縁の下の幸福論か、やりがい搾取か。 プロフェッショナル・仕事の流儀

1/13放送 NHK「縁の下の幸福論 プロフェッショナル 仕事の流儀」をご覧になっただろうか。

 

”出版物に記されたことばを一言一句チェックし改善策を提案する校正者。並みいる作家や編集者から絶大な信頼を受けるのが、大西寿男(60)。…小さな部屋で人知れず1文字の価値を守り続けてきた半生。”

 

というキャッチフレーズは伊達ではない。誤字脱字チェックだけではなく、語感からファクトチェックまで、ことばの森に入り、たちどまり一字一句に向き合っていく。その真摯な姿に胸を打たれた。

 

同時にうーむ、とうなってしまう。一字0.5円以下とは。私が小遣いを稼いでいた●●年前と、単価が変わっていないどころか、下がっているんじゃあ…。

 

取材する側も、その点が気になったのだろうか。キャッチコピーにあえて「小さな部屋」を入れたり、取材者をもてなす惣菜の2割引シールをアップにしたりして、ことさら、つつましさ(労力>労働対価)を強調していたのが興味深い。

 

そう、サラリーパーソンとちがって、校正にしろ翻訳にしろ何にしろ、自営業の受注仕事は、凝りはじめるとキリがないのだ。

 

「あれ、これでいいのかな…」と立ちどまってしまうと、もうダメだ。いろんなサイトを開き、手元の辞書を調べ、考え込んでしまい、自ら時給を下げてしまう。

 

一時期、それが気に入らず、時給の単価を頭で計算しながらやっていたことがある。だがそちらの方がよほど非効率だった。納品してからも気になって仕方ない。「やりがい搾取」と言われればそれまでだ。が、そういう性質でないと務まらないのだろう。

 

ちなみにこの大西さんは、私の出身高校の先輩らしい。

 

かの高校の風物詩は、興味のない授業から脱走することだった。映画評論家として有名な大先輩、淀川長春さんの脱走先は映画館。この方だったら、行先は図書館だろう。本の森に、静かに身を潜ませ開くページに心躍らせていたに違いない。

 

*現在、この高校は「脱走禁止」の校則がある。「出前厳禁」なんて校則もできてしまった。私も含め、一部のふらちな生徒の行動が目に余ったせいであろう。後輩たちよ、選択の自由を奪って申し訳ない

 

 

刺さるワード、刺さらないワード

ある組織で、上司から部下への言葉がけが思いきりスベった現場を目撃。むかしむかし、自分がPTAの役員への就任をつよく請われた場面がよみがえった。

 

熱心なPTA勧誘を断り切れず沈黙するタハラに、相手がキラーパスを出したときのことだ。

現役員:大丈夫ですよ。誰でもできる仕事ですから

タハラ:あ、誰にでもできるんだったら、他の人に頼んでください

 

自分にしかできないことをやりたがる、唯我独尊タハラの対局にあるワードが「誰にでもできる」だ。大丈夫、というキラーパスは、場外に蹴りだされてしまった。

 

人の価値観はいろいろだ。たとえば、下のねぎらいの言葉。交流分析をもとに考えてみたが、みなさんはどれがピッタリくるだろうか。

 

1「あなたに任せたら安心だ」2「普通はここまでできないよね」3「あなたのおかげで助かっている」4「やり方をいつも勉強させてもらっている」5「骨身をおしまずやってくれている」6「いつもひと味違うよね」7「先が楽しみでしかたない」8「感謝しかない」

 

知人に聞くと、1,3,8あたりが心に響くらしいが、人によっては「ならばもっとギャラよこせ」になる。ほんとうに十人十色だ。

 

こんなふうに人はそれぞれ違うけれど、一番大切なのは、心から自分のおもいを伝えることだ。やれエニアグラムだエゴグラムだとツールに振り回されず、しっかり相手を観察し、言葉を使い分けてほしい。

 

時の流れとN進法

この「とはずがたり」の前身となるブログをはじめて12年。週1どころか、月1近い息も絶え絶えのペースながら、これまで続いているのはめでたい限りである。卯年から卯年へと、干支が一周したことになる。

 

それにしても、干支にしろ月にしろ、時にまつわる数字に12が多いのはなぜか。今をさかのぼること数千年前の古代バビロニアで、モノを分けるときに重宝した数字だったから、がその理由のようだ。

 

たしかに、ピザをとりあえず12分割しておけば、

・6人→2ピース

・4人→3ピース

・3人→4ピース

・2人では6ピース

と、ケンカになりにくい。

 

まてよ、5人では?と、ツッコミたいあなた。1切れを5等分の細切れにして、1名ずつがそれを6ピース分もらっていけば公平だ(そんなもの食べたくないが)。少なくとも、古代バビロニア人はそんな発想で、12分割した1時間をさらに5つにわけ、60進法的にとらえる方式を編み出しだらしい。

 

1時間が60(12×5)分、1日が12時間2回、1年は12か月。12がらみで気持ちよくまとめた昔の人はエラい。なのに、なぜ曜日だけ、日月火水木金土と7進法チックに展開したのだ?本当にヒトって、ヘンな動物だ。

 

あるときは7進法チックに、あるときは12進法風に。流れゆく時間に刻みを与え、やれ日曜だ、正月だなどと、意味づけして大騒ぎしている。それでも月が変わっただけで、師走のあわただしさが影を潜め、正月独特のまったりした気分になるから不思議なものだ。

 

などと雑多なおもいをめぐらしつつ、あらためて、新年のごあいさつを申し上げたい。今年こそ、もう少しまめなブログ更新を実現したいものだ。

 

ガクチカの有無

2023年卒生の就職活動の追い込みと、その次年度の合同説明会とが重なる時期になった。両者から聞こえる嘆きは、エントリーシートの最重要項目のひとつである「ガクチカ」。すなわち、「学(ガク)生時代に力(チカら)をいれたこと」を書くネタがないということだ。

 

インターンなどで着々と積み上げている学生もいるが、大部分の学生にとっては悩ましい部分だろう。2020年からつづくコロナ禍は、あなたがた学生から、遊んだり学んだりする機会を奪ってしまったのだから。

 

でも、あらたねて強調したいのは、企業が求めるのは、めずらしい体験談ではないということ。あなたがどんな人間であるか、つまり、どんなときにスイッチが入る人間なのか知りたいだけなのだ。

 

そのためには、自分自身の日常を見つめなおすことがいちばんだ。中高時代からコツコツと継続している習慣や心がけなどで、「私はこんな人間です」と伝えられるようなことはないか?題材はどこにでもある。落ち着いて考えて、リストアップすることからはじめるとよい。

 

※ガクチカに対して、なんでも略すな、と怒る外野のあなた。パンスト(pan-suto)、ゼネコン(zene-kon)など、長い語を二音節に縮めるのは、日本の略語の王道であると心得るべし。ちなみにシューカツ(これも二音節か)関係では「エレオク」「オヤカク」なんてのもあるぞ。

 

 

私の恐怖体験 ヨサク越え

そのとき、ちょうど16時ごろだったか。高知県西部の梼原町を出て約1時間、対向車をなんとかかわしながら、40キロほどの山道を走破、国道439号線にたどり着いた。

 

旧・大正町の道の駅に立ち寄り、買ったトマトでほっとひと息。やれやれ、文字通り峠は越えた、目的地・四万十市の中心地まで、この道を走れば40キロ弱。日暮れまでにはつけるだろう。

 

ところが、ナビにしたがって再スタートしたとたん、道は山にわけいり、険しく、細くなってきた。まずセンターラインが消え、次にガードレールが消え、そしてアスファルトが消えた。荒れた路面をおおう木の葉のうえに、うっすらタイヤ跡があるのみだ。

 

おまけに、山肌より染み出した水が、道路を横切り、反対側の路肩からポトポトと垂れている。こわごわのぞくと、はるか下に川が見えた。道を間違えて、異世界にでも迷い込んだか?引き返そう。

 

決死の覚悟で下り道をバックし、大木の根っこに乗り上げギリギリUターン。道の駅の手前までもどってルートを再検索した。

 

ところが、ナビ導師もグーグル先生も「先ほどの道をすすむしかないぞよ」とのご託宣だった。あれが国道?別の道はないのか?ピンチアウトすると、なぜか画面がとんでしまう。う回路がわからない。紙の地図をもってこなかったことが悔やまれた。

 

土地勘がないうえに、もともと、大変な方向音痴である。いたずらに道を探してとんでもないところで立ち往生するより、日暮れまでに、この狭路を一気に乗り切った方がよかろう、そう腹をくくった。

 

そこから、うっそうとした原生林にかこまれた夕暮れどきの約一時間。ライトも追いつかないクネクネ道を右に左に忙しくハンドルを切り、鉄板をわたしただけの橋(といえるかどうか)をいくつかこえ、ときどき濡れ落ち葉に後ろタイヤをとられながら、地崩れの箇所は気持ちだけよけつつ、走りとおした。

 

無事下山してから、5分ぐらいは放心状態だった。対向車との離合がほぼなかったのが、不幸中の幸いだった。

 

あとで調べると、そこは四国、いや全国最恐の国道のひとつ「酷道439号」だった。しかも通った区間は、道幅2.5m以下の通称「ヨサク(439)越え」。数年前、NHKがここを放送で取り上げている。怖いもの見たさで他府県ナンバーが殺到したために、レスキュー隊が出動しまくり地元は大迷惑したらしい。

 

学んだこと:

ドライブ中に、長い髪をたらした女が突然バックミラーに映ったり、フロントガラスに血の手形をベッタリつけたとしても、怖がる必要は全くない。ガードレールのない路肩から転げ落ちる思いをするよりはるかにマシである。(でも不審者なら110番、交通事故なら119番にすぐ通報のこと)

 

NHK ドキュメント72時間 「ゆきゆきて酷道439号線」 

 

 

意識高い系と、持続可能なキャリア

大手前大学の北村先生の著書『不確実性の時代を生き抜くヒント(2022 大学教育出版)』。キャリア研究の最先端が凝縮された、とてもおもしろい本である。ただし、SDGs流行りを意識した帯風のデカ字「持続可能なキャリア」が暑苦しい(先生、ゴメンナサイ)。

 

本の内容は、転職を繰り返してキャリアアップをする人たちの、いわば「鋼のメンタル(心理的資本)」の構造を追求した内容だ。複数回の転職を経てCFO(最高財務責任者)に至った40歳以上の8名の男女を対象に、それぞれ約2時間にわたるインタビューを実施し、のべ約30万5千字にもわたる記述をM-GTA方式で概念化。キーワードを抽出している。

 

キーワードは「転職人生を生きる覚悟」「自分の売りを磨く姿勢」「成長志向」「何とかなる自信」「不確実性の中で決める力」など。私が興味をひかれたのは「不確実性の中で決める力」だ。いわゆる意識高い系と一線を画すのはこの部分だろう。

 

「転職人生を生きる覚悟」「自分の売りを磨く姿勢」「成長志向」「何とかなる自信」は、意識高い系の人々にも存在する。ただ、この本が示唆するとおり、私の知る彼女ら彼らには「不確実性の中で決める力」に必要な、ある要素が欠けている。

 

それは、自分のなかに明確な仕事観を持っていないことだ。社会のなかで自分はどう生きるか、という見極めだ。

 

だから、一流企業だとか一過性の待遇の良さとか、他人の耳目を気にしたものさしを転職先にあてはめざるをえない。自分の人生でありながら、そこで主人公を務めることが難しい人種である、ともいえる。

 

さて、キャリアアップをめざすみなさんはいかがだろうか?「不確実性の中で決める力」の正体のほか、内容が気になる方は、ぜひこの本で続きをどうぞ。

 

知らんけど

 

この言葉については、大阪弁ネイティブの橋下徹氏は「僕は生まれた時から使っていますけどねぇ」とのこと。さすが元・弁護士だ。基本的にこれは「責任解除」の言だからだ。

 

たとえば、毎年、阪神地方で使われる典型例はこれだ。

●今年こそたぶん優勝やで、知らんけど

 

つまり「優勝する、という私の考えを申し述べました。ただし、それを額面通り受け取るかどうかは、聞き手の判断に委ねますよ」だ。「*参考意見」「諸説あり」などの脚注と同じはたらきをする。

 

無責任や責任回避とは違う。その底辺にあるのは、期待予測だ。あくまでも責任のリリースである。

 

だから「雨が降りそうやね、知らんけど」は、用例としてなじまないような気がする。自然・社会現象など、そもそも個人の責任範囲を大きくこえる場合は「わからんけど」がベターだ。

 

それにしても、どうしていまさら、これが流行語なのか。関西人としては、なんでやねん、と戸惑いを隠せない。 放送大学の金水先生は、流行の理由について「Z世代がネットで影響をうけたんじゃないでしょうか、まぁ、知らんけど」といっておられるようだ。

 

ひとつよろしくお願いします

外国語でどう表現すべきか、悩ましいことがあった。

 

シチュエーションはこうだ。留学中の家族が、引っ越し先が見つかるまでのあいだ、他人の家に転がり込み、やっかいになる。出ていく時期は不透明。そんなとき、相手先にどう謝意を伝える?使用予定言語は英語かロシア語だ。

 

日本語なら、おそらくこういう定型句を使う。

・しばらくご面倒をおかけします

・なにとぞ●●をよろしくお願いいたします

・本当にお世話になります

 

しかし英語もロシア語も、私の知る限りそのような表現は持たない。直訳するとイミフに響くだろう。

 

けっきょくは、「わたしどもは、あなた方の親切に深く感謝する」を言葉を変えて連呼(英語)。あとは適当にごまかした。

 

日本語には、今後生じるであろうトラブルなど、もろもろの現象について、先回りして謝意を述べておく表現が豊富だ。責任解除的な逃げのスタンスというべきか。だが他言語では、もともとそんな考え方が希薄なのだろう(知らんけど)。

 

ちなみに以前、家族の一人が、台湾で「今後とも、密なおつきあいをひとつよろしくお願いいたします」のあいさつの通訳を、上司から強く命じられたことがある。そんな表現ありません、と断ったものの、再度迫られたため、やむなく直訳したらしい。

 

すると相手は、スマホを取り出し「用事があったら、いつでも連絡してね」と、にこやかにLINEのIDを示した。同じアジア人でも「ひとつよろしく」は通用しないようだ。

 

妙齢な壮年

「こういうオレンジ系の服って、妙齢になると着づらいですよね」―20代後半の女性とのやりとりに「???」となったのが、気づきのきっかけだった。どうやら、中高年という意味で使っているらしい。

 

妙齢、で検索すると「街コンいったら、妙齢が出て来たしw」「妙齢のオッサン」など、出るわ出るわ誤用が。検索結果上位100位ほどのページを見ると(ヒマ人か、キミは)、本来の意味の「若い年ごろ(の女性)」より、いわゆる「オバサン、オッサン」として使った例の方が多いぐらいだ。

 

理由は、「妙」という漢字の微妙な立ち位置にあるのだろう。もともとは、きわめてうつくしいさま、すぐれたさま、統計で言えばS.D.(標準偏差)+2より上に対して使う表現である。いわば上位5%に入るエリートな人や物だ。

