない授業から脱走することだった。映画評論家として有名な大先輩、淀川長春さんの脱走先は映画館。この方だったら、行先は図書館だろう。本の森に、静かに身を潜ませ開くページに心躍らせていたに違いない。

 

*現在、この高校は「脱走禁止」の校則がある。「出前厳禁」なんて校則もできてしまった。私も含め、一部のふらちな生徒の行動が目に余ったせいであろう。後輩たちよ、選択の自由を奪って申し訳ない

 

 

時の流れとN進法

この「とはずがたり」の前身となるブログをはじめて12年。週1どころか、月1近い息も絶え絶えのペースながら、これまで続いているのはめでたい限りである。卯年から卯年へと、干支が一周したことになる。

 

それにしても、干支にしろ月にしろ、時にまつわる数字に12が多いのはなぜか。今をさかのぼること数千年前の古代バビロニアで、モノを分けるときに重宝した数字だったから、がその理由のようだ。

 

たしかに、ピザをとりあえず12分割しておけば、

・6人→2ピース

・4人→3ピース

・3人→4ピース

・2人では6ピース

と、ケンカになりにくい。

 

まてよ、5人では?と、ツッコミたいあなた。1切れを5等分の細切れにして、1名ずつがそれを6ピース分もらっていけば公平だ(そんなもの食べたくないが)。少なくとも、古代バビロニア人はそんな発想で、12分割した1時間をさらに5つにわけ、60進法的にとらえる方式を編み出しだらしい。

 

1時間が60(12×5)分、1日が12時間2回、1年は12か月。12がらみで気持ちよくまとめた昔の人はエラい。なのに、なぜ曜日だけ、日月火水木金土と7進法チックに展開したのだ?本当にヒトって、ヘンな動物だ。

 

あるときは7進法チックに、あるときは12進法風に。流れゆく時間に刻みを与え、やれ日曜だ、正月だなどと、意味づけして大騒ぎしている。それでも月が変わっただけで、師走のあわただしさが影を潜め、正月独特のまったりした気分になるから不思議なものだ。

 

などと雑多なおもいをめぐらしつつ、あらためて、新年のごあいさつを申し上げたい。今年こそ、もう少しまめなブログ更新を実現したいものだ。

 

私の恐怖体験 ヨサク越え

そのとき、ちょうど16時ごろだったか。高知県西部の梼原町を出て約1時間、対向車をなんとかかわしながら、40キロほどの山道を走破、国道439号線にたどり着いた。

 

旧・大正町の道の駅に立ち寄り、買ったトマトでほっとひと息。やれやれ、文字通り峠は越えた、目的地・四万十市の中心地まで、この道を走れば40キロ弱。日暮れまでにはつけるだろう。

 

ところが、ナビにしたがって再スタートしたとたん、道は山にわけいり、険しく、細くなってきた。まずセンターラインが消え、次にガードレールが消え、そしてアスファルトが消えた。荒れた路面をおおう木の葉のうえに、うっすらタイヤ跡があるのみだ。

 

おまけに、山肌より染み出した水が、道路を横切り、反対側の路肩からポトポトと垂れている。こわごわのぞくと、はるか下に川が見えた。道を間違えて、異世界にでも迷い込んだか?引き返そう。

 

決死の覚悟で下り道をバックし、大木の根っこに乗り上げギリギリUターン。道の駅の手前までもどってルートを再検索した。

 

ところが、ナビ導師もグーグル先生も「先ほどの道をすすむしかないぞよ」とのご託宣だった。あれが国道?別の道はないのか?ピンチアウトすると、なぜか画面がとんでしまう。う回路がわからない。紙の地図をもってこなかったことが悔やまれた。

 

土地勘がないうえに、もともと、大変な方向音痴である。いたずらに道を探してとんでもないところで立ち往生するより、日暮れまでに、この狭路を一気に乗り切った方がよかろう、そう腹をくくった。

 

そこから、うっそうとした原生林にかこまれた夕暮れどきの約一時間。ライトも追いつかないクネクネ道を右に左に忙しくハンドルを切り、鉄板をわたしただけの橋(といえるかどうか)をいくつかこえ、ときどき濡れ落ち葉に後ろタイヤをとられながら、地崩れの箇所は気持ちだけよけつつ、走りとおした。

 

