フランクフルトが屋台のスタアとして登場したのは、昭和50年代ぐらいだっただろうか。それまでは、ソーセージといえば、いわゆるウインナー一択。しかも、なぜかすべて色はまっ赤だった。
そもそも、フランクフルトとウインナーはどう違うのか。イメージとしては「串ごとかじる屋台の味」と「タコ形で鎮座するお弁当の味」だが、H12年農林水産省のソーセージ品質表示基準によるとこうだ。
フランクフルト
豚の腸を使用したもの、又は製品の太さが20㎜以上36㎜未満のものをいう。
ウインナー
羊の腸を使用したもの、又は製品太さが20㎜未満のものをいう
要はもともとの材料だった腸の太さを基準にして、定義しているようだ。
ひるがえって、本家本元のソーセージ事情を調べて、ちょっとおどろいた。羊の腸につめたソーセージは「ウインナー」ではない。「フランクフルター(フランクフルト)」というらしい。ウインナーソーセージ(Wiener Wurst)なるものは存在するが、ベーコンやらなんやらいっぱいつめものをして低調調理。スライスしてハムに近い形で食べるようだ。うーむ、奥が深い。
このほかにも、血のソーセージやら白ソーセージやら、われわれ農耕民族にはなじみのないソーセージにめぐりあえるドイツ語圏。ただし、残念ながらおみやげに持ちかえることはできない。機会があれば、ぜひ現地で楽しんでほしい。
本場ウイーンのウインナー Wikipediaより
google先生よ、君は勘違いしてはいまいか?「ドイツ人」と入力すると、「ドイツ人 きっちりしている」と検索の上位に出てくるぞ。
だがタハラは、わずかな期間の滞在ながら、実際のドイツが、日本人が持つ「時刻通り、勤勉、きれい好き」の標準イメージといかにかけ離れているか、思い知らされた。その恨み節を、下につづっておく。
1 列車の遅延はあたりまえ
ドイツ鉄道を利用する際、まずアプリのダウンロードを強く勧められる。「おお、AI化が進んでいる」と見当違いに感動してはいけない。乗るはずだった列車が運行ストップ、次に乗り遅れるなどは日常茶飯事。「先行の列車が5台渋滞しています」とアナウンスのあと、空調が切れた車両の中で、1時間以上放置されたこともあった。
どれぐらいの時間遅延しているのか、乗り継ぎの列車はちゃんと運行しているのか、たよれるのはアプリのみ。一番あてにならないのは、駅員のいうことだ。ドイツ人が車好きなのもムリはない。
2 夢のまた夢、宅配時間指定
高級店でもない限り、買い上げた荷物をそこから発送してもらうのは、リスクがある。中身まで影響がでていた経験はそんなにないが、包装材は確実によれよれになる。プレゼントのつもりが、到着時にプレゼントの体をなしていないことも多い。
もちろん、クール便なんてありがたいものはない。それどころか、時間指定や再配達制度もない。不在の場合は、もよりの郵便局なりDHLなりに、不在票をもって引き取りにいくことになる。だから互いの利便性のため、 勝手に置き配にされる。アパートの低層階のベランダに、地上から荷物を放り上げられたという声も聞いた。
3 きれい好き?
駅におりたつと、まずムッとするようなにおいが鼻を突いてくる。体臭、すえた食べ物の匂い、甘ったるいマリファナ臭。若者と女性の喫煙率が高いため、足元は吸い殻だらけである。ただ、ゴミはゴミ箱のまわりによせている点だけは、他のヨーロッパの国よりましかもしれない。
そして無料トイレには、清潔さを期待してはいけない。特に高速道路はお見事で、世界三大「汚トイレ」ランクインに迫るものもあった(タハラ独自認定)。ただ、ロシアほか旧(現)共産国にはかなわない。この点は作家の椎名誠と同意見である。
あ、ドイツも旧共産圏だったか。
身辺整理中に「Tahara Keiko, hair blown, eyes hazel」と書かれた海外遊学中の古文書を発掘。へ?私の目の色は hazel(茶緑)なの?
子どものころ「ガイジン」と呼ばれていた時期があったことは認める(昭和だからまかり通ったニックネームだ)。全体的に色素には乏しいが、目はblownじゃないのか…。
色のニュアンスは、文化によって微妙に変わってくる。赤毛のアンに登場する茶トラの猫は、英語では「オレンジ色の猫」。三銃士のダルダニアンの栗毛の愛馬も、原語は「オレンジ色の馬」だ。茶トラも栗毛も、日本人に言わせれば、「茶色」に違いないのに。
では欧米の茶色は、日本より薄いのか濃いのか。たとえば、平均的な東洋人の瞳は、どう表現すればいいのか。茶でblown?それとも黒でblack?
ロシアでは、黒い目は、魅力と誘惑のシンボルである。
「おお、燃える黒き瞳、そのときから私の苦しみははじまった…」ではじまる、民謡「黒い瞳(Очи чёрные)」の情熱的な歌詞を聞くがいい。また、金髪碧眼の美女がひしめくかの国の宮廷で、モテ男として有名だった詩人プーシキン。アフリカ系の血を引く彼の魅力は、黒髪に褐色の肌、そして黒い瞳にあった、とされている。
瞳は濃い方がモテるんだな、よっしゃー、海外ではI have black eyesとしてアピール…とおもったあなた、英語圏ではやめておいた方がいい。black eyeは、顔面を殴られたときにできるアザのことだからだ。「ケンカしたの?」とけげんな顔をされることまちがいない。
米国でIDをつくるときは、髪の色と目の色を申告することが多い。 黒っぽい瞳でもblownが無難。覚えておこう。
木々の花や緑がいっせいに芽吹く春。私は匂いに敏感な方で、かつ花粉症の季節でもあるので、この時期はいつも鼻がむずがゆい。くしゃみを連発してしまうことも多い。ただ、コロナ収束の雰囲気の昨今、前ほど周囲の視線が冷たくないのはありがたい。
春のおとずれをまっさきに感じさせるのは沈丁花だ。街角で、グローブににた甘くヅンとした香りに出会うと、ああ、やっと春が来るのだと安心する。この樹にはあまり虫がつかないと思っていたら、樹皮などにまあまあの毒を仕込んでいるらしい。
次は梅見。不意に出くわす香りではないので、鼻腔を膨らませてめいっぱい楽しむ。色が濃いほど、匂いも重たくなるのは気のせいか。見た目のつつましさとはうらはらに、かなり華やに薫る。挿し木で増えるソメイヨシノとはちがい、匂いによって生存戦略をはかっているのだろう。
菜の花畑はダメだ。おしよせる花粉が鼻の奥を刺激する。花自体も生臭く、いかにも「食うなよ」のサインが伝わってくる。が、それをゆでて匂いをやわらげ食するのが人間のすごいところだ。さすが人類、食物連鎖の底辺から頂点にのし上がるまでのことはある。
などなど、人をさまざまな物思いにふけらせる春の匂いだが、そうなるにはちゃんと理由があるらしい。
匂いだけが、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)のうち、感情・本能に関わる「大脳辺縁系」とダイレクトにつながっているだとか。マドレーヌを紅茶に浸して口にしたら幸福だった子ども時代を思い出したぜ、という某小説の書き出しは、科学的にも根拠があるのだ。そんなこんなの人間の性質を利用して、我々の知らぬところでブランディングをしている企業もあるようだ。
総務省も、22年6月(たぶん。お役所の文書にはたいてい日付が入っていない)に報告書『五感情報通信技術に関する調査研究会』 で、触覚、嗅覚、味覚といった情報についても、視覚や聴覚と同様に、技術の枠組みの中に取り込んでいく姿勢を示している。目的は「世界に先駆け、五感情報のセンシングや再生を支える工学的技術に応用するとにより、国際競争力を高める」とあった。
報告書によると、嗅覚にはわからない部分が多くインパクトが大きいため、特に注目すべき分野らしい。なるほど。メタバースほかVRは視覚先行型だ。それだけに、五感を伴う情報技術を持てた時の競争力はハンパないはずだ。
しかしそれで我々人類は幸福になれるのか? とおもっていたら、こんな力強いまとめがあった
「もしも、実世界と乖離した情報をユーザ に与えるような五感通信技術が発達し日常的に利用されるようになると、学習が進んだ脳(成人)では違和感が生じストレスを誘引するようになるであろうし、学習途中の脳(子供)では実世界と乖離した形での学習が進んでしまう。…(中略)人間の情報処理の仕組みを総合的に理解することを通じてこそ、豊かな人間性を育み自然と調和する、安全で快適な五感情報通信技術を発展させることができるのである。」
そんな技術が実現するまで、しばらくはリアルで春の香りを楽しむこととしようっと。
五感情報通信技術に関する調査研究会(p123より)
3/27日経に掲載された鈴木亘・学習院大学教授による『少子化対策の視点 女性の逸失所得 防止が本筋』が話題になっているらしい。
「出産とは一種の投資行動だ。ただし、1,300万~3千万程度の子育てにかかる直接費用より考慮すべきは女性の機会費用だ。その逸失利益は1億から2億に達する。現金給付や現物給付の効果よりも、雇用と子育てを両立できるよう抜本的な対策を打て」が、話の趣旨である。
今さら、何を言っているんだ。
2023年時点での20歳の数は117万人。一方2022年の出生数は80万人を下回っているから、2043年あたりの20歳の3割減は自明の理である。この20年間、何をしていたのかな⁉
というなげきを、自らの半生に乗せて、高田純次が年寄りに禁じたという「昔話、自慢話、説教」で展開してみたい。
まず、昔話。
私が社会人になったのは、男女雇用機会均等法が導入されてしばらくのこと。総合職(管理職候補)、一般職(業務内容を限定)という呼称が定着したころだった。女性総合職は、東大・京大卒のみ、が不文律の時代であったので、当然私などは一般職でしか採用されなかった。生意気なことを言いまくって就活に苦労したが、NHKの朝ドラに取り上げられた中堅の某保険会社にもぐりこんだ。
つづいて昔話と微妙な自慢話。
ところがバブル時代に突入し、企業は女性総合職の数を、先進性を示す指標として競うようになった。勤務先からは大手にまけじと、人事考課のたびに「総合職にならないか」のお誘いが来る。保険会社だから、総合職は全国津々浦々にある支社への転勤をのむことが前提だ。当然、断っていた。だが敵もさるもの「優秀な君には、本社の管理部門勤務を保証するよ」と甘言をささやいてきた(支社配属の人たちが聞いたら憤死するであろう)。
さらに自慢話。
それを鵜吞みにして総合職へと転換したとたん、バブルが崩壊した。お飾りは不要と、手のひらを返したように、周囲の女性総合職は遠方の支社に配属されていった。結婚し子どもを授かったばかりの私も育休開けに、近隣ではあったが、容赦なく支社に営業として配置転換された。そこで一念奮起、めきめきと頭角を現した。クラッシャー上司のもと、なれない業務でミスを連発しするものの、やがて営業成績は全国数番目となった。
自慢話、その後。
ところが、忙しすぎて事務処理が追い付かず、心身がボロボロになった。つづく長時間労働に、子の面倒を見てくれていた私の両親もだんだん疲れていく。家族に、育児と家事について分担かアウトソーシングを打診した。分担については「ムリ」。アウトソーシングについては「家事のみOK。ただし自分の実家には言わないこと」を条件にした。
ここでまた子どもに恵まれたことが判明。上司はマタハラ上司に進化し、退職を迫ってくる。鉄の女といわれたタハラも、さすがに胃腸炎と切迫流産を併発した。絶対安静の布団の中から、ああ、ここで撤退か。女性は、平凡なサラリーマン人生すら全うすることが難しいのだ、と天井をながめたことを覚えている。
以上、約30年前の話。そして説教。
こうやって私は子育てによって退職を余儀なくされ、安定雇用を失い、多大な逸失利益を被ったーというと「お母さんより大切な職業はないのに」と血相をかえてたしなめる人は多い。その人に問いたい、なぜ、私は親業と職業の二者一択を迫られたのか、いや、今でも多くの女性がこれを迫られるのか。
どんなにがんばっても、今のところ、子どもを産めるのは女性に限られている。だが、この数十年で法律こそ作られたものの、税制や年金などの社会制度や雇用慣行、オジサン社会の流儀はそのままだ。多くの職場ではあいかわらず、仕事と子育ての綱渡りを強いられるような環境がつづく。働く女性にとって、少子化は当然の帰結であろう。
どうしてこの問題をたなざらしにしている?責任者、でてこい!
不覚であった。恋のさしすせそなる言葉が世間に流布しているのを、つい最近知った。Google検索では2.3万件表示されているから、ずいぶん前から使われているのだろう。「さしすせそ女子」なる言葉も定着しているようだ。
ひとことでいえば、これは合コンなどで、初対面の人(男性)に好感を与えるとされる、女子用のあいづちの言葉である。中身やいかに。
「さ」=「さすがですね!」、「し」=「知らなかった!」、「す」=「すごい!」、「せ」=「センスいい!」、「そ」=「そうなんですか!」
これらを、感情をこめて、表情豊かに言うといいらしい。
つまりは、相手をおだて持ち上げることによって、好意を得ようという戦略だ。知識や経験において、聞き手は相手より劣っているというスタンスを明確に打ち出す。謙譲語と同じ発想ともいえるが、自分には決してマネができないような気がする。
では、モテ女子がすなる「さしすせそ」といふものを、タハラもしてみむとてするなり。どうなるか?