 

ところが、ふつうでないという意味が転じて、S.D.-2の下位5%未満の事物をもさすようになった。たとえば「妙な人」がそうだ。そこからニュアンスを拾ってできたのが、ネガティブ語の「ビミョー」。おそらく妙齢の誤用も、この流れにある。

 

もう一つの理由は、ニッポンが戦後、世界一の長寿国になったからではないか。厚生労働省の一般的な分類は、「幼年」0~4歳、「少年」5~14歳、「青年」15~24歳、「壮年」25~44歳、「中年」45~64歳。65歳以上の「高年」だ。

 

ところが2021年には、65歳以上は人口の3割、75歳以上が占める割合はその約半分。もはや、どの年齢層が「妙齢=希少価値」なのか。わからないほど、年齢の分布曲線が広がっている現状がある。

 

コトバは世につれ人につれ、変遷していくのは自然のならい。だが使う方と使われる方に、理解のくい違いが生まれるのは困る。こちらがフォローしておかないといけない。

 

よし、いやしくも言葉でメシを喰っている身なら、アップデートあるのみ。そうあらたに研鑽?を誓った、妙齢な壮年の田原であった。

補足:中高年(45歳以上~)=壮年という捉え方が、最近の認識らしい。40歳代以上は、実年齢より20年ほどマイナスして、厚労省基準にあてはめた方がいいかもしれない

 

参考

毎日ことば 妙齢の年ごろは? 毎日新聞社

「初老」は何歳? NHK放送文化研究所

 

 

サギ師と5W2H

「いつ(When)」「どこで(Where)」「だれと(Who)」「こんな目的で(WHY)」「何をした(What)」「どのように(How )」「いくら(How Much)」の頭文字をとって「5W2H」。

 

「5W2Hを報告の骨格とせよ」は、社会人ならば耳にタコができるほど聞いておられよう。情報伝達の基本だ。当方のセミナーでも、口をすっぱくしてお伝えしている。

 

私自身、仕事でもプライベートでも、この基本に助けられた体験は数知れない。なかでも、サギ師を見抜けたことは、記憶に新しい。

 

その人物は、数々の著名人とのコラボレーションにより、とある実績をあげたとして人気を集めていた。「だれと(Who)」「何をした(What)」「どのように(How )」で自分の仕事ぶりを豊かに描き、「ビジョン(≒WHY)」にふれ言葉たくみに信用を勝ちとる。

 

ただし、実績アピールのうち「いつ(When)」「どこで(Where)」が、極端に乏しい点が、どうも気持ち悪かった。ついつい、気になって質問した。

 

すると「おもしろいことが気になるのね~、仕事柄、インタビューが多いからかな。さすがタハラさん!」と明るく高笑いされた。その場に居合わせた人たちも、どっと笑った。

 

こちらは笑えなかった。もともと、愛想笑いが苦手なたちである。第一、相手の目が笑っていなかった。こうやって話をそらしにかかるときは、中身を大きく盛っているか、そもそも本当でないことがほとんどだ。悪気なく、自分の作り話を信じ込んでいるときもあるが。

 

いずれの場合にしろ「いつ」「どこで」を聞きこんでいくと、たいていはつじつまが合わなくなってくる。そして、しどろもどろになるか、怒り出す。

 

そのときは、後者の反応だった。このできごとをきっかけに、そのサギ師とはめでたく縁が切れた。あやうく難をのがれた。

 

さて、自戒を込めて。ほかの体験もあわせ「だまされない」ための教訓を、3つならべたい。おいしいもうけ話を聞いたり、あやしげな宗教に勧誘されたりしたときは、ぜひおもいだしてほしい。

 

1 自分の心が不安や怒り、欲で曇っているときは、だまされやすい

2 「いつ(When)」「どこで(Where)」が乏しい情報は、信用できないことが多い

3 オチが「How Much(いくら)」に落ち着く話は、たいていサギである

 

 

3・3・7拍子と3拍子

「日本人は農耕民族だから、馬の駆け足をベースにした'3拍子'が苦手だ」はホントか?

 

駆け足とは「ばからっ、ぱからっ」といった、3拍子を体感させるリズムだ。が、いかに農耕に使う日本の在来馬が小柄とはいえ、洋の東西を問わず、走りのリズムは同じはず。

 

また、日本は世界に冠たるサムライの国。馬をゆるされたのは200石扶持以上(年収1500万~ぐらい?)といえども、乗馬人口としてはヨーロッパよりも多いのではないか??

 

そして何より「3・3・7拍子」がある。応援や宴会などのハレの場に欠かせないこのリズムは、3拍子だ!

 

…とおもっていたら、最後のはちがっていた。3・3・7のうしろに、いわゆるウラ拍が、1拍隠れていた。

 

では、検証。みなさんお手を拝借。ハイ!

「チャ、チャ、チャ、(ウン)。チャ、チャ、チャ、(ウン)。チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、(ウン)」。

 

そうです、リズムとしては4拍子。音がない部分が、しっかり音として成立しているのが、おもしろい。かのベートーヴェンの『運命』でも、うまくそれが使われている。

 

クイズ。この曲の超有名な冒頭「じゃじゃじゃじゃ~ん」の最初の音は?

 

耳のいい人なら「ソ」だろう。たしかにドレミファでいえば「ソソソミ~」。だが、正解は…八分休符。最初の音が、半拍分ない。だから「(ん)じゃじゃじゃじゃ~ん」が、正しいリズムだ。

 

聞こえない音が、聞こえる音に存在感を与える「間」。これは音楽だけでなく、トーク、文学、絵画。どのジャンルでもたいせつであるような気がする。 

 

 

ベートーヴェン『運命』 聴き比べ

 

21世紀・ドイツの教会税事情

世間では宗教と政治との問題でかまびすしいが、日本ほど、宗教・思想にユルイ国はないとおもっている。入国審査でうっかり「無宗教」なんて書くと、門前払いになる国もあるのが、世界の常識である。

 

いきおい、ほとんどの日本国籍者は、外国旅行や居住のさい、なんらかの宗教名をむりやり書く羽目になる。(どこだったか「共産主義(Communist)」がチェックリストにあって、笑ってしまった。それ、宗教か?)。ヨーロッパ方面で無難なのは、仏教徒(Buddhst)ではないだろうか。ほとんどスルーしてくれる。

 

ところが、郷に入っては郷に従えとばかり、「カトリック教徒」などと住民登録すると、税金をガッポリとられる国がある。その名はドイツ。所得税の8%だか10%らしいから、消費税以上の金額を支払う羽目になろう。

 

ドイツはプロテスタント発祥の国として有名だが、南部はカトリック信徒が多い。かの有名なルードヴィヒ狂王やオーストリア皇妃となったエリザーベトも、そう。観光地が集中する南部バイエルン州で、壮麗なカトリック教会を目にすることが多いのは、そのせいだ。

 

ところが、カネを支払いたくないのは、人の常。若者を中心に教会ばなれがつづいている。そのため、数年前「税金未払い者に対する、クリスマス参列、教会挙式禁止令」が出たらしい。たしかに、王侯貴族の庇護がない今、政府が教会税を代行収納してくれないと、建物の維持すらむずかしい。

 

だれが、宗教を支えるためのカネを払うのか?その存続に、どこまで政府が力を貸すのか?宗教と政治とカネの問題に、頭を悩ませるのは、どこの国も同じである。

 

 

周回おくれの読書日記 ~ファクト・チェックの前に~

『戦争広告代理店』(高木徹2002)

本の名前は知っていた。だが、なぜ中身に目を通していなかったのか。後悔しきりである。

 

あらすじを解説すると、強国に信仰された弱小国家が、いかにして国際社会から軍事的資金的援助をもぎとり、独立を勝ち取ったのか、だ。そして話の主役は「いかにして」という部分にある。

 

時代は90年代前半、舞台はヨーロッパの東部バルカン地域(半島)。第一次世界大戦勃発の地でもある。そこにはかつて、多民族国家・ユーゴスラビア連邦があった。

 

91年のソ連崩壊をうけ、旧ユーゴにいたスロベニア人、クロアチア人などさまざまな民族が、独立して自分たちの国を作ろうとしていた。ソ連という巨大な星の引力が尽きて、まず大惑星が軌道を外れ、さらにそれをめぐる小惑星どもが、つぎつぎとコースアウトする感じだ。

 

だがその大惑星の主、旧ユーゴのセルビア人勢力は、小惑星らの独立を、軍事力で阻止しようとする。口実は「国内にいるセルビア人の保護」(今年の冬にも、似たようなセリフをきいたな)。

 

反発する民族との間に、内戦がはじまった。戦いは、はじめセルビア人側優位だった。なかでもボスニア・ヘルツェゴヴィナは、圧倒的に不利な立場となった。国連にうったえたが、相手にされなかった

 

ところが、その弱小国家は、おどろくべき手をつかい、形勢を逆転させた。

それは「アメリカの世論に直接うったえる」だった。

 

このシナリオを描いたのは、アメリカのPR会社だった。戦争に、善悪の対立観念を持ちこんで単純化し、国際社会で、弱小国家の応援団をつくっちゃう戦略である。映画『スターウオーズ』帝国軍VS共和国軍の構図を、当時の東南ヨーロッパにもちこんだのだ。

 

「絶対悪」を強調するために、たとえばこんな戦略を作った。

・一つの情報を、アメリカの複数のメディアで増幅させる(情報の拡大再生産)

・スポークスパーソンの演技力を徹底的に磨く(立ちふるまいや話し方、服装、メイク)

そして、

・キャッチコピーをつくる

 

このコピーが有名な「民族浄化(Ethnic Cleansing)」だ。「わが国で民族浄化がおこなわれている」、ボスニアの外相の訴えは、人権と民主主義を信条とする多民族国家アメリカを動かした。

 

当初「ヨーロッパの片田舎のけんか」と評されたこの紛争は、このコトバにより「許しがたい20世紀最後の蛮行」に様変わり。米軍とNATO介入をよんだ。それから3年半、街と人の心に深い傷あとを残し、やっと95年に和平を見た。

 

あらすじが長くなった。さて本題。

この話、25年以上前とは思えないほどの既視感があるよね?この手の情報操作は、シリア紛争やウクライナ侵攻など、遠く離れた異国だけではない。国内の政治や経済、日々の出来事に関しても、応用されているのだとおもう。

 

では、情報の受け手である庶民が、ここから学べるものはなにか。

 

まず、ふだんわれわれが受ける情報は、良くも悪くも、国内外をふくめ、欧米の視点で発信されているという事実を前提にする(日本政府も『おまえ欧米か(古いな)』だ)。旧ユーゴ大使の中江氏は、これを「情報覇権主義の強まり」と指摘している。

 

つぎに「情報の拡大再生産」「情報発信者の演技力」「キャッチコピー」のわなに、自分がはまっていないかということだ。繰り返し繰り返し、情緒的に流されるニュースには注意した方がいい。TVは、用のないときには切っておいた方がいい。SNSでは、アルゴリズムにより、自分の支持する情報が、優先的に表示されるという事実をお忘れなく

 

さいごに、情報発信者がどこか、確認するということだ。

たとえば、市民が武装警官に投石する場面があったとする。

・不気味にそびえる警官の群れに抵抗をする市民の立場

・投石の嵐に無抵抗に耐える警官らの視点

この2つは、ともに事実であっても180度ちがう。つまりものの見せられ方で、印象操作は可能だということを、心得ておこう。

  

賢者は歴史に学ぶ、ものらしい。周回遅れで読んだこの本に、今を考えるカギをもらったと感じている。

  

君の名は

参院選が近づいてきた。さて、どこに投票すべきか。公約をよみくらべる。どれどれ。

 

子育てを支援し、学びを促進し、高齢者を大切にするための社会保障を充実させる。経済活性化のために、労働人口をふやし、最低賃金を上げ、企業の成長戦略を後押しする。持続可能社会をめざし、環境負荷を減らす。LGBTQや障がいなど、さまざまな多様性を前提に、社会における心と体とのバリアフリーをめざす…。

 

などなど国防以外、内政について各党の最大公約数をとれば、こんな感じだ。どこがちがうねん、7つのまちがいさがしクイズか~。とツッコミたくなる。

 

そのなかで、ビミョーな差異に注目してみた。テーマは「婚姻」、同性婚と、いわゆる夫婦別姓(選択制)である。

 

まず、最大与党の自民党。「性的マイノリティの理解促進」という、たいへん、ひかえめな表現が顔を出すにとどまる。別姓については、言及がない。第二与党の公明党は、同性婚と別姓を容認している。

 

一方で、野党は、同性婚と夫婦別姓を、積極的に推進しているところが大半だ。

 

ただ、維新の会だけは、おもしろい。「同性婚をみとめ」とあるものの、別姓については、「社会経済活動での旧姓使用の仕組みを考える」とある。つまり、同性カップルが役所に届け出を出すとき、姓は二者一択しろということになる。

 

この場合の「姓」は、一代限りの飼育を認めるマンションのペット規約、あるいは旧南アの名誉白人の同じ扱いだ。つまり、よくもわるくも、権利の継承、という観点が抜け落ちている。

 

そう、名前とは、相続権を含む、財産権の象徴だった。

 

だから、大河ドラマの北条政子は源政子でないし、時代が下り、相続権をうしなった江戸時代の女性が、名前を通称とされたのもそのせいだ。

 

いまの私たちにとって、姓とは何の象徴なのか?

