わたしを〇〇にしないほうがいい

キャッチーな見出しを考えて、腕組みして椅子にもたれていた数日前の午後のことである。気分転換にはいった図書室(わが事務所の隣部屋。6,000冊の蔵書あり)で目にした一冊の本を見た瞬間、おおぅと声を出してしまった。

 

「わたしを空腹にしない方がいい」くどうれいん(2018)である。なんと巧妙なタイトルだろうか。

 

テーマが「食」であり、かつ「空腹」から日々のつつましやかな食事や間食を題材にしていることが連想できる。そして「空腹にさせない」でなく「しない」が、いわゆる個食についての内容であることを匂わせる。テーマ、題材、著者のキャラまでが、この長からぬ表現に凝縮されているのだ。

 

そしてなんといっても「わたしを〇〇にしないほうがいい」という、上から目線な感じがよろしい。このパターンは使えそうだ。さっそくまねた。

 

会社の業務用文書なので「私」は主語にならない。試行錯誤して「××を〇〇にしないほうがいい」という形式にあてはめた。あんまりおもしろくないが、まあ、おしごと用なので仕方がないか。題名づけの際のストックが増えたから、良しとしよう。

 

 

ストック中のマイベストは「帰ってきた●●」だ。世間でも「ランボー2」「ランボー3」など続編がぞくぞくと生まれると、苦肉の策で、作品の一つにはこれが混ざる。ウルトラシリーズでは「帰ってきたウルトラマン」がある。ヒーロー名以外のタイトルは「ウルトラQ」とこれだけのようだ。

 

ちなみに「帰ってきたウルトラマン」のシリーズ中の最高視聴率は、まさかの最終回だったらしい。やっぱり名タイトルの番組は強いのだ。シュワッ。

 

 

右脳人間、左脳人間

研修の仕事の多くが、コロナ氏のせいで延期になっている。

ただし書き物関係の仕事はなくならない。話し言葉系、書き言葉系の両方の仕事をしているリスクヘッジがここで効いている。ありがたいことだ。

 

さて、現在閑古鳥中の講師業は、ビジネス文章作成関係が中心である。ただ最近ちょっとカラーの違った依頼が来るようになった。情報リテラシー、統計学の入り口を扱う分野である(一応資格を持っているので)。

 

というと、「うわぁ、右脳も左脳もすごいですね」とホメてもらえることがある。文理両道という意味なのだろう。でも統計は、論理(一応、専門)を拡張したものだ。それに文字と数字は、概念を抽象化・記号化したものだから、 根っこは一緒なのだと勝手に思っている。

 

そして、そもそも右脳=理数系、左脳=文系というステレオタイプは、大いなる誤解。疑似科学の典型らしい。

 

以前から、右腕と左腕とは違い、脳の右左はしっかりとつながっているんだからバラバラには動かんよな、と思っていたら、Despite what you've been told, you aren't 'left-brained' or 'right-brainedに動かぬ証左があった。2013年の古い記事だが、掲載はかの英ガーディアン紙だ。そこが右脳左脳を「都市伝説」と否定しているのだから、サ〇スポや週刊△性よりは信用度は高いだろう。

 

注意すべきはむしろ、個人個人の認知の偏りや自己の防衛本能(プライド)である。それらが、自分のワクを自分にはめ込んだり、やらない理由を探したりする際に、「右脳左脳」を言い訳にするのだ。記事はこうまとめている。

 

"Let's not underestimate our potential by allowing a simplistic myth to obscure the complexity of how our brains really work.’’(単純化された神話が脳の働き方の複雑さを曖昧にすることで、私たちの可能性を過小評価しないようにしましょう。)

 

ちなみに上訳は、最近とみに評価の高いDeepL翻訳であるが…現段階では生硬く、まだまだ人間様の活躍余地はありそうだ。みなさん、自分の脳みそにもっと自信を持とうよ。 

 

