働き方改革の目指すもの

働き方改革とかけて「残業縮減」「DXの推進」ととく。そのココロは「組織の存続(短期的には’競争力の向上’)」。多くの企業の解釈はそれだ。

 

だが本来この解釈は正しいのか?旗振り役である厚労省のHP『働き方改革の目指すもの』をみてみよう。

 

我が国は、「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」などの状況に直面しています。(中略)

「働き方改革」は、この課題の解決のため、働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています。

 

わかりにくい文章だなぁ。願望と目標、目的と手段と結果がごっちゃになってぼやけている。

どうやら、「生産年齢人口が減少」→「育児や介護など家事労働が現役世代を圧迫」→それを「働き方改革」でなんとかせい、という図式のようだ。

 

ツッコミどころは以下のようなところか。

 ・「育児や介護の両立」は本当に「多様なニーズ」か。ニーズというよりは、今まで見ないでやり過ごしてきたものを、しゃーなしでスポットを当てているだけだとおもうが

・「より良い将来の展望が持てる」が、なぜ「目指す」ところになるのか。単なる副次的効果じゃないのか

 

つまり翻訳すると…労働力人口の減少により一人に求められるマルチタスクの本数が増えるから、みなさんは「多様な働き方」をしてね。そうすると我が国は「より良い将来の展望が持てる」から、ということだ。

 

なんのことはない。働き方改革とは官民挙げての『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』マンパワー編であった。みんなで幸せになろうよ、というメッセージが感じられないのが哀しい。厚労省の英訳は「健康と労働、豊かで幸せになる省(Ministry of Health, Labour and Welfare)」なのに。

 

視覚・聴覚・体感覚

自分の中に情報を取りこんで習得したり、取り出して表現したりするときの感覚経路の代表格は視覚、聴覚、体感覚だ。ただし、どの経路を優位に使うかは人によってさまざまらしい。

 

タハラはといえば、情報を習得するときは、聴覚優位である。小さいときから目が悪かったことが影響している。

 

小学校の高学年には、教室の席が2,3列目より後ろになると、黒板が見えづらい状態だった。かといって、眼鏡はかけたくない。前列移動を志願して、チョークの粉や教師のツバキを浴びる覚悟があるほどまじめでもない。板書はあきらめるとしても、サボっていないぜアピールが必要となる。そこで、聞き書きすることが常となった。

 

耳に残った語を拾って、〇や△や→でとりあえずつなぎ描くのが私のノートだった。ほとんど暗号だとよく教師におこられたが、今からおもえば「思考の視覚化」である。小学生のくせにエライ高度な技をつかっていたことになる。すなおに黒板を写した方がよっぽど楽だったろう。

 

おかげさまで、情報のインプットは聴覚優位、アウトプットは視覚優位となって定着した。

 

苦手だったのが体感覚、つまり手を動かして体で覚えることだ。漢字の百字練習や英単語の書き取り訓練にいたってはほとんど罰ゲームに感じられた。あんなことをして覚えられるわけないだろう、と成人後に恨み言をいうと「そういう感覚が信じられない」と多くの人に返されたのには驚いた。本当に人それぞれなのだ。

 

学習のやり方やペース、そして表現の方法はそれぞれ異なっている。大切なのは「人はみな違う」という前提に立つことだ。特に伝える側は、教室でも仕事場でも、相手がどういうタイプなのかよく観察する必要がある。自分のやり方を押し付けちゃいけない、としみじみおもう今日この頃である。

 

坂本龍馬≒空海説

タイトルを見て「なるほど、義経がジンギスカンになるよりは、空海が坂本龍馬に輪廻転生していた方がまだ可能性は高いか」と早合点しないでいただきたい。このヒーローたちには意外な共通点があるという意味だ。

 

それぞれの活躍の年代は1000年以上へだたっている。一方で、四国出身で(山脈を挟んで北と南に分かれているが)かつ諸国を行脚しているという点がまず同じである。

 

空海の活動時期は8世紀末から9世紀初頭。讃岐国(四国)で生まれ、平城京~九州・博多から船で唐・長安(中国・西安)へ。そして帰国後、都で権力者たちと調整を図りつつ、高野山(和歌山)に寺を建てた。その合間に修業を積んだり、ため池と作ったりと、近畿・中国・四国地方など西日本に神出鬼没(即身成仏の身であられるが)している。

 

対して坂本龍馬は同じ四国でも、幕末の土佐郷士。1年ほど江戸に遊学したのちに土佐に戻るものの脱藩。以降、江戸~京都を行ったり来たり、あるいは長崎で商社を設立したり婚姻記念に宮崎に足を延ばしたりと活動範囲は広い。蝦夷地(北海道)の開拓も夢見ていたというから、もう少し長生きしていたら北は北海道から南は琉球まで、日本縦断は間違いなかっただろう。

 

もうひとつの共通点は、エピソードの多さである。

 

空海が中国留学中に投げた独鈷が飛んできた、という高野山の由緒は有名だ。政府の肝いりでため池造成に励むかとおもえば(農水省のHPのお墨付きである)、口と両手両足の五筆で書を記すわ、ライバル僧を呪詛で妖怪に変えるわ、大昔の人だからエピソードもやりたい放題だ。

 

だが龍馬だって負けてはいない。新婚旅行の始祖であり、FIRE組(=脱藩者)希望の星でもある。薩摩藩などの協力で設立した亀山社中(のち海援隊)は、日本初の株式会社といわれている。そしてもっとも名高い功績が、「薩長同盟」と新政府のビジョンを示した「船中八策」である。が近年、この2つをはじめ、明治維新に対する龍馬の貢献度合いに疑問符がつけられているらしい。

 

とすると、ひょっとしたら空海同様、龍馬も同世代と後世の人たちが作り上げた、ひとつのアイドル(偶像)なのかもしれない。

 

「遠くから来たエライ坊さまがこんなことをなさったらしい」「ホウホウ、それはきっと空海さまとおっしゃる方じゃ」、こんな感じで弘法大師伝説が成立していったように、志なかばで倒れた、多くの名もなき若き土佐の志士のエピソードが「坂本龍馬」として結実したのか。

 

11月15日は龍馬の誕生日&命日である。高知に残されたあちこちの足跡を見ながら、そんなおもいにかられた。 

話し上手と筆達者

得意=苦にならない+その分野でのアドバンテージがある、と定義しておく。世間を見ると、話すことが得意な人と書くことが得意な人では、人種が違うなあ、と感じることが多い。

 

昔々は司馬遼太郎のファンだった。が、ひとたび講演や対談となると、聴講中寝落ちするのがオチだった。文章であれほど滑らかにしゃべることができる人が、ひとたび肉声にのせると、どうしてあんなにつっかえるのか。

 

長じて、やや有名人のインタビューをまとめる仕事をしたが、ほぼ例外なく同じ感想を持った。あれだけユーモアあふれる作品を生み出す人たちが、なぜこんな四角四面な話しぶりなのかと。一方で、アナウンサーやタレントの魅力あふれる話を要約したら、たった1、2行になってしまうこともよくあった。(インタビュアーが下手クソだからという説は却下)

 

現在でも、筆達者な人々とは、おしゃべり自体が好きか嫌いかは別にして、電話で話すより、チャットでやり取りを優先する。逆もまたしかりで、講師仲間では、電話やZOOMなどがコミュニケーションの主体になる。そしていずれも、相手が得意な方法にゆだねた方が、やりとりに齟齬を生じないのだ。

 

頭に浮かんだことを文字(や絵)に移す作業と、瞬時に音声言語にのせる表現するのとでは、活動する脳の部位が違ったとしても不思議はないとは感じる。そのとき、一方の部位の活性化が、もう一方を抑制することに働くのか?それとも単に本人の怠慢で、一方のコミュニケーションで事足りるから、他方を手抜きするのか?最新の認知言語学の知見を問うてみたいところである。

 

シナリオ・プランニングとしての論作文

シナリオ・プランニングとは「将来起こり得る未来のシナリオを複数描き、それに基づいて戦略を導出していく手法のこと」である。近年では戦略的思考法の一つとして各方面に定着した感がある。

 

実は当研究所でもシナリオ・プランニング研修を裏メニューとして持っている。ファシリテーションを中心に、模造紙だのを囲んでみんなワイガヤする研修なので、コロナ禍の今は休眠中である。(巷ではオンライン研修でも開催)

 

ただ、そうしたワイガヤ手法を取らなくても、ひとりでも未来に思いをはせることはできる。

作文を書けばよい。

 

そもそも文章を書く目的は、「自分の考えを他人に知ってもらうこと」である。となると、例えば『●年後の日本』だと、●年後の日本に対する自分のイメージを、形(言葉)にしなければならない。言葉にするには、自分なりにいくつかの●年後像を具体的に描いておく必要がある。そのためには、予測データを見ながら、「いま」の行く末をしっかり観察することを迫られる。

 

つまり作文とは、ひとり脳内シュミレーションの発表の場なのだ。

 

これをシナリオ・プランニングに応用=ひとりひとりのシュミレーションを複数のシナリオに収束させるとすると…例えば、組織内で『●年後の日本』などといった統一テーマで作文を書く。その後、メンバーで話し合いをしながら言葉に(図式化)し、共通イメージを描いていく。こうすれば、未来に対する組織の共通認識を作ることができる、かな?

 

これならオンラインでもできそうなので、新・研修メニューとして導入を検討してみよう。

 

*参考 キリンホールディングスHP

 シナリオプランニング 4つのシナリオ

「くださる」vs「いただく」

就活生さんからの質問。「オンライン面接のメールでのお礼は『先日は面談くださいまして』『先日は面談いただきまして』、どっちがいいいんでしょうか?」

 

正解は(そもそも言葉遣いに正解なんかないと思うが)「どっちでも、好きな方に」である。ただし、ニュアンスの違いはある。

 

もともとの意味は

①~ください(る)=(相手が)くれる

②~いただく=(こっちが)もらう 

なので、いわゆる主語が違っているのだ。

 

たとえば

①’「ご来店くださる」②’「ご来店いただく」では

①’は(客が)来店する

②’(こちらが客に)来店してもらう

という感じだ。

 

敬意表現という観点では

①~くださる、は相手の動作なので「尊敬(客を上げる↑)」

②~いただく、はこっちの動作なので「謙譲(こっちがへり下る↓)」

の類いになる。

 

ますます、ややこしくなってきた。

 

そのために「ビジネスでは謙譲表現②『~いただく』を使うように」と、のたまうマナー講師も多い。

 

ただし、へり下り過ぎたるはなお及ばざるがごとし。究極の謙譲語?「させていただく」は、相手に有無を言わせない強制力を持つ。「実家に帰らせていただきますっ!」は家出するときの決め台詞だもんね。

 

*参考 「教えてくださり?」「教えていただき?」NHK放送文化研究所

 

 

「ハレンチ(破廉恥)」という法律用語

「独逸国領事勤方ファバー氏に邂逅し忽抜刀追逐して兇殺せし段甚以不届之儀に付破廉恥甚を以て〈略〉斬罪申付候事」。おお、明治7年9月の太政官達第120号として発せられた法令(死刑執行命令書)に「ハレンチ(破廉恥)」が登場している。

 

辞書によると、ハレンチとは「廉恥(恥を知る)心を破る」ということ。人の道に外れた行い、という意味らしい。しかも、現代においても「ハレンチ罪」は立派な法律用語のようだ。『道義に反する動機・原因によりなされる犯罪。殺人・詐欺・窃盗・放火・贈収賄など』という定義まである。

 

それにしても冒頭の執行書、人殺し自体が道に外れた行いであるのにもかからわず、わざわざ「ハレンチ」などと書き込んだ意図は何か。ふと性的な殺人動機が頭をよぎるのは、70年代の漫画『ハレンチ学園』の影響が大だろう。

 

ただし、最新の在留外国人向け日本語手引書のただし書きを見ると「ハレンチはあまり使われない単語」だそうだ。言葉は世につれ変わっていく。 

いじめ保険

LC研究所設立前のタハラの前歴は、実は、生命保険会社である。某公営放送の朝ドラの主人公が設立した会社だ。

 

広報畑が長いうえ、ちょうど在席10年でお払い箱になったので(いわゆるマタハラ退職)、保険屋さんらしいことはほとんどしていない。保険料算出の原理ぐらいは説明できるものの、どんな保険商品が世間にあるのか、百花繚乱、見当もつかない。

 

前職の記憶うすれゆく今、仰天の保険を発見した。いじめ保険である。正確に言えば、いじめをはじめとする家族のトラブルに関わる弁護士費用を、カバーするらしい。2019年つまり令和元年5月の発売だ。いじめの認知件数が対前年比112.6%増の61.2万件と、過去最高に跳ね上がった年である。

 

2020年度資料しか手元にないが、小中高学生の数はあわせて1260万人ほど。ということは、こどもの20人に1名ぐらいは、いじめのターゲットになっているということになる。残念ながら、ニーズとしては十分にありそうだ。

 

なんともはや、背筋が凍る話しだが、考えてみればあたりまえかもしれない。こどもの世界は、大人世界の縮図だからだ。

 

みわたせば、コロナ禍で正義を振りかざし、他府県ナンバーを取り締まる自粛警察、医療従事者を誹謗中傷する輩。TVをつければ、チームメイトに暴力をふるい移籍させられたスポーツ選手が、日を待たずに公式試合に出場している。国民栄誉賞を受けたOBが、それを激ボメするというポンコツな美談までつく。

 

イジメ礼賛を公然とみせつけて「いじめはよくない」と、大人のどの口が言うのか。ダメだこりゃ(故・いかりや長介風に)である。

 

※補足

2019年のいじめ認知件数の爆上がり原因は、おそらく、その3年ほど前に施行された『いじめ防止対策推進法』が、全国的に実行フェーズに入り、元来「なかったこと」にされていた案件があらわになったことが大きいと考えている。必ずしも、いじめ件数が爆上がりしたというわけではないと思いたい 

 

宴のあと

東京オリンピックが終わった。

 

このたびは運営の在り方など、むしろ場外にスポットライトが当たってしまった感があるが、オリンピックの主役はあくまでも選手のはずだ。トラックやコート、プールで輝く一瞬のため、選手たちは命を削るような練習を重ねる。

 

そんな鮮烈な体験を味わった後の長い長い「余生」に、選手たちを待ち受けているものは何か。1964年のオリンピックの焦点を当てたルポルタージュが、『東京五輪の残像(中公文庫2020年)』である。高度経済成長の真っただ中、日の丸を背負わされたそれぞれの重圧は、計り知れないものがあっただろう。

 

ステイホームでオリンピックロスに悩むあなたに、ぜひおすすめしたい一冊である。

 

ネガ語→ポジ語 変換で悩む貴兄に

「ネガティブな言葉をポジティブな言葉に言い換えて相手に伝えよう」という考え方が提唱されて久しい。「八方美人」を「人あたりがいい」、「能天気」を「いつでも前向き」と表現する感じである。

 

ただ、伝える側の語彙、あるいは受け取る側の言葉の知識が追い付かないために、かえって解釈をこじらせるケースがある(特に上司→部下)。ならばいっそ、伝えるときの表情や声のトーンに気を付けてストレートに伝えようよ、と以前ブログでお伝えした。

 

これに加え、今回は「日常的に否定表現を使わない」を提案したい。この「日常的に」がポイントである。みなさん、以下のような話しグセはないだろうか?