 

そんな哲学的な問いの前に、改姓の手続きのめんどうくささ。またその後も、仕事での俗名(通称)と、金融機関決済の戒名(戸籍上の名)とがズレるややこしさ。責任者出てこい、といいたくなることだけは、強調しておきたい。

 

…はなしがどんどん本筋からはなれたような気がする。とりあえず、選挙に行こう。

 

皐月晴れ

なんと、関西地方は梅雨明け宣言である。たしか、6月10日ごろに梅雨入りしたはずだから、史上最速なのではないか。

 

暑さにあえぐ8月上旬に、立秋と言われ、寒いさなかに立春をむかえ、梅雨のまっただなかの「水無月」(名の由来については諸説あるが)。旧暦と太陽暦と1カ月のタイムラグがあるにせよ、体感とズレすぎである。

 

このせいで、用法がかわってしまったコトバも多い。「皐月晴れ」はその典型だ。もともと、梅雨の晴れ間をさすはずだったのが、GWのニュースの枕詞になってしまった。小春日和も、ひょっとしてそのひとつなのかもしれない。厳寒からいきなり半袖日和になる昨今、冬のおだやかな日差しをぬくぬくと楽しむことが減ってしまっている。

 

暦と体感のずれは、まだ旧暦のDNAがぬけていないだけなのか、それとも、地球温暖化のせいか。ちなみに2022年は、太陽暦に代わって、ちょうど150年だそうである

 

ブラック派か砂糖ミルク派か、それが問題だ

「コーヒーをブラックで飲むは日本人だけ」というサイトを、いくつか見かけた。これは極論としても、アジア、ヨーロッパにかぎらず、海外ではみんなドバドバ砂糖とミルクを入れているような印象だ(本場アフリカとアラブではどうなのか)。エスプレッソでいえば、これを砂糖なしで飲む人を見るのは、たぶん日本だけだろう。

 

自販機でも、ブラック缶の躍進がめだつ。平成20年代までは、各自販機にブラック缶が1本あるかどうか、ではなかっただろうか。ところが、いまやコーヒー缶が5本ほどあるとすれば、1本はミルク砂糖入り、もう2本が微糖、のこりがブラックといったぐあいだ。健康志向の高まりか。

 

ただし、本当に健康に留意が必要な高齢者層は、圧倒的に砂糖ミルク派である。高齢者宅訪問時のデフォルトは、フレッシュ添えの砂糖入りコーヒー。ときには、砂糖・乳糖類とを入念にかき混ぜたものを供される。そこには、昭和の名キャッチコピー「●●●●を入れないコーヒーなんて」の残り香がただよっている。

 

考えてみればあたりまえだ。日本では、高度成長期まで砂糖は貴重品だった。牛乳を飲む習慣もそのころからで、子どもの栄養不足をおぎなうための学校給食を通じて定着した。大量の砂糖とミルクを入れた高栄養のコーヒーが、当時の人々にとって、どれほどおいしく贅沢に感じられたか想像に難くない。

 

その後、本来のコーヒーの香りや味が楽しめるまで、流通や保存の技術は向上した。だが、人間、出会い頭でおいしいとおもったものが、生涯を通じた味覚の基準になる。

 

ちなみにタハラは子ども時代の記憶から、長らくコーヒーぎらいだった。特に、酸味が強いとされるものを避けていた。が、酸化のすすんだ(つまり古い)豆を当時口にしたのが原因であることに気づき、軌道修正できた。単純なものである。

 

コーヒーをどう飲むかは、その人が、最初にどういう出会い方をしたかによるのだろう。勉強でもスポーツでも対人間でも同じだ。人生を左右するような好き嫌いも、案外単純なきっかけから生じるのかもしれない。

 

白いカーネーションと昭和な日々と

ゴールデンウイークのすぐ後にひかえるビックイベント、母の日。そう「母業」は、世間で最もブラックな仕事のひとつだ。

 

妊娠出産にミルクやりからおむつ替え、弁当づくりにベルマークはり、こどもの送り迎えに近所の付き合い、自分の飯は立って食う。一日平均4時間超、深夜・早朝手当どころか傷病休暇すらもらえぬこの激務。少子化が進むのも無理はない。

  

そのような母の恩は、海よりも深いとしるべし、という教育の一環だったのだろう。昭和40~50年代になるのか、幼稚園から小学生低学年まで、母の日の前後の図工の時間に、ティッシュペーパーでカーネーションを作らされた記憶がある。

 

先生から、ピンクのティッシュを半分に切って重ねたものをわたされる。それをもらったら、まず一センチ幅ぐらいのじゃばらに折る。そのタテ長のまんなかをゴムでとめ、扇を広げる要領で円形にする。そののち、じゃばらの薄い1枚をひとつづつほぐして立て、花の形にする。さいごに茎とおぼしき、はりがね状のみどりの物体と合体させる。カーネーションのできあがり。

 

単純作業だが、私をはじめ、どんくさい子どもには、ハードルが高かった。ゴムの位置を左右対称にしなかったために、いびつな花形になったり、じゃばらほぐしに失敗して、紙をボロボロにしてしまったり。もういちど、ティッシュをもらうはめになるのが、常だった。

 

このように、ピンクのティッシュと格闘するクラスのなかにあって、かならず1、2名、白い花を作っている子どもがいた。お母さんをなくした子である。先生から、ほかとは別に白いティッシュをわたされるのだ。

 

たしかに、亡き母にささげるのは白いカーネーションが、慣習ではある。が、いきなり白ティッシュをわたされた子どもの気持ちやいかに。その配慮のなさが、いかにも昭和的であった。

 

だが、このぐらいでひるんでは、学校でサバイバルできない。小1の時になかよしだったサカシタ君が、ご両親の離婚がきまったときのこと。朝礼で先生の横にひきだされ、クラス全員を前にこう宣言されたのである。

 

「サカシタ君のおうちでは、お父さんがいなくなったから、●●に名前が変わりました。みなさん、今日から●●君と呼んであげてください」。

 

こうした姓変更のおひろめも、ごくフツーの光景であった。なんとデリカシーのない、昭和という時代よ。『めでたさも、中ぐらいなり 昭和の日』。黒歴史を知るタハラは、強くそう思うのであった。

 

パンツ一丁、拳銃一丁、豆腐一丁

「ロシア語のあいさつ教えて」とたのまれ、ドキリとすることがある。ロシア語専攻とはいえ、怠慢な学生であったうえに、習ったのが四半世紀以上前だ。ありがとうは「スパイシーだ」、いいね!は「辛(から)そう」、こんにちはを「ズロース一丁(いっちょう)」などと伝え、お茶を濁している。

 

ズロース一丁、パンツ一丁、拳銃一丁、豆腐一丁。「丁」については、むかしから疑問がある。この助数詞が使われる原理原則が、いまだにわからないのだ。

 

精選版 日本語大辞典によると、丁(挺・梃)は

①鋤(すき)・銃・艪(ろ)など、細長い器具の類を数えるのに用いる

②駕籠や人力車など、乗り物を数えるのに用いる

③ 酒や樽を数えるのに用いる

この定義になんとかあてはまるのは、上にあげたもののうち、拳銃(銃)だけではないだろうか。

 

日本語上級学習者から、丁を使うケースについて質問を受けたことがある。「わからん。とにかく、パンイチ男が右手に拳銃、左手に豆腐を持っている姿をイメージし、暗記せよ」と教えた。が、彼女は首をかしげて「ラーメンは?」。

 

たしかに「へい、ラーメン一丁(いっちょう)!」は日常語だ。一本とられた(一丁ではない)。

 

ちなみに、「本」は細長い無生物をかぞえるらしい。ではカツオの一本釣りは?虫歯3本は?

ますます助数詞の深みにはまっていく。

 

*参考:助数詞「本」のカテゴリー化をめぐる一考察 (濱野・李2005?)

 

 

 

スベる比喩、ウケる比喩(アナロジー)

うーむ。「田舎から出てきた右も左もわからない〇娘を×××漬けする戦略」か。まともに書くことすらはばかられる比喩(アナロジー)である。

 

この発言時、某「デジタル時代の総合マーケティング講座」では、会場のあちこちで笑いが起きたとある。一流大のリッチな社会人講座を受講する、ふところの豊かさと深さを持つ聴衆である。失笑か冷笑か、ただの愛想笑いか。この上場企業役員は「ウケた」と解釈して舞い上がり、場外で炎上した。

 

滑落したアナロジー。おなじく、この会社の戦略自体もスベるような気がする。

 

マーケティングは、いうまでもなく買い手がすべてだ。その対象は、若年層の女性らしい。ところが最終顧客の顔が、一瞬でもよぎらないこのトークである。そんなセンスで立案したコンセプトが、ウケてほしい層に届くとは思えない。

 

会社の謝罪文もズレている。「多大なるご迷惑とご不快な思いをさせたことに対し、深くお詫び」ではない。安全安心であるはずの、学びの場を台無しにしたことについて、一企業として恥じてほしかった。また、主催者もおなじく恥じてほしい。市井の講師の立場からおもう。

 

で、本題である。アナロジーには、興味関心やバックグラウンドが、すべて出てしまう。使う語彙(ごい)が、その人の教養の範疇を出ることはないからだ。

 

動物好きは動物、スポーツ愛好者はスポーツ。私自身は、乗馬の経験があるので、つい、ウマの話に走りそうになる。だがいかんせん、競馬ファンも含めてウマ好きは多くない。このように、聴衆とに共通項がとぼしそうな題材は要注意だ、

 

昭和の講師は「ネタに詰まったときは、野球とマージャンとゴルフのたとえ話」といわれていたらしい(団塊の世代の必修項目)。行動の基本が個となったいまでは、なにがいいだろうか。

無難なところは食べ物。あと、コンビニ、銀行、スマホいじりなど、公共・半公共の場での人間のふるまい、か。

 

コツは、いいことは人の話、失敗談や滑稽談は、全部自分のせいにすることだ。言われたらどんな気がするか、違和感をチェックできる。なにより、他人を傷つけない。

 

たとえば冒頭の例を「右も左もわからない〇〇のオレを××新地にどっぷりはめた、アノ戦略」などと、ご自身を例に置き換える。世間様に通用するアナロジーかどうか、身に染みてわかるだろう。品位を下げるのも、自分だけですむというものだ。

 

 

学(まね)びの季節

コロナに振り回された日常が戻った、というよりは、コロナに慣れざるをえない2022年、ようやく新入社員研修がリアルに戻ってきた。5月いっぱいはこうした研修が続く。

 

やはり、講師にとってはリアル研修の方がありがたい。オンライン研修では、反応がつかみづらい。特に新採の場合は、ちゃんとついて来てくれているのか心配しつつ、見えにくい画面に目を凝らしつつ、ひとりオーバーアクションでしゃべる。孤独な作業であった。

 

対面する新入社員に対して、今年も、官民・業界を越えた、なんとなくの傾向を感じている。

 

びっくりするほど素直だ(少なくとも表面的には)。もちろん、自己承認欲求全開の「構ってちゃん」とか「みんな違ってみんなよい」多様性の誤認型はいる。そうしたタイプも含めて、総じて、前向きで元気であるとの印象を受けた。

 

ただ、年齢の乖離とともに、当方の「常識」が通用しなくなっている。表記ひとつをとっても「こんにちわ」を当たり前に使う(正しくは「こんにちは」。念のため)。また、ウルトラ性善説なのも心配だ。人とのコミュニケーションに、マイナスのイメージをもつことが難しい。笑顔で対すれば何とかなると思っているようだ。

 

真っ白で、のびしろいっぱいの新人。ローレンツ博士を慕った赤ちゃんガチョウのように、職場のすべてを全身で吸収し、そのカラーに染まりながら育っていく。

 

彼女彼らの配属先となる、先輩社会人のみなさん。ちゃんと学びの手本となる準備はできているかな?話し方や聴き方、ー挙手一投足を注目されるだろう。いいことも悪いことも、すぐにマネされるぞ!

 

メイド・イン・ジャパンのジレンマ

最近、着物にハマっている。

 

必要に迫られ、、なんとかひとりで着られるようになったのがきっかけだ。ハマるといっても、若いころあつらえたり、譲り受けたりした「おふる」を、着用可能か吟味しているレベルだ。 

新品の仕立てまでには、とてもいたらない。

 

反物からあつらえると、普段着でも数十万。よそいきだと、気合が入った帯や草履などとそろえると、2000CCクラスの国産車が買えるほどになる。まったく、シャネルやグッチなど海外ハイブランドの値段がかわいく思えてしまう。

 

というわけで、着られるおふるを選別している。虫食いや変色品、顔うつりの悪いものを処分。こうしたNG組のなかの古い襦袢(じゅばん)を解体してみた。

 

布は羽二重(正絹/シルク)なのだろう、薄手ながらずっしりした風合いで、なめらかさを失っていない。ミシンかと思われたミリ単位のステッチは、すべて手縫い。脇や裾にある生地の縫込みは、体型変化やオーナーチェンジによるリユースに備えたものだ。

 

細やかな手仕事ぶりに驚嘆する反面、21世紀のいまではオーバースペックであるという気もする。これじゃ気軽に洗濯にもだせない。襦袢はあくまでも下着で消耗品なのに。

 

ところが、呉服業界は、襦袢をはじめ、シルクや麻など天然繊維の手縫いを、現在でも主力商品としている。だからクルマ並みの価格帯になるのだ。ただしコスト削減のために、いまや原料を中国に、縫製をベトナムやインドネシアにたよっているときく。

 

原料と生産が国内でまかなえない状態で、正絹や手縫いの伝統にこだわるのはなぜか。高額品としてのブランドを保つためか?海外ハイブランドのオートクチュールが、シルクや手縫いに固執しているという話は聞かないが。

  

こだわりスペックで価格が高止まりし、売上が低迷する。利益率を確保するために、やむなく海外生産へシフトする。これに逆比例して、国内の生産者や技術継承者は減っていく。イノベーションも生まれない。旧態依然の商品にたいして、さらにマーケットが縮小する。

 

まさにメイド・イン・ジャパンが直面する悪循環。ハレの日の高額品として、生き残る道を選んだキモノの運命やいかに。

 

ポーランド語とロシア語とルンバ君

この1カ月間、不覚にもブログで沈黙してしまった。

 

ウクライナとロシアは、ともに学生時代に立ち寄ったことのある場所だ(当時はソ連邦)。今年に入って、その関係にきな臭さが立ち上っていたものの、まさか全面戦闘状態に入るとは。どう出口戦略を見出すつもりなのか。

 

気分が重い。うちのお掃除ロボット・ルンバ君から話をスタートさせようか。

 

ルンバ君は語学の達人で、15,16か国語をこなす。最初は「電源が切れました」などと日本語でしゃべっていたが、あちこちいじくっているうちに、どんどん言語が切り替わっていってしまった。今しゃべっているのは、たぶんポーランド語である。その前はロシア語だった。

 

この2つは言語として、とても近いらしい。使っている文字は違う。ポーランド語はアルファベット、ロシア語はキリル文字だ。文章を一読してもピンとこないが、話し言葉だとだいたい意味が通じちゃう、という間柄のようだ。

 

ウクライナ語とロシア語はもっと近い。標準語と標準関西弁ぐらいという人もいる(バラエティ番組の司会と吉本芸人とのトークぐらいか)。そして同じキリル文字を使う。だから大国ロシアは「内政問題」と捉えているのだ。

 

だが話せばわかる間柄なら、なんとか話し合いで解決できなかったのか。「国々の衝突(戦争)が進歩をもたらす」といった学者もいるが、今の戦争はなにものも生み出さない。

 

かつて米軍の地雷除去ロボットだった、ルンバ君の華麗な転身ぶりをみるがいい。iRobot社が昨年発表した売上高は全世界で 14 億 3,040 万ドルで、前年比プラス18%以上。ちなみにうちのルンバの生まれは中国。多くの国が平和的にかかわってこそ、新しいものが生み出せるのに。

 

 

ターゲティング広告のナゾ

「監視されているのか!?」「盗聴されたか!」。FBやウェブサイトなどのターゲティング広告をみて、そう感じる方も多いのではないだろうか。私もそのひとりだ。

 

最近あった例を挙げてみる。

 

1 有名皮革メーカーのバーゲン会場でアルバイトした知人と、お茶を飲んだ。ご婦人方の靴・バッグ争奪戦ばなしに大笑い。それから数日間、なぜかFBでそのメーカーの広告がつづいた

2 マッチングアプリの「いいね!」数について、電話で知人からの長い自慢話をきく。それ以降、『中高年マッチングサイト』の広告表示が、FBやウェブサイトでやたら目につく

3 家電の設置に来た業者から、外壁塗装をすすめられる。その後、外壁塗装の広告があらゆるウェブサイトに顔を出すようになった

 

スマホやタブレット、パソコンは盗聴器、監視カメラなのか。そして関係各所に情報を提供しているのか。ほかに原因はないのか。

 

3については、業者が原因とにらんでいる。外壁塗装見込み客の登録リストが、なにかの拍子に漏えいしたのではないだろうか。

 

2は、キーワード検索や位置情報からターゲットになった可能性はゼロ。だから、類似ユーザーターゲット+因果関係の取り違え、をうたがっている。

 

つまり、広告は、年齢などの属性情報などをもとに、もともと表示されていた。それをスルーしていたのだが、知人との話をきっかけに、その手の広告に注意がむくようになった。認知の問題、という説である。

 

1については、正直なところ、まったくわからない。

 

年齢など属性情報からの広告だとすれば、ピンポイントすぎる。そのメーカーの購入歴もなければ、検索履歴などもない。そもそもインターネットで靴やバッグは買わないから、この分野の広告表示自体がないといっていい。×ユーザー情報、×コンテンツ情報、ナゾは深まる。

 

そして、わたしにとってターゲティング広告最大のナゾは、本の広告がほとんど表示されないことだ。検索回数とネットでの購入頻度は群を抜いているし、金額もコンスタントに高い。優良顧客なのに、無視されている。AIにやる気がないのか。

 

ちなみに、アマゾンのAIはなかなかのポンコツで、購買歴のある本を、くりかえしおすすめしてくれる。

 

AIよアルゴリズムよ、ちゃんと私の嗜好をよみとってくれたまえ。聞こえましたか? 

