2019年

4月

09日

メタ認知

 最近「シワ、シミを制する!」「オトナの匂い対策、はじめませんか?」などのリスティング広告にがやたら現出するようになった。パソコンにこんな忠告を受ける年まで生きた、という感慨の一方、中途半端な年齢に困ることもある。着るもの、のことだ。

 

ここ数十年、体型がさほど変わらないのは、安上りでたいへんに結構である。しかし、若いころ好んで着ていたタイプの色や形が、似合わないと感じることが増えた。そこで参考のため、通勤電車で同年齢と思しき女性のファッションを観察することにした。

 

観察によると、ファッションに敏感な層は、微妙に2タイプに分かれる。「若々しい」と「若づくり」である。努力を尽くした結果、前者は見かけ年齢<実年齢に成功、一方、後者はイタさを感じさせたうえに、見かけ年齢>実年齢に見えるのだ。なぜか。

 

これはおそらく、ご本人たちの「メタ認知」の違いだ、と推察する。

 

メタ認知とは、「自分を客観視できる能力」である。ハイパフォーマーのコンピタンスとして知られているが、普通の人でもなければ不便な能力だ。たとえば、道路上で自分の立ち位置がメタ認知できなかったら、通行を妨げ、必要以上に人に突き当たられる。

 

つまり、先述の「若々しい」タイプは、見られる自分を客観的に見ている。若さに価値を置く世界では勝負できない。そこを心得たうえで、自分の魅力を最大限に活かす装いは何か熟知し、その知を活用している。まさにメタ認知力の勝利だ。

 

そんなことを考えながら輪行バックを肩から下げて駅のホームを歩いていると、後ろから駅員に呼び止められた。

「そこのボク、輪行バックのチャックは、最後までちゃんとしめてから電車に乗ってね」

野球帽と輪行バック、ジーンズはメタ認知的には「小中学生」だったか。究極のイタい若づくりであった。

 

 

2019年

1月

22日

某人気占い師の文章力

最近、やたら表示されるターゲット広告は「占い」である。年末に『マクベス』について調べ物をしたことが祟ったらしい。(「今年こそ恋愛、結婚を成功させる!」などと今も表示されているので、既婚者であることは見抜かれていないようである)

 

私は、ふだん占いに関心を向けることはほとんどない。オカルトブームのさなかに育ったせいか、星占いからタロット占い、易経までひととおり調べ、子ども時代で早くも興味が尽きてしまったのだ。

 

が、そこは広告の威力。ひんぱんに表示される、女性向けWeb雑誌の人気占いコーナーが妙に気になり、サイトをちょこっとのぞいてみた。この占い師が、ウケる理由がよくわかった。2重の意味で文章がうまいのだ。

 

1つめのうまさは、あいまいさである。かつ「こんなことがあなたに起こるかも」という結果提示型を避けている。

 

その代わり「あなたの現状は、こうじゃないですか?」と、問いかけからからスタートする。そののち、読み手(に起こりがち)の心情に沿いながら、「そんな状態だと、このようになりますよね」と、今後をシュミレーションしながら、対処法をやんわりと提案していく。つまり、自分の書いたシナリオに、読み手をプロセス巧みに誘導しているのだ。

 

もうひとつは、励ましとポジティブな文言に満ち満ちていることだ。「~しなければ~しないだろう」といった、ベテラン占い師(例えば細**子氏)によくみられるような否定語が、極端に少ない。

 

もともと、占い(予言)の本質は、脅すことにある。キリスト教や仏教の終末思想も、その一種で、「悪いことすると地獄に落ちるぞ」だ。しかし、人間、脅されるだけではやってられない。そこに派生したのが、マリア様やお地蔵様など、ご本尊のワキを固める方々からの癒しである。宗教は、こうやってアメとムチとで人間を正しい道に導く。

 

癒しながら道を示す?WEB占い師は、さしずめ現代のマリア様・お地蔵様役なのか。となれば、人々をムチ打つ万能の神は誰だろう。ひょっとして「AI」か?