「さ」=「さあ」、「し」=「知らんわ」、「す」=「すんません」、「せ」=「説教すな」、「そ」=「それで?」
気持ちは急速冷凍、相手は目の前から早々に立ち去るに違いない。
論破王とは何か。
それは、論争において相手をやりこめるのに長けた人のことだ。弁護士時代・不敗神話をほこった橋下徹氏に冠せられたその称号を、いまはひろゆき氏が引き継いでいる(二代目のご本人はこの名を嫌がっているらしい)。
ところが、上には上がある。むかしむかしあるところにおわした、もっとすごい人を見よ。この人こそ、人となりたるイエス・キリストである。
得意技は、現代ニッポンの論破王のような冷笑や皮肉、毒舌ではない。「相手の土俵で論じる」「たとえ話」といった王道である。以下はホンの一例。
●律法で定められた安息日(働いてはならない日)に麦を収穫し「規則違反や」ととがめられたとき
「英雄ダビデが腹減ったときに、お供えのパン黙って食べたん、聖書で読んで知ってるやろ?規則は人のためにあるんや、人が規則のためにいるんやない」
→相手の絶対的論拠「聖書」から実例を借りて論破
●「納税や服役などのローマ皇帝への義務と、神への義務とどちらが大切か」とイジワル問題を投げかけられたとき
「銀貨の両面見てみ。皇帝の名前と肖像画があるやん?皇帝が作ったもんはすべて皇帝に返す。人間の心とか体とか、神さまからもらったものは神さまに捧げる。2つは別の話とちゃうの?」
→銀貨という目に見えるたとえで、論点を整理
こんな方がディベート大会に出たら、ぶっちぎりで優勝、対戦相手も聴衆も足もとにひれ伏してしまうだろう。SNSではカリスマとして、またたくまにフォロワーが群がるに違いない。
いや、古代ローマ帝国でも同じだった。あまりのフォロワーの多さに畏れをなした当局から、扇動者として処刑されてしまった。それにもかかわらずイエスの栄光はあせず、今も世界で20億以上の人がその教えを尊んでいる。
日本の論破王はどうかな?2000年後には…多分誰も覚えていないよね。
更新予定日だったバレータインデー(火曜)の翌日、買いすぎたビターチョコをむしゃむしゃ食べながらながめた、自民党・岸田首相と立憲民主党・西村議員とのやりとりがおもしろかった。
発端は2月1日。岸田首相が、国会で「同性婚をなぜ認めないのか」と聞かれ、「すべての国民にとっても、家族観や価値観や、そして社会が変わってしまう。こうした課題」と答えたことについてだ。これを否定的なニュアンスだとして撤回を求めた西村議員に対し、岸田首相はこう答えた。
岸田:…いきなり変わってしまうから、否定をしたというのではなくて、変わるから議論をしましょうという趣旨で発言した。…
西村:例えば、社会は豊かになってしまう。おかしいですよね。社会がすさんでしまう、これはしっくりくるんですよね。…金田一先生もおっしゃっていますから、社会がっていうのを主語にして、『~てしまう』という言葉を使って、何かポジティブな例文を作っていただけませんか
岸田:あの時の発言の趣旨、…決して否定的でもなければ肯定的でもない。そういった発言であると、わたしは思っている
※…は略
庶民にすれば目もくらむような時給をもらっている方々。そんな言葉の端くれで会期を消費するのではなく、本質的な部分で議論をしてほしい、という嘆きはさておき。「~してしまう/動詞+テ形+しまう」のニュアンスを、ちょっと考えてみよう。
通例として、以下の2とおりの用法がある。
1「~してしまおう(意向)」→完了(や期待)(基準となる時点までの完了を特に強調する)
例:こんな簡単な問題、岸田君だったらすぐに片づけてしまうだろう
2「無意志動詞+てしまう」→後悔(や危惧)
例:西村君、会期初日なのに遅刻してしまうよ
「変わる」は意向か無意志動詞なのか。これが発言の真意の決め手である。さてどっちだ⁉
そう、「変わる」は他律的な動詞だ。そこに話し手の意思は汲み取れない。となれば、2「後悔や危惧」であることは明白だ。
では意思をふくんだ「変える」だったらニュアンスはどうなるか?
…「家族観や価値観や、そして社会を変えてしまう。こうした課題」。うん、これだったら首相の強弁も通用するかな。ちょっとの違いでネガからポジのテイストへ。コトバって難しいですねぇ。
参考 『初級を教える人のための 日本語文法ハンドブック(2001)』スリーエーネットワーク
海外留学中の学生と、留学帰りの就活生との自己紹介文の添削を同時期に頼まれ、仰天したことがある。双方ともがユニーク(オリジナリティが高いというか)な経歴の持ち主にもかかわらず、語り口がほぼいっしょだったからだ。
「私は苦境に耐える力があります。●●国に留学しようと考えた時、ほとんど●●語ができませんでした。これではいけないとおもい、図書館にこもって一日8時間以上勉強しました。そのかいあって、大学入学に必要な語学のスコアを取得することができました」
違っているのは、国名だけだった。二人とも、なぜ同じ文章になったのか?聞くと、双方とも、就活サイトを参考にしたとのことだった
ここで問題。そもそもエントリーシートはなんのために読んでもらうんだったっけ?
そう、一次選抜されるための自己PRだ。凡百(ぼんぴゃく=よくある)の苦労話では採用担当の目にとまらない。企業側が知りたいのはあなたがどんな特長を持った人かということ。つまり「あなたがどんな人か」である。
おっと「『私は苦境に耐える力があります』って書いてるやんか!」という声が聞こえたぞ。そうじゃない、PRすべきなのは「あなたがどんな夢を実現するためなら、苦境に耐える人なのか」という’価値観’だ。
上の例でもっとくわしく言おう。「私」は、何かやりたいことがあって留学したはず。それは何か?留学によって夢は果たされたのか。その成果をふまえ、今、何をしたいと考えているのか。
たいせつなのは、苦労のプロセスではない。くりかえすようだが、そうした行動にあらわれた、今のあなたを形作る考え方や信条などだ。語学力PRネタのエントリーシートは、言葉は悪いが何千何百と腐るほどある。でも「なぜそこまでがんばったのか」は個人個人によってちがうはずだ。そこが価値観であり、その人ならではの個性が現れる。
ひとつアドバイス。エントリーシートを書くときにこそ、金子みすゞ『みんなちがって みんないい』を、おもいだしてほしい。マニュアルの形をなぞって、安心してはいけない。経験談を使って、自分らしさを浮き彫りにしなきゃならないんだよ。
まったりした休日の昼下がり、各駅停車の車内のとなり、男性2名の会話。
A「だから狂気の沙汰なんだよ。(長期国債)0.5%以上の利上げに走るなんて」
B「物価高に拍車がかかりますね、確実に」
A「それ以前に、これで(国債簿価の)含み損は5兆円を超える。完全なる債務超過だ。何考えてんだ」
B「黒田さん、利上げという言葉は避けましたよね」
A「政府の差し金だろう。一橋大系の御用聞き総裁だからね。2%のインフレターゲットを断固拒否した前総裁とは違うよ」
B「白川さんは京大閥でしたか」
A「諸悪の根源は、平成になってからの物品税廃止と消費税の導入。毛皮なんて15%(の物品税)だっただろ。あと法人税率を15%もさげたこと。金持ち擁護と、大企業の内部留保を厚くさせることに走った。そして賃金は全く上げない」
B「失われた30年の象徴ですな。相続税70%の税率適用金額も、今は20億以上にあげて富裕層を優遇ですか」
A「そう、小泉さんからはひどかった。だから、二世、三世議員が昼は会合、夜は夜でホステスくどいてほいほい遊んでいる」
B「正直者がバカを見る世の中に…」
A「お、着いたな。ここで失敬(立ち上がる)」
B「待ってください。私もここで降ります(あわてて追いかける)」
おまちください、もう少し持論をお聞かせください、と私も背中を追いそうになった。
たいそうなタイトルをつけてしまった。トルストイの不朽の名作のことではなく、年始のコラムに続いて、二進法のことを語りたかったのだが。
二進法といえば、「コンピュータ」であろう。命令に従い、0と1の入力を処理し、0と1を吐き出す機械。英国人のアラン・チューリングは、単なるハードウエアに過ぎなかったこれに「計算可能な問題は、すべて計算できる機械が存在する」という概念を編み出し(チューリングマシン)、ソフトウエアのもととなる考え方を提示した。
この考え方は、第二次世界大戦の英独戦で応用された。ドイツの暗号生成機’エニグマ’が発する膨大なデータ解読を、シンプルなやり方でコンピュータで解読させたのだ。
国と国との総力戦を通じ、コンピュータは急速に発達する。第一次世界大戦が飛行機の発展に寄与したのと、同じ構図だ。
一方でわが国。二進法は、なんと遊びであった。有名なもので『櫻目付字』がある。
三十一文字(みそひともじ)からなる和歌が、5本の桜の枝に割り付けてある。相手が思い浮かべたひとつの文字を、演者が、1~5までの枝にあるかないか、ひとつづつ問うていく。その答えを聞いて、演者がズバリその文字をあてる遊びだ。平安時代が発祥といわれる。
その後、江戸の太平の世で、源氏香だの魔法陣だのと組み合わされ、目付字遊びはおおいに発達した。目付字だけではなく、順列も組み合わせも、和算にかかれば遊びになる。「継子だて」「大原の花売り」などは、ストーリーとしても秀逸だ。
ところが、これほどまでに発達した和算も、富国強兵をめざす明治政府が、西洋数学を教育に導入してからは急激に廃れてしまった。まさに「戦争は文明を生み、平和は文化を育てる」だ。
*31文字と5本の枝が、どうして二進法と関係するかって?えっへん、ヒント。
二進数の11111は、十進法では、①2^4+②2^3+③2^2+④2^1+⑤2^0=31だぜい
櫻目付字(塵劫記)
1/13放送 NHK「縁の下の幸福論 プロフェッショナル 仕事の流儀」をご覧になっただろうか。
”出版物に記されたことばを一言一句チェックし改善策を提案する校正者。並みいる作家や編集者から絶大な信頼を受けるのが、大西寿男(60)。…小さな部屋で人知れず1文字の価値を守り続けてきた半生。”
というキャッチフレーズは伊達ではない。誤字脱字チェックだけではなく、語感からファクトチェックまで、ことばの森に入り、たちどまり一字一句に向き合っていく。その真摯な姿に胸を打たれた。
同時にうーむ、とうなってしまう。一字0.5円以下とは。私が小遣いを稼いでいた●●年前と、単価が変わっていないどころか、下がっているんじゃあ…。
取材する側も、その点が気になったのだろうか。キャッチコピーにあえて「小さな部屋」を入れたり、取材者をもてなす惣菜の2割引シールをアップにしたりして、ことさら、つつましさ(労力>労働対価)を強調していたのが興味深い。
そう、サラリーパーソンとちがって、校正にしろ翻訳にしろ何にしろ、自営業の受注仕事は、凝りはじめるとキリがないのだ。
「あれ、これでいいのかな…」と立ちどまってしまうと、もうダメだ。いろんなサイトを開き、手元の辞書を調べ、考え込んでしまい、自ら時給を下げてしまう。
一時期、それが気に入らず、時給の単価を頭で計算しながらやっていたことがある。だがそちらの方がよほど非効率だった。納品してからも気になって仕方ない。「やりがい搾取」と言われればそれまでだ。が、そういう性質でないと務まらないのだろう。
ちなみにこの大西さんは、私の出身高校の先輩らしい。
かの高校の風物詩は、興味のない授業から脱走することだった。映画評論家として有名な大先輩、淀川長春さんの脱走先は映画館。この方だったら、行先は図書館だろう。本の森に、静かに身を潜ませ開くページに心躍らせていたに違いない。
*現在、この高校は「脱走禁止」の校則がある。「出前厳禁」なんて校則もできてしまった。私も含め、一部のふらちな生徒の行動が目に余ったせいであろう。後輩たちよ、選択の自由を奪って申し訳ない
ある組織で、上司から部下への言葉がけが思いきりスベった現場を目撃。むかしむかし、自分がPTAの役員への就任をつよく請われた場面がよみがえった。
熱心なPTA勧誘を断り切れず沈黙するタハラに、相手がキラーパスを出したときのことだ。
現役員:大丈夫ですよ。誰でもできる仕事ですから
タハラ:あ、誰にでもできるんだったら、他の人に頼んでください
自分にしかできないことをやりたがる、唯我独尊タハラの対局にあるワードが「誰にでもできる」だ。大丈夫、というキラーパスは、場外に蹴りだされてしまった。
人の価値観はいろいろだ。たとえば、下のねぎらいの言葉。交流分析をもとに考えてみたが、みなさんはどれがピッタリくるだろうか。
1「あなたに任せたら安心だ」2「普通はここまでできないよね」3「あなたのおかげで助かっている」4「やり方をいつも勉強させてもらっている」5「骨身をおしまずやってくれている」6「いつもひと味違うよね」7「先が楽しみでしかたない」8「感謝しかない」
知人に聞くと、1,3,8あたりが心に響くらしいが、人によっては「ならばもっとギャラよこせ」になる。ほんとうに十人十色だ。
こんなふうに人はそれぞれ違うけれど、一番大切なのは、心から自分のおもいを伝えることだ。やれエニアグラムだエゴグラムだとツールに振り回されず、しっかり相手を観察し、言葉を使い分けてほしい。
この「とはずがたり」の前身となるブログをはじめて12年。週1どころか、月1近い息も絶え絶えのペースながら、これまで続いているのはめでたい限りである。卯年から卯年へと、干支が一周したことになる。
それにしても、干支にしろ月にしろ、時にまつわる数字に12が多いのはなぜか。今をさかのぼること数千年前の古代バビロニアで、モノを分けるときに重宝した数字だったから、がその理由のようだ。
たしかに、ピザをとりあえず12分割しておけば、
・6人→2ピース
・4人→3ピース
・3人→4ピース
・2人では6ピース
と、ケンカになりにくい。
まてよ、5人では?と、ツッコミたいあなた。1切れを5等分の細切れにして、1名ずつがそれを6ピース分もらっていけば公平だ(そんなもの食べたくないが)。少なくとも、古代バビロニア人はそんな発想で、12分割した1時間をさらに5つにわけ、60進法的にとらえる方式を編み出しだらしい。
1時間が60(12×5)分、1日が12時間2回、1年は12か月。12がらみで気持ちよくまとめた昔の人はエラい。なのに、なぜ曜日だけ、日月火水木金土と7進法チックに展開したのだ?本当にヒトって、ヘンな動物だ。