*参考記事 

Despite what you've been told, you aren't 'left-brained' or 'right-brained' (右脳、左脳神話のウソ)

Amy Novotney 'The Guardian' 16 Nov 2013

 

クリスマス・シュトーレンのおはなし

クリスマスといえば、ドイツである。

クリスマスツリーを飾る習慣は、大英帝国・ヴィクトリア女王の夫君が、故国であるドイツの風習を王室に持ちこんだのがはじまり。また15世紀から始まったクリスマス・マーケットも、ドイツのドレスデンが発祥の地と言われ、今も多くの人々でにぎわう。

 

そんなイメージから「クリスマスをドイツで」と渡欧し、わりと痛い目に合った日本人は多いのではないだろうか。店やレストランからは閉めだされ、美術館は短縮営業。戸外のマーケットの寒さに耐えきれず近所の教会に飛び込むと、「一見さんお断り」でシビアな扱いを受けたりする。クリスマスは昔の日本の正月と同じで、基本的には家族で過ごす時期だからだ。

 

こうしたドイツのクリスマスに欠かせないのがシュトーレンだ。最近、よく見かけるものの、昭和の日本人に愛されたいちご丸ケーキに比べ、いまひとつ子どもウケしない味であろう。

 

それもそのはず、これは長期保存のための伝統食だ。15世紀にドイツ王がローマ教皇に、教会建立と引き換えにバターの使用を認めさせたエピソードを持つ代物である。材料や製法などの条件をクリアしないと、シュトーレンとは認められないのだ。

 

例えば「ドレスドナー(ドレスデンの)・シュトーレン」認定では、小麦100に対し70以上のドライフルーツ、油脂は40でその半分以上はバターを使え。手ごねで製造し、型を使うことはまかりならぬという厳しいお達しがある。

 

こうしてできたブツ1個の熱量は、1600カロリーを超える。成人女性の1日の必要カロリーに近い。だから12月の初めから少しずつ食べ始め、クリスマスにようやく食べ終わるのがドイツ流だそうだ。

 

日本の皆さん、カロリー超過が気になるこの時期、まかりまちがっても、一日で食べきらないように。

 

*参考URL 辻調グループ総合サイト 「食」のコラム&レシピ

 

 

雑感

文筆家を標ぼうしている割には筆不精である。なんと、約3か月振りの更新だ。

 

個人的にはさておき、世間を振り返ると、ロクな出来事しか記憶にない。大学スポーツ部の老害ぶりの露呈、実の親による子どもの虐待、東海道新幹線内での突然の凶行(被害者は隣のビルの社員の方であった)。未だに釈然としないモリカケ問題、種子法、働き方法案の成立、オウム真理教事件死刑囚7名の突然の執行。関西では地震や大雨などの相次ぐ天災。米朝首脳会談という、マクロ的にはめでたいが地政学的には日本にとってあまりうまみのないニュースもあった。

 

平成、最後のあがき、世も末だ感を覚えてしまうが、果たしてそうだろうか?

 

ろくでもない事件が増えているようでいて、実は犯罪件数自体はは戦後最少を更新している。ちょっと古いソースだが、おそらく傾向には変わりあるまい。

 

犯罪件数が戦後最少を更新-景気回復が貢献か ブルームバーグ 2/22/2018

 

犯罪が少ないと、TVなど主要メディアでは同じニュースを朝から晩まで繰り返す。また

ネット系ニュースがこれでもかと続報を投下、ツイッターでは事件についての感想や憶測が飛び交う。これがおそらく「最近、ろくでもない事件が増えているのではないか」と感じてしまうゆえんであろう。

 

ただし、近畿から中国・四国地方にかけての水害は本当にひどい。メディアも伝えられていない部分も多い。3連休はささやかなながら、片付けのお手伝いに行く予定である。

 

 