 

1「どうかなぁ」「そうだろうか」など、意味なく懐疑的なあいづちをうつクセ

2「いや、」「だけどね」などの否定表現で、話の口火を切るクセ

3「~はダメですね」「~できませんよ」など、できないことを強調する言い方になるクセ

 

こんなこと始終部下にやっていたら、言いたいことも言えなくなってしまう。対お客さんだったらイライラしだすぞ(タハラには、2の傾向が若干ある)。

  

1については、「なるほど」「そう考えているのか」と、とりあえずニュートラルに返し、疑問点は後でまとめて聞く。2は、絶対禁止。3は「~はOKです」「~だと大丈夫ですよ」と許容範囲を例示する言い方だと、受け入れられやすい。

  

書き言葉でもそうである。この間とある自治体のHPで、典型的なネガ表現があった。

 

・第5回接種は、●月●日以前は受付けません。

 

これをどう書き換えたら、よりわかりやすいか?みなさん、頭の中で変換練習してみよう。

 

もしも『一杯のかけそば』が「すうどん」だったら

ひさびさに関西脱出、「そば・うどん」の看板を見かけての雑感である。地元だと「うどん・そば」の順番が主流である。

 

バブル期の記憶があるアラフィフ世代以上なら、名作『一杯のかけそば』を覚えておられよう。舞台は大晦日の札幌の蕎麦屋で、その主人・女将と、客である3人の母子の交流を描いた短編である。「お母さんもお食べよ」と、一杯の年越しそばを身を寄せて分け合う、つつましやかな母子の様子が日本中に感動を呼んだ。

 

実は、関西育ちのタハラは「かけそば」なる食品がよくわからなかった。要は、何ものっていない温かいそば、で納得したものの、同時に冷たいVer.の「もりそば」なる存在を知り仰天した。「ざるそば」との違いは海苔の有無だという。そんなことで値段に差異を付けるセコさよ。ひょっとして、かけそばにはネギすらないのか。

 

うどん文化の関西であれば、かけそばよりも「すうどん」が鉄板である。もちろん、ネギはデフォルトだ。そもそもネギやショウガ、天かすはテーブルの上などにおいて入れ放題にしておかないと、客から苦情がでよう。

 

―テーブルの上の、1杯のそばを囲んだ母子3人の会話が、カウンターの中と外の2人に聞こえる。 「……おいしいね……」 「今年も北海亭のおそば食べれたね」―

 

物語のなかの心温まる会話。関西版「一杯のすうどん」では、こう変わるかもしれない。

 

「ちょっと●●ちゃん、そこにある天かすをスプーンですくってドバっとかけてから、そろーっとこぼれんように箸で汁にまぜこんで。そうそう。それからネギや。ミニトングでガッとつまんでうどんの上にドカッと三角盛りにするねん。これで母子3人分のカロリーとビタミン確保や!」

 

感染予防対策としてのケガレ祓い

ちょうど夏越の祓(なごしのはらえ)をはさんで、身内の祝い事と不祝儀をたてつづけに経験した。両者の基本思想は、ともに「清める」。特に後者は「ケガレ祓い=感染予防対策」なんだなあ、としみじみ感じた。死者がどんな病原菌をもたらすか、わからないがための先人の知恵である。

 

平成初めにあった祖母の村の葬儀では、田原家の門戸に「忌」を貼られ、全親戚が本当に7日間の出禁を食ったことを思い出す。緊急事態宣言発令である。

 

次に、家のかまどを封じられた。煮炊きは一切禁止で、近所の人が公民館を借り切って、炊き出しをしてくれた(正真正銘の肉なし精進料理だった)。身内だけの食事ながらも、できるだけ言葉を発してはならぬというお達しである。こうして、食事作りと会食による感染拡大を防ぐというわけだ。

 

また、戸口で精進料理を受け取るのは、孫や子など、家の中で一番若い人間、つまりワクチンの優先順位の低い層である。受け渡しのあとは、村人はかならず玄関の外にある盛り塩を踏んで帰っていった。今でいう出入りの際のアルコール消毒であろう。

 

もちろんわが家を含め、令和の葬儀の多くはもっと合理的になっていて、清め塩や通夜の線香(腐敗防止と防臭)に、感染防止の名残をとどめるのみである。初七日は告別式の当日おこなうし、四九日までの期間(神道の場合は五十日らしい)も、よほどのやんごとない家でない限り、禁足はないはずだ。

 

一方で、今でも旅行などの不要不急のイベントは延期する家もあるようだ。ただ、不祝儀のもともとのいわれが感染予防なのであれば、気持ちの折り合いさえついたら、わざわざ自粛する必要はないともいえる。国家行事のオリンピックだって、感染予防すれば開催できるらしいしね。

 

コレラ予防接種の思ひ出

平成もヒトケタ台の今は昔。アフリカ旅行を企てたとき、コレラの予防注射をしたことがある。

 

アフリカ大陸への渡航には、黄熱病とコレラの予防接種が必須であった。黄熱病といえば、子どもの頃『ポプラ社 子どもの伝記』で読んだあの野口英世。その命を奪った、おそろしい病である 。

 

一方で、コレラは私にとっては、なじみのある病名だった。大学時代、夏休み明けの学食で、こんな掲示板をよく見かけた。「××語科の●●さんに接触した人、すぐさま保健センターに申し出てください!!コレラ感染の可能性があります」。今となれば、個人情報への配慮のカケラもない注意書きである。

 

さて、接種パンフによると、黄熱は生ワクチンで、コレラは不活性ワクチンとあった。生ワクチンとは生きたままの菌を体に植え付けることだ。なんと恐ろしげなひびきであろうか。おまけに最低4週間あけなければ2回目の接種ができない。コレラも2回以上の接種が求められるが、1週間程度の間隔でよい。そこで、軽・コレラ→重・黄熱の順でワクチンを接種することになった。

 

コレラ接種の初日、隣県の果てにある接種センターにたどり着いた。ベッドがある広い診療室でかたち通りの問診を受けた後、医者はまくり上げた私の左腕のなかほどにズブリと針を刺した。とたんに「今、菌が静脈に侵入、体の中心に向かっております」という感覚が生じ、菌が進むたびにその部分が、重く、だるくなっていくように感じた。針が抜かれたときには、腕の付け根まで違和感が広がり、腕を持ち上げるのもおっくうな状態であった。

 

帰宅後さらに状態は悪化し、夜になると腕は太ももぐらいの大きさまで腫れあがった。触れると飛び上がるほど痛い。寝るときは体の右側を下にしなければならない。熱も37.5度近くまで上がった。接種でこれとは、実際にかかったらどんな具合だろう、と布団の中のぼんやりした頭で考えた。

 

熱は翌日にはひいたが、左腕の腫れとしびれは数日間残った。経験者に聞くと、コレラ接種で何ともない人は少数派で、38度を越える発熱はザラ、なかには脱水症状を起こして救急搬送される人もいるそうだ。

 

なんとかやり過ごし、しばらくして戦々恐々のコレラ2回目を接種。続いて、ラスボス黄熱を接種したが、とんと記憶はない。おそらく、大過なくすんだのだろう。

 

今月末から、民間人向けのコロナ接種が日本でスタートする。史上初の壮大な人体実験。強烈だとされる副反応は、あのコレラと比べてましなのか。医療従事者でもない高齢者でもないタハラが参加するのは、まだまだ先のことである。

同音異義語の妙味

コロナは「収束」か「終息」か。時事ネタをテーマにした、入社前研修の作文をチェックしていたとき、記述のバラツキを見て、あれれ、とおもった。

 

「収束」分裂・混乱していたものが、まとまっておさまりがつくこと。おさめること 例:事態の-を図る、争議が-する

「終息」物事が終わって、やむこと 例:蔓延していた悪疫が-する

 

どうやら、両方とも正解のようである(むむ、変換1発目『せいかいのよう=政界の要』と出たぞ)。

 

しいて言えば、前者は第三者が介入して事態を変化させることを含意するようなので「(ワクチンを打って)コロナ禍を収束させる」はおそらく「収束」が適当。英語で言えば、things betterとかget back to normalか。

 

それに対して、終息は、死亡フラグがたつということだ。だから「コロナウイルスが~」と生き物?を主語にしたときにしっくりくる。end とかdie downとかといったニュアンスだろう。

 

似たような意味を持つ同音異義語は、ことほどさようにややこしい。

 

ちなみに、グーグルをコーパス替わりにして調べると、「コロナ-収束」の用例は310万件ヒットする一方、「コロナー終息」では173万件である。まだまだ、全体的に終息(end)には程遠く、落ち着いてくれ(get back to normal)という認識なのだろう。できるだけ早いdie out(絶滅)を祈るばかりだ。

 

サボリ癖

それにしてもひどい。ひどすぎる。1カ月もHPブログを更新せずにいるのは、文筆家と名乗る資格はないだろう、と反省している(税務申告では、自営業ー文筆家、というカテゴリーにしている)。なぜ書けない、いや、書かないのだろうか?

 

とある本によると(タイトルは忘れた)、人が文章を書く理由は3つあるという

1 自分しか知らない情報を他人に知らせたい

2 周知の情報に対する、自分の意見に共感してほしい

3 他人の意見と異なる意見を述べたい(2の変形)

 

つまり、今の私には1新情報もなければ、2ものごとに対する定見もなく、3批判精神すら忘れている状態だ。精神がみずみずしさを失っているのだろう。とりあえず、この申告を終わらなさなければ。

 

聖書みたいに「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」なんて奇特なことをいってくれる収税人はいないだろうか…とほほ。ここで一句。

 

 この社会 あなたの税が生きている それにつけても 金の欲しさよ

 

酒、人を呑む

暦の上ではお正月ということで、アルコールに絡む話を少々。

 

私自身はアルコールはNGで、肌に触れてもかぶれる体質である。以前入院したときなどは、消毒のたびに皮膚が赤くなり、ついには看護師引継ぎ用として「田原さん、アルコール禁止」と朱書きされた紙が、デカデカと頭上に貼りだされてしまった。布団の中でのワンカップ大関の隠し飲みがバレたアル中患者のようで、少々恥ずかしかった記憶がある。

 

私は論外として、日本人をはじめとするアジア人はほぼ下戸の類に属するだろう。それにひきかえ、ヨーロッパ人、特にロシア人は恐るべき飲酒レベルの人がいるらしい(ロシアをヨーロッパに含めていいのかという議論は、ここでは触れない)

 

ロシアがまだソ連と言われていた大昔、時はゴルバチョフ禁酒令下の冬のモスクワ。外国人だけに出入りが許された専用バーのカウンター脇で、モスコーミュールをちびちびなめていたときのことだった。

 

ときおり、コートを着た人間が寒風とともにふわっと入ってきて、そのままカウンターに手をつく。バーテンダーはビーカーに手早く何かを注ぎ、客はそれを一気にあおる。そして黙って扉を押し開けて出ていく。その間数十秒。入れ替わり立ち代わり、この光景が少なくとも4,5回繰り返された。

 

「何飲んでいるの?」好奇心にたえかねて聞いたら、バーテンダーはガン無視。客は、こちらに向き直りまじめな顔で「水さ」という。その吐息がいかにも酒臭く、ああ、そういうことかと合点が行った。法の目をかいくぐって、現地人を外人バーに出入りさせていたのだ。

 

最近、ドイツに留学中の大学生からも面白い話を聞いた。ロックダウンが続く中で、寮生がコロナ濃厚接触者の判定を受け、最長2週間の禁足を食うことがひんぱんに起こるらしい。

 