あるときは7進法チックに、あるときは12進法風に。流れゆく時間に刻みを与え、やれ日曜だ、正月だなどと、意味づけして大騒ぎしている。それでも月が変わっただけで、師走のあわただしさが影を潜め、正月独特のまったりした気分になるから不思議なものだ。
などと雑多なおもいをめぐらしつつ、あらためて、新年のごあいさつを申し上げたい。今年こそ、もう少しまめなブログ更新を実現したいものだ。
2023年卒生の就職活動の追い込みと、その次年度の合同説明会とが重なる時期になった。両者から聞こえる嘆きは、エントリーシートの最重要項目のひとつである「ガクチカ」。すなわち、「学(ガク)生時代に力(チカら)をいれたこと」を書くネタがないということだ。
インターンなどで着々と積み上げている学生もいるが、大部分の学生にとっては悩ましい部分だろう。2020年からつづくコロナ禍は、あなたがた学生から、遊んだり学んだりする機会を奪ってしまったのだから。
でも、あらたねて強調したいのは、企業が求めるのは、めずらしい体験談ではないということ。あなたがどんな人間であるか、つまり、どんなときにスイッチが入る人間なのか知りたいだけなのだ。
そのためには、自分自身の日常を見つめなおすことがいちばんだ。中高時代からコツコツと継続している習慣や心がけなどで、「私はこんな人間です」と伝えられるようなことはないか?題材はどこにでもある。落ち着いて考えて、リストアップすることからはじめるとよい。
※ガクチカに対して、なんでも略すな、と怒る外野のあなた。パンスト(pan-suto)、ゼネコン(zene-kon)など、長い語を二音節に縮めるのは、日本の略語の王道であると心得るべし。ちなみにシューカツ(これも二音節か)関係では「エレオク」「オヤカク」なんてのもあるぞ。
そのとき、ちょうど16時ごろだったか。高知県西部の梼原町を出て約1時間、対向車をなんとかかわしながら、40キロほどの山道を走破、国道439号線にたどり着いた。
旧・大正町の道の駅に立ち寄り、買ったトマトでほっとひと息。やれやれ、文字通り峠は越えた、目的地・四万十市の中心地まで、この道を走れば40キロ弱。日暮れまでにはつけるだろう。
ところが、ナビにしたがって再スタートしたとたん、道は山にわけいり、険しく、細くなってきた。まずセンターラインが消え、次にガードレールが消え、そしてアスファルトが消えた。荒れた路面をおおう木の葉のうえに、うっすらタイヤ跡があるのみだ。
おまけに、山肌より染み出した水が、道路を横切り、反対側の路肩からポトポトと垂れている。こわごわのぞくと、はるか下に川が見えた。道を間違えて、異世界にでも迷い込んだか?引き返そう。
決死の覚悟で下り道をバックし、大木の根っこに乗り上げギリギリUターン。道の駅の手前までもどってルートを再検索した。
ところが、ナビ導師もグーグル先生も「先ほどの道をすすむしかないぞよ」とのご託宣だった。あれが国道?別の道はないのか?ピンチアウトすると、なぜか画面がとんでしまう。う回路がわからない。紙の地図をもってこなかったことが悔やまれた。
土地勘がないうえに、もともと、大変な方向音痴である。いたずらに道を探してとんでもないところで立ち往生するより、日暮れまでに、この狭路を一気に乗り切った方がよかろう、そう腹をくくった。
そこから、うっそうとした原生林にかこまれた夕暮れどきの約一時間。ライトも追いつかないクネクネ道を右に左に忙しくハンドルを切り、鉄板をわたしただけの橋(といえるかどうか)をいくつかこえ、ときどき濡れ落ち葉に後ろタイヤをとられながら、地崩れの箇所は気持ちだけよけつつ、走りとおした。
無事下山してから、5分ぐらいは放心状態だった。対向車との離合がほぼなかったのが、不幸中の幸いだった。
あとで調べると、そこは四国、いや全国最恐の国道のひとつ「酷道439号」だった。しかも通った区間は、道幅2.5m以下の通称「ヨサク(439)越え」。数年前、NHKがここを放送で取り上げている。怖いもの見たさで他府県ナンバーが殺到したために、レスキュー隊が出動しまくり地元は大迷惑したらしい。
学んだこと:
ドライブ中に、長い髪をたらした女が突然バックミラーに映ったり、フロントガラスに血の手形をベッタリつけたとしても、怖がる必要は全くない。ガードレールのない路肩から転げ落ちる思いをするよりはるかにマシである。(でも不審者なら110番、交通事故なら119番にすぐ通報のこと)
大手前大学の北村先生の著書『不確実性の時代を生き抜くヒント(2022 大学教育出版)』。キャリア研究の最先端が凝縮された、とてもおもしろい本である。ただし、SDGs流行りを意識した帯風のデカ字「持続可能なキャリア」が暑苦しい(先生、ゴメンナサイ)。
本の内容は、転職を繰り返してキャリアアップをする人たちの、いわば「鋼のメンタル(心理的資本)」の構造を追求した内容だ。複数回の転職を経てCFO(最高財務責任者)に至った40歳以上の8名の男女を対象に、それぞれ約2時間にわたるインタビューを実施し、のべ約30万5千字にもわたる記述をM-GTA方式で概念化。キーワードを抽出している。
キーワードは「転職人生を生きる覚悟」「自分の売りを磨く姿勢」「成長志向」「何とかなる自信」「不確実性の中で決める力」など。私が興味をひかれたのは「不確実性の中で決める力」だ。いわゆる意識高い系と一線を画すのはこの部分だろう。
「転職人生を生きる覚悟」「自分の売りを磨く姿勢」「成長志向」「何とかなる自信」は、意識高い系の人々にも存在する。ただ、この本が示唆するとおり、私の知る彼女ら彼らには「不確実性の中で決める力」に必要な、ある要素が欠けている。
それは、自分のなかに明確な仕事観を持っていないことだ。社会のなかで自分はどう生きるか、という見極めだ。
だから、一流企業だとか一過性の待遇の良さとか、他人の耳目を気にしたものさしを転職先にあてはめざるをえない。自分の人生でありながら、そこで主人公を務めることが難しい人種である、ともいえる。
さて、キャリアアップをめざすみなさんはいかがだろうか?「不確実性の中で決める力」の正体のほか、内容が気になる方は、ぜひこの本で続きをどうぞ。
この言葉については、大阪弁ネイティブの橋下徹氏は「僕は生まれた時から使っていますけどねぇ」とのこと。さすが元・弁護士だ。基本的にこれは「責任解除」の言だからだ。
たとえば、毎年、阪神地方で使われる典型例はこれだ。
●今年こそたぶん優勝やで、知らんけど
つまり「優勝する、という私の考えを申し述べました。ただし、それを額面通り受け取るかどうかは、聞き手の判断に委ねますよ」だ。「*参考意見」「諸説あり」などの脚注と同じはたらきをする。
無責任や責任回避とは違う。その底辺にあるのは、期待予測だ。あくまでも責任のリリースである。
だから「雨が降りそうやね、知らんけど」は、用例としてなじまないような気がする。自然・社会現象など、そもそも個人の責任範囲を大きくこえる場合は「わからんけど」がベターだ。
それにしても、どうしていまさら、これが流行語なのか。関西人としては、なんでやねん、と戸惑いを隠せない。 放送大学の金水先生は、流行の理由について「Z世代がネットで影響をうけたんじゃないでしょうか、まぁ、知らんけど」といっておられるようだ。
外国語でどう表現すべきか、悩ましいことがあった。
シチュエーションはこうだ。留学中の家族が、引っ越し先が見つかるまでのあいだ、他人の家に転がり込み、やっかいになる。出ていく時期は不透明。そんなとき、相手先にどう謝意を伝える?使用予定言語は英語かロシア語だ。
日本語なら、おそらくこういう定型句を使う。
・しばらくご面倒をおかけします
・なにとぞ●●をよろしくお願いいたします
・本当にお世話になります
しかし英語もロシア語も、私の知る限りそのような表現は持たない。直訳するとイミフに響くだろう。
けっきょくは、「わたしどもは、あなた方の親切に深く感謝する」を言葉を変えて連呼(英語)。あとは適当にごまかした。
日本語には、今後生じるであろうトラブルなど、もろもろの現象について、先回りして謝意を述べておく表現が豊富だ。責任解除的な逃げのスタンスというべきか。だが他言語では、もともとそんな考え方が希薄なのだろう(知らんけど)。
ちなみに以前、家族の一人が、台湾で「今後とも、密なおつきあいをひとつよろしくお願いいたします」のあいさつの通訳を、上司から強く命じられたことがある。そんな表現ありません、と断ったものの、再度迫られたため、やむなく直訳したらしい。
すると相手は、スマホを取り出し「用事があったら、いつでも連絡してね」と、にこやかにLINEのIDを示した。同じアジア人でも「ひとつよろしく」は通用しないようだ。
「こういうオレンジ系の服って、妙齢になると着づらいですよね」―20代後半の女性とのやりとりに「???」となったのが、気づきのきっかけだった。どうやら、中高年という意味で使っているらしい。
妙齢、で検索すると「街コンいったら、妙齢が出て来たしw」「妙齢のオッサン」など、出るわ出るわ誤用が。検索結果上位100位ほどのページを見ると(ヒマ人か、キミは)、本来の意味の「若い年ごろ(の女性)」より、いわゆる「オバサン、オッサン」として使った例の方が多いぐらいだ。
理由は、「妙」という漢字の微妙な立ち位置にあるのだろう。もともとは、きわめてうつくしいさま、すぐれたさま、統計で言えばS.D.(標準偏差)+2より上に対して使う表現である。いわば上位5%に入るエリートな人や物だ。
ところが、ふつうでないという意味が転じて、S.D.-2の下位5%未満の事物をもさすようになった。たとえば「妙な人」がそうだ。そこからニュアンスを拾ってできたのが、ネガティブ語の「ビミョー」。おそらく妙齢の誤用も、この流れにある。
もう一つの理由は、ニッポンが戦後、世界一の長寿国になったからではないか。厚生労働省の一般的な分類は、「幼年」0~4歳、「少年」5~14歳、「青年」15~24歳、「壮年」25~44歳、「中年」45~64歳。65歳以上の「高年」だ。
ところが2021年には、65歳以上は人口の3割、75歳以上が占める割合はその約半分。もはや、どの年齢層が「妙齢=希少価値」なのか。わからないほど、年齢の分布曲線が広がっている現状がある。
コトバは世につれ人につれ、変遷していくのは自然のならい。だが使う方と使われる方に、理解のくい違いが生まれるのは困る。こちらがフォローしておかないといけない。
よし、いやしくも言葉でメシを喰っている身なら、アップデートあるのみ。そうあらたに研鑽?を誓った、妙齢な壮年の田原であった。
補足:中高年(45歳以上~)=壮年という捉え方が、最近の認識らしい。40歳代以上は、実年齢より20年ほどマイナスして、厚労省基準にあてはめた方がいいかもしれない
参考
毎日ことば 妙齢の年ごろは? 毎日新聞社
「初老」は何歳? NHK放送文化研究所
「いつ(When)」「どこで(Where)」「だれと(Who)」「こんな目的で(WHY)」「何をした(What)」「どのように(How )」「いくら(How Much)」の頭文字をとって「5W2H」。
「5W2Hを報告の骨格とせよ」は、社会人ならば耳にタコができるほど聞いておられよう。情報伝達の基本だ。当方のセミナーでも、口をすっぱくしてお伝えしている。
私自身、仕事でもプライベートでも、この基本に助けられた体験は数知れない。なかでも、サギ師を見抜けたことは、記憶に新しい。
その人物は、数々の著名人とのコラボレーションにより、とある実績をあげたとして人気を集めていた。「だれと(Who)」「何をした(What)」「どのように(How )」で自分の仕事ぶりを豊かに描き、「ビジョン(≒WHY)」にふれ言葉たくみに信用を勝ちとる。
ただし、実績アピールのうち「いつ(When)」「どこで(Where)」が、極端に乏しい点が、どうも気持ち悪かった。ついつい、気になって質問した。
すると「おもしろいことが気になるのね~、仕事柄、インタビューが多いからかな。さすがタハラさん!」と明るく高笑いされた。その場に居合わせた人たちも、どっと笑った。
こちらは笑えなかった。もともと、愛想笑いが苦手なたちである。第一、相手の目が笑っていなかった。こうやって話をそらしにかかるときは、中身を大きく盛っているか、そもそも本当でないことがほとんどだ。悪気なく、自分の作り話を信じ込んでいるときもあるが。
いずれの場合にしろ「いつ」「どこで」を聞きこんでいくと、たいていはつじつまが合わなくなってくる。そして、しどろもどろになるか、怒り出す。
そのときは、後者の反応だった。このできごとをきっかけに、そのサギ師とはめでたく縁が切れた。あやうく難をのがれた。
さて、自戒を込めて。ほかの体験もあわせ「だまされない」ための教訓を、3つならべたい。おいしいもうけ話を聞いたり、あやしげな宗教に勧誘されたりしたときは、ぜひおもいだしてほしい。
1 自分の心が不安や怒り、欲で曇っているときは、だまされやすい
2 「いつ(When)」「どこで(Where)」が乏しい情報は、信用できないことが多い
3 オチが「How Much(いくら)」に落ち着く話は、たいていサギである
「日本人は農耕民族だから、馬の駆け足をベースにした'3拍子'が苦手だ」はホントか?
駆け足とは「ばからっ、ぱからっ」といった、3拍子を体感させるリズムだ。が、いかに農耕に使う日本の在来馬が小柄とはいえ、洋の東西を問わず、走りのリズムは同じはず。
また、日本は世界に冠たるサムライの国。馬をゆるされたのは200石扶持以上(年収1500万~ぐらい?)といえども、乗馬人口としてはヨーロッパよりも多いのではないか??
そして何より「3・3・7拍子」がある。応援や宴会などのハレの場に欠かせないこのリズムは、3拍子だ!
…とおもっていたら、最後のはちがっていた。3・3・7のうしろに、いわゆるウラ拍が、1拍隠れていた。
では、検証。みなさんお手を拝借。ハイ!
「チャ、チャ、チャ、(ウン)。チャ、チャ、チャ、(ウン)。チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、(ウン)」。
そうです、リズムとしては4拍子。音がない部分が、しっかり音として成立しているのが、おもしろい。かのベートーヴェンの『運命』でも、うまくそれが使われている。
クイズ。この曲の超有名な冒頭「じゃじゃじゃじゃ~ん」の最初の音は?