無事下山してから、5分ぐらいは放心状態だった。対向車との離合がほぼなかったのが、不幸中の幸いだった。

 

あとで調べると、そこは四国、いや全国最恐の国道のひとつ「酷道439号」だった。しかも通った区間は、道幅2.5m以下の通称「ヨサク(439)越え」。数年前、NHKがここを放送で取り上げている。怖いもの見たさで他府県ナンバーが殺到したために、レスキュー隊が出動しまくり地元は大迷惑したらしい。

 

学んだこと:

ドライブ中に、長い髪をたらした女が突然バックミラーに映ったり、フロントガラスに血の手形をベッタリつけたとしても、怖がる必要は全くない。ガードレールのない路肩から転げ落ちる思いをするよりはるかにマシである。(でも不審者なら110番、交通事故なら119番にすぐ通報のこと)

 

NHK ドキュメント72時間 「ゆきゆきて酷道439号線」 

 

 

3・3・7拍子と3拍子

「日本人は農耕民族だから、馬の駆け足をベースにした'3拍子'が苦手だ」はホントか?

 

駆け足とは「ばからっ、ぱからっ」といった、3拍子を体感させるリズムだ。が、いかに農耕に使う日本の在来馬が小柄とはいえ、洋の東西を問わず、走りのリズムは同じはず。

 

また、日本は世界に冠たるサムライの国。馬をゆるされたのは200石扶持以上(年収1500万~ぐらい?)といえども、乗馬人口としてはヨーロッパよりも多いのではないか??

 

そして何より「3・3・7拍子」がある。応援や宴会などのハレの場に欠かせないこのリズムは、3拍子だ!

 

…とおもっていたら、最後のはちがっていた。3・3・7のうしろに、いわゆるウラ拍が、1拍隠れていた。

 

では、検証。みなさんお手を拝借。ハイ!

「チャ、チャ、チャ、(ウン)。チャ、チャ、チャ、(ウン)。チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、(ウン)」。

 

そうです、リズムとしては4拍子。音がない部分が、しっかり音として成立しているのが、おもしろい。かのベートーヴェンの『運命』でも、うまくそれが使われている。

 

クイズ。この曲の超有名な冒頭「じゃじゃじゃじゃ~ん」の最初の音は?

 

耳のいい人なら「ソ」だろう。たしかにドレミファでいえば「ソソソミ~」。だが、正解は…八分休符。最初の音が、半拍分ない。だから「(ん)じゃじゃじゃじゃ~ん」が、正しいリズムだ。

 

聞こえない音が、聞こえる音に存在感を与える「間」。これは音楽だけでなく、トーク、文学、絵画。どのジャンルでもたいせつであるような気がする。 

 

 

ベートーヴェン『運命』 聴き比べ

 

21世紀・ドイツの教会税事情

世間では宗教と政治との問題でかまびすしいが、日本ほど、宗教・思想にユルイ国はないとおもっている。入国審査でうっかり「無宗教」なんて書くと、門前払いになる国もあるのが、世界の常識である。

 

いきおい、ほとんどの日本国籍者は、外国旅行や居住のさい、なんらかの宗教名をむりやり書く羽目になる。(どこだったか「共産主義(Communist)」がチェックリストにあって、笑ってしまった。それ、宗教か?)。ヨーロッパ方面で無難なのは、仏教徒(Buddhst)ではないだろうか。ほとんどスルーしてくれる。

 

ところが、郷に入っては郷に従えとばかり、「カトリック教徒」などと住民登録すると、税金をガッポリとられる国がある。その名はドイツ。所得税の8%だか10%らしいから、消費税以上の金額を支払う羽目になろう。

 

ドイツはプロテスタント発祥の国として有名だが、南部はカトリック信徒が多い。かの有名なルードヴィヒ狂王やオーストリア皇妃となったエリザーベトも、そう。観光地が集中する南部バイエルン州で、壮麗なカトリック教会を目にすることが多いのは、そのせいだ。

 

ところが、カネを支払いたくないのは、人の常。若者を中心に教会ばなれがつづいている。そのため、数年前「税金未払い者に対する、クリスマス参列、教会挙式禁止令」が出たらしい。たしかに、王侯貴族の庇護がない今、政府が教会税を代行収納してくれないと、建物の維持すらむずかしい。

 