ひさびさのブログ

あな、おそろし。約3か月ぶりのブログである。メインで手掛けている仕事が、なかなか前に進んでくれず、かなり精神的にタイトな時期であった。来週末には2つ目の山場を越える。が、肩の荷を下ろす間もなく、次のトンネルにはいり、気の抜けない日々はまだまだ続く。やれやれ。

 

この期間中、ブログを書かんとて、思いついたとき、アイデアを書き留めていた。「書き言葉文化人vs話し言葉文化人(2/28ブログ続編か)」「忖度しようぜ(どこからヒントを得たか、容易に見当がつく)」「キャリア教育におもうこと(就活生向けか)」「AIは、毎晩日記をつづるのか(『アンドロイドは電気羊の…』のパクリのつもりか。かなり苦しい)」「読書の対象としての辞書(新しいの買ったので)」…などなど。ネタはそれなりに貯めていたようだ。

 

時間がないことを理由に書かなかったのは、おそらく「書く気がしなかった」のだろう。そりゃそうだよね、仕事で文章を書く合間にブログの文章書いたって、全然気分転換にはならないもんね。

 

ということで、来週からは、週一のペースに戻り、細々とつづっていく予定だ。みなさま、ヨロシク 

 

ノーブレスオブリージュ

最近の国会のばかばかしさよ。

 

成長期の子どもがいる親なら、TV画面を見つめる瞳を、後ろからそっと覆い隠したくなるような衝動にかられるだろう。

 少なくとも、「反面教師」という言葉の意味が理解できる年齢でなければ、教育上よろしくない。その悪影響たるや、エロやグロの比ではない。R-12に指定しておくのが適当だ。

  

標題のノーブレスオブリージュ。「「高貴さは(義務を)強制する」という意味の仏語である。和訳としては、「武士道精神」が適当だろうか。エリートは、恵まれた立場にいるんだから平時は下々に心を配り、いったんコトが起これば矢面に立てよ、ということだ。

 

上の写真は、関西の豪商、芝川家が地元に譲った梅園で、現在は公民館になっている。芝川家は、阪急電車の小林一三に対し、大学・高校・中学建設に伴う広大な敷地の提供を条件として、駅の誘致を図った。現在もこの辺りは緑豊かな文教地区で、閑静な住宅街となっている。

これが、金持ちにしかできない「寄付」である。

 

こんにゃくだの現ナマだのは、寄付とは言わない。「利益供与」と正しく呼ぼうぜ。

 

 

春の雑感

晴れの日はいつも、自宅から川べりを下ること数キロの自転車通勤である。「武庫川」という名のとおり、いつも無粋で無骨ないでたちだが、それでも今の季節は春らしい色めきを見せてくれる。

 

川面は、霞がたっているような風情で、気のせいか流れもゆっくりだ。広い中洲には鳥が騒いでいる。甲高い叫び声、歌うようなさえずり、つぶれたダミ声、声の種類も増えている。進路をふさいでいたハトの一群が、自転車に驚いて一斉に羽ばたく。雀にもそれに続く。

 

茶色ベースの河原に、ぽつん、ぽつんと黄色が見える。タンポポの季節である。河原にある菜の花の花壇は、わっと声をあげるような黄色で唱和する。そばを通り過ぎるとくしゃみがでた。鼻をくすぐるような香りがする。花粉だ。

 

風が冷たい。北風ではなく、東寄りの風だ。陽光にも圧力を感じ、フードを目深にかぶる。明日から日焼け止め指数をもう一ランク上にしよう。しっかりと口を閉じて走らないと、そろそろ虫が飛び込んでくる季節になるぞ。

 

将来の夢は

以下、前を歩いていた小学生の朝の会話より。

 

小A:「将来なりたい職業、今日帰るまでに先生に出さなあかんな」

小B:「うん、まだ書いてないねん。『サッカー選手』って出してもいいんやけど、なんか、現実離れしてるやろ。どんくさい方やし。普通のやつ書いたら、夢ないって言われそうやし」

小A:「ぼくユーチューバーや」

小B:「ユーチューバー!!? ピコ太郎みたいなやつ!?