耳のいい人なら「ソ」だろう。たしかにドレミファでいえば「ソソソミ~」。だが、正解は…八分休符。最初の音が、半拍分ない。だから「(ん)じゃじゃじゃじゃ~ん」が、正しいリズムだ。
聞こえない音が、聞こえる音に存在感を与える「間」。これは音楽だけでなく、トーク、文学、絵画。どのジャンルでもたいせつであるような気がする。
ベートーヴェン『運命』 聴き比べ
世間では宗教と政治との問題でかまびすしいが、日本ほど、宗教・思想にユルイ国はないとおもっている。入国審査でうっかり「無宗教」なんて書くと、門前払いになる国もあるのが、世界の常識である。
いきおい、ほとんどの日本国籍者は、外国旅行や居住のさい、なんらかの宗教名をむりやり書く羽目になる。(どこだったか「共産主義(Communist)」がチェックリストにあって、笑ってしまった。それ、宗教か?)。ヨーロッパ方面で無難なのは、仏教徒(Buddhst)ではないだろうか。ほとんどスルーしてくれる。
ところが、郷に入っては郷に従えとばかり、「カトリック教徒」などと住民登録すると、税金をガッポリとられる国がある。その名はドイツ。所得税の8%だか10%らしいから、消費税以上の金額を支払う羽目になろう。
ドイツはプロテスタント発祥の国として有名だが、南部はカトリック信徒が多い。かの有名なルードヴィヒ狂王やオーストリア皇妃となったエリザーベトも、そう。観光地が集中する南部バイエルン州で、壮麗なカトリック教会を目にすることが多いのは、そのせいだ。
ところが、カネを支払いたくないのは、人の常。若者を中心に教会ばなれがつづいている。そのため、数年前「税金未払い者に対する、クリスマス参列、教会挙式禁止令」が出たらしい。たしかに、王侯貴族の庇護がない今、政府が教会税を代行収納してくれないと、建物の維持すらむずかしい。
だれが、宗教を支えるためのカネを払うのか?その存続に、どこまで政府が力を貸すのか?宗教と政治とカネの問題に、頭を悩ませるのは、どこの国も同じである。
本の名前は知っていた。だが、なぜ中身に目を通していなかったのか。後悔しきりである。
あらすじを解説すると、強国に信仰された弱小国家が、いかにして国際社会から軍事的資金的援助をもぎとり、独立を勝ち取ったのか、だ。そして話の主役は「いかにして」という部分にある。
時代は90年代前半、舞台はヨーロッパの東部バルカン地域(半島)。第一次世界大戦勃発の地でもある。そこにはかつて、多民族国家・ユーゴスラビア連邦があった。
91年のソ連崩壊をうけ、旧ユーゴにいたスロベニア人、クロアチア人などさまざまな民族が、独立して自分たちの国を作ろうとしていた。ソ連という巨大な星の引力が尽きて、まず大惑星が軌道を外れ、さらにそれをめぐる小惑星どもが、つぎつぎとコースアウトする感じだ。
だがその大惑星の主、旧ユーゴのセルビア人勢力は、小惑星らの独立を、軍事力で阻止しようとする。口実は「国内にいるセルビア人の保護」(今年の冬にも、似たようなセリフをきいたな)。
反発する民族との間に、内戦がはじまった。戦いは、はじめセルビア人側優位だった。なかでもボスニア・ヘルツェゴヴィナは、圧倒的に不利な立場となった。国連にうったえたが、相手にされなかった
ところが、その弱小国家は、おどろくべき手をつかい、形勢を逆転させた。
それは「アメリカの世論に直接うったえる」だった。
このシナリオを描いたのは、アメリカのPR会社だった。戦争に、善悪の対立観念を持ちこんで単純化し、国際社会で、弱小国家の応援団をつくっちゃう戦略である。映画『スターウオーズ』帝国軍VS共和国軍の構図を、当時の東南ヨーロッパにもちこんだのだ。
「絶対悪」を強調するために、たとえばこんな戦略を作った。
・一つの情報を、アメリカの複数のメディアで増幅させる(情報の拡大再生産)
・スポークスパーソンの演技力を徹底的に磨く(立ちふるまいや話し方、服装、メイク)
そして、
・キャッチコピーをつくる
このコピーが有名な「民族浄化(Ethnic Cleansing)」だ。「わが国で民族浄化がおこなわれている」、ボスニアの外相の訴えは、人権と民主主義を信条とする多民族国家アメリカを動かした。
当初「ヨーロッパの片田舎のけんか」と評されたこの紛争は、このコトバにより「許しがたい20世紀最後の蛮行」に様変わり。米軍とNATO介入をよんだ。それから3年半、街と人の心に深い傷あとを残し、やっと95年に和平を見た。
あらすじが長くなった。さて本題。
この話、25年以上前とは思えないほどの既視感があるよね?この手の情報操作は、シリア紛争やウクライナ侵攻など、遠く離れた異国だけではない。国内の政治や経済、日々の出来事に関しても、応用されているのだとおもう。
では、情報の受け手である庶民が、ここから学べるものはなにか。
まず、ふだんわれわれが受ける情報は、良くも悪くも、国内外をふくめ、欧米の視点で発信されているという事実を前提にする(日本政府も『おまえ欧米か(古いな)』だ)。旧ユーゴ大使の中江氏は、これを「情報覇権主義の強まり」と指摘している。
つぎに「情報の拡大再生産」「情報発信者の演技力」「キャッチコピー」のわなに、自分がはまっていないかということだ。繰り返し繰り返し、情緒的に流されるニュースには注意した方がいい。TVは、用のないときには切っておいた方がいい。SNSでは、アルゴリズムにより、自分の支持する情報が、優先的に表示されるという事実をお忘れなく
さいごに、情報発信者がどこか、確認するということだ。
たとえば、市民が武装警官に投石する場面があったとする。
・不気味にそびえる警官の群れに抵抗をする市民の立場
・投石の嵐に無抵抗に耐える警官らの視点
この2つは、ともに事実であっても180度ちがう。つまりものの見せられ方で、印象操作は可能だということを、心得ておこう。
賢者は歴史に学ぶ、ものらしい。周回遅れで読んだこの本に、今を考えるカギをもらったと感じている。
参院選が近づいてきた。さて、どこに投票すべきか。公約をよみくらべる。どれどれ。
子育てを支援し、学びを促進し、高齢者を大切にするための社会保障を充実させる。経済活性化のために、労働人口をふやし、最低賃金を上げ、企業の成長戦略を後押しする。持続可能社会をめざし、環境負荷を減らす。LGBTQや障がいなど、さまざまな多様性を前提に、社会における心と体とのバリアフリーをめざす…。
などなど国防以外、内政について各党の最大公約数をとれば、こんな感じだ。どこがちがうねん、7つのまちがいさがしクイズか~。とツッコミたくなる。
そのなかで、ビミョーな差異に注目してみた。テーマは「婚姻」、同性婚と、いわゆる夫婦別姓(選択制)である。
まず、最大与党の自民党。「性的マイノリティの理解促進」という、たいへん、ひかえめな表現が顔を出すにとどまる。別姓については、言及がない。第二与党の公明党は、同性婚と別姓を容認している。
一方で、野党は、同性婚と夫婦別姓を、積極的に推進しているところが大半だ。
ただ、維新の会だけは、おもしろい。「同性婚をみとめ」とあるものの、別姓については、「社会経済活動での旧姓使用の仕組みを考える」とある。つまり、同性カップルが役所に届け出を出すとき、姓は二者一択しろということになる。
この場合の「姓」は、一代限りの飼育を認めるマンションのペット規約、あるいは旧南アの名誉白人の同じ扱いだ。つまり、よくもわるくも、権利の継承、という観点が抜け落ちている。
そう、名前とは、相続権を含む、財産権の象徴だった。
だから、大河ドラマの北条政子は源政子でないし、時代が下り、相続権をうしなった江戸時代の女性が、名前を通称とされたのもそのせいだ。
いまの私たちにとって、姓とは何の象徴なのか?
そんな哲学的な問いの前に、改姓の手続きのめんどうくささ。またその後も、仕事での俗名(通称)と、金融機関決済の戒名(戸籍上の名)とがズレるややこしさ。責任者出てこい、といいたくなることだけは、強調しておきたい。
…はなしがどんどん本筋からはなれたような気がする。とりあえず、選挙に行こう。
なんと、関西地方は梅雨明け宣言である。たしか、6月10日ごろに梅雨入りしたはずだから、史上最速なのではないか。
暑さにあえぐ8月上旬に、立秋と言われ、寒いさなかに立春をむかえ、梅雨のまっただなかの「水無月」(名の由来については諸説あるが)。旧暦と太陽暦と1カ月のタイムラグがあるにせよ、体感とズレすぎである。
このせいで、用法がかわってしまったコトバも多い。「皐月晴れ」はその典型だ。もともと、梅雨の晴れ間をさすはずだったのが、GWのニュースの枕詞になってしまった。小春日和も、ひょっとしてそのひとつなのかもしれない。厳寒からいきなり半袖日和になる昨今、冬のおだやかな日差しをぬくぬくと楽しむことが減ってしまっている。
暦と体感のずれは、まだ旧暦のDNAがぬけていないだけなのか、それとも、地球温暖化のせいか。ちなみに2022年は、太陽暦に代わって、ちょうど150年だそうである
「コーヒーをブラックで飲むは日本人だけ」というサイトを、いくつか見かけた。これは極論としても、アジア、ヨーロッパにかぎらず、海外ではみんなドバドバ砂糖とミルクを入れているような印象だ(本場アフリカとアラブではどうなのか)。エスプレッソでいえば、これを砂糖なしで飲む人を見るのは、たぶん日本だけだろう。
自販機でも、ブラック缶の躍進がめだつ。平成20年代までは、各自販機にブラック缶が1本あるかどうか、ではなかっただろうか。ところが、いまやコーヒー缶が5本ほどあるとすれば、1本はミルク砂糖入り、もう2本が微糖、のこりがブラックといったぐあいだ。健康志向の高まりか。
ただし、本当に健康に留意が必要な高齢者層は、圧倒的に砂糖ミルク派である。高齢者宅訪問時のデフォルトは、フレッシュ添えの砂糖入りコーヒー。ときには、砂糖・乳糖類とを入念にかき混ぜたものを供される。そこには、昭和の名キャッチコピー「●●●●を入れないコーヒーなんて」の残り香がただよっている。
考えてみればあたりまえだ。日本では、高度成長期まで砂糖は貴重品だった。牛乳を飲む習慣もそのころからで、子どもの栄養不足をおぎなうための学校給食を通じて定着した。大量の砂糖とミルクを入れた高栄養のコーヒーが、当時の人々にとって、どれほどおいしく贅沢に感じられたか想像に難くない。
その後、本来のコーヒーの香りや味が楽しめるまで、流通や保存の技術は向上した。だが、人間、出会い頭でおいしいとおもったものが、生涯を通じた味覚の基準になる。
ちなみにタハラは子ども時代の記憶から、長らくコーヒーぎらいだった。特に、酸味が強いとされるものを避けていた。が、酸化のすすんだ(つまり古い)豆を当時口にしたのが原因であることに気づき、軌道修正できた。単純なものである。
コーヒーをどう飲むかは、その人が、最初にどういう出会い方をしたかによるのだろう。勉強でもスポーツでも対人間でも同じだ。人生を左右するような好き嫌いも、案外単純なきっかけから生じるのかもしれない。
ゴールデンウイークのすぐ後にひかえるビックイベント、母の日。そう「母業」は、世間で最もブラックな仕事のひとつだ。
妊娠出産にミルクやりからおむつ替え、弁当づくりにベルマークはり、こどもの送り迎えに近所の付き合い、自分の飯は立って食う。一日平均4時間超、深夜・早朝手当どころか傷病休暇すらもらえぬこの激務。少子化が進むのも無理はない。
そのような母の恩は、海よりも深いとしるべし、という教育の一環だったのだろう。昭和40~50年代になるのか、幼稚園から小学生低学年まで、母の日の前後の図工の時間に、ティッシュペーパーでカーネーションを作らされた記憶がある。
先生から、ピンクのティッシュを半分に切って重ねたものをわたされる。それをもらったら、まず一センチ幅ぐらいのじゃばらに折る。そのタテ長のまんなかをゴムでとめ、扇を広げる要領で円形にする。そののち、じゃばらの薄い1枚をひとつづつほぐして立て、花の形にする。さいごに茎とおぼしき、はりがね状のみどりの物体と合体させる。カーネーションのできあがり。
単純作業だが、私をはじめ、どんくさい子どもには、ハードルが高かった。ゴムの位置を左右対称にしなかったために、いびつな花形になったり、じゃばらほぐしに失敗して、紙をボロボロにしてしまったり。もういちど、ティッシュをもらうはめになるのが、常だった。
このように、ピンクのティッシュと格闘するクラスのなかにあって、かならず1、2名、白い花を作っている子どもがいた。お母さんをなくした子である。先生から、ほかとは別に白いティッシュをわたされるのだ。
たしかに、亡き母にささげるのは白いカーネーションが、慣習ではある。が、いきなり白ティッシュをわたされた子どもの気持ちやいかに。その配慮のなさが、いかにも昭和的であった。
だが、このぐらいでひるんでは、学校でサバイバルできない。小1の時になかよしだったサカシタ君が、ご両親の離婚がきまったときのこと。朝礼で先生の横にひきだされ、クラス全員を前にこう宣言されたのである。
「サカシタ君のおうちでは、お父さんがいなくなったから、●●に名前が変わりました。みなさん、今日から●●君と呼んであげてください」。
こうした姓変更のおひろめも、ごくフツーの光景であった。なんとデリカシーのない、昭和という時代よ。『めでたさも、中ぐらいなり 昭和の日』。黒歴史を知るタハラは、強くそう思うのであった。
「ロシア語のあいさつ教えて」とたのまれ、ドキリとすることがある。ロシア語専攻とはいえ、怠慢な学生であったうえに、習ったのが四半世紀以上前だ。ありがとうは「スパイシーだ」、いいね!は「辛(から)そう」、こんにちはを「ズロース一丁(いっちょう)」などと伝え、お茶を濁している。
ズロース一丁、パンツ一丁、拳銃一丁、豆腐一丁。「丁」については、むかしから疑問がある。この助数詞が使われる原理原則が、いまだにわからないのだ。
精選版 日本語大辞典によると、丁(挺・梃)は
①鋤(すき)・銃・艪(ろ)など、細長い器具の類を数えるのに用いる
②駕籠や人力車など、乗り物を数えるのに用いる
③ 酒や樽を数えるのに用いる
この定義になんとかあてはまるのは、上にあげたもののうち、拳銃(銃)だけではないだろうか。
日本語上級学習者から、丁を使うケースについて質問を受けたことがある。「わからん。とにかく、パンイチ男が右手に拳銃、左手に豆腐を持っている姿をイメージし、暗記せよ」と教えた。が、彼女は首をかしげて「ラーメンは?」。
たしかに「へい、ラーメン一丁(いっちょう)!」は日常語だ。一本とられた(一丁ではない)。
ちなみに、「本」は細長い無生物をかぞえるらしい。ではカツオの一本釣りは?虫歯3本は?
ますます助数詞の深みにはまっていく。
*参考:助数詞「本」のカテゴリー化をめぐる一考察 (濱野・李2005?)