アナログへの誤解

「うちの会社はアナログですから」。

 

電気分野で独自技術を持つ、優良メーカーのトップからそういわれたときには、面食らった。が、次の瞬間、ああそうかと納得した。

 

アナログとはもともと「数値を、長さや角度などの連続する物理量であらわすこと」だ。水の流れに例えられる連続性は、電気の性質そのものだ。これを「アナログ」といわずしてなんといおうか。

 

とはいえアナログには、古臭い、前時代的な、なんてイメージがつきまとう。それはなぜか。

ひとつは、時代錯誤をあらわす「アナクロ」の影響だ。語感がよく似ている。

 

もうひとつは、ライバル語「デジタル」のせいだ。

 

20世紀の中ごろまでは、電圧の強弱で信号を伝えるアナログコンピューターが主流だった。その後、二進法のデジタルコンピュータが出現。時計にもこの考え方が適用され、アナログは駆逐された。ここからおそらく、前時代vs現代というイメージが生まれたのだ。

 

ただし、アナログコンピュータは今でも存在する。スケジューリングや医療用画像の解析など、多くの変数を必要とする分野は、デジタルコンピュータはむしろ苦手。最適解が決定できないらしい。そこを託すべく、現在、アナログコンピュータの開発がすすめられている。

 

そういう意味では「アナログ人間」とののしられたときには、にっこりと笑って「ありがとう」と返すべきなのだ。ただし「アナクロ野郎」に対しては、憤怒してよい。まちがえないようにね。

 

エントリーシートと論文は違いますです

先日、師匠筋が、いつもの文体をわざと「です・ます調」にしていた。その違いがけっこう強烈でおもしろかった。名文でマネをしてみる。

 

●吾輩は猫である。名前はまだ無い。

 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。

 

いわずとしれた、夏目漱石『吾輩は猫である(1905-07)』である。今から100年以上前の文章なのに、注釈なしでほぼわかるのがすごい。

 

これを、ですます調にしてみる。

 

○吾輩は猫です。名前はまだありません。

 どこで生まれたか、とんと見当がつきません。なんでも、薄暗いじめじめしたところでニャーニャー鳴いていたことだけは記憶しています。吾輩はここで始めて人間というものを見ました。しかもあとで聞くと、それは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうです。

 

後者○に違和感はないか?あるとすれば、それはまず「吾輩」にただよう、上から目線の一人称と、低姿勢な文体のミスマッチでではないか。「私」「ぼく(オスなので)」に修正したくなる。「オレ」でもちょっと合わない。

 

つまり、ですます調にしたとたんに、ひとりごと感、がなくなるのだ。読み手を想定した「読んでいただく」文章に様変わりする。

 

結論、読んでもらいたかったら、エントリーシートはですます調で書こう。

 

え?学術論文は、教授によんでいただくのに、である調だって?そりゃそうだよ。ですます、はいわばお飾り。粉飾された文章を、えんえんと何十枚も読んでごらん、うっとおしくて内容が頭に入ってこない。

 

 もうひとこと。句点はカンマ(,)、読点はピリオド(.)ではなく、点(、)とマル(。)でよろしい。

 

論文がこれを強いられるのは、昭和以前の昔、公文書に和文タイプを使っていたことが元になっているそうな。タテ書きのマス目の右上に「。」や「、」を設定するのは、技術的に至難の業だったらしい。

 

だから「君、カンマとピリオドを使うのが常識だよ」と卒論修論博論のチェック時にエラそうに注意されたら、「それって尾てい骨とか、シーラカンスと同じですかね」と言い返したまえ。

 

*参考

公用文の横書きのコンマ、時代遅れ?68年後の見直し案 朝日新聞デジタル2020/12/27

 

パソコン(スマホ)病

肩こりに目のつかれ。パソコン(スマホ)病は数々あれど、漢字のド忘れは深刻だ。添削業務では、手書きがベターである場面もまだまだ多いので、ド忘れは非効率である。

 

だが、副産物もあった。漢字が多い手書きは読みにくいと悟ったのだ。「よろしく」「宜しく」「夜露死苦」、いずれが読みやすいかは、いうまでもない。機械入力であっても、ウェブではキーワード以外には漢字を使わない方がいいかもしれないとさえ感じている。

 

ところが最近、英語のつづりでも、同じ度忘れをおこしていることに気づいた。感謝するはapriciateだったかappreciateだったか、ハサミのつづりはじめはsからcからか。つづりを入力しかけると、機械が正しい単語を表示してくれることに慣れすぎた。

 

お礼ハガキ程度の文面が進まない。漢字と違い、ひらがなという別選択がないのでやっかいだ。読み返した結果、修正液に登場いただくことだってある。

 

その点、19世紀以前の英語は、おおらかだったようだ。つづりの間違いはあたりまえ。それが発音を変化させたり、逆に発音の間違いがつづりに影響したことも多いらしい。oftenでtを発音する人が意外に多いのも、そのなごりといわれる。

 

さて21世紀に生きる自分はどう対処したか。スマホに話しかけてつづりをチェック(滑舌が悪くいっぺんで聞き取ってもらえないこともあり)。画面の文字を、せっせと紙面に移した。

 

Google先生のいらっしゃる現代は、スペルミスに不寛容な時代でもあるのだ。

 

英語の特徴のいろいろ(2) 能澤正雄(2003)

 

いいかげん

とある近所の飲食店の貼り紙を、いつも楽しみにしている。

 

『入院中のおばの見舞いのため、夜のみの営業とします』『腰痛のため、休業します』『スタッフ補充のめどが立たないため、席を間引いています』

 

なにがおもしろいか。期待をこえる情報を盛り込んでしまう、旺盛なサービス精神(ご本人にはたぶんそんなつもりはない)がである。

 

顧客がもとめているのは、「店が」「いつ」開いているかである。入店するか、断念するかの判断材料にしたいからだ。「店主が」「なぜ」は、ほとんどの顧客にとってムダ情報。そこにあえて力点をおくズレ方に、おかしみを感じてしまうのだ。

 

情報は、多ければ多いほどよいのではない。文章を書くことは、「書かなくていいことはなにか」を考えるのと同意義であるといっていい。絵やイラストもそうだ。

 

採用時のPRだって同じである。何を伝えるとより効果的か、加減乗除しながらいいかげんに調整する必要がある。

 

そこで、シューカツ生さんへのアドバイス。まず「自分らしさ」を知ってもらうという、主目的を忘れないこと。エピソードの伝達自体が目的ではない。また、あれもこれもとよくばりすぎると、「結局キミ、どんな人なの?」になってしまう。

 

採用側の方々へ。こと大企業に関して言えば、トレンドワードのSDGsをPRの主役にしないほうがいい。やって当たり前の話で、自社の差別化にはなりにくい。なにより「御社の、社会持続可能性をさぐる企業姿勢にひかれました」と、つかいまわしのセリフを、学生さんらからえんえんと聞かされるハメになりますぞ。

 

働き方改革の目指すもの

働き方改革とかけて「残業縮減」「DXの推進」ととく。そのココロは「組織の存続(短期的には’競争力の向上’)」。多くの企業の解釈はそれだ。

 

だが本来この解釈は正しいのか?旗振り役である厚労省のHP『働き方改革の目指すもの』をみてみよう。

 

我が国は、「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」などの状況に直面しています。(中略)

「働き方改革」は、この課題の解決のため、働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています。

 

わかりにくい文章だなぁ。願望と目標、目的と手段と結果がごっちゃになってぼやけている。

どうやら、「生産年齢人口が減少」→「育児や介護など家事労働が現役世代を圧迫」→それを「働き方改革」でなんとかせい、という図式のようだ。

 

ツッコミどころは以下のようなところか。

 ・「育児や介護の両立」は本当に「多様なニーズ」か。ニーズというよりは、今まで見ないでやり過ごしてきたものを、しゃーなしでスポットを当てているだけだとおもうが

・「より良い将来の展望が持てる」が、なぜ「目指す」ところになるのか。単なる副次的効果じゃないのか

 

つまり翻訳すると…労働力人口の減少により一人に求められるマルチタスクの本数が増えるから、みなさんは「多様な働き方」をしてね。そうすると我が国は「より良い将来の展望が持てる」から、ということだ。

 

なんのことはない。働き方改革とは官民挙げての『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』マンパワー編であった。みんなで幸せになろうよ、というメッセージが感じられないのが哀しい。厚労省の英訳は「健康と労働、豊かで幸せになる省(Ministry of Health, Labour and Welfare)」なのに。

 

視覚・聴覚・体感覚

自分の中に情報を取りこんで習得したり、取り出して表現したりするときの感覚経路の代表格は視覚、聴覚、体感覚だ。ただし、どの経路を優位に使うかは人によってさまざまらしい。

 

タハラはといえば、情報を習得するときは、聴覚優位である。小さいときから目が悪かったことが影響している。

 

小学校の高学年には、教室の席が2,3列目より後ろになると、黒板が見えづらい状態だった。かといって、眼鏡はかけたくない。前列移動を志願して、チョークの粉や教師のツバキを浴びる覚悟があるほどまじめでもない。板書はあきらめるとしても、サボっていないぜアピールが必要となる。そこで、聞き書きすることが常となった。

 

耳に残った語を拾って、〇や△や→でとりあえずつなぎ描くのが私のノートだった。ほとんど暗号だとよく教師におこられたが、今からおもえば「思考の視覚化」である。小学生のくせにエライ高度な技をつかっていたことになる。すなおに黒板を写した方がよっぽど楽だったろう。

 

おかげさまで、情報のインプットは聴覚優位、アウトプットは視覚優位となって定着した。

 

苦手だったのが体感覚、つまり手を動かして体で覚えることだ。漢字の百字練習や英単語の書き取り訓練にいたってはほとんど罰ゲームに感じられた。あんなことをして覚えられるわけないだろう、と成人後に恨み言をいうと「そういう感覚が信じられない」と多くの人に返されたのには驚いた。本当に人それぞれなのだ。

 

学習のやり方やペース、そして表現の方法はそれぞれ異なっている。大切なのは「人はみな違う」という前提に立つことだ。特に伝える側は、教室でも仕事場でも、相手がどういうタイプなのかよく観察する必要がある。自分のやり方を押し付けちゃいけない、としみじみおもう今日この頃である。

 

坂本龍馬≒空海説

タイトルを見て「なるほど、義経がジンギスカンになるよりは、空海が坂本龍馬に輪廻転生していた方がまだ可能性は高いか」と早合点しないでいただきたい。このヒーローたちには意外な共通点があるという意味だ。

 

それぞれの活躍の年代は1000年以上へだたっている。一方で、四国出身で(山脈を挟んで北と南に分かれているが)かつ諸国を行脚しているという点がまず同じである。

 

空海の活動時期は8世紀末から9世紀初頭。讃岐国(四国)で生まれ、平城京~九州・博多から船で唐・長安(中国・西安)へ。そして帰国後、都で権力者たちと調整を図りつつ、高野山(和歌山)に寺を建てた。その合間に修業を積んだり、ため池と作ったりと、近畿・中国・四国地方など西日本に神出鬼没(即身成仏の身であられるが)している。

 

対して坂本龍馬は同じ四国でも、幕末の土佐郷士。1年ほど江戸に遊学したのちに土佐に戻るものの脱藩。以降、江戸~京都を行ったり来たり、あるいは長崎で商社を設立したり婚姻記念に宮崎に足を延ばしたりと活動範囲は広い。蝦夷地(北海道)の開拓も夢見ていたというから、もう少し長生きしていたら北は北海道から南は琉球まで、日本縦断は間違いなかっただろう。

 

もうひとつの共通点は、エピソードの多さである。

 

空海が中国留学中に投げた独鈷が飛んできた、という高野山の由緒は有名だ。政府の肝いりでため池造成に励むかとおもえば(農水省のHPのお墨付きである)、口と両手両足の五筆で書を記すわ、ライバル僧を呪詛で妖怪に変えるわ、大昔の人だからエピソードもやりたい放題だ。

 

だが龍馬だって負けてはいない。新婚旅行の始祖であり、FIRE組(=脱藩者)希望の星でもある。薩摩藩などの協力で設立した亀山社中(のち海援隊)は、日本初の株式会社といわれている。そしてもっとも名高い功績が、「薩長同盟」と新政府のビジョンを示した「船中八策」である。が近年、この2つをはじめ、明治維新に対する龍馬の貢献度合いに疑問符がつけられているらしい。

 

とすると、ひょっとしたら空海同様、龍馬も同世代と後世の人たちが作り上げた、ひとつのアイドル(偶像)なのかもしれない。

 

「遠くから来たエライ坊さまがこんなことをなさったらしい」「ホウホウ、それはきっと空海さまとおっしゃる方じゃ」、こんな感じで弘法大師伝説が成立していったように、志なかばで倒れた、多くの名もなき若き土佐の志士のエピソードが「坂本龍馬」として結実したのか。

 

11月15日は龍馬の誕生日&命日である。高知に残されたあちこちの足跡を見ながら、そんなおもいにかられた。 

縁の下の幸福論か、やりがい搾取か。 プロフェッショナル・仕事の流儀

1/13放送 NHK「縁の下の幸福論 プロフェッショナル 仕事の流儀」をご覧になっただろうか。

 

”出版物に記されたことばを一言一句チェックし改善策を提案する校正者。並みいる作家や編集者から絶大な信頼を受けるのが、大西寿男(60)。…小さな部屋で人知れず1文字の価値を守り続けてきた半生。”

 

というキャッチフレーズは伊達ではない。誤字脱字チェックだけではなく、語感からファクトチェックまで、ことばの森に入り、たちどまり一字一句に向き合っていく。その真摯な姿に胸を打たれた。

 