 

 

2019年

1月

15日

年の初めのブログとて

もう、1月も中盤ではないか。しかも、今年初ブログとはこはいかに。週一回を標榜しつつ、相変わらずのんびりとした更新っぷりである。

 

ブログをサボっている間、(私にしては)大きな買い物をした。ハイブリッド車である。先代が白で、駐車した時の捜索に苦労した経験があるので、白や黒やグレーなどの見つけにくい色は避けたい。さりとて青や赤や黄などの自己主張が強い色は困る、ということで選んだ、渋めの「オリーブグリーン」。

 

納車当日、一目見て驚いた。ひとことで言えば、『カナブン』だ。玉虫色に光り輝いているのである。どこがオリーブじゃ、カタログ作ったやつの色覚は大丈夫か、と某自動車メーカーの社長に声を大にして言いたかった。

 

ただし、あちらは別件で東京で拘留中なので、地方の1ユーザーの声は届くまい。取り換えはできないだろうから、ド派手なこの色に慣れるしかないか。

2018年

12月

18日

形容詞的組織文化 2

 

前回「形容詞的組織文化1」の続き。

 

では、形容詞的組織文化とは何か。定義すれば、「会話やメールなど、やりとりの文の述語がだいたい形容詞・形容動詞で終わる組織」である。形容詞的組織文化(略してKTSBとしようか)でよくみられる表現として、いくつか例を挙げてみよう。

 

●「業績がよい」「業績が悪い」  cf.「業績が上がった」「業績が落ちた」

●「仕事が多くなって大変になった」 cf.「仕事の量が増えて、こなしきれない」

●「そこが本当に問題だ」 cf.「問題の本質はそこだ」

●「手が汚い」  cf.「手が汚れている」

●「作業が遅い」 cf「作業が遅れている」

 

さて、印象としてどうか。後者の動詞的な表現に比べると、前者が主観的・感情的に響くことに気付かれたとおもう。

 

ちょっと専門的なことを言えば、形容詞には「属性形容詞」と「感情形容詞」がある。特に「感情形容詞」は、話者の内面から見た景色を表現するのに長けているのだ。裏返せば、客観性が欠如、つまりメタ認知に乏しい伝え方ということになる。そんな表現がデフォルトになっているのが、KTSBなのである。

 

さて、みなさんの組織の述語はどうか。動詞的か、それとも形容詞的か?

 

 

参考文献:辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術(2015)PHP新書 

 

2018年

12月

11日

形容詞的組織文化1

仕事柄、いろいろな企業に潜入、じっくり組織の内部を観察させてもらう機会が多い。それを踏まえて、「どうも、組織には『話し言葉文化タイプ』と『書き言葉文化タイプ』の2通りがあるようだ」というブログを、以前、書いたような気がする。

 

前者は、感性によるアイデアと構成員(他意はない。念のため)のノリ、スピード感を重視。後者は、理論(屁理屈、ともいう)武装と合意形成プロセスの明文化、そして再現性・持続性を重視する。と、ここまで書いて前者がカタカナ、後者が漢字満載になってしまったことに気付いた。それぞれの文化によって、好みの語彙や言い回しにも、その違いが表出しているのかもしれない。

 

私のイメージする話し言葉文化の典型は、人と組織のスクラップ&ビルドで有名な、情報サービス大手R社。あるいは、朝令暮改のトップが君臨する情報通信S社だろうか。書き言葉文化では旧逓信省のN社2つや旧鉄道省のJ社、そしてなんといっても現存する官公庁といったところだ。

 

どんな組織でも、どちらかに極端に針が触れると、前者はいいかげん、後者は融通が利かないのでまずい結果を招くことになるが、先日、もっと注視すべき言葉文化があるとの指摘が相次いであった。これが「形容詞的組織文化」である。