うーむ。「田舎から出てきた右も左もわからない〇娘を×××漬けする戦略」か。まともに書くことすらはばかられる比喩(アナロジー)である。
この発言時、某「デジタル時代の総合マーケティング講座」では、会場のあちこちで笑いが起きたとある。一流大のリッチな社会人講座を受講する、ふところの豊かさと深さを持つ聴衆である。失笑か冷笑か、ただの愛想笑いか。この上場企業役員は「ウケた」と解釈して舞い上がり、場外で炎上した。
滑落したアナロジー。おなじく、この会社の戦略自体もスベるような気がする。
マーケティングは、いうまでもなく買い手がすべてだ。その対象は、若年層の女性らしい。ところが最終顧客の顔が、一瞬でもよぎらないこのトークである。そんなセンスで立案したコンセプトが、ウケてほしい層に届くとは思えない。
会社の謝罪文もズレている。「多大なるご迷惑とご不快な思いをさせたことに対し、深くお詫び」ではない。安全安心であるはずの、学びの場を台無しにしたことについて、一企業として恥じてほしかった。また、主催者もおなじく恥じてほしい。市井の講師の立場からおもう。
で、本題である。アナロジーには、興味関心やバックグラウンドが、すべて出てしまう。使う語彙(ごい)が、その人の教養の範疇を出ることはないからだ。
動物好きは動物、スポーツ愛好者はスポーツ。私自身は、乗馬の経験があるので、つい、ウマの話に走りそうになる。だがいかんせん、競馬ファンも含めてウマ好きは多くない。このように、聴衆とに共通項がとぼしそうな題材は要注意だ、
昭和の講師は「ネタに詰まったときは、野球とマージャンとゴルフのたとえ話」といわれていたらしい(団塊の世代の必修項目)。行動の基本が個となったいまでは、なにがいいだろうか。
無難なところは食べ物。あと、コンビニ、銀行、スマホいじりなど、公共・半公共の場での人間のふるまい、か。
コツは、いいことは人の話、失敗談や滑稽談は、全部自分のせいにすることだ。言われたらどんな気がするか、違和感をチェックできる。なにより、他人を傷つけない。
たとえば冒頭の例を「右も左もわからない〇〇のオレを××新地にどっぷりはめた、アノ戦略」などと、ご自身を例に置き換える。世間様に通用するアナロジーかどうか、身に染みてわかるだろう。品位を下げるのも、自分だけですむというものだ。
フランクフルトが屋台のスタアとして登場したのは、昭和50年代ぐらいだっただろうか。それまでは、ソーセージといえば、いわゆるウインナー一択。しかも、なぜかすべて色はまっ赤だった。
そもそも、フランクフルトとウインナーはどう違うのか。イメージとしては「串ごとかじる屋台の味」と「タコ形で鎮座するお弁当の味」だが、H12年農林水産省のソーセージ品質表示基準によるとこうだ。
フランクフルト
豚の腸を使用したもの、又は製品の太さが20㎜以上36㎜未満のものをいう。
ウインナー
羊の腸を使用したもの、又は製品太さが20㎜未満のものをいう
要はもともとの材料だった腸の太さを基準にして、定義しているようだ。
ひるがえって、本家本元のソーセージ事情を調べて、ちょっとおどろいた。羊の腸につめたソーセージは「ウインナー」ではない。「フランクフルター(フランクフルト)」というらしい。ウインナーソーセージ(Wiener Wurst)なるものは存在するが、ベーコンやらなんやらいっぱいつめものをして低調調理。スライスしてハムに近い形で食べるようだ。うーむ、奥が深い。
このほかにも、血のソーセージやら白ソーセージやら、われわれ農耕民族にはなじみのないソーセージにめぐりあえるドイツ語圏。ただし、残念ながらおみやげに持ちかえることはできない。機会があれば、ぜひ現地で楽しんでほしい。
本場ウイーンのウインナー Wikipediaより
google先生よ、君は勘違いしてはいまいか?「ドイツ人」と入力すると、「ドイツ人 きっちりしている」と検索の上位に出てくるぞ。
だがタハラは、わずかな期間の滞在ながら、実際のドイツが、日本人が持つ「時刻通り、勤勉、きれい好き」の標準イメージといかにかけ離れているか、思い知らされた。その恨み節を、下につづっておく。
1 列車の遅延はあたりまえ
ドイツ鉄道を利用する際、まずアプリのダウンロードを強く勧められる。「おお、AI化が進んでいる」と見当違いに感動してはいけない。乗るはずだった列車が運行ストップ、次に乗り遅れるなどは日常茶飯事。「先行の列車が5台渋滞しています」とアナウンスのあと、空調が切れた車両の中で、1時間以上放置されたこともあった。
どれぐらいの時間遅延しているのか、乗り継ぎの列車はちゃんと運行しているのか、たよれるのはアプリのみ。一番あてにならないのは、駅員のいうことだ。ドイツ人が車好きなのもムリはない。
2 夢のまた夢、宅配時間指定
高級店でもない限り、買い上げた荷物をそこから発送してもらうのは、リスクがある。中身まで影響がでていた経験はそんなにないが、包装材は確実によれよれになる。プレゼントのつもりが、到着時にプレゼントの体をなしていないことも多い。
もちろん、クール便なんてありがたいものはない。それどころか、時間指定や再配達制度もない。不在の場合は、もよりの郵便局なりDHLなりに、不在票をもって引き取りにいくことになる。だから互いの利便性のため、 勝手に置き配にされる。アパートの低層階のベランダに、地上から荷物を放り上げられたという声も聞いた。
3 きれい好き?
駅におりたつと、まずムッとするようなにおいが鼻を突いてくる。体臭、すえた食べ物の匂い、甘ったるいマリファナ臭。若者と女性の喫煙率が高いため、足元は吸い殻だらけである。ただ、ゴミはゴミ箱のまわりによせている点だけは、他のヨーロッパの国よりましかもしれない。
そして無料トイレには、清潔さを期待してはいけない。特に高速道路はお見事で、世界三大「汚トイレ」ランクインに迫るものもあった(タハラ独自認定)。ただ、ロシアほか旧(現)共産国にはかなわない。この点は作家の椎名誠と同意見である。
あ、ドイツも旧共産圏だったか。
身辺整理中に「Tahara Keiko, hair blown, eyes hazel」と書かれた海外遊学中の古文書を発掘。へ?私の目の色は hazel(茶緑)なの?
子どものころ「ガイジン」と呼ばれていた時期があったことは認める(昭和だからまかり通ったニックネームだ)。全体的に色素には乏しいが、目はblownじゃないのか…。
色のニュアンスは、文化によって微妙に変わってくる。赤毛のアンに登場する茶トラの猫は、英語では「オレンジ色の猫」。三銃士のダルダニアンの栗毛の愛馬も、原語は「オレンジ色の馬」だ。茶トラも栗毛も、日本人に言わせれば、「茶色」に違いないのに。
では欧米の茶色は、日本より薄いのか濃いのか。たとえば、平均的な東洋人の瞳は、どう表現すればいいのか。茶でblown?それとも黒でblack?
ロシアでは、黒い目は、魅力と誘惑のシンボルである。
「おお、燃える黒き瞳、そのときから私の苦しみははじまった…」ではじまる、民謡「黒い瞳(Очи чёрные)」の情熱的な歌詞を聞くがいい。また、金髪碧眼の美女がひしめくかの国の宮廷で、モテ男として有名だった詩人プーシキン。アフリカ系の血を引く彼の魅力は、黒髪に褐色の肌、そして黒い瞳にあった、とされている。
瞳は濃い方がモテるんだな、よっしゃー、海外ではI have black eyesとしてアピール…とおもったあなた、英語圏ではやめておいた方がいい。black eyeは、顔面を殴られたときにできるアザのことだからだ。「ケンカしたの?」とけげんな顔をされることまちがいない。
米国でIDをつくるときは、髪の色と目の色を申告することが多い。 黒っぽい瞳でもblownが無難。覚えておこう。
木々の花や緑がいっせいに芽吹く春。私は匂いに敏感な方で、かつ花粉症の季節でもあるので、この時期はいつも鼻がむずがゆい。くしゃみを連発してしまうことも多い。ただ、コロナ収束の雰囲気の昨今、前ほど周囲の視線が冷たくないのはありがたい。
春のおとずれをまっさきに感じさせるのは沈丁花だ。街角で、グローブににた甘くヅンとした香りに出会うと、ああ、やっと春が来るのだと安心する。この樹にはあまり虫がつかないと思っていたら、樹皮などにまあまあの毒を仕込んでいるらしい。
次は梅見。不意に出くわす香りではないので、鼻腔を膨らませてめいっぱい楽しむ。色が濃いほど、匂いも重たくなるのは気のせいか。見た目のつつましさとはうらはらに、かなり華やに薫る。挿し木で増えるソメイヨシノとはちがい、匂いによって生存戦略をはかっているのだろう。
菜の花畑はダメだ。おしよせる花粉が鼻の奥を刺激する。花自体も生臭く、いかにも「食うなよ」のサインが伝わってくる。が、それをゆでて匂いをやわらげ食するのが人間のすごいところだ。さすが人類、食物連鎖の底辺から頂点にのし上がるまでのことはある。
などなど、人をさまざまな物思いにふけらせる春の匂いだが、そうなるにはちゃんと理由があるらしい。
匂いだけが、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)のうち、感情・本能に関わる「大脳辺縁系」とダイレクトにつながっているだとか。マドレーヌを紅茶に浸して口にしたら幸福だった子ども時代を思い出したぜ、という某小説の書き出しは、科学的にも根拠があるのだ。そんなこんなの人間の性質を利用して、我々の知らぬところでブランディングをしている企業もあるようだ。
総務省も、22年6月(たぶん。お役所の文書にはたいてい日付が入っていない)に報告書『五感情報通信技術に関する調査研究会』 で、触覚、嗅覚、味覚といった情報についても、視覚や聴覚と同様に、技術の枠組みの中に取り込んでいく姿勢を示している。目的は「世界に先駆け、五感情報のセンシングや再生を支える工学的技術に応用するとにより、国際競争力を高める」とあった。
報告書によると、嗅覚にはわからない部分が多くインパクトが大きいため、特に注目すべき分野らしい。なるほど。メタバースほかVRは視覚先行型だ。それだけに、五感を伴う情報技術を持てた時の競争力はハンパないはずだ。
しかしそれで我々人類は幸福になれるのか? とおもっていたら、こんな力強いまとめがあった
「もしも、実世界と乖離した情報をユーザ に与えるような五感通信技術が発達し日常的に利用されるようになると、学習が進んだ脳(成人)では違和感が生じストレスを誘引するようになるであろうし、学習途中の脳(子供)では実世界と乖離した形での学習が進んでしまう。…(中略)人間の情報処理の仕組みを総合的に理解することを通じてこそ、豊かな人間性を育み自然と調和する、安全で快適な五感情報通信技術を発展させることができるのである。」
そんな技術が実現するまで、しばらくはリアルで春の香りを楽しむこととしようっと。
五感情報通信技術に関する調査研究会(p123より)
3/27日経に掲載された鈴木亘・学習院大学教授による『少子化対策の視点 女性の逸失所得 防止が本筋』が話題になっているらしい。
「出産とは一種の投資行動だ。ただし、1,300万~3千万程度の子育てにかかる直接費用より考慮すべきは女性の機会費用だ。その逸失利益は1億から2億に達する。現金給付や現物給付の効果よりも、雇用と子育てを両立できるよう抜本的な対策を打て」が、話の趣旨である。
今さら、何を言っているんだ。
2023年時点での20歳の数は117万人。一方2022年の出生数は80万人を下回っているから、2043年あたりの20歳の3割減は自明の理である。この20年間、何をしていたのかな⁉
というなげきを、自らの半生に乗せて、高田純次が年寄りに禁じたという「昔話、自慢話、説教」で展開してみたい。
まず、昔話。
私が社会人になったのは、男女雇用機会均等法が導入されてしばらくのこと。総合職(管理職候補)、一般職(業務内容を限定)という呼称が定着したころだった。女性総合職は、東大・京大卒のみ、が不文律の時代であったので、当然私などは一般職でしか採用されなかった。生意気なことを言いまくって就活に苦労したが、NHKの朝ドラに取り上げられた中堅の某保険会社にもぐりこんだ。
つづいて昔話と微妙な自慢話。
ところがバブル時代に突入し、企業は女性総合職の数を、先進性を示す指標として競うようになった。勤務先からは大手にまけじと、人事考課のたびに「総合職にならないか」のお誘いが来る。保険会社だから、総合職は全国津々浦々にある支社への転勤をのむことが前提だ。当然、断っていた。だが敵もさるもの「優秀な君には、本社の管理部門勤務を保証するよ」と甘言をささやいてきた(支社配属の人たちが聞いたら憤死するであろう)。
さらに自慢話。
それを鵜吞みにして総合職へと転換したとたん、バブルが崩壊した。お飾りは不要と、手のひらを返したように、周囲の女性総合職は遠方の支社に配属されていった。結婚し子どもを授かったばかりの私も育休開けに、近隣ではあったが、容赦なく支社に営業として配置転換された。そこで一念奮起、めきめきと頭角を現した。クラッシャー上司のもと、なれない業務でミスを連発しするものの、やがて営業成績は全国数番目となった。
自慢話、その後。
ところが、忙しすぎて事務処理が追い付かず、心身がボロボロになった。つづく長時間労働に、子の面倒を見てくれていた私の両親もだんだん疲れていく。家族に、育児と家事について分担かアウトソーシングを打診した。分担については「ムリ」。アウトソーシングについては「家事のみOK。ただし自分の実家には言わないこと」を条件にした。
ここでまた子どもに恵まれたことが判明。上司はマタハラ上司に進化し、退職を迫ってくる。鉄の女といわれたタハラも、さすがに胃腸炎と切迫流産を併発した。絶対安静の布団の中から、ああ、ここで撤退か。女性は、平凡なサラリーマン人生すら全うすることが難しいのだ、と天井をながめたことを覚えている。
以上、約30年前の話。そして説教。
こうやって私は子育てによって退職を余儀なくされ、安定雇用を失い、多大な逸失利益を被ったーというと「お母さんより大切な職業はないのに」と血相をかえてたしなめる人は多い。その人に問いたい、なぜ、私は親業と職業の二者一択を迫られたのか、いや、今でも多くの女性がこれを迫られるのか。
どんなにがんばっても、今のところ、子どもを産めるのは女性に限られている。だが、この数十年で法律こそ作られたものの、税制や年金などの社会制度や雇用慣行、オジサン社会の流儀はそのままだ。多くの職場ではあいかわらず、仕事と子育ての綱渡りを強いられるような環境がつづく。働く女性にとって、少子化は当然の帰結であろう。
どうしてこの問題をたなざらしにしている?責任者、でてこい!
不覚であった。恋のさしすせそなる言葉が世間に流布しているのを、つい最近知った。Google検索では2.3万件表示されているから、ずいぶん前から使われているのだろう。「さしすせそ女子」なる言葉も定着しているようだ。
ひとことでいえば、これは合コンなどで、初対面の人(男性)に好感を与えるとされる、女子用のあいづちの言葉である。中身やいかに。
「さ」=「さすがですね!」、「し」=「知らなかった!」、「す」=「すごい!」、「せ」=「センスいい!」、「そ」=「そうなんですか!」
これらを、感情をこめて、表情豊かに言うといいらしい。
つまりは、相手をおだて持ち上げることによって、好意を得ようという戦略だ。知識や経験において、聞き手は相手より劣っているというスタンスを明確に打ち出す。謙譲語と同じ発想ともいえるが、自分には決してマネができないような気がする。
では、モテ女子がすなる「さしすせそ」といふものを、タハラもしてみむとてするなり。どうなるか?