だれが、宗教を支えるためのカネを払うのか?その存続に、どこまで政府が力を貸すのか?宗教と政治とカネの問題に、頭を悩ませるのは、どこの国も同じである。

 

 

君の名は

参院選が近づいてきた。さて、どこに投票すべきか。公約をよみくらべる。どれどれ。

 

子育てを支援し、学びを促進し、高齢者を大切にするための社会保障を充実させる。経済活性化のために、労働人口をふやし、最低賃金を上げ、企業の成長戦略を後押しする。持続可能社会をめざし、環境負荷を減らす。LGBTQや障がいなど、さまざまな多様性を前提に、社会における心と体とのバリアフリーをめざす…。

 

などなど国防以外、内政について各党の最大公約数をとれば、こんな感じだ。どこがちがうねん、7つのまちがいさがしクイズか~。とツッコミたくなる。

 

そのなかで、ビミョーな差異に注目してみた。テーマは「婚姻」、同性婚と、いわゆる夫婦別姓(選択制)である。

 

まず、最大与党の自民党。「性的マイノリティの理解促進」という、たいへん、ひかえめな表現が顔を出すにとどまる。別姓については、言及がない。第二与党の公明党は、同性婚と別姓を容認している。

 

一方で、野党は、同性婚と夫婦別姓を、積極的に推進しているところが大半だ。

 

ただ、維新の会だけは、おもしろい。「同性婚をみとめ」とあるものの、別姓については、「社会経済活動での旧姓使用の仕組みを考える」とある。つまり、同性カップルが役所に届け出を出すとき、姓は二者一択しろということになる。

 

この場合の「姓」は、一代限りの飼育を認めるマンションのペット規約、あるいは旧南アの名誉白人の同じ扱いだ。つまり、よくもわるくも、権利の継承、という観点が抜け落ちている。

 

そう、名前とは、相続権を含む、財産権の象徴だった。

 

だから、大河ドラマの北条政子は源政子でないし、時代が下り、相続権をうしなった江戸時代の女性が、名前を通称とされたのもそのせいだ。

 

いまの私たちにとって、姓とは何の象徴なのか?

 

そんな哲学的な問いの前に、改姓の手続きのめんどうくささ。またその後も、仕事での俗名(通称)と、金融機関決済の戒名(戸籍上の名)とがズレるややこしさ。責任者出てこい、といいたくなることだけは、強調しておきたい。

 

…はなしがどんどん本筋からはなれたような気がする。とりあえず、選挙に行こう。

 

メイド・イン・ジャパンのジレンマ

最近、着物にハマっている。

 

必要に迫られ、、なんとかひとりで着られるようになったのがきっかけだ。ハマるといっても、若いころあつらえたり、譲り受けたりした「おふる」を、着用可能か吟味しているレベルだ。 

新品の仕立てまでには、とてもいたらない。

 

反物からあつらえると、普段着でも数十万。よそいきだと、気合が入った帯や草履などとそろえると、2000CCクラスの国産車が買えるほどになる。まったく、シャネルやグッチなど海外ハイブランドの値段がかわいく思えてしまう。

 

というわけで、着られるおふるを選別している。虫食いや変色品、顔うつりの悪いものを処分。こうしたNG組のなかの古い襦袢(じゅばん)を解体してみた。

 

布は羽二重(正絹/シルク)なのだろう、薄手ながらずっしりした風合いで、なめらかさを失っていない。ミシンかと思われたミリ単位のステッチは、すべて手縫い。脇や裾にある生地の縫込みは、体型変化やオーナーチェンジによるリユースに備えたものだ。

 

細やかな手仕事ぶりに驚嘆する反面、21世紀のいまではオーバースペックであるという気もする。これじゃ気軽に洗濯にもだせない。襦袢はあくまでも下着で消耗品なのに。

 

ところが、呉服業界は、襦袢をはじめ、シルクや麻など天然繊維の手縫いを、現在でも主力商品としている。だからクルマ並みの価格帯になるのだ。ただしコスト削減のために、いまや原料を中国に、縫製をベトナムやインドネシアにたよっているときく。

 

原料と生産が国内でまかなえない状態で、正絹や手縫いの伝統にこだわるのはなぜか。高額品としてのブランドを保つためか?海外ハイブランドのオートクチュールが、シルクや手縫いに固執しているという話は聞かないが。

  