その間、生活必需品はボランティアが玄関先に買い置きしてくれるが、アルコールは禁止である。そこで、上の階の友達に頼んでビールだのワインだのを調達、(玄関だとバレるためか)こっそりと窓から吊るしてもらい自室の窓から受け取るうそうだ。

 

禁じられれば禁じられるほど、あの手この手で対抗策を講じる。酒に呑まれた人間のやることは、今も昔も変わらない。

 

語りえぬもの

『語りえぬものについては、沈黙せねばならない』。19世紀末ウィーン生まれの哲学者ヴィトゲンシュタインの有名な言葉だ。

 

「わからんことについて何を言ってもムダで役に立たんから、われわれは、語るべき領域のことに専念した方がよい」が、通常の解釈である。

  

この言葉に反発を覚える、言語化・図式化大好きのタハラだが、つい先日、語りえぬ体験をした。

 

孤軍奮闘で経営改革を進めていたあるトップが、若手らの考えをひととおり聞き終わったあとに「私は、一人ではなかった」と落涙したのである。一瞬、すべての音が消えたような感覚、なにか温かいもので場が満たされていくような感じは、とてもじゃないけど、居合わせた人間しかわからないだろう。

 

ただし、その先のコミュニケーションは言葉や文字に頼らざるを得ない。トップや若手らが、感動を組織のすみずみに伝え経営改革を進めるためには、非言語体験を、言葉や文字で再現するしか手段がないのだ。

 

実は、先の名言にはもうひと通りの解釈がある。『言語化できないものに対しては、敬意を払ってだまって向きあおう』である。そう、言語化できない時は、その対象に、自分自身に、だまって向き合おう。

 

そしてしっかりと観察したうえで、なんとかかんとか、他人に伝える努力をしてみよう。それでも伝わらないかもしれないが、その人が言葉で耕せる範囲はじょじょに広まってくる。 そして、あきらめずに言語化に努める姿そのものが、聴く人の胸を打つのだと信じている。

 

わたしを〇〇にしないほうがいい

キャッチーな見出しを考えて、腕組みして椅子にもたれていた数日前の午後のことである。気分転換にはいった図書室(わが事務所の隣部屋。6,000冊の蔵書あり)で目にした一冊の本を見た瞬間、おおぅと声を出してしまった。

 

「わたしを空腹にしない方がいい」くどうれいん(2018)である。なんと巧妙なタイトルだろうか。

 

テーマが「食」であり、かつ「空腹」から日々のつつましやかな食事や間食を題材にしていることが連想できる。そして「空腹にさせない」でなく「しない」が、いわゆる個食についての内容であることを匂わせる。テーマ、題材、著者のキャラまでが、この長からぬ表現に凝縮されているのだ。

 

そしてなんといっても「わたしを〇〇にしないほうがいい」という、上から目線な感じがよろしい。このパターンは使えそうだ。さっそくまねた。

 

会社の業務用文書なので「私」は主語にならない。試行錯誤して「××を〇〇にしないほうがいい」という形式にあてはめた。あんまりおもしろくないが、まあ、おしごと用なので仕方がないか。題名づけの際のストックが増えたから、良しとしよう。

 

 

ストック中のマイベストは「帰ってきた●●」だ。世間でも「ランボー2」「ランボー3」など続編がぞくぞくと生まれると、苦肉の策で、作品の一つにはこれが混ざる。ウルトラシリーズでは「帰ってきたウルトラマン」がある。ヒーロー名以外のタイトルは「ウルトラQ」とこれだけのようだ。

 

ちなみに「帰ってきたウルトラマン」のシリーズ中の最高視聴率は、まさかの最終回だったらしい。やっぱり名タイトルの番組は強いのだ。シュワッ。

 

 

あこがれの占い師

オカルトブームのさなかに子ども時代を過ごしたタハラの将来の夢は、「占い師になること」であった。理想の職業にみえた理由は以下とおりだった。

 

・元手がかからずに開業できそう

・当たらなくても責任を取らなくてよい

・とにかく、ブームである

 

なんとも冷めた小学生である。

 

とにかくスキルを身に付けなきゃいけない、ということで、占星術、トランプ、タロット、手相・人相、易学、など、中学生になるころにはひととおりの本は読んだ。友達を相手に実践も積んだ。ところが、ぜんぜん覚えられない。

 

原因はおそらく、占いの本がどれも大人向けで、難しかったことによる。つい「なぜそうなるのか」と考えてしまう性癖も災いした。人間、納得感なしに丸暗記するのはなかなか苦しいものだ。

 

そのうち、空前のオカルトブームは去り、占い師への夢もあせた。お小遣いをはたいて買った、多くの占いグッズや本が手元に残された。その多くは処分してしまったが、大人になってから、当時のタロットの本を見返して、ハタと気づいたことがあった。

 

お見事なまでに、問題解決のキーワードを踏まえているのだ。

下は、「ケルト十字」というタロット初心者向けの解法である。

 

内部環境(内面)の分析

1 現状

2 原因(障害)

3 顕在意識(相談者が自覚していること)

4 潜在意識(相談者が無自覚であること)

5 過去

6 近未来(1~3カ月後)

外部環境の分析

7 相談者の立場(価値観、思い込み、態度)

8 周辺(周囲の評価、感情)

9 願望(問題解決への期待)

10 結論

 

 

おおっ、個人のお悩み相談はもとより、ビジネスツールとして十分使えそうな優れモノではないか。

 

相談者の問題のありどころを明らかにし(1~3)、背景と見通し踏まえながら(5,6)本人も見えていない「強み、弱み」を可視化する(4)。そして価値観を確認したうえで(7)、周囲の状況を客観視させ(8)、問題解決のゴールを定め(9)、それらしき解を暗示する(10)。

 

1~9まで相談者からうまく聞き出してストーリーにできた時点で、問題はほぼ解決したようなもんである。ちなみに、トヨタの「なぜなぜ5回を繰り返せ」とそっくりなタロットの解法もある。

 

おもえば、五欲から生じる人の悩みの本質は、今も昔も変わらない。これに折り合いをつけるための解決のプロセスも、そうは大きく変化していないのだろう。

 

ただ、占い師の道具は変わった、お香や水晶玉から、ビッグデータとコンピュータへ。クライアントの問題解決を生業にするカウンセラーやコーチ、コンサルは、現代の占い師なのだ。たぶん。知らんけど。

 

お役所コトバ考2

おもわず微笑んでしまった。先月実施した、自治体新入職員向けの、オンライン「公文書作成講座」の感想文を読んでいた時のことである。

 

「今まで『~以外は受け付けないものとする』『~と認識される』などの難しい表現が、公務員にふさわしい言い回しであると誤解していた。しかし、当講座で考えを改めた。自分の親やら友人の顔を思いうかべれば、今までの調子では、まともに理解してもらえるわけがない。今後は変な思い込みを捨て、最低限の書類とシンプルな表現で住民の方々とやり取りするよう心掛けたい」

 

100名以上の受講者のうち、こうした感想が少なからず見られたのは、うれしい限りである。

 

公務員に限らず、たいていの組織には独特の言語文化がある。役職名もそうだ。20年ほど前に大型合併をした鉄鋼3社では、合併直後に管理職がダブついてしまった。1つの組織に課長が3人といった状態である。どう呼びならわすか苦悩した結果、「大課長」「中課長」などといった、珍妙な役職名が現出したらしい。

 

初対面で「営業中課長」という肩書の名刺をもらい、(営業中(えいぎょうちゅう)の課長って一体…?)、と悩んだ取引先の人の数は、片手には収まるまい。

 

組織の中の規範が、外部にも通じるとは限らない。ジコチューなブランディングは迷惑なだけだ。誰が見るのか、目的は何なのか、ターゲットが定まったものが「名文」である。

 

最後に、先ほど見つけた、おもしろそうな本を備忘録代わりにひとつ

伝えたいことが相手に届く!公務員の言葉力

 

謦咳(けいがい)に接する

「謦咳(けいがい)に接(せっ)する」-細々と生きながらえていた慣用句である。が、今度ばかりは、引導を渡されたのではないだろうか。

 

では浅学菲才の身ながら、漢字から解説を。

 

「謦」「咳」も「のどや気管支が刺激されて、急に強く起こる呼気運動」である。つまり「せきばらい」や「せき」「しわぶき(古風な言い方)」のことだ。漢字源によると、カチンカチンと硬いものが当る音をあらわしているらしい。

 

意味は「偉い人の話を直接きくこと」。要は、エライ人のせきばらいがわかるぐらい、話を間近で聞けて誠に光栄、ということである。起源はハッキリしない。中国の古典が基となったという説もあれば、明治以降できたという説もある。

 

と、ここまで来たところで、冒頭「引導を渡された」と書いた理由が、賢明な諸氏にはおわかりであろう。

 

ほんの短い講演でも、マスク&フェイスガードの溶接工のようないでたちで、登壇しなければならないご時世である。咳払いでもしようものなら、「すわ、飛沫感染!」と主催者が駆け付け「先生、ご体調が悪いようでしたら別室へ」と隔離されることまちがいなしだ。

 

まさに「謦咳に接する」はする方もされる方も、命がけの行為になった。そして今、仕事はオンラインに移行しつつある。

 

書類のやりとりや打ち合わせは以前からオンラインが主だったし、その気になれば講義もすべてオンラインで代用できそうだ。録画だと、とちったりかんだりが(あまり)ない。リアルタイムのものも横道にそれることなく、ムダがない。聞いている相手にすれば、場所の制約がなくなるわ、時間は節約できるわで、一石二鳥かもしれない

 

今後、まぎれもなくオンライン化の流れは続く。「謦咳に接する」意義が見いだせない限り。

 

 

日本教の社会学

このたび、コロナ引きこもり期間中の「7日間ブックカバーチャレンジ」で、バトンを渡された。20歳ほど年下の友人のよしこさんからである。が、グズグズするうちに、自粛期間が終わってしまった。次への引き継ぎは諦めて、渡されたバトンそのものを、しげしげと眺めてみようと思い立ったわけである。


本は『日本教の社会学』で、初版は1981年。著述ではなく、対談だ。一人は、一世を風靡した『日本人とユダヤ人』の著者イザヤ・ベンダサンこと、山本七平氏、もう一人は、小室直樹氏である。小室氏については、数学者だったかなという認識程度(間違いではなかったが)であった。あらためて、よしこさんのアンテナの広さに頭が下がる。


中身は、太平洋戦争時の日本軍の意思決定プロセスをもとに、日本人と日本社会の本質を鋭く考察したものである。キーワードは「日本教」「空気」「実体語と空体語」など。碩学な二人による、口語と文語のちょうど真ん中をねらった70年代的文体で、濃密につづられている。よしこさん曰く「言文一致を試みた頃の滑らかさ」だ。


読後は、2つの意味でしんどくなった。


ひとつは、当時の‘空気’を知っている者ならではの、トラウマである。とにかく日本人特異論や日本社会独自論が、世上で横行していた時代だ。多くは「自虐史観」である。それらは教材として、学校教育にも頻繁に登場した。子ども心にウンザリした私は「日本人という普遍の属性を、どうせぇちゅうんじゃ」と内心毒づいていた。一流の評論であっても、未だに食傷感はつきまとう。


もうひとつは、21世紀も20年過ぎても、日本教はゆるぎなくシステムとして作動し続けている事実に、あらためて戦慄したからだ。醸し出される「空気」は、未だに忖度や自粛警察などの超常現象を生んでいる。一方で、コロナ第一波の死亡者の少なさは「場に従う」という日本教のプリンシパルが、おそらくプラスに働いたことによる。古代より幾たびか日本社会を襲った疫病の流行が、この行動様式をつくったのかもしれないとも思った。


場に従うことだけが、不変原則である日本教システム。全くのところ、これから「どうせぇちゅうんじゃ」。バブル期に新人類などと取りざたされた自分だが、自立、自律に向けての社会の変質に、全く貢献できていない。単なる変人のまま、なす術なく立ち尽くしているような気がする。

「のり弁」文書を作らないために

仕事柄、「のり弁」をよく目にする。

といっても食べるやつではない。モリカケ問題などでひんぱんにマスコミに取り上げられている、あちこちを黒く塗りつぶした公文書のことである。

 

公文書は、国民に対し政府の説明責任を全うする観点から、行政機関及び独立行政法人等が保有する文書についての開示請求権等を定めている(総務省HPから抜粋)。ただし、次の⑴~⑹は不開示情報に該当する。

*以下、めんどくさがりは箇条書き後ろの( )内だけ読まれたし

 

(1) 特定の個人を識別できる情報(個人情報)

(2) 法人の正当な利益を害する情報(法人情報)

(3) 国の安全、諸外国との信頼関係等を害する情報(国家安全情報)

(4) 公共の安全、秩序維持に支障を及ぼす情報(公共安全情報)

(5) 審議・検討等に関する情報で、意思決定の中立性等を不当に害する、不当に国民の間に混乱を 生じさせるおそれがある情報(審議検討等情報)

(6) 行政機関又は独立行政法人等の事務・事業の適正な遂行に支障を及ぼす情報(事務事業情報)

 

(5)、(6)などはいかようにでも解釈できるので、相手方は重要な部分をここぞとばかりに塗りつぶしてくる。そこを文字数と文脈から「眼光紙背ニ徹ス」眼力で推察していく。ところが、最近はとみに、のりの量が増え「だ」「である」とか「と」「や」とか、文末と接続語しか読み取れない傾向にある。気になるところだ。

 

と、前置きが長くなったが、このたびの熊本県・教育長ブログ「文科省通知の読み方」は、そんな物騒なケースではない。文章のなかで絶対に必要な部分以外を塗りつぶしたらこうなりました、という内容である。