「さ」=「さあ」、「し」=「知らんわ」、「す」=「すんません」、「せ」=「説教すな」、「そ」=「それで?」
気持ちは急速冷凍、相手は目の前から早々に立ち去るに違いない。
論破王とは何か。
それは、論争において相手をやりこめるのに長けた人のことだ。弁護士時代・不敗神話をほこった橋下徹氏に冠せられたその称号を、いまはひろゆき氏が引き継いでいる(二代目のご本人はこの名を嫌がっているらしい)。
ところが、上には上がある。むかしむかしあるところにおわした、もっとすごい人を見よ。この人こそ、人となりたるイエス・キリストである。
得意技は、現代ニッポンの論破王のような冷笑や皮肉、毒舌ではない。「相手の土俵で論じる」「たとえ話」といった王道である。以下はホンの一例。
●律法で定められた安息日(働いてはならない日)に麦を収穫し「規則違反や」ととがめられたとき
「英雄ダビデが腹減ったときに、お供えのパン黙って食べたん、聖書で読んで知ってるやろ?規則は人のためにあるんや、人が規則のためにいるんやない」
→相手の絶対的論拠「聖書」から実例を借りて論破
●「納税や服役などのローマ皇帝への義務と、神への義務とどちらが大切か」とイジワル問題を投げかけられたとき
「銀貨の両面見てみ。皇帝の名前と肖像画があるやん?皇帝が作ったもんはすべて皇帝に返す。人間の心とか体とか、神さまからもらったものは神さまに捧げる。2つは別の話とちゃうの?」
→銀貨という目に見えるたとえで、論点を整理
こんな方がディベート大会に出たら、ぶっちぎりで優勝、対戦相手も聴衆も足もとにひれ伏してしまうだろう。SNSではカリスマとして、またたくまにフォロワーが群がるに違いない。
いや、古代ローマ帝国でも同じだった。あまりのフォロワーの多さに畏れをなした当局から、扇動者として処刑されてしまった。それにもかかわらずイエスの栄光はあせず、今も世界で20億以上の人がその教えを尊んでいる。
日本の論破王はどうかな?2000年後には…多分誰も覚えていないよね。
更新予定日だったバレータインデー(火曜)の翌日、買いすぎたビターチョコをむしゃむしゃ食べながらながめた、自民党・岸田首相と立憲民主党・西村議員とのやりとりがおもしろかった。
発端は2月1日。岸田首相が、国会で「同性婚をなぜ認めないのか」と聞かれ、「すべての国民にとっても、家族観や価値観や、そして社会が変わってしまう。こうした課題」と答えたことについてだ。これを否定的なニュアンスだとして撤回を求めた西村議員に対し、岸田首相はこう答えた。
岸田:…いきなり変わってしまうから、否定をしたというのではなくて、変わるから議論をしましょうという趣旨で発言した。…
西村:例えば、社会は豊かになってしまう。おかしいですよね。社会がすさんでしまう、これはしっくりくるんですよね。…金田一先生もおっしゃっていますから、社会がっていうのを主語にして、『~てしまう』という言葉を使って、何かポジティブな例文を作っていただけませんか
岸田:あの時の発言の趣旨、…決して否定的でもなければ肯定的でもない。そういった発言であると、わたしは思っている
※…は略
庶民にすれば目もくらむような時給をもらっている方々。そんな言葉の端くれで会期を消費するのではなく、本質的な部分で議論をしてほしい、という嘆きはさておき。「~してしまう/動詞+テ形+しまう」のニュアンスを、ちょっと考えてみよう。
通例として、以下の2とおりの用法がある。
1「~してしまおう(意向)」→完了(や期待)(基準となる時点までの完了を特に強調する)
例:こんな簡単な問題、岸田君だったらすぐに片づけてしまうだろう
2「無意志動詞+てしまう」→後悔(や危惧)
例:西村君、会期初日なのに遅刻してしまうよ
「変わる」は意向か無意志動詞なのか。これが発言の真意の決め手である。さてどっちだ⁉
そう、「変わる」は他律的な動詞だ。そこに話し手の意思は汲み取れない。となれば、2「後悔や危惧」であることは明白だ。
では意思をふくんだ「変える」だったらニュアンスはどうなるか?
…「家族観や価値観や、そして社会を変えてしまう。こうした課題」。うん、これだったら首相の強弁も通用するかな。ちょっとの違いでネガからポジのテイストへ。コトバって難しいですねぇ。
参考 『初級を教える人のための 日本語文法ハンドブック(2001)』スリーエーネットワーク
海外留学中の学生と、留学帰りの就活生との自己紹介文の添削を同時期に頼まれ、仰天したことがある。双方ともがユニーク(オリジナリティが高いというか)な経歴の持ち主にもかかわらず、語り口がほぼいっしょだったからだ。
「私は苦境に耐える力があります。●●国に留学しようと考えた時、ほとんど●●語ができませんでした。これではいけないとおもい、図書館にこもって一日8時間以上勉強しました。そのかいあって、大学入学に必要な語学のスコアを取得することができました」
違っているのは、国名だけだった。二人とも、なぜ同じ文章になったのか?聞くと、双方とも、就活サイトを参考にしたとのことだった
ここで問題。そもそもエントリーシートはなんのために読んでもらうんだったっけ?
そう、一次選抜されるための自己PRだ。凡百(ぼんぴゃく=よくある)の苦労話では採用担当の目にとまらない。企業側が知りたいのはあなたがどんな特長を持った人かということ。つまり「あなたがどんな人か」である。
おっと「『私は苦境に耐える力があります』って書いてるやんか!」という声が聞こえたぞ。そうじゃない、PRすべきなのは「あなたがどんな夢を実現するためなら、苦境に耐える人なのか」という’価値観’だ。
上の例でもっとくわしく言おう。「私」は、何かやりたいことがあって留学したはず。それは何か?留学によって夢は果たされたのか。その成果をふまえ、今、何をしたいと考えているのか。
たいせつなのは、苦労のプロセスではない。くりかえすようだが、そうした行動にあらわれた、今のあなたを形作る考え方や信条などだ。語学力PRネタのエントリーシートは、言葉は悪いが何千何百と腐るほどある。でも「なぜそこまでがんばったのか」は個人個人によってちがうはずだ。そこが価値観であり、その人ならではの個性が現れる。
ひとつアドバイス。エントリーシートを書くときにこそ、金子みすゞ『みんなちがって みんないい』を、おもいだしてほしい。マニュアルの形をなぞって、安心してはいけない。経験談を使って、自分らしさを浮き彫りにしなきゃならないんだよ。
まったりした休日の昼下がり、各駅停車の車内のとなり、男性2名の会話。
A「だから狂気の沙汰なんだよ。(長期国債)0.5%以上の利上げに走るなんて」
B「物価高に拍車がかかりますね、確実に」
A「それ以前に、これで(国債簿価の)含み損は5兆円を超える。完全なる債務超過だ。何考えてんだ」
B「黒田さん、利上げという言葉は避けましたよね」
A「政府の差し金だろう。一橋大系の御用聞き総裁だからね。2%のインフレターゲットを断固拒否した前総裁とは違うよ」
B「白川さんは京大閥でしたか」
A「諸悪の根源は、平成になってからの物品税廃止と消費税の導入。毛皮なんて15%(の物品税)だっただろ。あと法人税率を15%もさげたこと。金持ち擁護と、大企業の内部留保を厚くさせることに走った。そして賃金は全く上げない」
B「失われた30年の象徴ですな。相続税70%の税率適用金額も、今は20億以上にあげて富裕層を優遇ですか」
A「そう、小泉さんからはひどかった。だから、二世、三世議員が昼は会合、夜は夜でホステスくどいてほいほい遊んでいる」
B「正直者がバカを見る世の中に…」
A「お、着いたな。ここで失敬(立ち上がる)」
B「待ってください。私もここで降ります(あわてて追いかける)」
おまちください、もう少し持論をお聞かせください、と私も背中を追いそうになった。
たいそうなタイトルをつけてしまった。トルストイの不朽の名作のことではなく、年始のコラムに続いて、二進法のことを語りたかったのだが。
二進法といえば、「コンピュータ」であろう。命令に従い、0と1の入力を処理し、0と1を吐き出す機械。英国人のアラン・チューリングは、単なるハードウエアに過ぎなかったこれに「計算可能な問題は、すべて計算できる機械が存在する」という概念を編み出し(チューリングマシン)、ソフトウエアのもととなる考え方を提示した。
この考え方は、第二次世界大戦の英独戦で応用された。ドイツの暗号生成機’エニグマ’が発する膨大なデータ解読を、シンプルなやり方でコンピュータで解読させたのだ。
国と国との総力戦を通じ、コンピュータは急速に発達する。第一次世界大戦が飛行機の発展に寄与したのと、同じ構図だ。
一方でわが国。二進法は、なんと遊びであった。有名なもので『櫻目付字』がある。
三十一文字(みそひともじ)からなる和歌が、5本の桜の枝に割り付けてある。相手が思い浮かべたひとつの文字を、演者が、1~5までの枝にあるかないか、ひとつづつ問うていく。その答えを聞いて、演者がズバリその文字をあてる遊びだ。平安時代が発祥といわれる。
その後、江戸の太平の世で、源氏香だの魔法陣だのと組み合わされ、目付字遊びはおおいに発達した。目付字だけではなく、順列も組み合わせも、和算にかかれば遊びになる。「継子だて」「大原の花売り」などは、ストーリーとしても秀逸だ。
ところが、これほどまでに発達した和算も、富国強兵をめざす明治政府が、西洋数学を教育に導入してからは急激に廃れてしまった。まさに「戦争は文明を生み、平和は文化を育てる」だ。
*31文字と5本の枝が、どうして二進法と関係するかって?えっへん、ヒント。
二進数の11111は、十進法では、①2^4+②2^3+③2^2+④2^1+⑤2^0=31だぜい
櫻目付字(塵劫記)
1/13放送 NHK「縁の下の幸福論 プロフェッショナル 仕事の流儀」をご覧になっただろうか。
”出版物に記されたことばを一言一句チェックし改善策を提案する校正者。並みいる作家や編集者から絶大な信頼を受けるのが、大西寿男(60)。…小さな部屋で人知れず1文字の価値を守り続けてきた半生。”
というキャッチフレーズは伊達ではない。誤字脱字チェックだけではなく、語感からファクトチェックまで、ことばの森に入り、たちどまり一字一句に向き合っていく。その真摯な姿に胸を打たれた。
同時にうーむ、とうなってしまう。一字0.5円以下とは。私が小遣いを稼いでいた●●年前と、単価が変わっていないどころか、下がっているんじゃあ…。
取材する側も、その点が気になったのだろうか。キャッチコピーにあえて「小さな部屋」を入れたり、取材者をもてなす惣菜の2割引シールをアップにしたりして、ことさら、つつましさ(労力>労働対価)を強調していたのが興味深い。
そう、サラリーパーソンとちがって、校正にしろ翻訳にしろ何にしろ、自営業の受注仕事は、凝りはじめるとキリがないのだ。
「あれ、これでいいのかな…」と立ちどまってしまうと、もうダメだ。いろんなサイトを開き、手元の辞書を調べ、考え込んでしまい、自ら時給を下げてしまう。
一時期、それが気に入らず、時給の単価を頭で計算しながらやっていたことがある。だがそちらの方がよほど非効率だった。納品してからも気になって仕方ない。「やりがい搾取」と言われればそれまでだ。が、そういう性質でないと務まらないのだろう。
ちなみにこの大西さんは、私の出身高校の先輩らしい。
かの高校の風物詩は、興味のない授業から脱走することだった。映画評論家として有名な大先輩、淀川長春さんの脱走先は映画館。この方だったら、行先は図書館だろう。本の森に、静かに身を潜ませ開くページに心躍らせていたに違いない。
*現在、この高校は「脱走禁止」の校則がある。「出前厳禁」なんて校則もできてしまった。私も含め、一部のふらちな生徒の行動が目に余ったせいであろう。後輩たちよ、選択の自由を奪って申し訳ない
ある組織で、上司から部下への言葉がけが思いきりスベった現場を目撃。むかしむかし、自分がPTAの役員への就任をつよく請われた場面がよみがえった。
熱心なPTA勧誘を断り切れず沈黙するタハラに、相手がキラーパスを出したときのことだ。
現役員:大丈夫ですよ。誰でもできる仕事ですから
タハラ:あ、誰にでもできるんだったら、他の人に頼んでください
自分にしかできないことをやりたがる、唯我独尊タハラの対局にあるワードが「誰にでもできる」だ。大丈夫、というキラーパスは、場外に蹴りだされてしまった。
人の価値観はいろいろだ。たとえば、下のねぎらいの言葉。交流分析をもとに考えてみたが、みなさんはどれがピッタリくるだろうか。
1「あなたに任せたら安心だ」2「普通はここまでできないよね」3「あなたのおかげで助かっている」4「やり方をいつも勉強させてもらっている」5「骨身をおしまずやってくれている」6「いつもひと味違うよね」7「先が楽しみでしかたない」8「感謝しかない」
知人に聞くと、1,3,8あたりが心に響くらしいが、人によっては「ならばもっとギャラよこせ」になる。ほんとうに十人十色だ。
こんなふうに人はそれぞれ違うけれど、一番大切なのは、心から自分のおもいを伝えることだ。やれエニアグラムだエゴグラムだとツールに振り回されず、しっかり相手を観察し、言葉を使い分けてほしい。
この「とはずがたり」の前身となるブログをはじめて12年。週1どころか、月1近い息も絶え絶えのペースながら、これまで続いているのはめでたい限りである。卯年から卯年へと、干支が一周したことになる。
それにしても、干支にしろ月にしろ、時にまつわる数字に12が多いのはなぜか。今をさかのぼること数千年前の古代バビロニアで、モノを分けるときに重宝した数字だったから、がその理由のようだ。
たしかに、ピザをとりあえず12分割しておけば、
・6人→2ピース
・4人→3ピース
・3人→4ピース
・2人では6ピース
と、ケンカになりにくい。
まてよ、5人では?と、ツッコミたいあなた。1切れを5等分の細切れにして、1名ずつがそれを6ピース分もらっていけば公平だ(そんなもの食べたくないが)。少なくとも、古代バビロニア人はそんな発想で、12分割した1時間をさらに5つにわけ、60進法的にとらえる方式を編み出しだらしい。
1時間が60(12×5)分、1日が12時間2回、1年は12か月。12がらみで気持ちよくまとめた昔の人はエラい。なのに、なぜ曜日だけ、日月火水木金土と7進法チックに展開したのだ?本当にヒトって、ヘンな動物だ。