こだわりスペックで価格が高止まりし、売上が低迷する。利益率を確保するために、やむなく海外生産へシフトする。これに逆比例して、国内の生産者や技術継承者は減っていく。イノベーションも生まれない。旧態依然の商品にたいして、さらにマーケットが縮小する。

 

まさにメイド・イン・ジャパンが直面する悪循環。ハレの日の高額品として、生き残る道を選んだキモノの運命やいかに。

 

ポーランド語とロシア語とルンバ君

この1カ月間、不覚にもブログで沈黙してしまった。

 

ウクライナとロシアは、ともに学生時代に立ち寄ったことのある場所だ(当時はソ連邦)。今年に入って、その関係にきな臭さが立ち上っていたものの、まさか全面戦闘状態に入るとは。どう出口戦略を見出すつもりなのか。

 

気分が重い。うちのお掃除ロボット・ルンバ君から話をスタートさせようか。

 

ルンバ君は語学の達人で、15,16か国語をこなす。最初は「電源が切れました」などと日本語でしゃべっていたが、あちこちいじくっているうちに、どんどん言語が切り替わっていってしまった。今しゃべっているのは、たぶんポーランド語である。その前はロシア語だった。

 

この2つは言語として、とても近いらしい。使っている文字は違う。ポーランド語はアルファベット、ロシア語はキリル文字だ。文章を一読してもピンとこないが、話し言葉だとだいたい意味が通じちゃう、という間柄のようだ。

 

ウクライナ語とロシア語はもっと近い。標準語と標準関西弁ぐらいという人もいる(バラエティ番組の司会と吉本芸人とのトークぐらいか)。そして同じキリル文字を使う。だから大国ロシアは「内政問題」と捉えているのだ。

 

だが話せばわかる間柄なら、なんとか話し合いで解決できなかったのか。「国々の衝突(戦争)が進歩をもたらす」といった学者もいるが、今の戦争はなにものも生み出さない。

 

かつて米軍の地雷除去ロボットだった、ルンバ君の華麗な転身ぶりをみるがいい。iRobot社が昨年発表した売上高は全世界で 14 億 3,040 万ドルで、前年比プラス18%以上。ちなみにうちのルンバの生まれは中国。多くの国が平和的にかかわってこそ、新しいものが生み出せるのに。

 

 

ターゲティング広告のナゾ

「監視されているのか!?」「盗聴されたか!」。FBやウェブサイトなどのターゲティング広告をみて、そう感じる方も多いのではないだろうか。私もそのひとりだ。

 

最近あった例を挙げてみる。

 

1 有名皮革メーカーのバーゲン会場でアルバイトした知人と、お茶を飲んだ。ご婦人方の靴・バッグ争奪戦ばなしに大笑い。それから数日間、なぜかFBでそのメーカーの広告がつづいた

2 マッチングアプリの「いいね!」数について、電話で知人からの長い自慢話をきく。それ以降、『中高年マッチングサイト』の広告表示が、FBやウェブサイトでやたら目につく

3 家電の設置に来た業者から、外壁塗装をすすめられる。その後、外壁塗装の広告があらゆるウェブサイトに顔を出すようになった

 

スマホやタブレット、パソコンは盗聴器、監視カメラなのか。そして関係各所に情報を提供しているのか。ほかに原因はないのか。

 

3については、業者が原因とにらんでいる。外壁塗装見込み客の登録リストが、なにかの拍子に漏えいしたのではないだろうか。

 

2は、キーワード検索や位置情報からターゲットになった可能性はゼロ。だから、類似ユーザーターゲット+因果関係の取り違え、をうたがっている。

 

つまり、広告は、年齢などの属性情報などをもとに、もともと表示されていた。それをスルーしていたのだが、知人との話をきっかけに、その手の広告に注意がむくようになった。認知の問題、という説である。

 

1については、正直なところ、まったくわからない。

 

年齢など属性情報からの広告だとすれば、ピンポイントすぎる。そのメーカーの購入歴もなければ、検索履歴などもない。そもそもインターネットで靴やバッグは買わないから、この分野の広告表示自体がないといっていい。×ユーザー情報、×コンテンツ情報、ナゾは深まる。

 

そして、わたしにとってターゲティング広告最大のナゾは、本の広告がほとんど表示されないことだ。検索回数とネットでの購入頻度は群を抜いているし、金額もコンスタントに高い。優良顧客なのに、無視されている。AIにやる気がないのか。

 

ちなみに、アマゾンのAIはなかなかのポンコツで、購買歴のある本を、くりかえしおすすめしてくれる。

 

AIよアルゴリズムよ、ちゃんと私の嗜好をよみとってくれたまえ。聞こえましたか? 