小A:「うん。1回されるごとに、お金が入るやつ。カキンや」

小B:「どれぐらい?」

小A:「1回に0.何円とか」

小B:「もうからへんやんか」

小A:「でも100万回とか再生されてみ。HIKAKINなんか1億円とからしいで」

小B:「…(HIKAKIN?知らんがな)それ、親に言うた?」

小A:「お母さんは面白い言うてくれた。でもお父さんには言うてない、反対される、安定してへんとか言って、絶対。」

 

…と、ここで分かれ道になってしまい、続きを聞き損ねた。

 

You tubeの誕生は2005年2月14日、今からちょうど12年前。小学生らが生まれたころだろうか。今から12年後、どんな世の中になっているだろうか。Youtubeは果たして存続しているのか。本日は私の誕生日。ちょっと長生きするのが楽しみになってきた。

 

 

生きていくということ

あえてタイトルはこうしたが、本当に書きたかったことは「自殺」だ。

電通事件にしろいじめ自死にしろ「いのちを大切に。世の中には生きたくても生きられない人もいます」的な正論がはびこる。その風潮に馴染めないでいる自分がいる。

 

なぜか。それは両親よりも恋人よりも、おそらくご本人ほど「生きたい」と望んでいる人はいないからだ。以下、いじめサバイバーによる裁判の陳述書『生きている僕だから伝えられること』から抜粋する。

 

… 新聞の見出しに「いじめを苦に自殺」。ニュースでは「いじめがエスカレートして自殺しました」とアナウンサーが原稿を読みます。でも、私は違うと思います。被害者は苦しいから死ぬのではなく、楽になりたいから死に向かうのだと…

 

「食べよ、生き延びよ」を天命として与えられたすべての生き物にとって、自らを守るための本能的な行動は`逃げること‘だ。パワハラ、いじめなどに苦しむ「今、ここ」からの逃亡先が、たまたまあの世だったというのが自死者なのだと、私は確信している。

 

「いや、レミングだって自ら湖に飛び込んで集団自殺する。まして大脳皮質の発達した人間は『死という人生』を選び採っているんだよ」というあなたへ。動物ですら、の根拠となるディズニーのドキュメンタリー映画”White Wildness”(1958)で真偽の検証はいかがかな。

「♪なぜか不思議なこ~とに~、シッポから落ちていく~」川口浩的レミングが観察できる。

 

(それにしても、あくまでもネズミビジネスで儲ける会社である。)

 

生き物に「自殺」などない。レミングらのように「必死」の崖っぷちに追い詰められただけなのだ。

 

 

年の瀬に

気が付けば前回のブログより1か月、2016年も営業はあと2日。やり残したことがたくさんあるような感じだ。先日左手をケガをしてしまったこともあって、気ばかり焦って手が進まないこの年末である。

 

こういう時によく発せられる語、「忙しい」。「りっしんべんの心」に「つくりの亡」、つまり心をなくすダメな状態なんだよ、だから皆さん人の声に耳を傾け…とエンデ大好きタイプの研修講師の説教に登場する、おなじみの台詞である。私はずっと「木の上に立って子どもを見守る人=親」と同じく、ネタだろうとタカを括っていた。

 

ところが調べてみると、形成文字(意味と音が合わさって作られた文字)ながら、会意文字(意味を組み合わせた語)に近い成り立ちなのにはちょっと驚いた。「亡」も会意文字で「人」を「乚(囲う)」、つまり亡くなった人を指すらしい。見たままのシンプルな意味だ。「忘(心をなくす)」「妄(女で心をなくす)」「望(月を待ち壬(人が伸びあがる)」も同じ仲間らしい。

 

ちなみに忙の反対語は「閑(のどか)」。人名に使われることもある、良い意味を持つことばだそうな。でも現代ではどうなんだろうか。多くの講師仲間では「いやー忙しくて」のセリフは、笑顔をもって語られる商売繁盛の証である。まあ私の場合は単に「貧乏閑なし」、文字通り心を荒げて慌ただしく過ごしているだけである。