 

実は、タハラの文章講座でも「必要な部分以外を全部消せ」というワークがある。その分量が一番多かった文書を「The King of Wakarinikui(わかりにくい)」として称えるのだが、この栄誉に属するのは、圧倒的に中央官庁が発行した公文書に多い。

 

どこがムダなのか。細かい点は・教育長のブログに譲るとして、ポイントは「命令形以外は全部ムダ」だ。公文書をはじめ、ビジネス文書の根幹はすべて頼みごと、つまり命令形にある。ただし、それをストレートに表現するとカドが立つ。そこで「お願い申し上げます」などとオブラートにくるみながら発信者の意思を表示する。

 

そう、文書とは話し手による意思表示なのだ。ほかはすべて枝葉である、と心得ることがビジネス文書上達の第一歩である。みなさん、覚えていてね。

 

最近、気づいたこと

最近、気づいたことがある。

 

ZOOMの脆弱性(ぜいじゃくせい)を、どれだけたくさんの人が「きじゃくせい」と読んでしまうかを。

コロナウイルスによる禍(わざわい)を、「コロナ渦(うず)」と書いてしまう人々がいかに多いかを。

賞賛・批判のツイートにどれほど数多くの「安部首相」「阿部首相」「阿倍首相」が存在しているかを。

 

右脳人間、左脳人間

研修の仕事の多くが、コロナ氏のせいで延期になっている。

ただし書き物関係の仕事はなくならない。話し言葉系、書き言葉系の両方の仕事をしているリスクヘッジがここで効いている。ありがたいことだ。

 

さて、現在閑古鳥中の講師業は、ビジネス文章作成関係が中心である。ただ最近ちょっとカラーの違った依頼が来るようになった。情報リテラシー、統計学の入り口を扱う分野である(一応資格を持っているので)。

 

というと、「うわぁ、右脳も左脳もすごいですね」とホメてもらえることがある。文理両道という意味なのだろう。でも統計は、論理(一応、専門)を拡張したものだ。それに文字と数字は、概念を抽象化・記号化したものだから、 根っこは一緒なのだと勝手に思っている。

 

そして、そもそも右脳=理数系、左脳=文系というステレオタイプは、大いなる誤解。疑似科学の典型らしい。

 

以前から、右腕と左腕とは違い、脳の右左はしっかりとつながっているんだからバラバラには動かんよな、と思っていたら、Despite what you've been told, you aren't 'left-brained' or 'right-brainedに動かぬ証左があった。2013年の古い記事だが、掲載はかの英ガーディアン紙だ。そこが右脳左脳を「都市伝説」と否定しているのだから、サ〇スポや週刊△性よりは信用度は高いだろう。

 

注意すべきはむしろ、個人個人の認知の偏りや自己の防衛本能(プライド)である。それらが、自分のワクを自分にはめ込んだり、やらない理由を探したりする際に、「右脳左脳」を言い訳にするのだ。記事はこうまとめている。

 

"Let's not underestimate our potential by allowing a simplistic myth to obscure the complexity of how our brains really work.’’(単純化された神話が脳の働き方の複雑さを曖昧にすることで、私たちの可能性を過小評価しないようにしましょう。)

 

ちなみに上訳は、最近とみに評価の高いDeepL翻訳であるが…現段階では生硬く、まだまだ人間様の活躍余地はありそうだ。みなさん、自分の脳みそにもっと自信を持とうよ。 

 

*参考記事 

Despite what you've been told, you aren't 'left-brained' or 'right-brained' (右脳、左脳神話のウソ)

Amy Novotney 'The Guardian' 16 Nov 2013

 

コロナ騒ぎ

ただただ、バカバカしいかぎりである。といってもウイルスの脅威そのものではない。

私が、バカバカしいと思っていることについては以下のとおり。

 

〇日本政府が、イベントや休校要請に際し、判断の根拠や実施基準を示さなかったこと

さらに

・実施した場合のメリットとデメリットを検討した様子がない

・中小・零細飲食業者に致命的な打撃を与えていながら、政府の首長たる人間が毎夜(おそらく高級料亭で公費による)飲み食いを重ねている。人気が失せた街の居酒屋でやれ、と言いたい

 

〇ヤフオクやメルカリなど大手フリマ業者が、マスク転売などについて価格や数量などの自主規制をおこなわなかったこと

ちなみに

・イオンなど一部流通業者は、店頭に不足物資(ティッシュ・トイレットペーパー)で万里の長城を築き、ドヤ顔で転売ヤーに見せつけた。こうしたあっぱれな業者の爪の垢を煎じて飲んでいただきたい

 

〇いまさらテレワークに走る企業

・現役世代の、子育てや家業との両立への怨嗟の声には応えない。自らの感染リスクには敏感なオッサン文化

  

ひとつ提案がある。

 

現在休校中の児童・生徒をガラガラの新幹線に乗せ、国会の傍聴にご招待してはどうか?

一斉休校を千載一遇のチャンスとして、国としての意思決定がどうなされているか、未来を担う若者らにしかと確かめてもらうのである。

 

感染症学会の以下のデータを見る限り、20歳未満の感染は軽症で済み、致死リスクは極めて低い。対して50代のリスクはその数倍、60代以上の閣僚クラスでは18倍以上だ。

 

平均年齢54.7歳、50歳代が6割を超えるオジサン議員たち。傍聴席から、未成年のつぶらな瞳と感染リスクのアツを受ければ、連日連夜の濃厚折衝もさぞや捗(はかど)るだろう。

 * 参考HP 日本感染症学会 水際対策から感染蔓延期に移行するときの注意点

社名の由来

「御社の○○にひかれました」と面接官の前でアピるそこの就活生さん、ちょっと待った。ちらっと見たHPや先輩訪問時の聞きかじりといった周知のリソースでは、ライバルと差をつけるのは難しいぞよ。ここはひとつ、会社のルーツに深く関わる「社名」に注目してみよう。

 

では、クイズを3つ。

 

1 創業者の名は「豊田(トヨダ)」なのに、なぜ社名は「トヨタ」なのか?

2 創業時、ダスキンの創始者、鈴木清一氏がイチオシとして考えた社名は?

3 「セメダイン」に込められた真の意図とは何か?

 

答えは以下の通り。

 

1 創業前年の昭和11年、公募した社名ロゴ「TOYOTA」のデザイン案を気に入ったから

すでに登録していた第一号国産車「トヨダ号」の商標を取り消し「トヨタ号」に変え、社名もトヨタにした。あの質実剛健なトヨタがデザイン優先で社名を決めたという、らしからぬ?逸話だ。

 

2 (株)ぞうきん

あまりのストレートさに「これじゃ嫁さんもらえない」という社内からの懸念の声が上がったらしい。これを受け、(株)サニークリーンとなり、のち「ダスト(ほこり)」+「ぞうきん」の「ダスキン」に落ち着いた。業務内容と語呂の良さを兼ねた見事なネーミングである。

 

3  打倒「メンダイン」

明治中期、英国製「メンダイン」をはじめとする輸入接着剤に、日本産のノリは駆逐された。創業者・今村善次郎は「メンダイン」を「攻め(せめ)る」をスローガンに苦節4年、汗と涙で初の国産接着剤を開発した。これがのち社名となる「攻め+(メン)ダイン」、だからなんだか強そうに聞こえるのだ。

 

ほかにも面白い話はいっぱいある。ロート製薬の最有力候補社名は「眼活」だった(今ならウケそうだ)、文化元年創業の「ミツカン」は、明治期に屋号「丸勘」の登録をライバル社に出し抜かれて急遽考えた、二番煎じの社名だったなどなど。社名にまつわるエピソードは尽きない。

 

どうだろう、とりあえず志望企業名の由来を調べるというのは。このネタだけで、人事担当者と10分ぐらい会話がもたないだろうか。

 

 

※参考:『誰かに教えたくなる「社名」の由来(2007)本間之英

TOYOTA、ダスキン、ロート製薬、各社HP「会社沿革」

 

「が」「は」の違い

日本語の奥深さを上から目線でお伝えする、「知ったかぶりの言語学講座」。

 

第1回目は、一字違いでエライ違い、がテーマである。題材は、ちょっと旬を過ぎた例の国外脱出騒ぎ。といっても「ビーン」か「〇ーン」かという固有名詞ではない。あくまでも語と語をつなぐ「助詞」に着目する。

 

さて、クイズを出してみたい。

 

中身不明の楽器ケースに貼るステッカー用に、キャッチコピーを考えるとしよう。×に入る言葉としては、「が」「は」、どちらが自然だろうか。

 

(1)ビーン「×」入っています。

 

この場合「が」が適当だ。「は」、だと「ビーン以外に何かメインが入っていることを期待したでしょ、あなた」というニュアンスが出てしまう。

 

翻って、これはどうだろう。

 

(2)ビーン「×」入っていません。

 

ちょっと悩んだ方もいるかもしれないが、「は」ではないだろうか。

 

この場合の「が」「は」の決定的な差は何か。

 

実は、聞き手に新情報を提供する場合は、「が」を使うことが原則である。昔ばなしが「昔々、おじいさんとおばあさんが」と必ず「が」ではじまるのと同じリクツだ。

 

ではなぜ(2)は、「は」の方がなじむのか。「ビーンは入っていない」は、新情報ではないのか? 確かに、そうかもしれない。

 

楽器ケースには必ず何か(普通は楽器)入っていることが前提になっているので「(ちゃんと楽器が入っています。)しかしビーンは入っていません」の前半のカッコの文が略されているというわけだ。つまり、聞き手が前提という情報を持つから、新情報ではない、というリクツか(自信がないが)。

 

もうひとつは、新情報云々(うんぬん)とは別に、文が動詞の否定形で終わっているからである。形容詞(楽しい、悲しいなど)や名詞(男性だ、レバノン人だ)、また動詞の否定形など「状態」を表す場合は、通常「は」を使う。

 

これを一瞬にして使い分ける日本語ネイティブってすごい。英米語、仏語、アラビア語、を自在に操る〇ーン氏が、在日約20年間、公式の場ではちっとも日本語を使わなかったのも、無理はない。

 

としのはじめのごあいさつ

っというまの2020年の一週間だった。

 

っして始業3日間もサボっていたわけではない。が、頭に全くエンジンがかからないのだ。休眠中のカエルがおこされるとこんな気分だろう。

 

だ休日モードで仕事のスタートが切れていないだけなのか。時間は連続的なもので、生物としては体内では正確なリズムを刻み続けているはずなのに、人為的な区切りに振り回されるのにはほとほと困ったものだ。

 

かたなく、年末にし残した作業に集中してみる。

 

や指を忙しく働かせる、脳が活性化されるかもしれないという期待だ。ということで?お休みモードの中から、あらためて

 

おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 

クリスマス・シュトーレンのおはなし

クリスマスといえば、ドイツである。

クリスマスツリーを飾る習慣は、大英帝国・ヴィクトリア女王の夫君が、故国であるドイツの風習を王室に持ちこんだのがはじまり。また15世紀から始まったクリスマス・マーケットも、ドイツのドレスデンが発祥の地と言われ、今も多くの人々でにぎわう。

 

そんなイメージから「クリスマスをドイツで」と渡欧し、わりと痛い目に合った日本人は多いのではないだろうか。店やレストランからは閉めだされ、美術館は短縮営業。戸外のマーケットの寒さに耐えきれず近所の教会に飛び込むと、「一見さんお断り」でシビアな扱いを受けたりする。クリスマスは昔の日本の正月と同じで、基本的には家族で過ごす時期だからだ。

 

こうしたドイツのクリスマスに欠かせないのがシュトーレンだ。最近、よく見かけるものの、昭和の日本人に愛されたいちご丸ケーキに比べ、いまひとつ子どもウケしない味であろう。

 

それもそのはず、これは長期保存のための伝統食だ。15世紀にドイツ王がローマ教皇に、教会建立と引き換えにバターの使用を認めさせたエピソードを持つ代物である。材料や製法などの条件をクリアしないと、シュトーレンとは認められないのだ。

 

例えば「ドレスドナー(ドレスデンの)・シュトーレン」認定では、小麦100に対し70以上のドライフルーツ、油脂は40でその半分以上はバターを使え。手ごねで製造し、型を使うことはまかりならぬという厳しいお達しがある。

 

こうしてできたブツ1個の熱量は、1600カロリーを超える。成人女性の1日の必要カロリーに近い。だから12月の初めから少しずつ食べ始め、クリスマスにようやく食べ終わるのがドイツ流だそうだ。

 

日本の皆さん、カロリー超過が気になるこの時期、まかりまちがっても、一日で食べきらないように。

 

*参考URL 辻調グループ総合サイト 「食」のコラム&レシピ

 

 

働き方改革の目指すもの

働き方改革とかけて「残業縮減」「DXの推進」ととく。そのココロは「組織の存続(短期的には’競争力の向上’)」。多くの企業の解釈はそれだ。

 

だが本来この解釈は正しいのか?旗振り役である厚労省のHP『働き方改革の目指すもの』をみてみよう。

 

我が国は、「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」などの状況に直面しています。(中略)

「働き方改革」は、この課題の解決のため、働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています。

 

わかりにくい文章だなぁ。願望と目標、目的と手段と結果がごっちゃになってぼやけている。

どうやら、「生産年齢人口が減少」→「育児や介護など家事労働が現役世代を圧迫」→それを「働き方改革」でなんとかせい、という図式のようだ。

 