パソコン(スマホ)病

肩こりに目のつかれ。パソコン(スマホ)病は数々あれど、漢字のド忘れは深刻だ。添削業務では、手書きがベターである場面もまだまだ多いので、ド忘れは非効率である。

 

だが、副産物もあった。漢字が多い手書きは読みにくいと悟ったのだ。「よろしく」「宜しく」「夜露死苦」、いずれが読みやすいかは、いうまでもない。機械入力であっても、ウェブではキーワード以外には漢字を使わない方がいいかもしれないとさえ感じている。

 

ところが最近、英語のつづりでも、同じ度忘れをおこしていることに気づいた。感謝するはapriciateだったかappreciateだったか、ハサミのつづりはじめはsからcからか。つづりを入力しかけると、機械が正しい単語を表示してくれることに慣れすぎた。

 

お礼ハガキ程度の文面が進まない。漢字と違い、ひらがなという別選択がないのでやっかいだ。読み返した結果、修正液に登場いただくことだってある。

 

その点、19世紀以前の英語は、おおらかだったようだ。つづりの間違いはあたりまえ。それが発音を変化させたり、逆に発音の間違いがつづりに影響したことも多いらしい。oftenでtを発音する人が意外に多いのも、そのなごりといわれる。

 

さて21世紀に生きる自分はどう対処したか。スマホに話しかけてつづりをチェック(滑舌が悪くいっぺんで聞き取ってもらえないこともあり)。画面の文字を、せっせと紙面に移した。

 

Google先生のいらっしゃる現代は、スペルミスに不寛容な時代でもあるのだ。

 

英語の特徴のいろいろ(2) 能澤正雄(2003)

 

働き方改革の目指すもの

働き方改革とかけて「残業縮減」「DXの推進」ととく。そのココロは「組織の存続(短期的には’競争力の向上’)」。多くの企業の解釈はそれだ。

 

だが本来この解釈は正しいのか?旗振り役である厚労省のHP『働き方改革の目指すもの』をみてみよう。

 

我が国は、「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」などの状況に直面しています。(中略)

「働き方改革」は、この課題の解決のため、働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています。

 

わかりにくい文章だなぁ。願望と目標、目的と手段と結果がごっちゃになってぼやけている。

どうやら、「生産年齢人口が減少」→「育児や介護など家事労働が現役世代を圧迫」→それを「働き方改革」でなんとかせい、という図式のようだ。

 

ツッコミどころは以下のようなところか。

 ・「育児や介護の両立」は本当に「多様なニーズ」か。ニーズというよりは、今まで見ないでやり過ごしてきたものを、しゃーなしでスポットを当てているだけだとおもうが

・「より良い将来の展望が持てる」が、なぜ「目指す」ところになるのか。単なる副次的効果じゃないのか

 

つまり翻訳すると…労働力人口の減少により一人に求められるマルチタスクの本数が増えるから、みなさんは「多様な働き方」をしてね。そうすると我が国は「より良い将来の展望が持てる」から、ということだ。

 

なんのことはない。働き方改革とは官民挙げての『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』マンパワー編であった。みんなで幸せになろうよ、というメッセージが感じられないのが哀しい。厚労省の英訳は「健康と労働、豊かで幸せになる省(Ministry of Health, Labour and Welfare)」なのに。

 

視覚・聴覚・体感覚

自分の中に情報を取りこんで習得したり、取り出して表現したりするときの感覚経路の代表格は視覚、聴覚、体感覚だ。ただし、どの経路を優位に使うかは人によってさまざまらしい。

 

タハラはといえば、情報を習得するときは、聴覚優位である。小さいときから目が悪かったことが影響している。

 

小学校の高学年には、教室の席が2,3列目より後ろになると、黒板が見えづらい状態だった。かといって、眼鏡はかけたくない。前列移動を志願して、チョークの粉や教師のツバキを浴びる覚悟があるほどまじめでもない。板書はあきらめるとしても、サボっていないぜアピールが必要となる。そこで、聞き書きすることが常となった。