あるときは7進法チックに、あるときは12進法風に。流れゆく時間に刻みを与え、やれ日曜だ、正月だなどと、意味づけして大騒ぎしている。それでも月が変わっただけで、師走のあわただしさが影を潜め、正月独特のまったりした気分になるから不思議なものだ。
などと雑多なおもいをめぐらしつつ、あらためて、新年のごあいさつを申し上げたい。今年こそ、もう少しまめなブログ更新を実現したいものだ。
2023年卒生の就職活動の追い込みと、その次年度の合同説明会とが重なる時期になった。両者から聞こえる嘆きは、エントリーシートの最重要項目のひとつである「ガクチカ」。すなわち、「学(ガク)生時代に力(チカら)をいれたこと」を書くネタがないということだ。
インターンなどで着々と積み上げている学生もいるが、大部分の学生にとっては悩ましい部分だろう。2020年からつづくコロナ禍は、あなたがた学生から、遊んだり学んだりする機会を奪ってしまったのだから。
でも、あらたねて強調したいのは、企業が求めるのは、めずらしい体験談ではないということ。あなたがどんな人間であるか、つまり、どんなときにスイッチが入る人間なのか知りたいだけなのだ。
そのためには、自分自身の日常を見つめなおすことがいちばんだ。中高時代からコツコツと継続している習慣や心がけなどで、「私はこんな人間です」と伝えられるようなことはないか?題材はどこにでもある。落ち着いて考えて、リストアップすることからはじめるとよい。
※ガクチカに対して、なんでも略すな、と怒る外野のあなた。パンスト(pan-suto)、ゼネコン(zene-kon)など、長い語を二音節に縮めるのは、日本の略語の王道であると心得るべし。ちなみにシューカツ(これも二音節か)関係では「エレオク」「オヤカク」なんてのもあるぞ。
そのとき、ちょうど16時ごろだったか。高知県西部の梼原町を出て約1時間、対向車をなんとかかわしながら、40キロほどの山道を走破、国道439号線にたどり着いた。
旧・大正町の道の駅に立ち寄り、買ったトマトでほっとひと息。やれやれ、文字通り峠は越えた、目的地・四万十市の中心地まで、この道を走れば40キロ弱。日暮れまでにはつけるだろう。
ところが、ナビにしたがって再スタートしたとたん、道は山にわけいり、険しく、細くなってきた。まずセンターラインが消え、次にガードレールが消え、そしてアスファルトが消えた。荒れた路面をおおう木の葉のうえに、うっすらタイヤ跡があるのみだ。
おまけに、山肌より染み出した水が、道路を横切り、反対側の路肩からポトポトと垂れている。こわごわのぞくと、はるか下に川が見えた。道を間違えて、異世界にでも迷い込んだか?引き返そう。
決死の覚悟で下り道をバックし、大木の根っこに乗り上げギリギリUターン。道の駅の手前までもどってルートを再検索した。
ところが、ナビ導師もグーグル先生も「先ほどの道をすすむしかないぞよ」とのご託宣だった。あれが国道?別の道はないのか?ピンチアウトすると、なぜか画面がとんでしまう。う回路がわからない。紙の地図をもってこなかったことが悔やまれた。
土地勘がないうえに、もともと、大変な方向音痴である。いたずらに道を探してとんでもないところで立ち往生するより、日暮れまでに、この狭路を一気に乗り切った方がよかろう、そう腹をくくった。
そこから、うっそうとした原生林にかこまれた夕暮れどきの約一時間。ライトも追いつかないクネクネ道を右に左に忙しくハンドルを切り、鉄板をわたしただけの橋(といえるかどうか)をいくつかこえ、ときどき濡れ落ち葉に後ろタイヤをとられながら、地崩れの箇所は気持ちだけよけつつ、走りとおした。
無事下山してから、5分ぐらいは放心状態だった。対向車との離合がほぼなかったのが、不幸中の幸いだった。
あとで調べると、そこは四国、いや全国最恐の国道のひとつ「酷道439号」だった。しかも通った区間は、道幅2.5m以下の通称「ヨサク(439)越え」。数年前、NHKがここを放送で取り上げている。怖いもの見たさで他府県ナンバーが殺到したために、レスキュー隊が出動しまくり地元は大迷惑したらしい。
学んだこと:
ドライブ中に、長い髪をたらした女が突然バックミラーに映ったり、フロントガラスに血の手形をベッタリつけたとしても、怖がる必要は全くない。ガードレールのない路肩から転げ落ちる思いをするよりはるかにマシである。(でも不審者なら110番、交通事故なら119番にすぐ通報のこと)
大手前大学の北村先生の著書『不確実性の時代を生き抜くヒント(2022 大学教育出版)』。キャリア研究の最先端が凝縮された、とてもおもしろい本である。ただし、SDGs流行りを意識した帯風のデカ字「持続可能なキャリア」が暑苦しい(先生、ゴメンナサイ)。
本の内容は、転職を繰り返してキャリアアップをする人たちの、いわば「鋼のメンタル(心理的資本)」の構造を追求した内容だ。複数回の転職を経てCFO(最高財務責任者)に至った40歳以上の8名の男女を対象に、それぞれ約2時間にわたるインタビューを実施し、のべ約30万5千字にもわたる記述をM-GTA方式で概念化。キーワードを抽出している。
キーワードは「転職人生を生きる覚悟」「自分の売りを磨く姿勢」「成長志向」「何とかなる自信」「不確実性の中で決める力」など。私が興味をひかれたのは「不確実性の中で決める力」だ。いわゆる意識高い系と一線を画すのはこの部分だろう。
「転職人生を生きる覚悟」「自分の売りを磨く姿勢」「成長志向」「何とかなる自信」は、意識高い系の人々にも存在する。ただ、この本が示唆するとおり、私の知る彼女ら彼らには「不確実性の中で決める力」に必要な、ある要素が欠けている。
それは、自分のなかに明確な仕事観を持っていないことだ。社会のなかで自分はどう生きるか、という見極めだ。
だから、一流企業だとか一過性の待遇の良さとか、他人の耳目を気にしたものさしを転職先にあてはめざるをえない。自分の人生でありながら、そこで主人公を務めることが難しい人種である、ともいえる。
さて、キャリアアップをめざすみなさんはいかがだろうか?「不確実性の中で決める力」の正体のほか、内容が気になる方は、ぜひこの本で続きをどうぞ。
この言葉については、大阪弁ネイティブの橋下徹氏は「僕は生まれた時から使っていますけどねぇ」とのこと。さすが元・弁護士だ。基本的にこれは「責任解除」の言だからだ。
たとえば、毎年、阪神地方で使われる典型例はこれだ。
●今年こそたぶん優勝やで、知らんけど
つまり「優勝する、という私の考えを申し述べました。ただし、それを額面通り受け取るかどうかは、聞き手の判断に委ねますよ」だ。「*参考意見」「諸説あり」などの脚注と同じはたらきをする。
無責任や責任回避とは違う。その底辺にあるのは、期待予測だ。あくまでも責任のリリースである。
だから「雨が降りそうやね、知らんけど」は、用例としてなじまないような気がする。自然・社会現象など、そもそも個人の責任範囲を大きくこえる場合は「わからんけど」がベターだ。
それにしても、どうしていまさら、これが流行語なのか。関西人としては、なんでやねん、と戸惑いを隠せない。 放送大学の金水先生は、流行の理由について「Z世代がネットで影響をうけたんじゃないでしょうか、まぁ、知らんけど」といっておられるようだ。
外国語でどう表現すべきか、悩ましいことがあった。
シチュエーションはこうだ。留学中の家族が、引っ越し先が見つかるまでのあいだ、他人の家に転がり込み、やっかいになる。出ていく時期は不透明。そんなとき、相手先にどう謝意を伝える?使用予定言語は英語かロシア語だ。
日本語なら、おそらくこういう定型句を使う。
・しばらくご面倒をおかけします
・なにとぞ●●をよろしくお願いいたします
・本当にお世話になります
しかし英語もロシア語も、私の知る限りそのような表現は持たない。直訳するとイミフに響くだろう。
けっきょくは、「わたしどもは、あなた方の親切に深く感謝する」を言葉を変えて連呼(英語)。あとは適当にごまかした。
日本語には、今後生じるであろうトラブルなど、もろもろの現象について、先回りして謝意を述べておく表現が豊富だ。責任解除的な逃げのスタンスというべきか。だが他言語では、もともとそんな考え方が希薄なのだろう(知らんけど)。
ちなみに以前、家族の一人が、台湾で「今後とも、密なおつきあいをひとつよろしくお願いいたします」のあいさつの通訳を、上司から強く命じられたことがある。そんな表現ありません、と断ったものの、再度迫られたため、やむなく直訳したらしい。
すると相手は、スマホを取り出し「用事があったら、いつでも連絡してね」と、にこやかにLINEのIDを示した。同じアジア人でも「ひとつよろしく」は通用しないようだ。
「こういうオレンジ系の服って、妙齢になると着づらいですよね」―20代後半の女性とのやりとりに「???」となったのが、気づきのきっかけだった。どうやら、中高年という意味で使っているらしい。
妙齢、で検索すると「街コンいったら、妙齢が出て来たしw」「妙齢のオッサン」など、出るわ出るわ誤用が。検索結果上位100位ほどのページを見ると(ヒマ人か、キミは)、本来の意味の「若い年ごろ(の女性)」より、いわゆる「オバサン、オッサン」として使った例の方が多いぐらいだ。
理由は、「妙」という漢字の微妙な立ち位置にあるのだろう。もともとは、きわめてうつくしいさま、すぐれたさま、統計で言えばS.D.(標準偏差)+2より上に対して使う表現である。いわば上位5%に入るエリートな人や物だ。
ところが、ふつうでないという意味が転じて、S.D.-2の下位5%未満の事物をもさすようになった。たとえば「妙な人」がそうだ。そこからニュアンスを拾ってできたのが、ネガティブ語の「ビミョー」。おそらく妙齢の誤用も、この流れにある。
もう一つの理由は、ニッポンが戦後、世界一の長寿国になったからではないか。厚生労働省の一般的な分類は、「幼年」0~4歳、「少年」5~14歳、「青年」15~24歳、「壮年」25~44歳、「中年」45~64歳。65歳以上の「高年」だ。
ところが2021年には、65歳以上は人口の3割、75歳以上が占める割合はその約半分。もはや、どの年齢層が「妙齢=希少価値」なのか。わからないほど、年齢の分布曲線が広がっている現状がある。
コトバは世につれ人につれ、変遷していくのは自然のならい。だが使う方と使われる方に、理解のくい違いが生まれるのは困る。こちらがフォローしておかないといけない。
よし、いやしくも言葉でメシを喰っている身なら、アップデートあるのみ。そうあらたに研鑽?を誓った、妙齢な壮年の田原であった。
補足:中高年(45歳以上~)=壮年という捉え方が、最近の認識らしい。40歳代以上は、実年齢より20年ほどマイナスして、厚労省基準にあてはめた方がいいかもしれない
参考
毎日ことば 妙齢の年ごろは? 毎日新聞社
「初老」は何歳? NHK放送文化研究所
「いつ(When)」「どこで(Where)」「だれと(Who)」「こんな目的で(WHY)」「何をした(What)」「どのように(How )」「いくら(How Much)」の頭文字をとって「5W2H」。
「5W2Hを報告の骨格とせよ」は、社会人ならば耳にタコができるほど聞いておられよう。情報伝達の基本だ。当方のセミナーでも、口をすっぱくしてお伝えしている。
私自身、仕事でもプライベートでも、この基本に助けられた体験は数知れない。なかでも、サギ師を見抜けたことは、記憶に新しい。
その人物は、数々の著名人とのコラボレーションにより、とある実績をあげたとして人気を集めていた。「だれと(Who)」「何をした(What)」「どのように(How )」で自分の仕事ぶりを豊かに描き、「ビジョン(≒WHY)」にふれ言葉たくみに信用を勝ちとる。
ただし、実績アピールのうち「いつ(When)」「どこで(Where)」が、極端に乏しい点が、どうも気持ち悪かった。ついつい、気になって質問した。
すると「おもしろいことが気になるのね~、仕事柄、インタビューが多いからかな。さすがタハラさん!」と明るく高笑いされた。その場に居合わせた人たちも、どっと笑った。
こちらは笑えなかった。もともと、愛想笑いが苦手なたちである。第一、相手の目が笑っていなかった。こうやって話をそらしにかかるときは、中身を大きく盛っているか、そもそも本当でないことがほとんどだ。悪気なく、自分の作り話を信じ込んでいるときもあるが。
いずれの場合にしろ「いつ」「どこで」を聞きこんでいくと、たいていはつじつまが合わなくなってくる。そして、しどろもどろになるか、怒り出す。
そのときは、後者の反応だった。このできごとをきっかけに、そのサギ師とはめでたく縁が切れた。あやうく難をのがれた。
さて、自戒を込めて。ほかの体験もあわせ「だまされない」ための教訓を、3つならべたい。おいしいもうけ話を聞いたり、あやしげな宗教に勧誘されたりしたときは、ぜひおもいだしてほしい。
1 自分の心が不安や怒り、欲で曇っているときは、だまされやすい
2 「いつ(When)」「どこで(Where)」が乏しい情報は、信用できないことが多い
3 オチが「How Much(いくら)」に落ち着く話は、たいていサギである
「日本人は農耕民族だから、馬の駆け足をベースにした'3拍子'が苦手だ」はホントか?
駆け足とは「ばからっ、ぱからっ」といった、3拍子を体感させるリズムだ。が、いかに農耕に使う日本の在来馬が小柄とはいえ、洋の東西を問わず、走りのリズムは同じはず。
また、日本は世界に冠たるサムライの国。馬をゆるされたのは200石扶持以上(年収1500万~ぐらい?)といえども、乗馬人口としてはヨーロッパよりも多いのではないか??
そして何より「3・3・7拍子」がある。応援や宴会などのハレの場に欠かせないこのリズムは、3拍子だ!
…とおもっていたら、最後のはちがっていた。3・3・7のうしろに、いわゆるウラ拍が、1拍隠れていた。
では、検証。みなさんお手を拝借。ハイ!
「チャ、チャ、チャ、(ウン)。チャ、チャ、チャ、(ウン)。チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、(ウン)」。
そうです、リズムとしては4拍子。音がない部分が、しっかり音として成立しているのが、おもしろい。かのベートーヴェンの『運命』でも、うまくそれが使われている。
クイズ。この曲の超有名な冒頭「じゃじゃじゃじゃ~ん」の最初の音は?