 

みなさんは、忙中閑あり、ゆとりをもって年末をお過ごしください。来年もよろしく。

 

参考:風船あられの漢字ブログ

http://huusennarare.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-172e.html

 

 

タガメ女とカエル男

この禍々しいイラスト、2013年、14年に上梓されたこれは、まさに禁断の書なのか。

 

「できるだけ早く結婚することは、女のビジネスである」といった賢者は、アイルランドの戯曲家、バーナード・ショーだっただろうか。彼の時代から下ること約1世紀、ここ日本ではまだまだ結婚は女のビジネスである。その生態は、希少種となった「タガメ」(カメムシ類のくせに今や一匹数千円もする。)に例えられる。

 

獰猛(どうもう)な捕食者であるタガメは、田んぼでお気楽に泳いでいるカエルなどの小動物の体を、物陰からその箍(タガ)でガバッと捉える。そして鋭い口吻を突き刺し、タンパク質を分解する液を注入、栄養分をゆっくりと吸い取っていく。哀れカエル君は、骨と皮ばかりになって水路に漂う、という身の毛もよだつような光景である。

 

ところが日本では、この捕食のプロセスを「幸せ」というのだそうだ。35年住宅ローンという搾取、家族サービスという強制労働という形で、カエル君は社会的リソースを長期間かけて吸い取られる。「いいんだよ、妻タガメさえ幸せならば」というさみしく笑うあなた、それは違う。

 

田んぼにひしめくタガメらは、夫の社会的地位や経済力、子どもの学力、そんなわずかな差異に一喜一憂して、ストレスをため込み、攻撃性を募らせる。その攻撃をもろにくらったカエル君らは凶暴化し、カエル社会でパワハラを繰り返す。そして子タガメ、子ガエルは再生産され、親たちと同じ人生を送る。こうした狭い小宇宙で、幸せを感じているものがいるのだろうか?重い問いかけである。

 

ちなみに、この本は話題になった割には、売れなかったらしい。その一つの理由は、信じがたいことに、発行当時に販売担当となったカエル君が、本をわざと売らずに抱え込んだというのだ。のちバレた時に上層部から激しい叱責を受けたらしいが、カエル君にとっては自分の「幸せ」の正体を暴露する行為に加担する方が、よほど恐ろしかったのだろう。

 

先程のショーの言には続きがある。「できるだけ結婚しないでいることは、男のビジネスである」。それも一方策だろう。でもカエル君にならずに幸せな家庭を築きたいと考える諸氏、ぜひこの本をどうぞ。

 

 

創発の妙味

「創発」とは性質の単純な総和にとどまらない特性が、全体として現れること。 物理学や生物学などで使われる用語「emergence」(発現)が語源で、自律的な要素が集積し組織化することにより、個々のふるまいを凌駕する高度で複雑な秩序やシステムが生じる現象あるいは状態(Wikipediaより抜粋)。

 

ということで、閉塞感あふれるわが日本社会では、「創発」が求められて久しい。新しい切り口や捉え方、活用法の創造「イノベーション」も、創発の一種に含まれるに違いない。だが、あの手この手がなかなかうまくいかない。それはなぜか。その謎を解く、目からうろこがおちるような体験を、別の角度からさせてもらった。田原真人さんによる『粘菌の活動』である。

 

詳しくは後日に譲りたいが、「創発」と混同されがちな現象として「協同作業」があるという。対比して整理すると、以下のようになる。

 

協同現象:外部に条件つけられ「最適解」や「安定状態」へ移行する現象→収束、沈滞へ

創  発:枠組みを脱出し、意味をずらしていく現象。それにより、複雑なコミュニケーションのネットワークが張り巡らされるようになる→予想不可能な、よりダイナミックで大規模な循環構造へ

 