 

耳に残った語を拾って、〇や△や→でとりあえずつなぎ描くのが私のノートだった。ほとんど暗号だとよく教師におこられたが、今からおもえば「思考の視覚化」である。小学生のくせにエライ高度な技をつかっていたことになる。すなおに黒板を写した方がよっぽど楽だったろう。

 

おかげさまで、情報のインプットは聴覚優位、アウトプットは視覚優位となって定着した。

 

苦手だったのが体感覚、つまり手を動かして体で覚えることだ。漢字の百字練習や英単語の書き取り訓練にいたってはほとんど罰ゲームに感じられた。あんなことをして覚えられるわけないだろう、と成人後に恨み言をいうと「そういう感覚が信じられない」と多くの人に返されたのには驚いた。本当に人それぞれなのだ。

 

学習のやり方やペース、そして表現の方法はそれぞれ異なっている。大切なのは「人はみな違う」という前提に立つことだ。特に伝える側は、教室でも仕事場でも、相手がどういうタイプなのかよく観察する必要がある。自分のやり方を押し付けちゃいけない、としみじみおもう今日この頃である。

 

坂本龍馬≒空海説

タイトルを見て「なるほど、義経がジンギスカンになるよりは、空海が坂本龍馬に輪廻転生していた方がまだ可能性は高いか」と早合点しないでいただきたい。このヒーローたちには意外な共通点があるという意味だ。

 

それぞれの活躍の年代は1000年以上へだたっている。一方で、四国出身で(山脈を挟んで北と南に分かれているが)かつ諸国を行脚しているという点がまず同じである。

 

空海の活動時期は8世紀末から9世紀初頭。讃岐国(四国)で生まれ、平城京~九州・博多から船で唐・長安(中国・西安)へ。そして帰国後、都で権力者たちと調整を図りつつ、高野山(和歌山)に寺を建てた。その合間に修業を積んだり、ため池と作ったりと、近畿・中国・四国地方など西日本に神出鬼没(即身成仏の身であられるが)している。

 

対して坂本龍馬は同じ四国でも、幕末の土佐郷士。1年ほど江戸に遊学したのちに土佐に戻るものの脱藩。以降、江戸~京都を行ったり来たり、あるいは長崎で商社を設立したり婚姻記念に宮崎に足を延ばしたりと活動範囲は広い。蝦夷地(北海道)の開拓も夢見ていたというから、もう少し長生きしていたら北は北海道から南は琉球まで、日本縦断は間違いなかっただろう。

 

もうひとつの共通点は、エピソードの多さである。

 

空海が中国留学中に投げた独鈷が飛んできた、という高野山の由緒は有名だ。政府の肝いりでため池造成に励むかとおもえば(農水省のHPのお墨付きである)、口と両手両足の五筆で書を記すわ、ライバル僧を呪詛で妖怪に変えるわ、大昔の人だからエピソードもやりたい放題だ。

 

だが龍馬だって負けてはいない。新婚旅行の始祖であり、FIRE組(=脱藩者)希望の星でもある。薩摩藩などの協力で設立した亀山社中(のち海援隊)は、日本初の株式会社といわれている。そしてもっとも名高い功績が、「薩長同盟」と新政府のビジョンを示した「船中八策」である。が近年、この2つをはじめ、明治維新に対する龍馬の貢献度合いに疑問符がつけられているらしい。

 

とすると、ひょっとしたら空海同様、龍馬も同世代と後世の人たちが作り上げた、ひとつのアイドル(偶像)なのかもしれない。

 

「遠くから来たエライ坊さまがこんなことをなさったらしい」「ホウホウ、それはきっと空海さまとおっしゃる方じゃ」、こんな感じで弘法大師伝説が成立していったように、志なかばで倒れた、多くの名もなき若き土佐の志士のエピソードが「坂本龍馬」として結実したのか。

 

11月15日は龍馬の誕生日&命日である。高知に残されたあちこちの足跡を見ながら、そんなおもいにかられた。 

いじめ保険

LC研究所設立前のタハラの前歴は、実は、生命保険会社である。某公営放送の朝ドラの主人公が設立した会社だ。

 