ツッコミどころは以下のようなところか。

 ・「育児や介護の両立」は本当に「多様なニーズ」か。ニーズというよりは、今まで見ないでやり過ごしてきたものを、しゃーなしでスポットを当てているだけだとおもうが

・「より良い将来の展望が持てる」が、なぜ「目指す」ところになるのか。単なる副次的効果じゃないのか

 

つまり翻訳すると…労働力人口の減少により一人に求められるマルチタスクの本数が増えるから、みなさんは「多様な働き方」をしてね。そうすると我が国は「より良い将来の展望が持てる」から、ということだ。

 

なんのことはない。働き方改革とは官民挙げての『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』マンパワー編であった。みんなで幸せになろうよ、というメッセージが感じられないのが哀しい。厚労省の英訳は「健康と労働、豊かで幸せになる省(Ministry of Health, Labour and Welfare)」なのに。

 

視覚・聴覚・体感覚

自分の中に情報を取りこんで習得したり、取り出して表現したりするときの感覚経路の代表格は視覚、聴覚、体感覚だ。ただし、どの経路を優位に使うかは人によってさまざまらしい。

 

タハラはといえば、情報を習得するときは、聴覚優位である。小さいときから目が悪かったことが影響している。

 

小学校の高学年には、教室の席が2,3列目より後ろになると、黒板が見えづらい状態だった。かといって、眼鏡はかけたくない。前列移動を志願して、チョークの粉や教師のツバキを浴びる覚悟があるほどまじめでもない。板書はあきらめるとしても、サボっていないぜアピールが必要となる。そこで、聞き書きすることが常となった。

 

耳に残った語を拾って、〇や△や→でとりあえずつなぎ描くのが私のノートだった。ほとんど暗号だとよく教師におこられたが、今からおもえば「思考の視覚化」である。小学生のくせにエライ高度な技をつかっていたことになる。すなおに黒板を写した方がよっぽど楽だったろう。

 

おかげさまで、情報のインプットは聴覚優位、アウトプットは視覚優位となって定着した。

 

苦手だったのが体感覚、つまり手を動かして体で覚えることだ。漢字の百字練習や英単語の書き取り訓練にいたってはほとんど罰ゲームに感じられた。あんなことをして覚えられるわけないだろう、と成人後に恨み言をいうと「そういう感覚が信じられない」と多くの人に返されたのには驚いた。本当に人それぞれなのだ。

 

学習のやり方やペース、そして表現の方法はそれぞれ異なっている。大切なのは「人はみな違う」という前提に立つことだ。特に伝える側は、教室でも仕事場でも、相手がどういうタイプなのかよく観察する必要がある。自分のやり方を押し付けちゃいけない、としみじみおもう今日この頃である。

 

坂本龍馬≒空海説

タイトルを見て「なるほど、義経がジンギスカンになるよりは、空海が坂本龍馬に輪廻転生していた方がまだ可能性は高いか」と早合点しないでいただきたい。このヒーローたちには意外な共通点があるという意味だ。

 

それぞれの活躍の年代は1000年以上へだたっている。一方で、四国出身で(山脈を挟んで北と南に分かれているが)かつ諸国を行脚しているという点がまず同じである。

 

空海の活動時期は8世紀末から9世紀初頭。讃岐国(四国)で生まれ、平城京~九州・博多から船で唐・長安(中国・西安)へ。そして帰国後、都で権力者たちと調整を図りつつ、高野山(和歌山)に寺を建てた。その合間に修業を積んだり、ため池と作ったりと、近畿・中国・四国地方など西日本に神出鬼没(即身成仏の身であられるが)している。

 

対して坂本龍馬は同じ四国でも、幕末の土佐郷士。1年ほど江戸に遊学したのちに土佐に戻るものの脱藩。以降、江戸~京都を行ったり来たり、あるいは長崎で商社を設立したり婚姻記念に宮崎に足を延ばしたりと活動範囲は広い。蝦夷地(北海道)の開拓も夢見ていたというから、もう少し長生きしていたら北は北海道から南は琉球まで、日本縦断は間違いなかっただろう。

 

もうひとつの共通点は、エピソードの多さである。

 

空海が中国留学中に投げた独鈷が飛んできた、という高野山の由緒は有名だ。政府の肝いりでため池造成に励むかとおもえば(農水省のHPのお墨付きである)、口と両手両足の五筆で書を記すわ、ライバル僧を呪詛で妖怪に変えるわ、大昔の人だからエピソードもやりたい放題だ。

 

だが龍馬だって負けてはいない。新婚旅行の始祖であり、FIRE組(=脱藩者)希望の星でもある。薩摩藩などの協力で設立した亀山社中(のち海援隊)は、日本初の株式会社といわれている。そしてもっとも名高い功績が、「薩長同盟」と新政府のビジョンを示した「船中八策」である。が近年、この2つをはじめ、明治維新に対する龍馬の貢献度合いに疑問符がつけられているらしい。

 

とすると、ひょっとしたら空海同様、龍馬も同世代と後世の人たちが作り上げた、ひとつのアイドル(偶像)なのかもしれない。

 

「遠くから来たエライ坊さまがこんなことをなさったらしい」「ホウホウ、それはきっと空海さまとおっしゃる方じゃ」、こんな感じで弘法大師伝説が成立していったように、志なかばで倒れた、多くの名もなき若き土佐の志士のエピソードが「坂本龍馬」として結実したのか。

 

11月15日は龍馬の誕生日&命日である。高知に残されたあちこちの足跡を見ながら、そんなおもいにかられた。 

話し上手と筆達者

得意=苦にならない+その分野でのアドバンテージがある、と定義しておく。世間を見ると、話すことが得意な人と書くことが得意な人では、人種が違うなあ、と感じることが多い。

 

昔々は司馬遼太郎のファンだった。が、ひとたび講演や対談となると、聴講中寝落ちするのがオチだった。文章であれほど滑らかにしゃべることができる人が、ひとたび肉声にのせると、どうしてあんなにつっかえるのか。

 

長じて、やや有名人のインタビューをまとめる仕事をしたが、ほぼ例外なく同じ感想を持った。あれだけユーモアあふれる作品を生み出す人たちが、なぜこんな四角四面な話しぶりなのかと。一方で、アナウンサーやタレントの魅力あふれる話を要約したら、たった1、2行になってしまうこともよくあった。(インタビュアーが下手クソだからという説は却下)

 

現在でも、筆達者な人々とは、おしゃべり自体が好きか嫌いかは別にして、電話で話すより、チャットでやり取りを優先する。逆もまたしかりで、講師仲間では、電話やZOOMなどがコミュニケーションの主体になる。そしていずれも、相手が得意な方法にゆだねた方が、やりとりに齟齬を生じないのだ。

 

頭に浮かんだことを文字(や絵)に移す作業と、瞬時に音声言語にのせる表現するのとでは、活動する脳の部位が違ったとしても不思議はないとは感じる。そのとき、一方の部位の活性化が、もう一方を抑制することに働くのか?それとも単に本人の怠慢で、一方のコミュニケーションで事足りるから、他方を手抜きするのか?最新の認知言語学の知見を問うてみたいところである。

 

シナリオ・プランニングとしての論作文

シナリオ・プランニングとは「将来起こり得る未来のシナリオを複数描き、それに基づいて戦略を導出していく手法のこと」である。近年では戦略的思考法の一つとして各方面に定着した感がある。

 

実は当研究所でもシナリオ・プランニング研修を裏メニューとして持っている。ファシリテーションを中心に、模造紙だのを囲んでみんなワイガヤする研修なので、コロナ禍の今は休眠中である。(巷ではオンライン研修でも開催)

 

ただ、そうしたワイガヤ手法を取らなくても、ひとりでも未来に思いをはせることはできる。

作文を書けばよい。

 

そもそも文章を書く目的は、「自分の考えを他人に知ってもらうこと」である。となると、例えば『●年後の日本』だと、●年後の日本に対する自分のイメージを、形(言葉)にしなければならない。言葉にするには、自分なりにいくつかの●年後像を具体的に描いておく必要がある。そのためには、予測データを見ながら、「いま」の行く末をしっかり観察することを迫られる。

 

つまり作文とは、ひとり脳内シュミレーションの発表の場なのだ。

 

これをシナリオ・プランニングに応用=ひとりひとりのシュミレーションを複数のシナリオに収束させるとすると…例えば、組織内で『●年後の日本』などといった統一テーマで作文を書く。その後、メンバーで話し合いをしながら言葉に(図式化)し、共通イメージを描いていく。こうすれば、未来に対する組織の共通認識を作ることができる、かな?

 

これならオンラインでもできそうなので、新・研修メニューとして導入を検討してみよう。

 

*参考 キリンホールディングスHP

 シナリオプランニング 4つのシナリオ

「くださる」vs「いただく」

就活生さんからの質問。「オンライン面接のメールでのお礼は『先日は面談くださいまして』『先日は面談いただきまして』、どっちがいいいんでしょうか?」

 

正解は(そもそも言葉遣いに正解なんかないと思うが)「どっちでも、好きな方に」である。ただし、ニュアンスの違いはある。

 

もともとの意味は

①~ください(る)=(相手が)くれる

②~いただく=(こっちが)もらう 

なので、いわゆる主語が違っているのだ。

 

たとえば

①’「ご来店くださる」②’「ご来店いただく」では

①’は(客が)来店する

②’(こちらが客に)来店してもらう

という感じだ。

 

敬意表現という観点では

①~くださる、は相手の動作なので「尊敬(客を上げる↑)」

②~いただく、はこっちの動作なので「謙譲(こっちがへり下る↓)」

の類いになる。

 

ますます、ややこしくなってきた。

 

そのために「ビジネスでは謙譲表現②『~いただく』を使うように」と、のたまうマナー講師も多い。

 

ただし、へり下り過ぎたるはなお及ばざるがごとし。究極の謙譲語?「させていただく」は、相手に有無を言わせない強制力を持つ。「実家に帰らせていただきますっ!」は家出するときの決め台詞だもんね。

 

*参考 「教えてくださり?」「教えていただき?」NHK放送文化研究所

 

 

「ハレンチ(破廉恥)」という法律用語

「独逸国領事勤方ファバー氏に邂逅し忽抜刀追逐して兇殺せし段甚以不届之儀に付破廉恥甚を以て〈略〉斬罪申付候事」。おお、明治7年9月の太政官達第120号として発せられた法令(死刑執行命令書)に「ハレンチ(破廉恥)」が登場している。

 

辞書によると、ハレンチとは「廉恥(恥を知る)心を破る」ということ。人の道に外れた行い、という意味らしい。しかも、現代においても「ハレンチ罪」は立派な法律用語のようだ。『道義に反する動機・原因によりなされる犯罪。殺人・詐欺・窃盗・放火・贈収賄など』という定義まである。

 

それにしても冒頭の執行書、人殺し自体が道に外れた行いであるのにもかからわず、わざわざ「ハレンチ」などと書き込んだ意図は何か。ふと性的な殺人動機が頭をよぎるのは、70年代の漫画『ハレンチ学園』の影響が大だろう。

 

ただし、最新の在留外国人向け日本語手引書のただし書きを見ると「ハレンチはあまり使われない単語」だそうだ。言葉は世につれ変わっていく。 

いじめ保険

LC研究所設立前のタハラの前歴は、実は、生命保険会社である。某公営放送の朝ドラの主人公が設立した会社だ。

 

広報畑が長いうえ、ちょうど在席10年でお払い箱になったので(いわゆるマタハラ退職)、保険屋さんらしいことはほとんどしていない。保険料算出の原理ぐらいは説明できるものの、どんな保険商品が世間にあるのか、百花繚乱、見当もつかない。

 

前職の記憶うすれゆく今、仰天の保険を発見した。いじめ保険である。正確に言えば、いじめをはじめとする家族のトラブルに関わる弁護士費用を、カバーするらしい。2019年つまり令和元年5月の発売だ。いじめの認知件数が対前年比112.6%増の61.2万件と、過去最高に跳ね上がった年である。

 

2020年度資料しか手元にないが、小中高学生の数はあわせて1260万人ほど。ということは、こどもの20人に1名ぐらいは、いじめのターゲットになっているということになる。残念ながら、ニーズとしては十分にありそうだ。

 

なんともはや、背筋が凍る話しだが、考えてみればあたりまえかもしれない。こどもの世界は、大人世界の縮図だからだ。

 

みわたせば、コロナ禍で正義を振りかざし、他府県ナンバーを取り締まる自粛警察、医療従事者を誹謗中傷する輩。TVをつければ、チームメイトに暴力をふるい移籍させられたスポーツ選手が、日を待たずに公式試合に出場している。国民栄誉賞を受けたOBが、それを激ボメするというポンコツな美談までつく。

 

イジメ礼賛を公然とみせつけて「いじめはよくない」と、大人のどの口が言うのか。ダメだこりゃ(故・いかりや長介風に)である。

 

※補足

2019年のいじめ認知件数の爆上がり原因は、おそらく、その3年ほど前に施行された『いじめ防止対策推進法』が、全国的に実行フェーズに入り、元来「なかったこと」にされていた案件があらわになったことが大きいと考えている。必ずしも、いじめ件数が爆上がりしたというわけではないと思いたい 

 

宴のあと

東京オリンピックが終わった。

 

このたびは運営の在り方など、むしろ場外にスポットライトが当たってしまった感があるが、オリンピックの主役はあくまでも選手のはずだ。トラックやコート、プールで輝く一瞬のため、選手たちは命を削るような練習を重ねる。

 

そんな鮮烈な体験を味わった後の長い長い「余生」に、選手たちを待ち受けているものは何か。1964年のオリンピックの焦点を当てたルポルタージュが、『東京五輪の残像(中公文庫2020年)』である。高度経済成長の真っただ中、日の丸を背負わされたそれぞれの重圧は、計り知れないものがあっただろう。

 

ステイホームでオリンピックロスに悩むあなたに、ぜひおすすめしたい一冊である。

 

ネガ語→ポジ語 変換で悩む貴兄に

「ネガティブな言葉をポジティブな言葉に言い換えて相手に伝えよう」という考え方が提唱されて久しい。「八方美人」を「人あたりがいい」、「能天気」を「いつでも前向き」と表現する感じである。

 

ただ、伝える側の語彙、あるいは受け取る側の言葉の知識が追い付かないために、かえって解釈をこじらせるケースがある(特に上司→部下)。ならばいっそ、伝えるときの表情や声のトーンに気を付けてストレートに伝えようよ、と以前ブログでお伝えした。

 

これに加え、今回は「日常的に否定表現を使わない」を提案したい。この「日常的に」がポイントである。みなさん、以下のような話しグセはないだろうか?