同時にうーむ、とうなってしまう。一字0.5円以下とは。私が小遣いを稼いでいた●●年前と、単価が変わっていないどころか、下がっているんじゃあ…。

 

取材する側も、その点が気になったのだろうか。キャッチコピーにあえて「小さな部屋」を入れたり、取材者をもてなす惣菜の2割引シールをアップにしたりして、ことさら、つつましさ(労力>労働対価)を強調していたのが興味深い。

 

そう、サラリーパーソンとちがって、校正にしろ翻訳にしろ何にしろ、自営業の受注仕事は、凝りはじめるとキリがないのだ。

 

「あれ、これでいいのかな…」と立ちどまってしまうと、もうダメだ。いろんなサイトを開き、手元の辞書を調べ、考え込んでしまい、自ら時給を下げてしまう。

 

一時期、それが気に入らず、時給の単価を頭で計算しながらやっていたことがある。だがそちらの方がよほど非効率だった。納品してからも気になって仕方ない。「やりがい搾取」と言われればそれまでだ。が、そういう性質でないと務まらないのだろう。

 

ちなみにこの大西さんは、私の出身高校の先輩らしい。

 

かの高校の風物詩は、興味のない授業から脱走することだった。映画評論家として有名な大先輩、淀川長春さんの脱走先は映画館。この方だったら、行先は図書館だろう。本の森に、静かに身を潜ませ開くページに心躍らせていたに違いない。

 

*現在、この高校は「脱走禁止」の校則がある。「出前厳禁」なんて校則もできてしまった。私も含め、一部のふらちな生徒の行動が目に余ったせいであろう。後輩たちよ、選択の自由を奪って申し訳ない

 

 

刺さるワード、刺さらないワード

ある組織で、上司から部下への言葉がけが思いきりスベった現場を目撃。むかしむかし、自分がPTAの役員への就任をつよく請われた場面がよみがえった。

 

熱心なPTA勧誘を断り切れず沈黙するタハラに、相手がキラーパスを出したときのことだ。

現役員:大丈夫ですよ。誰でもできる仕事ですから

タハラ:あ、誰にでもできるんだったら、他の人に頼んでください

 

自分にしかできないことをやりたがる、唯我独尊タハラの対局にあるワードが「誰にでもできる」だ。大丈夫、というキラーパスは、場外に蹴りだされてしまった。

 

人の価値観はいろいろだ。たとえば、下のねぎらいの言葉。交流分析をもとに考えてみたが、みなさんはどれがピッタリくるだろうか。

 

1「あなたに任せたら安心だ」2「普通はここまでできないよね」3「あなたのおかげで助かっている」4「やり方をいつも勉強させてもらっている」5「骨身をおしまずやってくれている」6「いつもひと味違うよね」7「先が楽しみでしかたない」8「感謝しかない」

 

知人に聞くと、1,3,8あたりが心に響くらしいが、人によっては「ならばもっとギャラよこせ」になる。ほんとうに十人十色だ。

 

こんなふうに人はそれぞれ違うけれど、一番大切なのは、心から自分のおもいを伝えることだ。やれエニアグラムだエゴグラムだとツールに振り回されず、しっかり相手を観察し、言葉を使い分けてほしい。

 

時の流れとN進法

この「とはずがたり」の前身となるブログをはじめて12年。週1どころか、月1近い息も絶え絶えのペースながら、これまで続いているのはめでたい限りである。卯年から卯年へと、干支が一周したことになる。

 

それにしても、干支にしろ月にしろ、時にまつわる数字に12が多いのはなぜか。今をさかのぼること数千年前の古代バビロニアで、モノを分けるときに重宝した数字だったから、がその理由のようだ。

 

たしかに、ピザをとりあえず12分割しておけば、

・6人→2ピース

・4人→3ピース

・3人→4ピース

・2人では6ピース

と、ケンカになりにくい。

 

まてよ、5人では?と、ツッコミたいあなた。1切れを5等分の細切れにして、1名ずつがそれを6ピース分もらっていけば公平だ(そんなもの食べたくないが)。少なくとも、古代バビロニア人はそんな発想で、12分割した1時間をさらに5つにわけ、60進法的にとらえる方式を編み出しだらしい。

 

1時間が60(12×5)分、1日が12時間2回、1年は12か月。12がらみで気持ちよくまとめた昔の人はエラい。なのに、なぜ曜日だけ、日月火水木金土と7進法チックに展開したのだ?本当にヒトって、ヘンな動物だ。

 

あるときは7進法チックに、あるときは12進法風に。流れゆく時間に刻みを与え、やれ日曜だ、正月だなどと、意味づけして大騒ぎしている。それでも月が変わっただけで、師走のあわただしさが影を潜め、正月独特のまったりした気分になるから不思議なものだ。

 

などと雑多なおもいをめぐらしつつ、あらためて、新年のごあいさつを申し上げたい。今年こそ、もう少しまめなブログ更新を実現したいものだ。

 

ガクチカの有無

2023年卒生の就職活動の追い込みと、その次年度の合同説明会とが重なる時期になった。両者から聞こえる嘆きは、エントリーシートの最重要項目のひとつである「ガクチカ」。すなわち、「学(ガク)生時代に力(チカら)をいれたこと」を書くネタがないということだ。

 

インターンなどで着々と積み上げている学生もいるが、大部分の学生にとっては悩ましい部分だろう。2020年からつづくコロナ禍は、あなたがた学生から、遊んだり学んだりする機会を奪ってしまったのだから。

 

でも、あらたねて強調したいのは、企業が求めるのは、めずらしい体験談ではないということ。あなたがどんな人間であるか、つまり、どんなときにスイッチが入る人間なのか知りたいだけなのだ。

 

そのためには、自分自身の日常を見つめなおすことがいちばんだ。中高時代からコツコツと継続している習慣や心がけなどで、「私はこんな人間です」と伝えられるようなことはないか?題材はどこにでもある。落ち着いて考えて、リストアップすることからはじめるとよい。

 

※ガクチカに対して、なんでも略すな、と怒る外野のあなた。パンスト(pan-suto)、ゼネコン(zene-kon)など、長い語を二音節に縮めるのは、日本の略語の王道であると心得るべし。ちなみにシューカツ(これも二音節か)関係では「エレオク」「オヤカク」なんてのもあるぞ。

 

 

私の恐怖体験 ヨサク越え

そのとき、ちょうど16時ごろだったか。高知県西部の梼原町を出て約1時間、対向車をなんとかかわしながら、40キロほどの山道を走破、国道439号線にたどり着いた。

 

旧・大正町の道の駅に立ち寄り、買ったトマトでほっとひと息。やれやれ、文字通り峠は越えた、目的地・四万十市の中心地まで、この道を走れば40キロ弱。日暮れまでにはつけるだろう。

 

ところが、ナビにしたがって再スタートしたとたん、道は山にわけいり、険しく、細くなってきた。まずセンターラインが消え、次にガードレールが消え、そしてアスファルトが消えた。荒れた路面をおおう木の葉のうえに、うっすらタイヤ跡があるのみだ。

 

おまけに、山肌より染み出した水が、道路を横切り、反対側の路肩からポトポトと垂れている。こわごわのぞくと、はるか下に川が見えた。道を間違えて、異世界にでも迷い込んだか?引き返そう。

 

決死の覚悟で下り道をバックし、大木の根っこに乗り上げギリギリUターン。道の駅の手前までもどってルートを再検索した。

 

ところが、ナビ導師もグーグル先生も「先ほどの道をすすむしかないぞよ」とのご託宣だった。あれが国道?別の道はないのか?ピンチアウトすると、なぜか画面がとんでしまう。う回路がわからない。紙の地図をもってこなかったことが悔やまれた。

 

土地勘がないうえに、もともと、大変な方向音痴である。いたずらに道を探してとんでもないところで立ち往生するより、日暮れまでに、この狭路を一気に乗り切った方がよかろう、そう腹をくくった。

 

そこから、うっそうとした原生林にかこまれた夕暮れどきの約一時間。ライトも追いつかないクネクネ道を右に左に忙しくハンドルを切り、鉄板をわたしただけの橋(といえるかどうか)をいくつかこえ、ときどき濡れ落ち葉に後ろタイヤをとられながら、地崩れの箇所は気持ちだけよけつつ、走りとおした。

 

無事下山してから、5分ぐらいは放心状態だった。対向車との離合がほぼなかったのが、不幸中の幸いだった。

 

あとで調べると、そこは四国、いや全国最恐の国道のひとつ「酷道439号」だった。しかも通った区間は、道幅2.5m以下の通称「ヨサク(439)越え」。数年前、NHKがここを放送で取り上げている。怖いもの見たさで他府県ナンバーが殺到したために、レスキュー隊が出動しまくり地元は大迷惑したらしい。

 

学んだこと:

ドライブ中に、長い髪をたらした女が突然バックミラーに映ったり、フロントガラスに血の手形をベッタリつけたとしても、怖がる必要は全くない。ガードレールのない路肩から転げ落ちる思いをするよりはるかにマシである。(でも不審者なら110番、交通事故なら119番にすぐ通報のこと)

 

NHK ドキュメント72時間 「ゆきゆきて酷道439号線」 

 

 

意識高い系と、持続可能なキャリア

大手前大学の北村先生の著書『不確実性の時代を生き抜くヒント(2022 大学教育出版)』。キャリア研究の最先端が凝縮された、とてもおもしろい本である。ただし、SDGs流行りを意識した帯風のデカ字「持続可能なキャリア」が暑苦しい(先生、ゴメンナサイ)。

 

本の内容は、転職を繰り返してキャリアアップをする人たちの、いわば「鋼のメンタル(心理的資本)」の構造を追求した内容だ。複数回の転職を経てCFO(最高財務責任者)に至った40歳以上の8名の男女を対象に、それぞれ約2時間にわたるインタビューを実施し、のべ約30万5千字にもわたる記述をM-GTA方式で概念化。キーワードを抽出している。

 

キーワードは「転職人生を生きる覚悟」「自分の売りを磨く姿勢」「成長志向」「何とかなる自信」「不確実性の中で決める力」など。私が興味をひかれたのは「不確実性の中で決める力」だ。いわゆる意識高い系と一線を画すのはこの部分だろう。

 

「転職人生を生きる覚悟」「自分の売りを磨く姿勢」「成長志向」「何とかなる自信」は、意識高い系の人々にも存在する。ただ、この本が示唆するとおり、私の知る彼女ら彼らには「不確実性の中で決める力」に必要な、ある要素が欠けている。

 

それは、自分のなかに明確な仕事観を持っていないことだ。社会のなかで自分はどう生きるか、という見極めだ。

 

だから、一流企業だとか一過性の待遇の良さとか、他人の耳目を気にしたものさしを転職先にあてはめざるをえない。自分の人生でありながら、そこで主人公を務めることが難しい人種である、ともいえる。

 

さて、キャリアアップをめざすみなさんはいかがだろうか?「不確実性の中で決める力」の正体のほか、内容が気になる方は、ぜひこの本で続きをどうぞ。

 

知らんけど

 

この言葉については、大阪弁ネイティブの橋下徹氏は「僕は生まれた時から使っていますけどねぇ」とのこと。さすが元・弁護士だ。基本的にこれは「責任解除」の言だからだ。

 

たとえば、毎年、阪神地方で使われる典型例はこれだ。

●今年こそたぶん優勝やで、知らんけど

 

つまり「優勝する、という私の考えを申し述べました。ただし、それを額面通り受け取るかどうかは、聞き手の判断に委ねますよ」だ。「*参考意見」「諸説あり」などの脚注と同じはたらきをする。

 

無責任や責任回避とは違う。その底辺にあるのは、期待予測だ。あくまでも責任のリリースである。

 

だから「雨が降りそうやね、知らんけど」は、用例としてなじまないような気がする。自然・社会現象など、そもそも個人の責任範囲を大きくこえる場合は「わからんけど」がベターだ。

 

それにしても、どうしていまさら、これが流行語なのか。関西人としては、なんでやねん、と戸惑いを隠せない。 放送大学の金水先生は、流行の理由について「Z世代がネットで影響をうけたんじゃないでしょうか、まぁ、知らんけど」といっておられるようだ。

 

ひとつよろしくお願いします

外国語でどう表現すべきか、悩ましいことがあった。

 

シチュエーションはこうだ。留学中の家族が、引っ越し先が見つかるまでのあいだ、他人の家に転がり込み、やっかいになる。出ていく時期は不透明。そんなとき、相手先にどう謝意を伝える?使用予定言語は英語かロシア語だ。

 

日本語なら、おそらくこういう定型句を使う。

・しばらくご面倒をおかけします

・なにとぞ●●をよろしくお願いいたします

・本当にお世話になります

 

しかし英語もロシア語も、私の知る限りそのような表現は持たない。直訳するとイミフに響くだろう。

 

けっきょくは、「わたしどもは、あなた方の親切に深く感謝する」を言葉を変えて連呼(英語)。あとは適当にごまかした。

 

日本語には、今後生じるであろうトラブルなど、もろもろの現象について、先回りして謝意を述べておく表現が豊富だ。責任解除的な逃げのスタンスというべきか。だが他言語では、もともとそんな考え方が希薄なのだろう(知らんけど)。

 

ちなみに以前、家族の一人が、台湾で「今後とも、密なおつきあいをひとつよろしくお願いいたします」のあいさつの通訳を、上司から強く命じられたことがある。そんな表現ありません、と断ったものの、再度迫られたため、やむなく直訳したらしい。

 

すると相手は、スマホを取り出し「用事があったら、いつでも連絡してね」と、にこやかにLINEのIDを示した。同じアジア人でも「ひとつよろしく」は通用しないようだ。

 

妙齢な壮年

「こういうオレンジ系の服って、妙齢になると着づらいですよね」―20代後半の女性とのやりとりに「???」となったのが、気づきのきっかけだった。どうやら、中高年という意味で使っているらしい。

 

妙齢、で検索すると「街コンいったら、妙齢が出て来たしw」「妙齢のオッサン」など、出るわ出るわ誤用が。検索結果上位100位ほどのページを見ると(ヒマ人か、キミは)、本来の意味の「若い年ごろ(の女性)」より、いわゆる「オバサン、オッサン」として使った例の方が多いぐらいだ。

 

理由は、「妙」という漢字の微妙な立ち位置にあるのだろう。もともとは、きわめてうつくしいさま、すぐれたさま、統計で言えばS.D.(標準偏差)+2より上に対して使う表現である。いわば上位5%に入るエリートな人や物だ。

 

ところが、ふつうでないという意味が転じて、S.D.-2の下位5%未満の事物をもさすようになった。たとえば「妙な人」がそうだ。そこからニュアンスを拾ってできたのが、ネガティブ語の「ビミョー」。おそらく妙齢の誤用も、この流れにある。

 

もう一つの理由は、ニッポンが戦後、世界一の長寿国になったからではないか。厚生労働省の一般的な分類は、「幼年」0~4歳、「少年」5~14歳、「青年」15~24歳、「壮年」25~44歳、「中年」45~64歳。65歳以上の「高年」だ。

 

ところが2021年には、65歳以上は人口の3割、75歳以上が占める割合はその約半分。もはや、どの年齢層が「妙齢=希少価値」なのか。わからないほど、年齢の分布曲線が広がっている現状がある。