広報畑が長いうえ、ちょうど在席10年でお払い箱になったので(いわゆるマタハラ退職)、保険屋さんらしいことはほとんどしていない。保険料算出の原理ぐらいは説明できるものの、どんな保険商品が世間にあるのか、百花繚乱、見当もつかない。

 

前職の記憶うすれゆく今、仰天の保険を発見した。いじめ保険である。正確に言えば、いじめをはじめとする家族のトラブルに関わる弁護士費用を、カバーするらしい。2019年つまり令和元年5月の発売だ。いじめの認知件数が対前年比112.6%増の61.2万件と、過去最高に跳ね上がった年である。

 

2020年度資料しか手元にないが、小中高学生の数はあわせて1260万人ほど。ということは、こどもの20人に1名ぐらいは、いじめのターゲットになっているということになる。残念ながら、ニーズとしては十分にありそうだ。

 

なんともはや、背筋が凍る話しだが、考えてみればあたりまえかもしれない。こどもの世界は、大人世界の縮図だからだ。

 

みわたせば、コロナ禍で正義を振りかざし、他府県ナンバーを取り締まる自粛警察、医療従事者を誹謗中傷する輩。TVをつければ、チームメイトに暴力をふるい移籍させられたスポーツ選手が、日を待たずに公式試合に出場している。国民栄誉賞を受けたOBが、それを激ボメするというポンコツな美談までつく。

 

イジメ礼賛を公然とみせつけて「いじめはよくない」と、大人のどの口が言うのか。ダメだこりゃ(故・いかりや長介風に)である。

 

※補足

2019年のいじめ認知件数の爆上がり原因は、おそらく、その3年ほど前に施行された『いじめ防止対策推進法』が、全国的に実行フェーズに入り、元来「なかったこと」にされていた案件があらわになったことが大きいと考えている。必ずしも、いじめ件数が爆上がりしたというわけではないと思いたい 

 

コレラ予防接種の思ひ出

平成もヒトケタ台の今は昔。アフリカ旅行を企てたとき、コレラの予防注射をしたことがある。

 

アフリカ大陸への渡航には、黄熱病とコレラの予防接種が必須であった。黄熱病といえば、子どもの頃『ポプラ社 子どもの伝記』で読んだあの野口英世。その命を奪った、おそろしい病である 。

 

一方で、コレラは私にとっては、なじみのある病名だった。大学時代、夏休み明けの学食で、こんな掲示板をよく見かけた。「××語科の●●さんに接触した人、すぐさま保健センターに申し出てください!!コレラ感染の可能性があります」。今となれば、個人情報への配慮のカケラもない注意書きである。

 

さて、接種パンフによると、黄熱は生ワクチンで、コレラは不活性ワクチンとあった。生ワクチンとは生きたままの菌を体に植え付けることだ。なんと恐ろしげなひびきであろうか。おまけに最低4週間あけなければ2回目の接種ができない。コレラも2回以上の接種が求められるが、1週間程度の間隔でよい。そこで、軽・コレラ→重・黄熱の順でワクチンを接種することになった。

 

コレラ接種の初日、隣県の果てにある接種センターにたどり着いた。ベッドがある広い診療室でかたち通りの問診を受けた後、医者はまくり上げた私の左腕のなかほどにズブリと針を刺した。とたんに「今、菌が静脈に侵入、体の中心に向かっております」という感覚が生じ、菌が進むたびにその部分が、重く、だるくなっていくように感じた。針が抜かれたときには、腕の付け根まで違和感が広がり、腕を持ち上げるのもおっくうな状態であった。

 

帰宅後さらに状態は悪化し、夜になると腕は太ももぐらいの大きさまで腫れあがった。触れると飛び上がるほど痛い。寝るときは体の右側を下にしなければならない。熱も37.5度近くまで上がった。接種でこれとは、実際にかかったらどんな具合だろう、と布団の中のぼんやりした頭で考えた。

 

熱は翌日にはひいたが、左腕の腫れとしびれは数日間残った。経験者に聞くと、コレラ接種で何ともない人は少数派で、38度を越える発熱はザラ、なかには脱水症状を起こして救急搬送される人もいるそうだ。

 

なんとかやり過ごし、しばらくして戦々恐々のコレラ2回目を接種。続いて、ラスボス黄熱を接種したが、とんと記憶はない。おそらく、大過なくすんだのだろう。

 