 

1「どうかなぁ」「そうだろうか」など、意味なく懐疑的なあいづちをうつクセ

2「いや、」「だけどね」などの否定表現で、話の口火を切るクセ

3「~はダメですね」「~できませんよ」など、できないことを強調する言い方になるクセ

 

こんなこと始終部下にやっていたら、言いたいことも言えなくなってしまう。対お客さんだったらイライラしだすぞ(タハラには、2の傾向が若干ある)。

  

1については、「なるほど」「そう考えているのか」と、とりあえずニュートラルに返し、疑問点は後でまとめて聞く。2は、絶対禁止。3は「~はOKです」「~だと大丈夫ですよ」と許容範囲を例示する言い方だと、受け入れられやすい。

  

書き言葉でもそうである。この間とある自治体のHPで、典型的なネガ表現があった。

 

・第5回接種は、●月●日以前は受付けません。

 

これをどう書き換えたら、よりわかりやすいか?みなさん、頭の中で変換練習してみよう。

 

もしも『一杯のかけそば』が「すうどん」だったら

ひさびさに関西脱出、「そば・うどん」の看板を見かけての雑感である。地元だと「うどん・そば」の順番が主流である。

 

バブル期の記憶があるアラフィフ世代以上なら、名作『一杯のかけそば』を覚えておられよう。舞台は大晦日の札幌の蕎麦屋で、その主人・女将と、客である3人の母子の交流を描いた短編である。「お母さんもお食べよ」と、一杯の年越しそばを身を寄せて分け合う、つつましやかな母子の様子が日本中に感動を呼んだ。

 

実は、関西育ちのタハラは「かけそば」なる食品がよくわからなかった。要は、何ものっていない温かいそば、で納得したものの、同時に冷たいVer.の「もりそば」なる存在を知り仰天した。「ざるそば」との違いは海苔の有無だという。そんなことで値段に差異を付けるセコさよ。ひょっとして、かけそばにはネギすらないのか。

 

うどん文化の関西であれば、かけそばよりも「すうどん」が鉄板である。もちろん、ネギはデフォルトだ。そもそもネギやショウガ、天かすはテーブルの上などにおいて入れ放題にしておかないと、客から苦情がでよう。

 

―テーブルの上の、1杯のそばを囲んだ母子3人の会話が、カウンターの中と外の2人に聞こえる。 「……おいしいね……」 「今年も北海亭のおそば食べれたね」―

 

物語のなかの心温まる会話。関西版「一杯のすうどん」では、こう変わるかもしれない。

 

「ちょっと●●ちゃん、そこにある天かすをスプーンですくってドバっとかけてから、そろーっとこぼれんように箸で汁にまぜこんで。そうそう。それからネギや。ミニトングでガッとつまんでうどんの上にドカッと三角盛りにするねん。これで母子3人分のカロリーとビタミン確保や!」

 

感染予防対策としてのケガレ祓い

ちょうど夏越の祓(なごしのはらえ)をはさんで、身内の祝い事と不祝儀をたてつづけに経験した。両者の基本思想は、ともに「清める」。特に後者は「ケガレ祓い=感染予防対策」なんだなあ、としみじみ感じた。死者がどんな病原菌をもたらすか、わからないがための先人の知恵である。

 

平成初めにあった祖母の村の葬儀では、田原家の門戸に「忌」を貼られ、全親戚が本当に7日間の出禁を食ったことを思い出す。緊急事態宣言発令である。

 

次に、家のかまどを封じられた。煮炊きは一切禁止で、近所の人が公民館を借り切って、炊き出しをしてくれた(正真正銘の肉なし精進料理だった)。身内だけの食事ながらも、できるだけ言葉を発してはならぬというお達しである。こうして、食事作りと会食による感染拡大を防ぐというわけだ。

 

また、戸口で精進料理を受け取るのは、孫や子など、家の中で一番若い人間、つまりワクチンの優先順位の低い層である。受け渡しのあとは、村人はかならず玄関の外にある盛り塩を踏んで帰っていった。今でいう出入りの際のアルコール消毒であろう。

 

もちろんわが家を含め、令和の葬儀の多くはもっと合理的になっていて、清め塩や通夜の線香(腐敗防止と防臭)に、感染防止の名残をとどめるのみである。初七日は告別式の当日おこなうし、四九日までの期間(神道の場合は五十日らしい)も、よほどのやんごとない家でない限り、禁足はないはずだ。

 

一方で、今でも旅行などの不要不急のイベントは延期する家もあるようだ。ただ、不祝儀のもともとのいわれが感染予防なのであれば、気持ちの折り合いさえついたら、わざわざ自粛する必要はないともいえる。国家行事のオリンピックだって、感染予防すれば開催できるらしいしね。

 

コレラ予防接種の思ひ出

平成もヒトケタ台の今は昔。アフリカ旅行を企てたとき、コレラの予防注射をしたことがある。

 

アフリカ大陸への渡航には、黄熱病とコレラの予防接種が必須であった。黄熱病といえば、子どもの頃『ポプラ社 子どもの伝記』で読んだあの野口英世。その命を奪った、おそろしい病である 。

 

一方で、コレラは私にとっては、なじみのある病名だった。大学時代、夏休み明けの学食で、こんな掲示板をよく見かけた。「××語科の●●さんに接触した人、すぐさま保健センターに申し出てください!!コレラ感染の可能性があります」。今となれば、個人情報への配慮のカケラもない注意書きである。

 

さて、接種パンフによると、黄熱は生ワクチンで、コレラは不活性ワクチンとあった。生ワクチンとは生きたままの菌を体に植え付けることだ。なんと恐ろしげなひびきであろうか。おまけに最低4週間あけなければ2回目の接種ができない。コレラも2回以上の接種が求められるが、1週間程度の間隔でよい。そこで、軽・コレラ→重・黄熱の順でワクチンを接種することになった。

 

コレラ接種の初日、隣県の果てにある接種センターにたどり着いた。ベッドがある広い診療室でかたち通りの問診を受けた後、医者はまくり上げた私の左腕のなかほどにズブリと針を刺した。とたんに「今、菌が静脈に侵入、体の中心に向かっております」という感覚が生じ、菌が進むたびにその部分が、重く、だるくなっていくように感じた。針が抜かれたときには、腕の付け根まで違和感が広がり、腕を持ち上げるのもおっくうな状態であった。

 

帰宅後さらに状態は悪化し、夜になると腕は太ももぐらいの大きさまで腫れあがった。触れると飛び上がるほど痛い。寝るときは体の右側を下にしなければならない。熱も37.5度近くまで上がった。接種でこれとは、実際にかかったらどんな具合だろう、と布団の中のぼんやりした頭で考えた。

 

熱は翌日にはひいたが、左腕の腫れとしびれは数日間残った。経験者に聞くと、コレラ接種で何ともない人は少数派で、38度を越える発熱はザラ、なかには脱水症状を起こして救急搬送される人もいるそうだ。

 

なんとかやり過ごし、しばらくして戦々恐々のコレラ2回目を接種。続いて、ラスボス黄熱を接種したが、とんと記憶はない。おそらく、大過なくすんだのだろう。

 

今月末から、民間人向けのコロナ接種が日本でスタートする。史上初の壮大な人体実験。強烈だとされる副反応は、あのコレラと比べてましなのか。医療従事者でもない高齢者でもないタハラが参加するのは、まだまだ先のことである。

同音異義語の妙味

コロナは「収束」か「終息」か。時事ネタをテーマにした、入社前研修の作文をチェックしていたとき、記述のバラツキを見て、あれれ、とおもった。

 

「収束」分裂・混乱していたものが、まとまっておさまりがつくこと。おさめること 例:事態の-を図る、争議が-する

「終息」物事が終わって、やむこと 例:蔓延していた悪疫が-する

 

どうやら、両方とも正解のようである(むむ、変換1発目『せいかいのよう=政界の要』と出たぞ)。

 

しいて言えば、前者は第三者が介入して事態を変化させることを含意するようなので「(ワクチンを打って)コロナ禍を収束させる」はおそらく「収束」が適当。英語で言えば、things betterとかget back to normalか。

 

それに対して、終息は、死亡フラグがたつということだ。だから「コロナウイルスが~」と生き物?を主語にしたときにしっくりくる。end とかdie downとかといったニュアンスだろう。

 

似たような意味を持つ同音異義語は、ことほどさようにややこしい。

 

ちなみに、グーグルをコーパス替わりにして調べると、「コロナ-収束」の用例は310万件ヒットする一方、「コロナー終息」では173万件である。まだまだ、全体的に終息(end)には程遠く、落ち着いてくれ(get back to normal)という認識なのだろう。できるだけ早いdie out(絶滅)を祈るばかりだ。

 

サボリ癖

それにしてもひどい。ひどすぎる。1カ月もHPブログを更新せずにいるのは、文筆家と名乗る資格はないだろう、と反省している(税務申告では、自営業ー文筆家、というカテゴリーにしている)。なぜ書けない、いや、書かないのだろうか?

 

とある本によると(タイトルは忘れた)、人が文章を書く理由は3つあるという

1 自分しか知らない情報を他人に知らせたい

2 周知の情報に対する、自分の意見に共感してほしい

3 他人の意見と異なる意見を述べたい(2の変形)

 

つまり、今の私には1新情報もなければ、2ものごとに対する定見もなく、3批判精神すら忘れている状態だ。精神がみずみずしさを失っているのだろう。とりあえず、この申告を終わらなさなければ。

 

聖書みたいに「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」なんて奇特なことをいってくれる収税人はいないだろうか…とほほ。ここで一句。

 

 この社会 あなたの税が生きている それにつけても 金の欲しさよ

 

酒、人を呑む

暦の上ではお正月ということで、アルコールに絡む話を少々。

 

私自身はアルコールはNGで、肌に触れてもかぶれる体質である。以前入院したときなどは、消毒のたびに皮膚が赤くなり、ついには看護師引継ぎ用として「田原さん、アルコール禁止」と朱書きされた紙が、デカデカと頭上に貼りだされてしまった。布団の中でのワンカップ大関の隠し飲みがバレたアル中患者のようで、少々恥ずかしかった記憶がある。

 

私は論外として、日本人をはじめとするアジア人はほぼ下戸の類に属するだろう。それにひきかえ、ヨーロッパ人、特にロシア人は恐るべき飲酒レベルの人がいるらしい(ロシアをヨーロッパに含めていいのかという議論は、ここでは触れない)

 

ロシアがまだソ連と言われていた大昔、時はゴルバチョフ禁酒令下の冬のモスクワ。外国人だけに出入りが許された専用バーのカウンター脇で、モスコーミュールをちびちびなめていたときのことだった。

 

ときおり、コートを着た人間が寒風とともにふわっと入ってきて、そのままカウンターに手をつく。バーテンダーはビーカーに手早く何かを注ぎ、客はそれを一気にあおる。そして黙って扉を押し開けて出ていく。その間数十秒。入れ替わり立ち代わり、この光景が少なくとも4,5回繰り返された。

 

「何飲んでいるの?」好奇心にたえかねて聞いたら、バーテンダーはガン無視。客は、こちらに向き直りまじめな顔で「水さ」という。その吐息がいかにも酒臭く、ああ、そういうことかと合点が行った。法の目をかいくぐって、現地人を外人バーに出入りさせていたのだ。

 

最近、ドイツに留学中の大学生からも面白い話を聞いた。ロックダウンが続く中で、寮生がコロナ濃厚接触者の判定を受け、最長2週間の禁足を食うことがひんぱんに起こるらしい。

 

その間、生活必需品はボランティアが玄関先に買い置きしてくれるが、アルコールは禁止である。そこで、上の階の友達に頼んでビールだのワインだのを調達、(玄関だとバレるためか)こっそりと窓から吊るしてもらい自室の窓から受け取るうそうだ。

 

禁じられれば禁じられるほど、あの手この手で対抗策を講じる。酒に呑まれた人間のやることは、今も昔も変わらない。

 

語りえぬもの

『語りえぬものについては、沈黙せねばならない』。19世紀末ウィーン生まれの哲学者ヴィトゲンシュタインの有名な言葉だ。

 

「わからんことについて何を言ってもムダで役に立たんから、われわれは、語るべき領域のことに専念した方がよい」が、通常の解釈である。

  

この言葉に反発を覚える、言語化・図式化大好きのタハラだが、つい先日、語りえぬ体験をした。

 