だから、と田原さんが言うには、創発は、アタマで理解するものではなく、各自が、自らの身体を使ってカラダで納得するものだ、と。つまり報酬や地位などのアメと鞭を使った知的活動では、創発の果実は生み出すことはできないということだ。

 

創発に必要なものはただひとつ、安心安全に発言し、トライ&エラーできる環境である。すなわち経営者に必要なのは、資源を尽くしてそんな場を提供することだけだ。よく考えれば、松下幸之助氏も稲盛和夫も、経営の極意はこの一つに尽きるのではないか。なるほど。

 

やっと「人と組織のイキイキ」の正体が見えてきたような気がする。

 

田原×2は、限りなく雑談に近い対談。田原さんの創発のお役には立ってないような気がする…

 

無題

久しぶりに父ちゃんを登場させた「新・論理力養成ギプス講座5」だったが、煮詰まること約1か月、ついに断念という初めての出来事である。そもそも、このブログは仕事の息抜きで書いているのだから、考え込んでしまった時点でアウトなのだ。

 

主旨としては「プレゼンの対象と目的があって、はじめて内容が定まる」のつもりだった。あきらかに、くだんの俳優のプレゼンの真の対象はマスコミ(とついでに一般ピーポー)で、自らと、逮捕された子どもの芸能活動の継続を目的としている。謝罪というのはそもそも当事者において行われるべきものであって、利害関係にあるやじ馬にではないはず。それに気づかんかアッコ、同情は無用よ、と父ちゃんに言わせる予定だった。

 

しかし、あらためてプレゼンの全容を見ると、被害者(とされる人、というこれまたビミョーな言い回し)への配慮のなさ、達者すぎる演技、愚劣な質問、ことごとくvomitingだ。目にするやいなや、父ちゃんはお茶の間のテレビをひっくり返すこと明白である。こんなこと語らせるのは失礼だった。すまん、悪いのはわしじゃ、父ちゃん。

 

ということで、あまりにも程度の低い出来事をネタにするべきではない、というのが今回の反省である。

 

 

「問わずにはいられない」のその後

げげっ、約1か月ぶりの更新になっちまったぜ。そんなに仕事は忙しくなかったのにね。

 

ちょうど1年前の今頃、「問わずにはいられない」の原稿の校正に奮闘していた。親の、子を思う気持ちに涙しながら、組織の隠ぺい体質に歯ぎしりする。確認のための取材では、官僚・官吏の木で鼻をくくったような対応にボルテージが上がる。おまけに事務所のクーラーが不調だった。高体温で低血圧という体質だが、おそらく体温は37.5度近く、血圧は100を吹っ切っていたに違いない。かなりしんどい夏を過ごした。

 

あれから、自分を取り巻く世界はよくなっただろうか。

 

いいや、ますます悪化の一途をたどっているような気がする。強者が弱者に寄生することが常態化し、弱者はうっぷんばらしに、より弱い者を攻撃する。

 

人生も後半に入って久しい。残された時間が、今まで生きてきた年月以上になることはおそらくない。その中で何ができるか、自問自答しながら取り組んでいきたい。

 

勘違い起業家セミナー

最近「責任者出てこい!」憤りを感じることが多い。大半はトシのせいだが、ときどきホンマに許せんと思うことがある。これはそのうちの一つ。

 

職場に不満を持ちつつも、いろいろな事情で職を移ることに踏み切れない友人から、ひさびさに連絡があった。自治体主催の「起業家セミナー」を修了、すごくよかったので私にも勧めるという趣旨だった。内容は、期間半年ぐらいで毎月開催、起業のアイデアをブラシュアップしつつ最後に発表、講師からのコメントをもらうといった流れである。彼女は参加者10名ほどの中で最優秀の評価を受けたらしい。私は聞いた。

 

「で、いくらくれるの?」

 