耳のいい人なら「ソ」だろう。たしかにドレミファでいえば「ソソソミ~」。だが、正解は…八分休符。最初の音が、半拍分ない。だから「(ん)じゃじゃじゃじゃ~ん」が、正しいリズムだ。
聞こえない音が、聞こえる音に存在感を与える「間」。これは音楽だけでなく、トーク、文学、絵画。どのジャンルでもたいせつであるような気がする。
ベートーヴェン『運命』 聴き比べ
世間では宗教と政治との問題でかまびすしいが、日本ほど、宗教・思想にユルイ国はないとおもっている。入国審査でうっかり「無宗教」なんて書くと、門前払いになる国もあるのが、世界の常識である。
いきおい、ほとんどの日本国籍者は、外国旅行や居住のさい、なんらかの宗教名をむりやり書く羽目になる。(どこだったか「共産主義(Communist)」がチェックリストにあって、笑ってしまった。それ、宗教か?)。ヨーロッパ方面で無難なのは、仏教徒(Buddhst)ではないだろうか。ほとんどスルーしてくれる。
ところが、郷に入っては郷に従えとばかり、「カトリック教徒」などと住民登録すると、税金をガッポリとられる国がある。その名はドイツ。所得税の8%だか10%らしいから、消費税以上の金額を支払う羽目になろう。
ドイツはプロテスタント発祥の国として有名だが、南部はカトリック信徒が多い。かの有名なルードヴィヒ狂王やオーストリア皇妃となったエリザーベトも、そう。観光地が集中する南部バイエルン州で、壮麗なカトリック教会を目にすることが多いのは、そのせいだ。
ところが、カネを支払いたくないのは、人の常。若者を中心に教会ばなれがつづいている。そのため、数年前「税金未払い者に対する、クリスマス参列、教会挙式禁止令」が出たらしい。たしかに、王侯貴族の庇護がない今、政府が教会税を代行収納してくれないと、建物の維持すらむずかしい。
だれが、宗教を支えるためのカネを払うのか?その存続に、どこまで政府が力を貸すのか?宗教と政治とカネの問題に、頭を悩ませるのは、どこの国も同じである。
本の名前は知っていた。だが、なぜ中身に目を通していなかったのか。後悔しきりである。
あらすじを解説すると、強国に信仰された弱小国家が、いかにして国際社会から軍事的資金的援助をもぎとり、独立を勝ち取ったのか、だ。そして話の主役は「いかにして」という部分にある。
時代は90年代前半、舞台はヨーロッパの東部バルカン地域(半島)。第一次世界大戦勃発の地でもある。そこにはかつて、多民族国家・ユーゴスラビア連邦があった。
91年のソ連崩壊をうけ、旧ユーゴにいたスロベニア人、クロアチア人などさまざまな民族が、独立して自分たちの国を作ろうとしていた。ソ連という巨大な星の引力が尽きて、まず大惑星が軌道を外れ、さらにそれをめぐる小惑星どもが、つぎつぎとコースアウトする感じだ。
だがその大惑星の主、旧ユーゴのセルビア人勢力は、小惑星らの独立を、軍事力で阻止しようとする。口実は「国内にいるセルビア人の保護」(今年の冬にも、似たようなセリフをきいたな)。
反発する民族との間に、内戦がはじまった。戦いは、はじめセルビア人側優位だった。なかでもボスニア・ヘルツェゴヴィナは、圧倒的に不利な立場となった。国連にうったえたが、相手にされなかった
ところが、その弱小国家は、おどろくべき手をつかい、形勢を逆転させた。
それは「アメリカの世論に直接うったえる」だった。
このシナリオを描いたのは、アメリカのPR会社だった。戦争に、善悪の対立観念を持ちこんで単純化し、国際社会で、弱小国家の応援団をつくっちゃう戦略である。映画『スターウオーズ』帝国軍VS共和国軍の構図を、当時の東南ヨーロッパにもちこんだのだ。
「絶対悪」を強調するために、たとえばこんな戦略を作った。
・一つの情報を、アメリカの複数のメディアで増幅させる(情報の拡大再生産)
・スポークスパーソンの演技力を徹底的に磨く(立ちふるまいや話し方、服装、メイク)
そして、
・キャッチコピーをつくる
このコピーが有名な「民族浄化(Ethnic Cleansing)」だ。「わが国で民族浄化がおこなわれている」、ボスニアの外相の訴えは、人権と民主主義を信条とする多民族国家アメリカを動かした。
当初「ヨーロッパの片田舎のけんか」と評されたこの紛争は、このコトバにより「許しがたい20世紀最後の蛮行」に様変わり。米軍とNATO介入をよんだ。それから3年半、街と人の心に深い傷あとを残し、やっと95年に和平を見た。
あらすじが長くなった。さて本題。
この話、25年以上前とは思えないほどの既視感があるよね?この手の情報操作は、シリア紛争やウクライナ侵攻など、遠く離れた異国だけではない。国内の政治や経済、日々の出来事に関しても、応用されているのだとおもう。
では、情報の受け手である庶民が、ここから学べるものはなにか。
まず、ふだんわれわれが受ける情報は、良くも悪くも、国内外をふくめ、欧米の視点で発信されているという事実を前提にする(日本政府も『おまえ欧米か(古いな)』だ)。旧ユーゴ大使の中江氏は、これを「情報覇権主義の強まり」と指摘している。
つぎに「情報の拡大再生産」「情報発信者の演技力」「キャッチコピー」のわなに、自分がはまっていないかということだ。繰り返し繰り返し、情緒的に流されるニュースには注意した方がいい。TVは、用のないときには切っておいた方がいい。SNSでは、アルゴリズムにより、自分の支持する情報が、優先的に表示されるという事実をお忘れなく
さいごに、情報発信者がどこか、確認するということだ。
たとえば、市民が武装警官に投石する場面があったとする。
・不気味にそびえる警官の群れに抵抗をする市民の立場
・投石の嵐に無抵抗に耐える警官らの視点
この2つは、ともに事実であっても180度ちがう。つまりものの見せられ方で、印象操作は可能だということを、心得ておこう。
賢者は歴史に学ぶ、ものらしい。周回遅れで読んだこの本に、今を考えるカギをもらったと感じている。
参院選が近づいてきた。さて、どこに投票すべきか。公約をよみくらべる。どれどれ。
子育てを支援し、学びを促進し、高齢者を大切にするための社会保障を充実させる。経済活性化のために、労働人口をふやし、最低賃金を上げ、企業の成長戦略を後押しする。持続可能社会をめざし、環境負荷を減らす。LGBTQや障がいなど、さまざまな多様性を前提に、社会における心と体とのバリアフリーをめざす…。
などなど国防以外、内政について各党の最大公約数をとれば、こんな感じだ。どこがちがうねん、7つのまちがいさがしクイズか~。とツッコミたくなる。
そのなかで、ビミョーな差異に注目してみた。テーマは「婚姻」、同性婚と、いわゆる夫婦別姓(選択制)である。
まず、最大与党の自民党。「性的マイノリティの理解促進」という、たいへん、ひかえめな表現が顔を出すにとどまる。別姓については、言及がない。第二与党の公明党は、同性婚と別姓を容認している。
一方で、野党は、同性婚と夫婦別姓を、積極的に推進しているところが大半だ。
ただ、維新の会だけは、おもしろい。「同性婚をみとめ」とあるものの、別姓については、「社会経済活動での旧姓使用の仕組みを考える」とある。つまり、同性カップルが役所に届け出を出すとき、姓は二者一択しろということになる。
この場合の「姓」は、一代限りの飼育を認めるマンションのペット規約、あるいは旧南アの名誉白人の同じ扱いだ。つまり、よくもわるくも、権利の継承、という観点が抜け落ちている。
そう、名前とは、相続権を含む、財産権の象徴だった。
だから、大河ドラマの北条政子は源政子でないし、時代が下り、相続権をうしなった江戸時代の女性が、名前を通称とされたのもそのせいだ。
いまの私たちにとって、姓とは何の象徴なのか?
そんな哲学的な問いの前に、改姓の手続きのめんどうくささ。またその後も、仕事での俗名(通称)と、金融機関決済の戒名(戸籍上の名)とがズレるややこしさ。責任者出てこい、といいたくなることだけは、強調しておきたい。
…はなしがどんどん本筋からはなれたような気がする。とりあえず、選挙に行こう。
なんと、関西地方は梅雨明け宣言である。たしか、6月10日ごろに梅雨入りしたはずだから、史上最速なのではないか。
暑さにあえぐ8月上旬に、立秋と言われ、寒いさなかに立春をむかえ、梅雨のまっただなかの「水無月」(名の由来については諸説あるが)。旧暦と太陽暦と1カ月のタイムラグがあるにせよ、体感とズレすぎである。
このせいで、用法がかわってしまったコトバも多い。「皐月晴れ」はその典型だ。もともと、梅雨の晴れ間をさすはずだったのが、GWのニュースの枕詞になってしまった。小春日和も、ひょっとしてそのひとつなのかもしれない。厳寒からいきなり半袖日和になる昨今、冬のおだやかな日差しをぬくぬくと楽しむことが減ってしまっている。
暦と体感のずれは、まだ旧暦のDNAがぬけていないだけなのか、それとも、地球温暖化のせいか。ちなみに2022年は、太陽暦に代わって、ちょうど150年だそうである
「コーヒーをブラックで飲むは日本人だけ」というサイトを、いくつか見かけた。これは極論としても、アジア、ヨーロッパにかぎらず、海外ではみんなドバドバ砂糖とミルクを入れているような印象だ(本場アフリカとアラブではどうなのか)。エスプレッソでいえば、これを砂糖なしで飲む人を見るのは、たぶん日本だけだろう。
自販機でも、ブラック缶の躍進がめだつ。平成20年代までは、各自販機にブラック缶が1本あるかどうか、ではなかっただろうか。ところが、いまやコーヒー缶が5本ほどあるとすれば、1本はミルク砂糖入り、もう2本が微糖、のこりがブラックといったぐあいだ。健康志向の高まりか。
ただし、本当に健康に留意が必要な高齢者層は、圧倒的に砂糖ミルク派である。高齢者宅訪問時のデフォルトは、フレッシュ添えの砂糖入りコーヒー。ときには、砂糖・乳糖類とを入念にかき混ぜたものを供される。そこには、昭和の名キャッチコピー「●●●●を入れないコーヒーなんて」の残り香がただよっている。
考えてみればあたりまえだ。日本では、高度成長期まで砂糖は貴重品だった。牛乳を飲む習慣もそのころからで、子どもの栄養不足をおぎなうための学校給食を通じて定着した。大量の砂糖とミルクを入れた高栄養のコーヒーが、当時の人々にとって、どれほどおいしく贅沢に感じられたか想像に難くない。
その後、本来のコーヒーの香りや味が楽しめるまで、流通や保存の技術は向上した。だが、人間、出会い頭でおいしいとおもったものが、生涯を通じた味覚の基準になる。
ちなみにタハラは子ども時代の記憶から、長らくコーヒーぎらいだった。特に、酸味が強いとされるものを避けていた。が、酸化のすすんだ(つまり古い)豆を当時口にしたのが原因であることに気づき、軌道修正できた。単純なものである。
コーヒーをどう飲むかは、その人が、最初にどういう出会い方をしたかによるのだろう。勉強でもスポーツでも対人間でも同じだ。人生を左右するような好き嫌いも、案外単純なきっかけから生じるのかもしれない。
ゴールデンウイークのすぐ後にひかえるビックイベント、母の日。そう「母業」は、世間で最もブラックな仕事のひとつだ。
妊娠出産にミルクやりからおむつ替え、弁当づくりにベルマークはり、こどもの送り迎えに近所の付き合い、自分の飯は立って食う。一日平均4時間超、深夜・早朝手当どころか傷病休暇すらもらえぬこの激務。少子化が進むのも無理はない。
そのような母の恩は、海よりも深いとしるべし、という教育の一環だったのだろう。昭和40~50年代になるのか、幼稚園から小学生低学年まで、母の日の前後の図工の時間に、ティッシュペーパーでカーネーションを作らされた記憶がある。
先生から、ピンクのティッシュを半分に切って重ねたものをわたされる。それをもらったら、まず一センチ幅ぐらいのじゃばらに折る。そのタテ長のまんなかをゴムでとめ、扇を広げる要領で円形にする。そののち、じゃばらの薄い1枚をひとつづつほぐして立て、花の形にする。さいごに茎とおぼしき、はりがね状のみどりの物体と合体させる。カーネーションのできあがり。
単純作業だが、私をはじめ、どんくさい子どもには、ハードルが高かった。ゴムの位置を左右対称にしなかったために、いびつな花形になったり、じゃばらほぐしに失敗して、紙をボロボロにしてしまったり。もういちど、ティッシュをもらうはめになるのが、常だった。
このように、ピンクのティッシュと格闘するクラスのなかにあって、かならず1、2名、白い花を作っている子どもがいた。お母さんをなくした子である。先生から、ほかとは別に白いティッシュをわたされるのだ。
たしかに、亡き母にささげるのは白いカーネーションが、慣習ではある。が、いきなり白ティッシュをわたされた子どもの気持ちやいかに。その配慮のなさが、いかにも昭和的であった。
だが、このぐらいでひるんでは、学校でサバイバルできない。小1の時になかよしだったサカシタ君が、ご両親の離婚がきまったときのこと。朝礼で先生の横にひきだされ、クラス全員を前にこう宣言されたのである。
「サカシタ君のおうちでは、お父さんがいなくなったから、●●に名前が変わりました。みなさん、今日から●●君と呼んであげてください」。
こうした姓変更のおひろめも、ごくフツーの光景であった。なんとデリカシーのない、昭和という時代よ。『めでたさも、中ぐらいなり 昭和の日』。黒歴史を知るタハラは、強くそう思うのであった。
「ロシア語のあいさつ教えて」とたのまれ、ドキリとすることがある。ロシア語専攻とはいえ、怠慢な学生であったうえに、習ったのが四半世紀以上前だ。ありがとうは「スパイシーだ」、いいね!は「辛(から)そう」、こんにちはを「ズロース一丁(いっちょう)」などと伝え、お茶を濁している。
ズロース一丁、パンツ一丁、拳銃一丁、豆腐一丁。「丁」については、むかしから疑問がある。この助数詞が使われる原理原則が、いまだにわからないのだ。
精選版 日本語大辞典によると、丁(挺・梃)は
①鋤(すき)・銃・艪(ろ)など、細長い器具の類を数えるのに用いる
②駕籠や人力車など、乗り物を数えるのに用いる
③ 酒や樽を数えるのに用いる
この定義になんとかあてはまるのは、上にあげたもののうち、拳銃(銃)だけではないだろうか。
日本語上級学習者から、丁を使うケースについて質問を受けたことがある。「わからん。とにかく、パンイチ男が右手に拳銃、左手に豆腐を持っている姿をイメージし、暗記せよ」と教えた。が、彼女は首をかしげて「ラーメンは?」。
たしかに「へい、ラーメン一丁(いっちょう)!」は日常語だ。一本とられた(一丁ではない)。
ちなみに、「本」は細長い無生物をかぞえるらしい。ではカツオの一本釣りは?虫歯3本は?
ますます助数詞の深みにはまっていく。
*参考:助数詞「本」のカテゴリー化をめぐる一考察 (濱野・李2005?)
うーむ。「田舎から出てきた右も左もわからない〇娘を×××漬けする戦略」か。まともに書くことすらはばかられる比喩(アナロジー)である。
この発言時、某「デジタル時代の総合マーケティング講座」では、会場のあちこちで笑いが起きたとある。一流大のリッチな社会人講座を受講する、ふところの豊かさと深さを持つ聴衆である。失笑か冷笑か、ただの愛想笑いか。この上場企業役員は「ウケた」と解釈して舞い上がり、場外で炎上した。
滑落したアナロジー。おなじく、この会社の戦略自体もスベるような気がする。
マーケティングは、いうまでもなく買い手がすべてだ。その対象は、若年層の女性らしい。ところが最終顧客の顔が、一瞬でもよぎらないこのトークである。そんなセンスで立案したコンセプトが、ウケてほしい層に届くとは思えない。
会社の謝罪文もズレている。「多大なるご迷惑とご不快な思いをさせたことに対し、深くお詫び」ではない。安全安心であるはずの、学びの場を台無しにしたことについて、一企業として恥じてほしかった。また、主催者もおなじく恥じてほしい。市井の講師の立場からおもう。
で、本題である。アナロジーには、興味関心やバックグラウンドが、すべて出てしまう。使う語彙(ごい)が、その人の教養の範疇を出ることはないからだ。
動物好きは動物、スポーツ愛好者はスポーツ。私自身は、乗馬の経験があるので、つい、ウマの話に走りそうになる。だがいかんせん、競馬ファンも含めてウマ好きは多くない。このように、聴衆とに共通項がとぼしそうな題材は要注意だ、
昭和の講師は「ネタに詰まったときは、野球とマージャンとゴルフのたとえ話」といわれていたらしい(団塊の世代の必修項目)。行動の基本が個となったいまでは、なにがいいだろうか。
無難なところは食べ物。あと、コンビニ、銀行、スマホいじりなど、公共・半公共の場での人間のふるまい、か。
コツは、いいことは人の話、失敗談や滑稽談は、全部自分のせいにすることだ。言われたらどんな気がするか、違和感をチェックできる。なにより、他人を傷つけない。
たとえば冒頭の例を「右も左もわからない〇〇のオレを××新地にどっぷりはめた、アノ戦略」などと、ご自身を例に置き換える。世間様に通用するアナロジーかどうか、身に染みてわかるだろう。品位を下げるのも、自分だけですむというものだ。
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