孤軍奮闘で経営改革を進めていたあるトップが、若手らの考えをひととおり聞き終わったあとに「私は、一人ではなかった」と落涙したのである。一瞬、すべての音が消えたような感覚、なにか温かいもので場が満たされていくような感じは、とてもじゃないけど、居合わせた人間しかわからないだろう。

 

ただし、その先のコミュニケーションは言葉や文字に頼らざるを得ない。トップや若手らが、感動を組織のすみずみに伝え経営改革を進めるためには、非言語体験を、言葉や文字で再現するしか手段がないのだ。

 

実は、先の名言にはもうひと通りの解釈がある。『言語化できないものに対しては、敬意を払ってだまって向きあおう』である。そう、言語化できない時は、その対象に、自分自身に、だまって向き合おう。

 

そしてしっかりと観察したうえで、なんとかかんとか、他人に伝える努力をしてみよう。それでも伝わらないかもしれないが、その人が言葉で耕せる範囲はじょじょに広まってくる。 そして、あきらめずに言語化に努める姿そのものが、聴く人の胸を打つのだと信じている。

 

わたしを〇〇にしないほうがいい

キャッチーな見出しを考えて、腕組みして椅子にもたれていた数日前の午後のことである。気分転換にはいった図書室(わが事務所の隣部屋。6,000冊の蔵書あり)で目にした一冊の本を見た瞬間、おおぅと声を出してしまった。

 

「わたしを空腹にしない方がいい」くどうれいん(2018)である。なんと巧妙なタイトルだろうか。

 

テーマが「食」であり、かつ「空腹」から日々のつつましやかな食事や間食を題材にしていることが連想できる。そして「空腹にさせない」でなく「しない」が、いわゆる個食についての内容であることを匂わせる。テーマ、題材、著者のキャラまでが、この長からぬ表現に凝縮されているのだ。

 

そしてなんといっても「わたしを〇〇にしないほうがいい」という、上から目線な感じがよろしい。このパターンは使えそうだ。さっそくまねた。

 

会社の業務用文書なので「私」は主語にならない。試行錯誤して「××を〇〇にしないほうがいい」という形式にあてはめた。あんまりおもしろくないが、まあ、おしごと用なので仕方がないか。題名づけの際のストックが増えたから、良しとしよう。

 

 

ストック中のマイベストは「帰ってきた●●」だ。世間でも「ランボー2」「ランボー3」など続編がぞくぞくと生まれると、苦肉の策で、作品の一つにはこれが混ざる。ウルトラシリーズでは「帰ってきたウルトラマン」がある。ヒーロー名以外のタイトルは「ウルトラQ」とこれだけのようだ。

 

ちなみに「帰ってきたウルトラマン」のシリーズ中の最高視聴率は、まさかの最終回だったらしい。やっぱり名タイトルの番組は強いのだ。シュワッ。

 

 

あこがれの占い師

オカルトブームのさなかに子ども時代を過ごしたタハラの将来の夢は、「占い師になること」であった。理想の職業にみえた理由は以下とおりだった。

 

・元手がかからずに開業できそう

・当たらなくても責任を取らなくてよい

・とにかく、ブームである

 

なんとも冷めた小学生である。

 

とにかくスキルを身に付けなきゃいけない、ということで、占星術、トランプ、タロット、手相・人相、易学、など、中学生になるころにはひととおりの本は読んだ。友達を相手に実践も積んだ。ところが、ぜんぜん覚えられない。

 

原因はおそらく、占いの本がどれも大人向けで、難しかったことによる。つい「なぜそうなるのか」と考えてしまう性癖も災いした。人間、納得感なしに丸暗記するのはなかなか苦しいものだ。

 

そのうち、空前のオカルトブームは去り、占い師への夢もあせた。お小遣いをはたいて買った、多くの占いグッズや本が手元に残された。その多くは処分してしまったが、大人になってから、当時のタロットの本を見返して、ハタと気づいたことがあった。

 

お見事なまでに、問題解決のキーワードを踏まえているのだ。

下は、「ケルト十字」というタロット初心者向けの解法である。

 

内部環境(内面)の分析

1 現状

2 原因(障害)

3 顕在意識(相談者が自覚していること)

4 潜在意識(相談者が無自覚であること)

5 過去

6 近未来(1~3カ月後)

外部環境の分析

7 相談者の立場(価値観、思い込み、態度)

8 周辺(周囲の評価、感情)

9 願望(問題解決への期待)

10 結論

 

 

おおっ、個人のお悩み相談はもとより、ビジネスツールとして十分使えそうな優れモノではないか。

 

相談者の問題のありどころを明らかにし(1~3)、背景と見通し踏まえながら(5,6)本人も見えていない「強み、弱み」を可視化する(4)。そして価値観を確認したうえで(7)、周囲の状況を客観視させ(8)、問題解決のゴールを定め(9)、それらしき解を暗示する(10)。

 

1~9まで相談者からうまく聞き出してストーリーにできた時点で、問題はほぼ解決したようなもんである。ちなみに、トヨタの「なぜなぜ5回を繰り返せ」とそっくりなタロットの解法もある。

 

おもえば、五欲から生じる人の悩みの本質は、今も昔も変わらない。これに折り合いをつけるための解決のプロセスも、そうは大きく変化していないのだろう。

 

ただ、占い師の道具は変わった、お香や水晶玉から、ビッグデータとコンピュータへ。クライアントの問題解決を生業にするカウンセラーやコーチ、コンサルは、現代の占い師なのだ。たぶん。知らんけど。

 

お役所コトバ考2

おもわず微笑んでしまった。先月実施した、自治体新入職員向けの、オンライン「公文書作成講座」の感想文を読んでいた時のことである。

 

「今まで『~以外は受け付けないものとする』『~と認識される』などの難しい表現が、公務員にふさわしい言い回しであると誤解していた。しかし、当講座で考えを改めた。自分の親やら友人の顔を思いうかべれば、今までの調子では、まともに理解してもらえるわけがない。今後は変な思い込みを捨て、最低限の書類とシンプルな表現で住民の方々とやり取りするよう心掛けたい」

 

100名以上の受講者のうち、こうした感想が少なからず見られたのは、うれしい限りである。

 

公務員に限らず、たいていの組織には独特の言語文化がある。役職名もそうだ。20年ほど前に大型合併をした鉄鋼3社では、合併直後に管理職がダブついてしまった。1つの組織に課長が3人といった状態である。どう呼びならわすか苦悩した結果、「大課長」「中課長」などといった、珍妙な役職名が現出したらしい。

 

初対面で「営業中課長」という肩書の名刺をもらい、(営業中(えいぎょうちゅう)の課長って一体…?)、と悩んだ取引先の人の数は、片手には収まるまい。

 

組織の中の規範が、外部にも通じるとは限らない。ジコチューなブランディングは迷惑なだけだ。誰が見るのか、目的は何なのか、ターゲットが定まったものが「名文」である。

 

最後に、先ほど見つけた、おもしろそうな本を備忘録代わりにひとつ

伝えたいことが相手に届く!公務員の言葉力

 

謦咳(けいがい)に接する

「謦咳(けいがい)に接(せっ)する」-細々と生きながらえていた慣用句である。が、今度ばかりは、引導を渡されたのではないだろうか。

 

では浅学菲才の身ながら、漢字から解説を。

 

「謦」「咳」も「のどや気管支が刺激されて、急に強く起こる呼気運動」である。つまり「せきばらい」や「せき」「しわぶき(古風な言い方)」のことだ。漢字源によると、カチンカチンと硬いものが当る音をあらわしているらしい。

 

意味は「偉い人の話を直接きくこと」。要は、エライ人のせきばらいがわかるぐらい、話を間近で聞けて誠に光栄、ということである。起源はハッキリしない。中国の古典が基となったという説もあれば、明治以降できたという説もある。

 

と、ここまで来たところで、冒頭「引導を渡された」と書いた理由が、賢明な諸氏にはおわかりであろう。

 

ほんの短い講演でも、マスク&フェイスガードの溶接工のようないでたちで、登壇しなければならないご時世である。咳払いでもしようものなら、「すわ、飛沫感染!」と主催者が駆け付け「先生、ご体調が悪いようでしたら別室へ」と隔離されることまちがいなしだ。

 

まさに「謦咳に接する」はする方もされる方も、命がけの行為になった。そして今、仕事はオンラインに移行しつつある。

 

書類のやりとりや打ち合わせは以前からオンラインが主だったし、その気になれば講義もすべてオンラインで代用できそうだ。録画だと、とちったりかんだりが(あまり)ない。リアルタイムのものも横道にそれることなく、ムダがない。聞いている相手にすれば、場所の制約がなくなるわ、時間は節約できるわで、一石二鳥かもしれない

 

今後、まぎれもなくオンライン化の流れは続く。「謦咳に接する」意義が見いだせない限り。

 

 

日本教の社会学

このたび、コロナ引きこもり期間中の「7日間ブックカバーチャレンジ」で、バトンを渡された。20歳ほど年下の友人のよしこさんからである。が、グズグズするうちに、自粛期間が終わってしまった。次への引き継ぎは諦めて、渡されたバトンそのものを、しげしげと眺めてみようと思い立ったわけである。


本は『日本教の社会学』で、初版は1981年。著述ではなく、対談だ。一人は、一世を風靡した『日本人とユダヤ人』の著者イザヤ・ベンダサンこと、山本七平氏、もう一人は、小室直樹氏である。小室氏については、数学者だったかなという認識程度(間違いではなかったが)であった。あらためて、よしこさんのアンテナの広さに頭が下がる。


中身は、太平洋戦争時の日本軍の意思決定プロセスをもとに、日本人と日本社会の本質を鋭く考察したものである。キーワードは「日本教」「空気」「実体語と空体語」など。碩学な二人による、口語と文語のちょうど真ん中をねらった70年代的文体で、濃密につづられている。よしこさん曰く「言文一致を試みた頃の滑らかさ」だ。


読後は、2つの意味でしんどくなった。


ひとつは、当時の‘空気’を知っている者ならではの、トラウマである。とにかく日本人特異論や日本社会独自論が、世上で横行していた時代だ。多くは「自虐史観」である。それらは教材として、学校教育にも頻繁に登場した。子ども心にウンザリした私は「日本人という普遍の属性を、どうせぇちゅうんじゃ」と内心毒づいていた。一流の評論であっても、未だに食傷感はつきまとう。


もうひとつは、21世紀も20年過ぎても、日本教はゆるぎなくシステムとして作動し続けている事実に、あらためて戦慄したからだ。醸し出される「空気」は、未だに忖度や自粛警察などの超常現象を生んでいる。一方で、コロナ第一波の死亡者の少なさは「場に従う」という日本教のプリンシパルが、おそらくプラスに働いたことによる。古代より幾たびか日本社会を襲った疫病の流行が、この行動様式をつくったのかもしれないとも思った。


場に従うことだけが、不変原則である日本教システム。全くのところ、これから「どうせぇちゅうんじゃ」。バブル期に新人類などと取りざたされた自分だが、自立、自律に向けての社会の変質に、全く貢献できていない。単なる変人のまま、なす術なく立ち尽くしているような気がする。

「のり弁」文書を作らないために

仕事柄、「のり弁」をよく目にする。

といっても食べるやつではない。モリカケ問題などでひんぱんにマスコミに取り上げられている、あちこちを黒く塗りつぶした公文書のことである。

 

公文書は、国民に対し政府の説明責任を全うする観点から、行政機関及び独立行政法人等が保有する文書についての開示請求権等を定めている(総務省HPから抜粋)。ただし、次の⑴~⑹は不開示情報に該当する。

*以下、めんどくさがりは箇条書き後ろの( )内だけ読まれたし

 

(1) 特定の個人を識別できる情報(個人情報)

(2) 法人の正当な利益を害する情報(法人情報)

(3) 国の安全、諸外国との信頼関係等を害する情報(国家安全情報)

(4) 公共の安全、秩序維持に支障を及ぼす情報(公共安全情報)

(5) 審議・検討等に関する情報で、意思決定の中立性等を不当に害する、不当に国民の間に混乱を 生じさせるおそれがある情報(審議検討等情報)

(6) 行政機関又は独立行政法人等の事務・事業の適正な遂行に支障を及ぼす情報(事務事業情報)

 

(5)、(6)などはいかようにでも解釈できるので、相手方は重要な部分をここぞとばかりに塗りつぶしてくる。そこを文字数と文脈から「眼光紙背ニ徹ス」眼力で推察していく。ところが、最近はとみに、のりの量が増え「だ」「である」とか「と」「や」とか、文末と接続語しか読み取れない傾向にある。気になるところだ。

 

と、前置きが長くなったが、このたびの熊本県・教育長ブログ「文科省通知の読み方」は、そんな物騒なケースではない。文章のなかで絶対に必要な部分以外を塗りつぶしたらこうなりました、という内容である。

 

実は、タハラの文章講座でも「必要な部分以外を全部消せ」というワークがある。その分量が一番多かった文書を「The King of Wakarinikui(わかりにくい)」として称えるのだが、この栄誉に属するのは、圧倒的に中央官庁が発行した公文書に多い。

 

どこがムダなのか。細かい点は・教育長のブログに譲るとして、ポイントは「命令形以外は全部ムダ」だ。公文書をはじめ、ビジネス文書の根幹はすべて頼みごと、つまり命令形にある。ただし、それをストレートに表現するとカドが立つ。そこで「お願い申し上げます」などとオブラートにくるみながら発信者の意思を表示する。

 