キョトンとしている。じゃあ金以外に何か支援はもらえるのか、と言葉を変えて聞くと、いや、他の受講者にもすごいねって言われたんだけど、と繰り返す。はらわたが煮えくりかえった。カネにつなげる援助なくして、何のための起業家セミナーだろうか。カルチャーセンターじゃないんだぜ。

 

起業とは、今までなかったモノやサービスを自分で形作って、価値を世間に問う行為である。顧客はその価値を認めるからこそ、喜んで対価を支払うのだ。起業する方も、支援する方も、その覚悟がなさすぎる、税金の無駄遣いだ。たいして発展しないながらも、十数年間零細事業所を経営しつづけるタハラは、強くそう思ったのだった。

 

「未来が、過去を決める」

「あれ、『過去が未来を決める』の間違いじゃないの?」と思われた方も多いだろう。書き間違いではない。確かに、起こったことは変えられない。でも、それは今の自分にどのような変容をもたらしたのか観点を変えることで、違う意味付けができるということだ。早い話が『人生すべて塞翁が馬』、幸せも不幸も捉えようということだ。

 

ただし、現在に至る過去が、大きく未来を左右する点には異論がないだろう。

 

ゆえに、古人は過去の記録を重んじた。古代中国では、自らの悪行を記されることを恐れ司書(歴史の記録係)を処刑した王の国に、中国全土から司書が馳せ参じ、、歴史を改ざんを防いだ故事がある。司馬遷も、こうした倣いに即して前漢の武王の怒りを買い、宮刑に殉じながらも『史記』の編集を全うした。歴史を記すとは、まさに命がけの行為なのだ。

 

ところで、わが国ではどうか。「議会についてはですね、私は立法府、立法府の長であります」と答弁して世間を驚かせた首相。確かめたところうわさ通り、国会議事録では「議会については、私は行政府の長であります」と本当に改ざんされているではないか。現代ニッポンの司書には、誇りと矜持がないのだろうか。チョン切られるって言っても、せいぜい自分のクビぐらいだとおもうのだが。

 

ものづくりという仕事

もし自分に前世があったとしたら、そこではおそらく「職人」ではなかったかとつねづね思っている。

 

現在、研修という先生業が半分を占めるものの、基本的にはものづくり(つまり文字や図画を使って、本やらWEBなど形のあるものに仕上げること)に充足感を覚える。そういえば子どものころ、図工の時間に仕上げた作品を、作りなおしたりバージョンアップしたりして、ひとり悦に入っていた。前職の金融業が長く続かなかったのも(といっても10年ほどは勤めたが)、「安心」という目に見えない商品がメインであったことが一因であろう。

 

私が勝手に考えるに、仕事のやりがいを感じる時には3つのパターンがある。ひとつは、完成の暁に受ける顧客あるいは周囲からの感謝がうれしい「ありがとう思考」。近頃の若年層によく見られる。ふたつめは、仕事の結果が自らの栄達がつながることを喜ぶ「エレベーター思考」。これは団塊の世代を中心とした昭和的性向である。最後に、仕事そのものの仕上がりにその人の満足がある「タスク思考」。「職人」タイプは超タスク思考と言える。

 

周囲のヨコ関係への配慮ではなく、組織へのタテ登りへの執着ではなく、仕事そのものにまっすぐ関心が向かう「職人」は貴重な存在であろう。ただ注意すべきは、こだわりのあまりオーバースペックになりがちなことだ。組織の中だと誰かが止めてくれるが、自営業だとそうはいかない。ということで、ものづくりの際、絶対に手を抜かないながらもも、細部にこだわりすぎないことを信条としている。「注・ガラパゴス化」である。

 

 

 

目にあまりすぎる言い回し、3種へのお祈りですね

1「●●すぎる××」

 

「美しすぎる国会議員」「可愛すぎるニャンコ」…どうしてなんでもかんでも「形容詞+すぎる」で済まそうとするのか。

確かに当初は、「非常に」「とても」になり替わる、目新しい表現だったかもしれないが、もはや手あかがつきまくっている、流行遅れの服で得意げにポージングするモデルを眺めているようなイタさだ。情報の発信者になるつもりなんだったら、もうちょっと真剣に言葉と向き合えよ。