 

コトバは世につれ人につれ、変遷していくのは自然のならい。だが使う方と使われる方に、理解のくい違いが生まれるのは困る。こちらがフォローしておかないといけない。

 

よし、いやしくも言葉でメシを喰っている身なら、アップデートあるのみ。そうあらたに研鑽?を誓った、妙齢な壮年の田原であった。

補足:中高年(45歳以上~)=壮年という捉え方が、最近の認識らしい。40歳代以上は、実年齢より20年ほどマイナスして、厚労省基準にあてはめた方がいいかもしれない

 

参考

毎日ことば 妙齢の年ごろは? 毎日新聞社

「初老」は何歳? NHK放送文化研究所

 

 

サギ師と5W2H

「いつ(When)」「どこで(Where)」「だれと(Who)」「こんな目的で(WHY)」「何をした(What)」「どのように(How )」「いくら(How Much)」の頭文字をとって「5W2H」。

 

「5W2Hを報告の骨格とせよ」は、社会人ならば耳にタコができるほど聞いておられよう。情報伝達の基本だ。当方のセミナーでも、口をすっぱくしてお伝えしている。

 

私自身、仕事でもプライベートでも、この基本に助けられた体験は数知れない。なかでも、サギ師を見抜けたことは、記憶に新しい。

 

その人物は、数々の著名人とのコラボレーションにより、とある実績をあげたとして人気を集めていた。「だれと(Who)」「何をした(What)」「どのように(How )」で自分の仕事ぶりを豊かに描き、「ビジョン(≒WHY)」にふれ言葉たくみに信用を勝ちとる。

 

ただし、実績アピールのうち「いつ(When)」「どこで(Where)」が、極端に乏しい点が、どうも気持ち悪かった。ついつい、気になって質問した。

 

すると「おもしろいことが気になるのね~、仕事柄、インタビューが多いからかな。さすがタハラさん!」と明るく高笑いされた。その場に居合わせた人たちも、どっと笑った。

 

こちらは笑えなかった。もともと、愛想笑いが苦手なたちである。第一、相手の目が笑っていなかった。こうやって話をそらしにかかるときは、中身を大きく盛っているか、そもそも本当でないことがほとんどだ。悪気なく、自分の作り話を信じ込んでいるときもあるが。

 

いずれの場合にしろ「いつ」「どこで」を聞きこんでいくと、たいていはつじつまが合わなくなってくる。そして、しどろもどろになるか、怒り出す。

 

そのときは、後者の反応だった。このできごとをきっかけに、そのサギ師とはめでたく縁が切れた。あやうく難をのがれた。

 

さて、自戒を込めて。ほかの体験もあわせ「だまされない」ための教訓を、3つならべたい。おいしいもうけ話を聞いたり、あやしげな宗教に勧誘されたりしたときは、ぜひおもいだしてほしい。

 

1 自分の心が不安や怒り、欲で曇っているときは、だまされやすい

2 「いつ(When)」「どこで(Where)」が乏しい情報は、信用できないことが多い

3 オチが「How Much(いくら)」に落ち着く話は、たいていサギである

 

 

3・3・7拍子と3拍子

「日本人は農耕民族だから、馬の駆け足をベースにした'3拍子'が苦手だ」はホントか?

 

駆け足とは「ばからっ、ぱからっ」といった、3拍子を体感させるリズムだ。が、いかに農耕に使う日本の在来馬が小柄とはいえ、洋の東西を問わず、走りのリズムは同じはず。

 

また、日本は世界に冠たるサムライの国。馬をゆるされたのは200石扶持以上(年収1500万~ぐらい?)といえども、乗馬人口としてはヨーロッパよりも多いのではないか??

 

そして何より「3・3・7拍子」がある。応援や宴会などのハレの場に欠かせないこのリズムは、3拍子だ!

 

…とおもっていたら、最後のはちがっていた。3・3・7のうしろに、いわゆるウラ拍が、1拍隠れていた。

 

では、検証。みなさんお手を拝借。ハイ!

「チャ、チャ、チャ、(ウン)。チャ、チャ、チャ、(ウン)。チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、チャ、(ウン)」。

 

そうです、リズムとしては4拍子。音がない部分が、しっかり音として成立しているのが、おもしろい。かのベートーヴェンの『運命』でも、うまくそれが使われている。

 

クイズ。この曲の超有名な冒頭「じゃじゃじゃじゃ~ん」の最初の音は?

 

耳のいい人なら「ソ」だろう。たしかにドレミファでいえば「ソソソミ~」。だが、正解は…八分休符。最初の音が、半拍分ない。だから「(ん)じゃじゃじゃじゃ~ん」が、正しいリズムだ。

 

聞こえない音が、聞こえる音に存在感を与える「間」。これは音楽だけでなく、トーク、文学、絵画。どのジャンルでもたいせつであるような気がする。 

 

 

ベートーヴェン『運命』 聴き比べ

 

21世紀・ドイツの教会税事情

世間では宗教と政治との問題でかまびすしいが、日本ほど、宗教・思想にユルイ国はないとおもっている。入国審査でうっかり「無宗教」なんて書くと、門前払いになる国もあるのが、世界の常識である。

 

いきおい、ほとんどの日本国籍者は、外国旅行や居住のさい、なんらかの宗教名をむりやり書く羽目になる。(どこだったか「共産主義(Communist)」がチェックリストにあって、笑ってしまった。それ、宗教か?)。ヨーロッパ方面で無難なのは、仏教徒(Buddhst)ではないだろうか。ほとんどスルーしてくれる。

 

ところが、郷に入っては郷に従えとばかり、「カトリック教徒」などと住民登録すると、税金をガッポリとられる国がある。その名はドイツ。所得税の8%だか10%らしいから、消費税以上の金額を支払う羽目になろう。

 

ドイツはプロテスタント発祥の国として有名だが、南部はカトリック信徒が多い。かの有名なルードヴィヒ狂王やオーストリア皇妃となったエリザーベトも、そう。観光地が集中する南部バイエルン州で、壮麗なカトリック教会を目にすることが多いのは、そのせいだ。

 

ところが、カネを支払いたくないのは、人の常。若者を中心に教会ばなれがつづいている。そのため、数年前「税金未払い者に対する、クリスマス参列、教会挙式禁止令」が出たらしい。たしかに、王侯貴族の庇護がない今、政府が教会税を代行収納してくれないと、建物の維持すらむずかしい。

 

だれが、宗教を支えるためのカネを払うのか?その存続に、どこまで政府が力を貸すのか?宗教と政治とカネの問題に、頭を悩ませるのは、どこの国も同じである。

 

 

周回おくれの読書日記 ~ファクト・チェックの前に~

『戦争広告代理店』(高木徹2002)

本の名前は知っていた。だが、なぜ中身に目を通していなかったのか。後悔しきりである。

 

あらすじを解説すると、強国に信仰された弱小国家が、いかにして国際社会から軍事的資金的援助をもぎとり、独立を勝ち取ったのか、だ。そして話の主役は「いかにして」という部分にある。

 

時代は90年代前半、舞台はヨーロッパの東部バルカン地域(半島)。第一次世界大戦勃発の地でもある。そこにはかつて、多民族国家・ユーゴスラビア連邦があった。

 

91年のソ連崩壊をうけ、旧ユーゴにいたスロベニア人、クロアチア人などさまざまな民族が、独立して自分たちの国を作ろうとしていた。ソ連という巨大な星の引力が尽きて、まず大惑星が軌道を外れ、さらにそれをめぐる小惑星どもが、つぎつぎとコースアウトする感じだ。

 

だがその大惑星の主、旧ユーゴのセルビア人勢力は、小惑星らの独立を、軍事力で阻止しようとする。口実は「国内にいるセルビア人の保護」(今年の冬にも、似たようなセリフをきいたな)。

 

反発する民族との間に、内戦がはじまった。戦いは、はじめセルビア人側優位だった。なかでもボスニア・ヘルツェゴヴィナは、圧倒的に不利な立場となった。国連にうったえたが、相手にされなかった

 

ところが、その弱小国家は、おどろくべき手をつかい、形勢を逆転させた。

それは「アメリカの世論に直接うったえる」だった。

 

このシナリオを描いたのは、アメリカのPR会社だった。戦争に、善悪の対立観念を持ちこんで単純化し、国際社会で、弱小国家の応援団をつくっちゃう戦略である。映画『スターウオーズ』帝国軍VS共和国軍の構図を、当時の東南ヨーロッパにもちこんだのだ。

 

「絶対悪」を強調するために、たとえばこんな戦略を作った。

・一つの情報を、アメリカの複数のメディアで増幅させる(情報の拡大再生産)

・スポークスパーソンの演技力を徹底的に磨く(立ちふるまいや話し方、服装、メイク)

そして、

・キャッチコピーをつくる

 

このコピーが有名な「民族浄化(Ethnic Cleansing)」だ。「わが国で民族浄化がおこなわれている」、ボスニアの外相の訴えは、人権と民主主義を信条とする多民族国家アメリカを動かした。

 

当初「ヨーロッパの片田舎のけんか」と評されたこの紛争は、このコトバにより「許しがたい20世紀最後の蛮行」に様変わり。米軍とNATO介入をよんだ。それから3年半、街と人の心に深い傷あとを残し、やっと95年に和平を見た。

 

あらすじが長くなった。さて本題。

この話、25年以上前とは思えないほどの既視感があるよね?この手の情報操作は、シリア紛争やウクライナ侵攻など、遠く離れた異国だけではない。国内の政治や経済、日々の出来事に関しても、応用されているのだとおもう。

 

では、情報の受け手である庶民が、ここから学べるものはなにか。

 

まず、ふだんわれわれが受ける情報は、良くも悪くも、国内外をふくめ、欧米の視点で発信されているという事実を前提にする(日本政府も『おまえ欧米か(古いな)』だ)。旧ユーゴ大使の中江氏は、これを「情報覇権主義の強まり」と指摘している。

 

つぎに「情報の拡大再生産」「情報発信者の演技力」「キャッチコピー」のわなに、自分がはまっていないかということだ。繰り返し繰り返し、情緒的に流されるニュースには注意した方がいい。TVは、用のないときには切っておいた方がいい。SNSでは、アルゴリズムにより、自分の支持する情報が、優先的に表示されるという事実をお忘れなく

 

さいごに、情報発信者がどこか、確認するということだ。

たとえば、市民が武装警官に投石する場面があったとする。

・不気味にそびえる警官の群れに抵抗をする市民の立場

・投石の嵐に無抵抗に耐える警官らの視点

この2つは、ともに事実であっても180度ちがう。つまりものの見せられ方で、印象操作は可能だということを、心得ておこう。

  

賢者は歴史に学ぶ、ものらしい。周回遅れで読んだこの本に、今を考えるカギをもらったと感じている。

  

君の名は

参院選が近づいてきた。さて、どこに投票すべきか。公約をよみくらべる。どれどれ。

 

子育てを支援し、学びを促進し、高齢者を大切にするための社会保障を充実させる。経済活性化のために、労働人口をふやし、最低賃金を上げ、企業の成長戦略を後押しする。持続可能社会をめざし、環境負荷を減らす。LGBTQや障がいなど、さまざまな多様性を前提に、社会における心と体とのバリアフリーをめざす…。

 

などなど国防以外、内政について各党の最大公約数をとれば、こんな感じだ。どこがちがうねん、7つのまちがいさがしクイズか~。とツッコミたくなる。

 

そのなかで、ビミョーな差異に注目してみた。テーマは「婚姻」、同性婚と、いわゆる夫婦別姓(選択制)である。

 

まず、最大与党の自民党。「性的マイノリティの理解促進」という、たいへん、ひかえめな表現が顔を出すにとどまる。別姓については、言及がない。第二与党の公明党は、同性婚と別姓を容認している。

 

一方で、野党は、同性婚と夫婦別姓を、積極的に推進しているところが大半だ。

 

ただ、維新の会だけは、おもしろい。「同性婚をみとめ」とあるものの、別姓については、「社会経済活動での旧姓使用の仕組みを考える」とある。つまり、同性カップルが役所に届け出を出すとき、姓は二者一択しろということになる。

 

この場合の「姓」は、一代限りの飼育を認めるマンションのペット規約、あるいは旧南アの名誉白人の同じ扱いだ。つまり、よくもわるくも、権利の継承、という観点が抜け落ちている。

 

そう、名前とは、相続権を含む、財産権の象徴だった。

 

だから、大河ドラマの北条政子は源政子でないし、時代が下り、相続権をうしなった江戸時代の女性が、名前を通称とされたのもそのせいだ。

 

いまの私たちにとって、姓とは何の象徴なのか?

 

そんな哲学的な問いの前に、改姓の手続きのめんどうくささ。またその後も、仕事での俗名(通称)と、金融機関決済の戒名(戸籍上の名)とがズレるややこしさ。責任者出てこい、といいたくなることだけは、強調しておきたい。

 

…はなしがどんどん本筋からはなれたような気がする。とりあえず、選挙に行こう。

 

皐月晴れ

なんと、関西地方は梅雨明け宣言である。たしか、6月10日ごろに梅雨入りしたはずだから、史上最速なのではないか。

 

暑さにあえぐ8月上旬に、立秋と言われ、寒いさなかに立春をむかえ、梅雨のまっただなかの「水無月」(名の由来については諸説あるが)。旧暦と太陽暦と1カ月のタイムラグがあるにせよ、体感とズレすぎである。

 

このせいで、用法がかわってしまったコトバも多い。「皐月晴れ」はその典型だ。もともと、梅雨の晴れ間をさすはずだったのが、GWのニュースの枕詞になってしまった。小春日和も、ひょっとしてそのひとつなのかもしれない。厳寒からいきなり半袖日和になる昨今、冬のおだやかな日差しをぬくぬくと楽しむことが減ってしまっている。

 

暦と体感のずれは、まだ旧暦のDNAがぬけていないだけなのか、それとも、地球温暖化のせいか。ちなみに2022年は、太陽暦に代わって、ちょうど150年だそうである

 

ブラック派か砂糖ミルク派か、それが問題だ

「コーヒーをブラックで飲むは日本人だけ」というサイトを、いくつか見かけた。これは極論としても、アジア、ヨーロッパにかぎらず、海外ではみんなドバドバ砂糖とミルクを入れているような印象だ(本場アフリカとアラブではどうなのか)。エスプレッソでいえば、これを砂糖なしで飲む人を見るのは、たぶん日本だけだろう。

 

自販機でも、ブラック缶の躍進がめだつ。平成20年代までは、各自販機にブラック缶が1本あるかどうか、ではなかっただろうか。ところが、いまやコーヒー缶が5本ほどあるとすれば、1本はミルク砂糖入り、もう2本が微糖、のこりがブラックといったぐあいだ。健康志向の高まりか。

 

ただし、本当に健康に留意が必要な高齢者層は、圧倒的に砂糖ミルク派である。高齢者宅訪問時のデフォルトは、フレッシュ添えの砂糖入りコーヒー。ときには、砂糖・乳糖類とを入念にかき混ぜたものを供される。そこには、昭和の名キャッチコピー「●●●●を入れないコーヒーなんて」の残り香がただよっている。