そう、文書とは話し手による意思表示なのだ。ほかはすべて枝葉である、と心得ることがビジネス文書上達の第一歩である。みなさん、覚えていてね。

 

最近、気づいたこと

最近、気づいたことがある。

 

ZOOMの脆弱性(ぜいじゃくせい)を、どれだけたくさんの人が「きじゃくせい」と読んでしまうかを。

コロナウイルスによる禍(わざわい)を、「コロナ渦(うず)」と書いてしまう人々がいかに多いかを。

賞賛・批判のツイートにどれほど数多くの「安部首相」「阿部首相」「阿倍首相」が存在しているかを。

 

右脳人間、左脳人間

研修の仕事の多くが、コロナ氏のせいで延期になっている。

ただし書き物関係の仕事はなくならない。話し言葉系、書き言葉系の両方の仕事をしているリスクヘッジがここで効いている。ありがたいことだ。

 

さて、現在閑古鳥中の講師業は、ビジネス文章作成関係が中心である。ただ最近ちょっとカラーの違った依頼が来るようになった。情報リテラシー、統計学の入り口を扱う分野である(一応資格を持っているので)。

 

というと、「うわぁ、右脳も左脳もすごいですね」とホメてもらえることがある。文理両道という意味なのだろう。でも統計は、論理(一応、専門)を拡張したものだ。それに文字と数字は、概念を抽象化・記号化したものだから、 根っこは一緒なのだと勝手に思っている。

 

そして、そもそも右脳=理数系、左脳=文系というステレオタイプは、大いなる誤解。疑似科学の典型らしい。

 

以前から、右腕と左腕とは違い、脳の右左はしっかりとつながっているんだからバラバラには動かんよな、と思っていたら、Despite what you've been told, you aren't 'left-brained' or 'right-brainedに動かぬ証左があった。2013年の古い記事だが、掲載はかの英ガーディアン紙だ。そこが右脳左脳を「都市伝説」と否定しているのだから、サ〇スポや週刊△性よりは信用度は高いだろう。

 

注意すべきはむしろ、個人個人の認知の偏りや自己の防衛本能(プライド)である。それらが、自分のワクを自分にはめ込んだり、やらない理由を探したりする際に、「右脳左脳」を言い訳にするのだ。記事はこうまとめている。

 

"Let's not underestimate our potential by allowing a simplistic myth to obscure the complexity of how our brains really work.’’(単純化された神話が脳の働き方の複雑さを曖昧にすることで、私たちの可能性を過小評価しないようにしましょう。)

 

ちなみに上訳は、最近とみに評価の高いDeepL翻訳であるが…現段階では生硬く、まだまだ人間様の活躍余地はありそうだ。みなさん、自分の脳みそにもっと自信を持とうよ。 

 

*参考記事 

Despite what you've been told, you aren't 'left-brained' or 'right-brained' (右脳、左脳神話のウソ)

Amy Novotney 'The Guardian' 16 Nov 2013

 

コロナ騒ぎ

ただただ、バカバカしいかぎりである。といってもウイルスの脅威そのものではない。

私が、バカバカしいと思っていることについては以下のとおり。

 

〇日本政府が、イベントや休校要請に際し、判断の根拠や実施基準を示さなかったこと

さらに

・実施した場合のメリットとデメリットを検討した様子がない

・中小・零細飲食業者に致命的な打撃を与えていながら、政府の首長たる人間が毎夜(おそらく高級料亭で公費による)飲み食いを重ねている。人気が失せた街の居酒屋でやれ、と言いたい

 

〇ヤフオクやメルカリなど大手フリマ業者が、マスク転売などについて価格や数量などの自主規制をおこなわなかったこと

ちなみに

・イオンなど一部流通業者は、店頭に不足物資(ティッシュ・トイレットペーパー)で万里の長城を築き、ドヤ顔で転売ヤーに見せつけた。こうしたあっぱれな業者の爪の垢を煎じて飲んでいただきたい

 

〇いまさらテレワークに走る企業

・現役世代の、子育てや家業との両立への怨嗟の声には応えない。自らの感染リスクには敏感なオッサン文化

  

ひとつ提案がある。

 

現在休校中の児童・生徒をガラガラの新幹線に乗せ、国会の傍聴にご招待してはどうか?

一斉休校を千載一遇のチャンスとして、国としての意思決定がどうなされているか、未来を担う若者らにしかと確かめてもらうのである。

 

感染症学会の以下のデータを見る限り、20歳未満の感染は軽症で済み、致死リスクは極めて低い。対して50代のリスクはその数倍、60代以上の閣僚クラスでは18倍以上だ。

 

平均年齢54.7歳、50歳代が6割を超えるオジサン議員たち。傍聴席から、未成年のつぶらな瞳と感染リスクのアツを受ければ、連日連夜の濃厚折衝もさぞや捗(はかど)るだろう。

 * 参考HP 日本感染症学会 水際対策から感染蔓延期に移行するときの注意点

社名の由来

「御社の○○にひかれました」と面接官の前でアピるそこの就活生さん、ちょっと待った。ちらっと見たHPや先輩訪問時の聞きかじりといった周知のリソースでは、ライバルと差をつけるのは難しいぞよ。ここはひとつ、会社のルーツに深く関わる「社名」に注目してみよう。

 

では、クイズを3つ。

 

1 創業者の名は「豊田(トヨダ)」なのに、なぜ社名は「トヨタ」なのか?

2 創業時、ダスキンの創始者、鈴木清一氏がイチオシとして考えた社名は?

3 「セメダイン」に込められた真の意図とは何か?

 

答えは以下の通り。

 

1 創業前年の昭和11年、公募した社名ロゴ「TOYOTA」のデザイン案を気に入ったから

すでに登録していた第一号国産車「トヨダ号」の商標を取り消し「トヨタ号」に変え、社名もトヨタにした。あの質実剛健なトヨタがデザイン優先で社名を決めたという、らしからぬ?逸話だ。

 

2 (株)ぞうきん

あまりのストレートさに「これじゃ嫁さんもらえない」という社内からの懸念の声が上がったらしい。これを受け、(株)サニークリーンとなり、のち「ダスト(ほこり)」+「ぞうきん」の「ダスキン」に落ち着いた。業務内容と語呂の良さを兼ねた見事なネーミングである。

 

3  打倒「メンダイン」

明治中期、英国製「メンダイン」をはじめとする輸入接着剤に、日本産のノリは駆逐された。創業者・今村善次郎は「メンダイン」を「攻め(せめ)る」をスローガンに苦節4年、汗と涙で初の国産接着剤を開発した。これがのち社名となる「攻め+(メン)ダイン」、だからなんだか強そうに聞こえるのだ。

 

ほかにも面白い話はいっぱいある。ロート製薬の最有力候補社名は「眼活」だった(今ならウケそうだ)、文化元年創業の「ミツカン」は、明治期に屋号「丸勘」の登録をライバル社に出し抜かれて急遽考えた、二番煎じの社名だったなどなど。社名にまつわるエピソードは尽きない。

 

どうだろう、とりあえず志望企業名の由来を調べるというのは。このネタだけで、人事担当者と10分ぐらい会話がもたないだろうか。

 

 

※参考:『誰かに教えたくなる「社名」の由来(2007)本間之英

TOYOTA、ダスキン、ロート製薬、各社HP「会社沿革」

 

「が」「は」の違い

日本語の奥深さを上から目線でお伝えする、「知ったかぶりの言語学講座」。

 

第1回目は、一字違いでエライ違い、がテーマである。題材は、ちょっと旬を過ぎた例の国外脱出騒ぎ。といっても「ビーン」か「〇ーン」かという固有名詞ではない。あくまでも語と語をつなぐ「助詞」に着目する。

 

さて、クイズを出してみたい。

 

中身不明の楽器ケースに貼るステッカー用に、キャッチコピーを考えるとしよう。×に入る言葉としては、「が」「は」、どちらが自然だろうか。

 

(1)ビーン「×」入っています。

 

この場合「が」が適当だ。「は」、だと「ビーン以外に何かメインが入っていることを期待したでしょ、あなた」というニュアンスが出てしまう。

 

翻って、これはどうだろう。

 

(2)ビーン「×」入っていません。

 

ちょっと悩んだ方もいるかもしれないが、「は」ではないだろうか。

 

この場合の「が」「は」の決定的な差は何か。

 

実は、聞き手に新情報を提供する場合は、「が」を使うことが原則である。昔ばなしが「昔々、おじいさんとおばあさんが」と必ず「が」ではじまるのと同じリクツだ。

 

ではなぜ(2)は、「は」の方がなじむのか。「ビーンは入っていない」は、新情報ではないのか? 確かに、そうかもしれない。

 

楽器ケースには必ず何か(普通は楽器)入っていることが前提になっているので「(ちゃんと楽器が入っています。)しかしビーンは入っていません」の前半のカッコの文が略されているというわけだ。つまり、聞き手が前提という情報を持つから、新情報ではない、というリクツか(自信がないが)。

 

もうひとつは、新情報云々(うんぬん)とは別に、文が動詞の否定形で終わっているからである。形容詞(楽しい、悲しいなど)や名詞(男性だ、レバノン人だ)、また動詞の否定形など「状態」を表す場合は、通常「は」を使う。

 

これを一瞬にして使い分ける日本語ネイティブってすごい。英米語、仏語、アラビア語、を自在に操る〇ーン氏が、在日約20年間、公式の場ではちっとも日本語を使わなかったのも、無理はない。

 

としのはじめのごあいさつ

っというまの2020年の一週間だった。

 

っして始業3日間もサボっていたわけではない。が、頭に全くエンジンがかからないのだ。休眠中のカエルがおこされるとこんな気分だろう。

 

だ休日モードで仕事のスタートが切れていないだけなのか。時間は連続的なもので、生物としては体内では正確なリズムを刻み続けているはずなのに、人為的な区切りに振り回されるのにはほとほと困ったものだ。

 

かたなく、年末にし残した作業に集中してみる。

 

や指を忙しく働かせる、脳が活性化されるかもしれないという期待だ。ということで?お休みモードの中から、あらためて

 

おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 

クリスマス・シュトーレンのおはなし

クリスマスといえば、ドイツである。

クリスマスツリーを飾る習慣は、大英帝国・ヴィクトリア女王の夫君が、故国であるドイツの風習を王室に持ちこんだのがはじまり。また15世紀から始まったクリスマス・マーケットも、ドイツのドレスデンが発祥の地と言われ、今も多くの人々でにぎわう。

 

そんなイメージから「クリスマスをドイツで」と渡欧し、わりと痛い目に合った日本人は多いのではないだろうか。店やレストランからは閉めだされ、美術館は短縮営業。戸外のマーケットの寒さに耐えきれず近所の教会に飛び込むと、「一見さんお断り」でシビアな扱いを受けたりする。クリスマスは昔の日本の正月と同じで、基本的には家族で過ごす時期だからだ。

 

こうしたドイツのクリスマスに欠かせないのがシュトーレンだ。最近、よく見かけるものの、昭和の日本人に愛されたいちご丸ケーキに比べ、いまひとつ子どもウケしない味であろう。

 

それもそのはず、これは長期保存のための伝統食だ。15世紀にドイツ王がローマ教皇に、教会建立と引き換えにバターの使用を認めさせたエピソードを持つ代物である。材料や製法などの条件をクリアしないと、シュトーレンとは認められないのだ。

 

例えば「ドレスドナー(ドレスデンの)・シュトーレン」認定では、小麦100に対し70以上のドライフルーツ、油脂は40でその半分以上はバターを使え。手ごねで製造し、型を使うことはまかりならぬという厳しいお達しがある。

 

こうしてできたブツ1個の熱量は、1600カロリーを超える。成人女性の1日の必要カロリーに近い。だから12月の初めから少しずつ食べ始め、クリスマスにようやく食べ終わるのがドイツ流だそうだ。

 

日本の皆さん、カロリー超過が気になるこの時期、まかりまちがっても、一日で食べきらないように。

 

*参考URL 辻調グループ総合サイト 「食」のコラム&レシピ

 

 

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こんばんは

びにに

『問わずにはいられない』 編集中記

やれやれ、やっとゴールが見えてきた。

学校でいじめや事故などに遭った、21の被害者家族・遺族の方々が、わが子の思い出、教育現場への怒りや提言をつづった自主出版の文集『問わずにはいられない』が、9月20日頃の出版に向けて、現在編集の佳境を迎えている。報道関係に案内したところ、各紙が競うようにして取り上げてくれた。ありがたいことである。


8/8京都新聞 http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/2015080800003

教育関係者や子どもを持つ家庭の保護者だけでなく、「なぜ組織は隠ぺいするのか」という組織論のエスノメスドロジーとして捉えても興味深いのではないか。

この本を手にとったときは、内容だけでなく、表現・言葉の選び方にも注目してもらいたい。
一生懸命書いたのにもかかわらず、編集者・タハラから、これじゃ伝わらんよ、とやんわりと言われて突っ返され、何度もやり直した方が大半である。過去の過酷な体験に向き合うことが耐えられず、筆を折った方も何人かおられた。

巧みではないかも知れないが、まさに、当事者だけが持つ言葉の迫力がある。ぜひ、ご一読いただきたく。

ご希望の方は  に メールに 件名「問わずにはいられない 希望」⒈お名前  ⒉郵便番号 ⒊住所 ⒋希望冊数 を記載のうえ、toiawase@lc-lab.com まで。10月からAMAZONでも販売予定だが、ギリギリしか印刷しないので、確実に欲しい方はぜひ予約を。

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