 

2「…ですね」

 

これは、例えば店員とのやり取りで「△△はありませんか?」「はい、ないですね」の「ですね」だ。発話者の意に反し、たいていの人間はムカっと来ているはずだ。

それはなぜか。「ね」には、相手と自分が同意見であることを念押しする意味があるからだ。

同様の意味を持つ「でしょ?」に置き換えると「はい、(だから)ない(と言ってる)でしょ?」。相当無責任で投げやりなニュアンスになる。こうして意図せぬところで聞き手の感情を逆なでする。

 

3「…お祈りします」

 

言わずと知れた、就活の際の会社からの落選通知。文末が「~のご活躍をお祈りしております」であることから「お祈りメール」と命名された。昨今では学生の間で「お祈りする」=「~を終わらせる」と日常語化しているらしい。

それにしても、学生には礼儀作法やマナーを厳しく求めておきながら、明らかにエントリーシートを読まずに面接に臨んだり、約束の期日までに試験結果の合否を知らせなかったりする会社が目立つ。No detail is detail. 人のこと祈る前に、自分が襟を正してくれよ。

 

蛇足:冒頭のわけのわからんタイトルが伝えたいのは、要するに「目に余る次の3つの言い回し、早く廃れてほしいなぁ」ということだ。

 

てのひらの宇宙 VOl.5

人にノウハウを伝える仕事=「先生」と言われる種族にとって、教え子が期待を超えるアウトプットを出し、成長ぶりを見せてくれるほどうれしいことはない。

 

仮に、Kさんとしよう。Kさんはタハラと出会って以来、その論理力講座、文章講座を積極的に受けてきた。最初は数百字の文章作成すら、多大な時間を要した。身を切るように書いた文を、時には全て書き直しを命じられ、ある時はペンで真っ赤にされてダメ出しを食らいながら、着々と実力をつけてきた。

 

そして今度、Kさんの一里塚となる5000字の文章が、あうん社出版の「てのひらの宇宙 Vol.5」で発表になる。百貨店を舞台にした、軽やかで愉快な話だ。

 

現在、出稿(原稿を出版社に出すこと)に向けて最終確認中である。ひょっとすると、私の方がご本人よりワクワクしているかもしれない。今秋出版予定だが、待ち遠しくてたまらない。

ハッピバースデー トゥユー♪

先週ちょうど誕生日だった。公衆衛生と医学の発達はありがたいものである。「にんげん五十年~」という幸若舞の時代だと、もう墓場で横たわっているはずの年齢が、こうやって元気にパソコンを打っている。

 

さて誕生日、ケーキへの点火直前で、子どもが留学中のエピソードを語り始めた。

 

留学生仲間の誕生日パーティーで、参加者全員が自国の言葉で『ハッピーバースデー』を順番に歌っていったらしい。中国語あり、ロシア語あり、ブラジル語あり、韓国語あり、そのうち、自分の番になった。当然「ハッピーバースデー トゥユー~♪」と歌いだしたところ、皆口ぐちに叫び出した。

 

「何だそれ?英語じゃないか?!」。確かに日本語のかけらもない。

 

それを聞いて私は方針転換、試みに、直訳日本語で歌ってもらうことにした。だが「おたんじょうびおめでとう」では「おめで」が三連譜にならざるを得ず、どうも収まりが悪い。

 

後で調べたところ、作詞家の丘 灯至夫(おか・としお 『高校三年生』『みつばちハッチ』などもこの人らしい)によるものはあるのだが…お亡くなりになったのは2009年、公の場でうかつに歌うと著作権上キケンだ。ちなみに最後の作品はWikiによると『霊柩車はゆくよ』。著作権フリーになっていれば、私の葬式で歌ってもらおうか。