 

考えてみればあたりまえだ。日本では、高度成長期まで砂糖は貴重品だった。牛乳を飲む習慣もそのころからで、子どもの栄養不足をおぎなうための学校給食を通じて定着した。大量の砂糖とミルクを入れた高栄養のコーヒーが、当時の人々にとって、どれほどおいしく贅沢に感じられたか想像に難くない。

 

その後、本来のコーヒーの香りや味が楽しめるまで、流通や保存の技術は向上した。だが、人間、出会い頭でおいしいとおもったものが、生涯を通じた味覚の基準になる。

 

ちなみにタハラは子ども時代の記憶から、長らくコーヒーぎらいだった。特に、酸味が強いとされるものを避けていた。が、酸化のすすんだ(つまり古い)豆を当時口にしたのが原因であることに気づき、軌道修正できた。単純なものである。

 

コーヒーをどう飲むかは、その人が、最初にどういう出会い方をしたかによるのだろう。勉強でもスポーツでも対人間でも同じだ。人生を左右するような好き嫌いも、案外単純なきっかけから生じるのかもしれない。

 

白いカーネーションと昭和な日々と

ゴールデンウイークのすぐ後にひかえるビックイベント、母の日。そう「母業」は、世間で最もブラックな仕事のひとつだ。

 

妊娠出産にミルクやりからおむつ替え、弁当づくりにベルマークはり、こどもの送り迎えに近所の付き合い、自分の飯は立って食う。一日平均4時間超、深夜・早朝手当どころか傷病休暇すらもらえぬこの激務。少子化が進むのも無理はない。

  

そのような母の恩は、海よりも深いとしるべし、という教育の一環だったのだろう。昭和40~50年代になるのか、幼稚園から小学生低学年まで、母の日の前後の図工の時間に、ティッシュペーパーでカーネーションを作らされた記憶がある。

 

先生から、ピンクのティッシュを半分に切って重ねたものをわたされる。それをもらったら、まず一センチ幅ぐらいのじゃばらに折る。そのタテ長のまんなかをゴムでとめ、扇を広げる要領で円形にする。そののち、じゃばらの薄い1枚をひとつづつほぐして立て、花の形にする。さいごに茎とおぼしき、はりがね状のみどりの物体と合体させる。カーネーションのできあがり。

 

単純作業だが、私をはじめ、どんくさい子どもには、ハードルが高かった。ゴムの位置を左右対称にしなかったために、いびつな花形になったり、じゃばらほぐしに失敗して、紙をボロボロにしてしまったり。もういちど、ティッシュをもらうはめになるのが、常だった。

 

このように、ピンクのティッシュと格闘するクラスのなかにあって、かならず1、2名、白い花を作っている子どもがいた。お母さんをなくした子である。先生から、ほかとは別に白いティッシュをわたされるのだ。

 

たしかに、亡き母にささげるのは白いカーネーションが、慣習ではある。が、いきなり白ティッシュをわたされた子どもの気持ちやいかに。その配慮のなさが、いかにも昭和的であった。

 

だが、このぐらいでひるんでは、学校でサバイバルできない。小1の時になかよしだったサカシタ君が、ご両親の離婚がきまったときのこと。朝礼で先生の横にひきだされ、クラス全員を前にこう宣言されたのである。

 

「サカシタ君のおうちでは、お父さんがいなくなったから、●●に名前が変わりました。みなさん、今日から●●君と呼んであげてください」。

 

こうした姓変更のおひろめも、ごくフツーの光景であった。なんとデリカシーのない、昭和という時代よ。『めでたさも、中ぐらいなり 昭和の日』。黒歴史を知るタハラは、強くそう思うのであった。

 

パンツ一丁、拳銃一丁、豆腐一丁

「ロシア語のあいさつ教えて」とたのまれ、ドキリとすることがある。ロシア語専攻とはいえ、怠慢な学生であったうえに、習ったのが四半世紀以上前だ。ありがとうは「スパイシーだ」、いいね!は「辛(から)そう」、こんにちはを「ズロース一丁(いっちょう)」などと伝え、お茶を濁している。

 

ズロース一丁、パンツ一丁、拳銃一丁、豆腐一丁。「丁」については、むかしから疑問がある。この助数詞が使われる原理原則が、いまだにわからないのだ。

 

精選版 日本語大辞典によると、丁(挺・梃)は

①鋤(すき)・銃・艪(ろ)など、細長い器具の類を数えるのに用いる

②駕籠や人力車など、乗り物を数えるのに用いる

③ 酒や樽を数えるのに用いる

この定義になんとかあてはまるのは、上にあげたもののうち、拳銃(銃)だけではないだろうか。

 

日本語上級学習者から、丁を使うケースについて質問を受けたことがある。「わからん。とにかく、パンイチ男が右手に拳銃、左手に豆腐を持っている姿をイメージし、暗記せよ」と教えた。が、彼女は首をかしげて「ラーメンは?」。

 

たしかに「へい、ラーメン一丁(いっちょう)!」は日常語だ。一本とられた(一丁ではない)。

 

ちなみに、「本」は細長い無生物をかぞえるらしい。ではカツオの一本釣りは?虫歯3本は?

ますます助数詞の深みにはまっていく。

 

*参考:助数詞「本」のカテゴリー化をめぐる一考察 (濱野・李2005?)

 

 

 

スベる比喩、ウケる比喩(アナロジー)

うーむ。「田舎から出てきた右も左もわからない〇娘を×××漬けする戦略」か。まともに書くことすらはばかられる比喩(アナロジー)である。

 

この発言時、某「デジタル時代の総合マーケティング講座」では、会場のあちこちで笑いが起きたとある。一流大のリッチな社会人講座を受講する、ふところの豊かさと深さを持つ聴衆である。失笑か冷笑か、ただの愛想笑いか。この上場企業役員は「ウケた」と解釈して舞い上がり、場外で炎上した。

 

滑落したアナロジー。おなじく、この会社の戦略自体もスベるような気がする。

 

マーケティングは、いうまでもなく買い手がすべてだ。その対象は、若年層の女性らしい。ところが最終顧客の顔が、一瞬でもよぎらないこのトークである。そんなセンスで立案したコンセプトが、ウケてほしい層に届くとは思えない。

 

会社の謝罪文もズレている。「多大なるご迷惑とご不快な思いをさせたことに対し、深くお詫び」ではない。安全安心であるはずの、学びの場を台無しにしたことについて、一企業として恥じてほしかった。また、主催者もおなじく恥じてほしい。市井の講師の立場からおもう。

 

で、本題である。アナロジーには、興味関心やバックグラウンドが、すべて出てしまう。使う語彙(ごい)が、その人の教養の範疇を出ることはないからだ。

 

動物好きは動物、スポーツ愛好者はスポーツ。私自身は、乗馬の経験があるので、つい、ウマの話に走りそうになる。だがいかんせん、競馬ファンも含めてウマ好きは多くない。このように、聴衆とに共通項がとぼしそうな題材は要注意だ、

 

昭和の講師は「ネタに詰まったときは、野球とマージャンとゴルフのたとえ話」といわれていたらしい(団塊の世代の必修項目)。行動の基本が個となったいまでは、なにがいいだろうか。

無難なところは食べ物。あと、コンビニ、銀行、スマホいじりなど、公共・半公共の場での人間のふるまい、か。

 

コツは、いいことは人の話、失敗談や滑稽談は、全部自分のせいにすることだ。言われたらどんな気がするか、違和感をチェックできる。なにより、他人を傷つけない。

 

たとえば冒頭の例を「右も左もわからない〇〇のオレを××新地にどっぷりはめた、アノ戦略」などと、ご自身を例に置き換える。世間様に通用するアナロジーかどうか、身に染みてわかるだろう。品位を下げるのも、自分だけですむというものだ。

 

 

学(まね)びの季節

コロナに振り回された日常が戻った、というよりは、コロナに慣れざるをえない2022年、ようやく新入社員研修がリアルに戻ってきた。5月いっぱいはこうした研修が続く。

 

やはり、講師にとってはリアル研修の方がありがたい。オンライン研修では、反応がつかみづらい。特に新採の場合は、ちゃんとついて来てくれているのか心配しつつ、見えにくい画面に目を凝らしつつ、ひとりオーバーアクションでしゃべる。孤独な作業であった。

 

対面する新入社員に対して、今年も、官民・業界を越えた、なんとなくの傾向を感じている。

 

びっくりするほど素直だ(少なくとも表面的には)。もちろん、自己承認欲求全開の「構ってちゃん」とか「みんな違ってみんなよい」多様性の誤認型はいる。そうしたタイプも含めて、総じて、前向きで元気であるとの印象を受けた。

 

ただ、年齢の乖離とともに、当方の「常識」が通用しなくなっている。表記ひとつをとっても「こんにちわ」を当たり前に使う(正しくは「こんにちは」。念のため)。また、ウルトラ性善説なのも心配だ。人とのコミュニケーションに、マイナスのイメージをもつことが難しい。笑顔で対すれば何とかなると思っているようだ。

 

真っ白で、のびしろいっぱいの新人。ローレンツ博士を慕った赤ちゃんガチョウのように、職場のすべてを全身で吸収し、そのカラーに染まりながら育っていく。

 

彼女彼らの配属先となる、先輩社会人のみなさん。ちゃんと学びの手本となる準備はできているかな?話し方や聴き方、ー挙手一投足を注目されるだろう。いいことも悪いことも、すぐにマネされるぞ!

 

メイド・イン・ジャパンのジレンマ

最近、着物にハマっている。

 

必要に迫られ、、なんとかひとりで着られるようになったのがきっかけだ。ハマるといっても、若いころあつらえたり、譲り受けたりした「おふる」を、着用可能か吟味しているレベルだ。 

新品の仕立てまでには、とてもいたらない。

 

反物からあつらえると、普段着でも数十万。よそいきだと、気合が入った帯や草履などとそろえると、2000CCクラスの国産車が買えるほどになる。まったく、シャネルやグッチなど海外ハイブランドの値段がかわいく思えてしまう。

 

というわけで、着られるおふるを選別している。虫食いや変色品、顔うつりの悪いものを処分。こうしたNG組のなかの古い襦袢(じゅばん)を解体してみた。

 

布は羽二重(正絹/シルク)なのだろう、薄手ながらずっしりした風合いで、なめらかさを失っていない。ミシンかと思われたミリ単位のステッチは、すべて手縫い。脇や裾にある生地の縫込みは、体型変化やオーナーチェンジによるリユースに備えたものだ。

 

細やかな手仕事ぶりに驚嘆する反面、21世紀のいまではオーバースペックであるという気もする。これじゃ気軽に洗濯にもだせない。襦袢はあくまでも下着で消耗品なのに。

 

ところが、呉服業界は、襦袢をはじめ、シルクや麻など天然繊維の手縫いを、現在でも主力商品としている。だからクルマ並みの価格帯になるのだ。ただしコスト削減のために、いまや原料を中国に、縫製をベトナムやインドネシアにたよっているときく。

 

原料と生産が国内でまかなえない状態で、正絹や手縫いの伝統にこだわるのはなぜか。高額品としてのブランドを保つためか?海外ハイブランドのオートクチュールが、シルクや手縫いに固執しているという話は聞かないが。

  

こだわりスペックで価格が高止まりし、売上が低迷する。利益率を確保するために、やむなく海外生産へシフトする。これに逆比例して、国内の生産者や技術継承者は減っていく。イノベーションも生まれない。旧態依然の商品にたいして、さらにマーケットが縮小する。

 

まさにメイド・イン・ジャパンが直面する悪循環。ハレの日の高額品として、生き残る道を選んだキモノの運命やいかに。

 

ポーランド語とロシア語とルンバ君

この1カ月間、不覚にもブログで沈黙してしまった。

 

ウクライナとロシアは、ともに学生時代に立ち寄ったことのある場所だ(当時はソ連邦)。今年に入って、その関係にきな臭さが立ち上っていたものの、まさか全面戦闘状態に入るとは。どう出口戦略を見出すつもりなのか。

 

気分が重い。うちのお掃除ロボット・ルンバ君から話をスタートさせようか。

 

ルンバ君は語学の達人で、15,16か国語をこなす。最初は「電源が切れました」などと日本語でしゃべっていたが、あちこちいじくっているうちに、どんどん言語が切り替わっていってしまった。今しゃべっているのは、たぶんポーランド語である。その前はロシア語だった。

 

この2つは言語として、とても近いらしい。使っている文字は違う。ポーランド語はアルファベット、ロシア語はキリル文字だ。文章を一読してもピンとこないが、話し言葉だとだいたい意味が通じちゃう、という間柄のようだ。

 

ウクライナ語とロシア語はもっと近い。標準語と標準関西弁ぐらいという人もいる(バラエティ番組の司会と吉本芸人とのトークぐらいか)。そして同じキリル文字を使う。だから大国ロシアは「内政問題」と捉えているのだ。

 

だが話せばわかる間柄なら、なんとか話し合いで解決できなかったのか。「国々の衝突(戦争)が進歩をもたらす」といった学者もいるが、今の戦争はなにものも生み出さない。

 

かつて米軍の地雷除去ロボットだった、ルンバ君の華麗な転身ぶりをみるがいい。iRobot社が昨年発表した売上高は全世界で 14 億 3,040 万ドルで、前年比プラス18%以上。ちなみにうちのルンバの生まれは中国。多くの国が平和的にかかわってこそ、新しいものが生み出せるのに。

 

 

ターゲティング広告のナゾ

「監視されているのか!?」「盗聴されたか!」。FBやウェブサイトなどのターゲティング広告をみて、そう感じる方も多いのではないだろうか。私もそのひとりだ。

 

最近あった例を挙げてみる。

 

1 有名皮革メーカーのバーゲン会場でアルバイトした知人と、お茶を飲んだ。ご婦人方の靴・バッグ争奪戦ばなしに大笑い。それから数日間、なぜかFBでそのメーカーの広告がつづいた

2 マッチングアプリの「いいね!」数について、電話で知人からの長い自慢話をきく。それ以降、『中高年マッチングサイト』の広告表示が、FBやウェブサイトでやたら目につく

3 家電の設置に来た業者から、外壁塗装をすすめられる。その後、外壁塗装の広告があらゆるウェブサイトに顔を出すようになった

 

スマホやタブレット、パソコンは盗聴器、監視カメラなのか。そして関係各所に情報を提供しているのか。ほかに原因はないのか。

 

3については、業者が原因とにらんでいる。外壁塗装見込み客の登録リストが、なにかの拍子に漏えいしたのではないだろうか。

 

2は、キーワード検索や位置情報からターゲットになった可能性はゼロ。だから、類似ユーザーターゲット+因果関係の取り違え、をうたがっている。

 

つまり、広告は、年齢などの属性情報などをもとに、もともと表示されていた。それをスルーしていたのだが、知人との話をきっかけに、その手の広告に注意がむくようになった。認知の問題、という説である。

 

1については、正直なところ、まったくわからない。

 

年齢など属性情報からの広告だとすれば、ピンポイントすぎる。そのメーカーの購入歴もなければ、検索履歴などもない。そもそもインターネットで靴やバッグは買わないから、この分野の広告表示自体がないといっていい。×ユーザー情報、×コンテンツ情報、ナゾは深まる。

 

そして、わたしにとってターゲティング広告最大のナゾは、本の広告がほとんど表示されないことだ。検索回数とネットでの購入頻度は群を抜いているし、金額もコンスタントに高い。優良顧客なのに、無視されている。AIにやる気がないのか。

 

ちなみに、アマゾンのAIはなかなかのポンコツで、購買歴のある本を、くりかえしおすすめしてくれる。

 

AIよアルゴリズムよ、ちゃんと私の嗜好をよみとってくれたまえ。聞こえましたか? 