 

と、やたら前置きが長くなってしまった。次回に続く

 

2018年

11月

27日

ヒギンズ教授風『ボヘミアン・ラブソティ』鑑賞法

やっと映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見に行けた。

 

全編に流れる音楽を聴きつつ、気づいたことがある。長年の間、他のロックグループに比べて、クイーンの歌は耳から聞いて格段にわかりやすいことを、不思議に思っていた。その疑問が氷解した。

 

それはたぶん、フレディが移民の子だからだ。言語学者が、花売り娘のイライザを、ハンガリーの王女と間違えたのと同じ理由である。

 

出身はアフリカの孤島ザンジバル、両親はインドなまりのゾロアスター教徒、ロックスターとしては隠したい出自だったろう。中産階級の英語を母語とする他のメンバー3人とは大きく違っている。

 

名を変え、しゃべり方を変え、マイフェア・レディとして生まれ変わった、ペルシア系インド人の子孫フレディ・マーキュリー。セクシャル・マイノリティについてのみ語られがちだが、民族のマイノリティにも注目されたい。

 

この映画を見た数日後、日本では入管法改定案が衆議院を通過した。来日し定住する外国人の暮らしをどうデザインしていくか。その議論も尽くされないまま国が開かれようとしている。子どもたちに「フレディ=先住民と同化すること」を強いるような国は困るんだが。

 

2018年

7月

24日

PDCAに必要なもの

初対面の人に「どんなお仕事をされていますか」と聞かれるたび、口ごもってしまう。「え~っと、研修講師とかコンサルティングとか、本やWebの編集やライティング。そうそう、社史も作ってますね。昔、大学でキャリア授業もやってました」。だんだん相手の顔が不審げに変わっていく。そこで最近は、「まあ、言葉のよろずやといったところでしょうか」と締めくくる。すると、ちょっと納得したような表情になってくれる。

 

先日、こうして自己紹介した後の、相手のリアクションがちょっと面白かった。

 

「そうですか…。ではもしかしてマニュアル作りでお手伝いくださることは可能でしょうか?当社では組織開発のコンサルティングもしておりまして。コンサルティングのあとの業務マニュアル作りは当社の若手の仕事なのですが、正直なところ、そこに手を取られるのはもったいないと思いまして…」

 

つまりこの会社は、「組織開発」のあとのマニュアル整備を、その組織との共同作業にするどころか「若手に任せるほどもない請負仕事」と見なしているようなのである。

 

一度でも組織を内部から見たことがある人間ならわかるように、実は、組織変革は、コンサルが去った後が勝負だ。変革担当者は、やれやれと息を吹き返す抵抗勢力を、トップの力を使って押さえつけ、いまだに他人事の顔をしている一般社員に向かってマインドの浸透を図っていかなければならない。

 

PDCAサイクルでいえば、コンサルができるのは、せいぜいP→Dまでだ。変革の成果を持続させるためのC→A→サイクルは組織にゆだねるしかない。 そこで、頼りになるのが「マニュアル」だ。とりあえずはこれを金科玉条のごとく振りかざし、拠りどころにするのがセオリーである。

 

キリスト教だってイスラム教だって、マニュアル(聖書)があるから千年以上も続く大宗教に育ちえた。だから権力者らはこぞって、自分たちが都合のいい内容に『欽定聖書(君主の命によって編集した聖書)』を編んだのだ。その重要性がわからない会社にコンサルを任せた、組織開発とやらの効果やいかに。

 

2018年

7月

13日

雑感

文筆家を標ぼうしている割には筆不精である。なんと、約3か月振りの更新だ。

 

個人的にはさておき、世間を振り返ると、ロクな出来事しか記憶にない。大学スポーツ部の老害ぶりの露呈、実の親による子どもの虐待、東海道新幹線内での突然の凶行(被害者は隣のビルの社員の方であった)。未だに釈然としないモリカケ問題、種子法、働き方法案の成立、オウム真理教事件死刑囚7名の突然の執行。関西では地震や大雨などの相次ぐ天災。米朝首脳会談という、マクロ的にはめでたいが地政学的には日本にとってあまりうまみのないニュースもあった。

 

平成、最後のあがき、世も末だ感を覚えてしまうが、果たしてそうだろうか?