今月末から、民間人向けのコロナ接種が日本でスタートする。史上初の壮大な人体実験。強烈だとされる副反応は、あのコレラと比べてましなのか。医療従事者でもない高齢者でもないタハラが参加するのは、まだまだ先のことである。

酒、人を呑む

暦の上ではお正月ということで、アルコールに絡む話を少々。

 

私自身はアルコールはNGで、肌に触れてもかぶれる体質である。以前入院したときなどは、消毒のたびに皮膚が赤くなり、ついには看護師引継ぎ用として「田原さん、アルコール禁止」と朱書きされた紙が、デカデカと頭上に貼りだされてしまった。布団の中でのワンカップ大関の隠し飲みがバレたアル中患者のようで、少々恥ずかしかった記憶がある。

 

私は論外として、日本人をはじめとするアジア人はほぼ下戸の類に属するだろう。それにひきかえ、ヨーロッパ人、特にロシア人は恐るべき飲酒レベルの人がいるらしい(ロシアをヨーロッパに含めていいのかという議論は、ここでは触れない)

 

ロシアがまだソ連と言われていた大昔、時はゴルバチョフ禁酒令下の冬のモスクワ。外国人だけに出入りが許された専用バーのカウンター脇で、モスコーミュールをちびちびなめていたときのことだった。

 

ときおり、コートを着た人間が寒風とともにふわっと入ってきて、そのままカウンターに手をつく。バーテンダーはビーカーに手早く何かを注ぎ、客はそれを一気にあおる。そして黙って扉を押し開けて出ていく。その間数十秒。入れ替わり立ち代わり、この光景が少なくとも4,5回繰り返された。

 

「何飲んでいるの?」好奇心にたえかねて聞いたら、バーテンダーはガン無視。客は、こちらに向き直りまじめな顔で「水さ」という。その吐息がいかにも酒臭く、ああ、そういうことかと合点が行った。法の目をかいくぐって、現地人を外人バーに出入りさせていたのだ。

 

最近、ドイツに留学中の大学生からも面白い話を聞いた。ロックダウンが続く中で、寮生がコロナ濃厚接触者の判定を受け、最長2週間の禁足を食うことがひんぱんに起こるらしい。

 

その間、生活必需品はボランティアが玄関先に買い置きしてくれるが、アルコールは禁止である。そこで、上の階の友達に頼んでビールだのワインだのを調達、(玄関だとバレるためか)こっそりと窓から吊るしてもらい自室の窓から受け取るうそうだ。

 

禁じられれば禁じられるほど、あの手この手で対抗策を講じる。酒に呑まれた人間のやることは、今も昔も変わらない。

 

わたしを〇〇にしないほうがいい

キャッチーな見出しを考えて、腕組みして椅子にもたれていた数日前の午後のことである。気分転換にはいった図書室(わが事務所の隣部屋。6,000冊の蔵書あり)で目にした一冊の本を見た瞬間、おおぅと声を出してしまった。

 

「わたしを空腹にしない方がいい」くどうれいん(2018)である。なんと巧妙なタイトルだろうか。

 

テーマが「食」であり、かつ「空腹」から日々のつつましやかな食事や間食を題材にしていることが連想できる。そして「空腹にさせない」でなく「しない」が、いわゆる個食についての内容であることを匂わせる。テーマ、題材、著者のキャラまでが、この長からぬ表現に凝縮されているのだ。

 

そしてなんといっても「わたしを〇〇にしないほうがいい」という、上から目線な感じがよろしい。このパターンは使えそうだ。さっそくまねた。

 

会社の業務用文書なので「私」は主語にならない。試行錯誤して「××を〇〇にしないほうがいい」という形式にあてはめた。あんまりおもしろくないが、まあ、おしごと用なので仕方がないか。題名づけの際のストックが増えたから、良しとしよう。

 

 

ストック中のマイベストは「帰ってきた●●」だ。世間でも「ランボー2」「ランボー3」など続編がぞくぞくと生まれると、苦肉の策で、作品の一つにはこれが混ざる。ウルトラシリーズでは「帰ってきたウルトラマン」がある。ヒーロー名以外のタイトルは「ウルトラQ」とこれだけのようだ。

 

ちなみに「帰ってきたウルトラマン」のシリーズ中の最高視聴率は、まさかの最終回だったらしい。やっぱり名タイトルの番組は強いのだ。シュワッ。