アナログへの誤解

「うちの会社はアナログですから」。

 

電気分野で独自技術を持つ、優良メーカーのトップからそういわれたときには、面食らった。が、次の瞬間、ああそうかと納得した。

 

アナログとはもともと「数値を、長さや角度などの連続する物理量であらわすこと」だ。水の流れに例えられる連続性は、電気の性質そのものだ。これを「アナログ」といわずしてなんといおうか。

 

とはいえアナログには、古臭い、前時代的な、なんてイメージがつきまとう。それはなぜか。

ひとつは、時代錯誤をあらわす「アナクロ」の影響だ。語感がよく似ている。

 

もうひとつは、ライバル語「デジタル」のせいだ。

 

20世紀の中ごろまでは、電圧の強弱で信号を伝えるアナログコンピューターが主流だった。その後、二進法のデジタルコンピュータが出現。時計にもこの考え方が適用され、アナログは駆逐された。ここからおそらく、前時代vs現代というイメージが生まれたのだ。

 

ただし、アナログコンピュータは今でも存在する。スケジューリングや医療用画像の解析など、多くの変数を必要とする分野は、デジタルコンピュータはむしろ苦手。最適解が決定できないらしい。そこを託すべく、現在、アナログコンピュータの開発がすすめられている。

 

そういう意味では「アナログ人間」とののしられたときには、にっこりと笑って「ありがとう」と返すべきなのだ。ただし「アナクロ野郎」に対しては、憤怒してよい。まちがえないようにね。

 

エントリーシートと論文は違いますです

先日、師匠筋が、いつもの文体をわざと「です・ます調」にしていた。その違いがけっこう強烈でおもしろかった。名文でマネをしてみる。

 

●吾輩は猫である。名前はまだ無い。

 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。

 

いわずとしれた、夏目漱石『吾輩は猫である(1905-07)』である。今から100年以上前の文章なのに、注釈なしでほぼわかるのがすごい。

 

これを、ですます調にしてみる。

 

○吾輩は猫です。名前はまだありません。

 どこで生まれたか、とんと見当がつきません。なんでも、薄暗いじめじめしたところでニャーニャー鳴いていたことだけは記憶しています。吾輩はここで始めて人間というものを見ました。しかもあとで聞くと、それは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうです。

 

後者○に違和感はないか?あるとすれば、それはまず「吾輩」にただよう、上から目線の一人称と、低姿勢な文体のミスマッチでではないか。「私」「ぼく(オスなので)」に修正したくなる。「オレ」でもちょっと合わない。

 

つまり、ですます調にしたとたんに、ひとりごと感、がなくなるのだ。読み手を想定した「読んでいただく」文章に様変わりする。

 

結論、読んでもらいたかったら、エントリーシートはですます調で書こう。

 

え?学術論文は、教授によんでいただくのに、である調だって?そりゃそうだよ。ですます、はいわばお飾り。粉飾された文章を、えんえんと何十枚も読んでごらん、うっとおしくて内容が頭に入ってこない。

 

 もうひとこと。句点はカンマ(,)、読点はピリオド(.)ではなく、点(、)とマル(。)でよろしい。

 

論文がこれを強いられるのは、昭和以前の昔、公文書に和文タイプを使っていたことが元になっているそうな。タテ書きのマス目の右上に「。」や「、」を設定するのは、技術的に至難の業だったらしい。

 

だから「君、カンマとピリオドを使うのが常識だよ」と卒論修論博論のチェック時にエラそうに注意されたら、「それって尾てい骨とか、シーラカンスと同じですかね」と言い返したまえ。

 

*参考

公用文の横書きのコンマ、時代遅れ?68年後の見直し案 朝日新聞デジタル2020/12/27

 

パソコン(スマホ)病

肩こりに目のつかれ。パソコン(スマホ)病は数々あれど、漢字のド忘れは深刻だ。添削業務では、手書きがベターである場面もまだまだ多いので、ド忘れは非効率である。

 

だが、副産物もあった。漢字が多い手書きは読みにくいと悟ったのだ。「よろしく」「宜しく」「夜露死苦」、いずれが読みやすいかは、いうまでもない。機械入力であっても、ウェブではキーワード以外には漢字を使わない方がいいかもしれないとさえ感じている。

 

ところが最近、英語のつづりでも、同じ度忘れをおこしていることに気づいた。感謝するはapriciateだったかappreciateだったか、ハサミのつづりはじめはsからcからか。つづりを入力しかけると、機械が正しい単語を表示してくれることに慣れすぎた。

 

お礼ハガキ程度の文面が進まない。漢字と違い、ひらがなという別選択がないのでやっかいだ。読み返した結果、修正液に登場いただくことだってある。

 

その点、19世紀以前の英語は、おおらかだったようだ。つづりの間違いはあたりまえ。それが発音を変化させたり、逆に発音の間違いがつづりに影響したことも多いらしい。oftenでtを発音する人が意外に多いのも、そのなごりといわれる。

 

さて21世紀に生きる自分はどう対処したか。スマホに話しかけてつづりをチェック(滑舌が悪くいっぺんで聞き取ってもらえないこともあり)。画面の文字を、せっせと紙面に移した。

 

Google先生のいらっしゃる現代は、スペルミスに不寛容な時代でもあるのだ。

 

英語の特徴のいろいろ(2) 能澤正雄(2003)

 

いいかげん

とある近所の飲食店の貼り紙を、いつも楽しみにしている。

 

『入院中のおばの見舞いのため、夜のみの営業とします』『腰痛のため、休業します』『スタッフ補充のめどが立たないため、席を間引いています』

 

なにがおもしろいか。期待をこえる情報を盛り込んでしまう、旺盛なサービス精神(ご本人にはたぶんそんなつもりはない)がである。

 

顧客がもとめているのは、「店が」「いつ」開いているかである。入店するか、断念するかの判断材料にしたいからだ。「店主が」「なぜ」は、ほとんどの顧客にとってムダ情報。そこにあえて力点をおくズレ方に、おかしみを感じてしまうのだ。

 

情報は、多ければ多いほどよいのではない。文章を書くことは、「書かなくていいことはなにか」を考えるのと同意義であるといっていい。絵やイラストもそうだ。

 

採用時のPRだって同じである。何を伝えるとより効果的か、加減乗除しながらいいかげんに調整する必要がある。

 

そこで、シューカツ生さんへのアドバイス。まず「自分らしさ」を知ってもらうという、主目的を忘れないこと。エピソードの伝達自体が目的ではない。また、あれもこれもとよくばりすぎると、「結局キミ、どんな人なの?」になってしまう。

 

採用側の方々へ。こと大企業に関して言えば、トレンドワードのSDGsをPRの主役にしないほうがいい。やって当たり前の話で、自社の差別化にはなりにくい。なにより「御社の、社会持続可能性をさぐる企業姿勢にひかれました」と、つかいまわしのセリフを、学生さんらからえんえんと聞かされるハメになりますぞ。

 

働き方改革の目指すもの

働き方改革とかけて「残業縮減」「DXの推進」ととく。そのココロは「組織の存続(短期的には’競争力の向上’)」。多くの企業の解釈はそれだ。

 

だが本来この解釈は正しいのか?旗振り役である厚労省のHP『働き方改革の目指すもの』をみてみよう。

 

我が国は、「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」などの状況に直面しています。(中略)

「働き方改革」は、この課題の解決のため、働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています。

 

わかりにくい文章だなぁ。願望と目標、目的と手段と結果がごっちゃになってぼやけている。

どうやら、「生産年齢人口が減少」→「育児や介護など家事労働が現役世代を圧迫」→それを「働き方改革」でなんとかせい、という図式のようだ。

 

ツッコミどころは以下のようなところか。

 ・「育児や介護の両立」は本当に「多様なニーズ」か。ニーズというよりは、今まで見ないでやり過ごしてきたものを、しゃーなしでスポットを当てているだけだとおもうが

・「より良い将来の展望が持てる」が、なぜ「目指す」ところになるのか。単なる副次的効果じゃないのか

 

つまり翻訳すると…労働力人口の減少により一人に求められるマルチタスクの本数が増えるから、みなさんは「多様な働き方」をしてね。そうすると我が国は「より良い将来の展望が持てる」から、ということだ。

 

なんのことはない。働き方改革とは官民挙げての『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』マンパワー編であった。みんなで幸せになろうよ、というメッセージが感じられないのが哀しい。厚労省の英訳は「健康と労働、豊かで幸せになる省(Ministry of Health, Labour and Welfare)」なのに。

 

視覚・聴覚・体感覚

自分の中に情報を取りこんで習得したり、取り出して表現したりするときの感覚経路の代表格は視覚、聴覚、体感覚だ。ただし、どの経路を優位に使うかは人によってさまざまらしい。

 

タハラはといえば、情報を習得するときは、聴覚優位である。小さいときから目が悪かったことが影響している。

 

小学校の高学年には、教室の席が2,3列目より後ろになると、黒板が見えづらい状態だった。かといって、眼鏡はかけたくない。前列移動を志願して、チョークの粉や教師のツバキを浴びる覚悟があるほどまじめでもない。板書はあきらめるとしても、サボっていないぜアピールが必要となる。そこで、聞き書きすることが常となった。

 

耳に残った語を拾って、〇や△や→でとりあえずつなぎ描くのが私のノートだった。ほとんど暗号だとよく教師におこられたが、今からおもえば「思考の視覚化」である。小学生のくせにエライ高度な技をつかっていたことになる。すなおに黒板を写した方がよっぽど楽だったろう。

 

おかげさまで、情報のインプットは聴覚優位、アウトプットは視覚優位となって定着した。

 

苦手だったのが体感覚、つまり手を動かして体で覚えることだ。漢字の百字練習や英単語の書き取り訓練にいたってはほとんど罰ゲームに感じられた。あんなことをして覚えられるわけないだろう、と成人後に恨み言をいうと「そういう感覚が信じられない」と多くの人に返されたのには驚いた。本当に人それぞれなのだ。

 

学習のやり方やペース、そして表現の方法はそれぞれ異なっている。大切なのは「人はみな違う」という前提に立つことだ。特に伝える側は、教室でも仕事場でも、相手がどういうタイプなのかよく観察する必要がある。自分のやり方を押し付けちゃいけない、としみじみおもう今日この頃である。

 

坂本龍馬≒空海説

タイトルを見て「なるほど、義経がジンギスカンになるよりは、空海が坂本龍馬に輪廻転生していた方がまだ可能性は高いか」と早合点しないでいただきたい。このヒーローたちには意外な共通点があるという意味だ。

 

それぞれの活躍の年代は1000年以上へだたっている。一方で、四国出身で(山脈を挟んで北と南に分かれているが)かつ諸国を行脚しているという点がまず同じである。

 

空海の活動時期は8世紀末から9世紀初頭。讃岐国(四国)で生まれ、平城京~九州・博多から船で唐・長安(中国・西安)へ。そして帰国後、都で権力者たちと調整を図りつつ、高野山(和歌山)に寺を建てた。その合間に修業を積んだり、ため池と作ったりと、近畿・中国・四国地方など西日本に神出鬼没(即身成仏の身であられるが)している。

 

対して坂本龍馬は同じ四国でも、幕末の土佐郷士。1年ほど江戸に遊学したのちに土佐に戻るものの脱藩。以降、江戸~京都を行ったり来たり、あるいは長崎で商社を設立したり婚姻記念に宮崎に足を延ばしたりと活動範囲は広い。蝦夷地(北海道)の開拓も夢見ていたというから、もう少し長生きしていたら北は北海道から南は琉球まで、日本縦断は間違いなかっただろう。

 

もうひとつの共通点は、エピソードの多さである。

 

空海が中国留学中に投げた独鈷が飛んできた、という高野山の由緒は有名だ。政府の肝いりでため池造成に励むかとおもえば(農水省のHPのお墨付きである)、口と両手両足の五筆で書を記すわ、ライバル僧を呪詛で妖怪に変えるわ、大昔の人だからエピソードもやりたい放題だ。

 

だが龍馬だって負けてはいない。新婚旅行の始祖であり、FIRE組(=脱藩者)希望の星でもある。薩摩藩などの協力で設立した亀山社中(のち海援隊)は、日本初の株式会社といわれている。そしてもっとも名高い功績が、「薩長同盟」と新政府のビジョンを示した「船中八策」である。が近年、この2つをはじめ、明治維新に対する龍馬の貢献度合いに疑問符がつけられているらしい。

 

とすると、ひょっとしたら空海同様、龍馬も同世代と後世の人たちが作り上げた、ひとつのアイドル(偶像)なのかもしれない。

 

「遠くから来たエライ坊さまがこんなことをなさったらしい」「ホウホウ、それはきっと空海さまとおっしゃる方じゃ」、こんな感じで弘法大師伝説が成立していったように、志なかばで倒れた、多くの名もなき若き土佐の志士のエピソードが「坂本龍馬」として結実したのか。

 

11月15日は龍馬の誕生日&命日である。高知に残されたあちこちの足跡を見ながら、そんなおもいにかられた。 

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こんばんは

びにに

『問わずにはいられない』 編集中記

やれやれ、やっとゴールが見えてきた。

学校でいじめや事故などに遭った、21の被害者家族・遺族の方々が、わが子の思い出、教育現場への怒りや提言をつづった自主出版の文集『問わずにはいられない』が、9月20日頃の出版に向けて、現在編集の佳境を迎えている。報道関係に案内したところ、各紙が競うようにして取り上げてくれた。ありがたいことである。


8/8京都新聞 http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/2015080800003

教育関係者や子どもを持つ家庭の保護者だけでなく、「なぜ組織は隠ぺいするのか」という組織論のエスノメスドロジーとして捉えても興味深いのではないか。

この本を手にとったときは、内容だけでなく、表現・言葉の選び方にも注目してもらいたい。
一生懸命書いたのにもかかわらず、編集者・タハラから、これじゃ伝わらんよ、とやんわりと言われて突っ返され、何度もやり直した方が大半である。過去の過酷な体験に向き合うことが耐えられず、筆を折った方も何人かおられた。

巧みではないかも知れないが、まさに、当事者だけが持つ言葉の迫力がある。ぜひ、ご一読いただきたく。

ご希望の方は  に メールに 件名「問わずにはいられない 希望」⒈お名前  ⒉郵便番号 ⒊住所 ⒋希望冊数 を記載のうえ、toiawase@lc-lab.com まで。10月からAMAZONでも販売予定だが、ギリギリしか印刷しないので、確実に欲しい方はぜひ予約を。

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