 

ろくでもない事件が増えているようでいて、実は犯罪件数自体はは戦後最少を更新している。ちょっと古いソースだが、おそらく傾向には変わりあるまい。

 

犯罪件数が戦後最少を更新-景気回復が貢献か ブルームバーグ 2/22/2018

 

犯罪が少ないと、TVなど主要メディアでは同じニュースを朝から晩まで繰り返す。また

ネット系ニュースがこれでもかと続報を投下、ツイッターでは事件についての感想や憶測が飛び交う。これがおそらく「最近、ろくでもない事件が増えているのではないか」と感じてしまうゆえんであろう。

 

ただし、近畿から中国・四国地方にかけての水害は本当にひどい。メディアも伝えられていない部分も多い。3連休はささやかなながら、片付けのお手伝いに行く予定である。

 

 

2018年

4月

17日

美魔女とうばザクラ

それにしても今年は桜の散るのが早かった。

 

日も暮れてから、武庫川(兵庫県尼崎市-西宮市の市境)の下流から上流に向かって自転車で帰路を急いでいると、河原で笑いさんざめく声が聞こえる。見ると、人が河川敷に四角くひしめき合っている。花見であろう。かなり冷え込むなか、頭上には濃く茂った葉っぱがあるのみだ。

 

少し進むと、日当たりが悪い場所なのか、道端に、わずかな花びらをぶら下げた貧弱な桜の樹が目に留まった。こういうのを「姥桜(うばざくら)」というのかな、と感じた瞬間に自分の脳内辞書がそれを否定した。そう、姥桜は、年をとってもあでやかな女性のことを言うのだ。

 

Weblio辞書によると

1 葉の出るよりも先に花が咲く種類のサクラの俗称。ヒガンザグラ、ウバヒガンなど

2  娘盛りの年頃を過ぎても、なお美しい器量を保っている女

 

とある。由来は、「(歯)なしで花が咲く」意からという。とはいえ、人間に置き換えた場合、歯抜け婆さんに色香を感じる男はまれであろう。歯なし=お歯黒をしている(既婚者)ということかなと推察できる。今でいう「美魔女」だ。

 

ただ、「美魔女」が与える語感と「うばザクラ」に漂うそれとは、私に言わせればかなり違う。前者の定義が"エイジレスビューティー"であれば、後者は"エイジングビューティー"といったところか。

 

「美魔女」には不断の努力が必要だ。魔法の源はエステやジムや美容室。また笑ったときに披露される、ホワイトニングで輝く歯は最大の武器である。一方、「うばザクラ」はお歯黒が語源だから、これ見よがしの笑顔は無用。清潔感をベースにしつつ、必要以上の若作りはしない。

 

時はスタートアップの4月。「うばザクラ」をめざすなら、なんとかなるかもしれない。よしがんばろう、とおもったものの、何をどうがんばればよいのか、皆目見当のつかないタハラであった。 

 

 

2018年

4月

03日

新卒採用あれこれ3

 

この新卒一括採用はいつまでも続くまい。その破たんはもう目の前に来ている。イキイキフレッシュパーソンの母数が劇的に減るのだ。下は、H26年度総務省推計の「労働力の推移」である。

 

 

緑色が15~64歳人口の推移である。色が薄いので見づらいが2000年頃をピークに、年々300万人程減っていく。300万人と言えば甲子園球場60杯分以上の人数である。60敗なら勝率5割8分、十分優勝ラインだが(なんのこっちゃ)、60杯だぞ!その労働人口が(15~20歳も含まれているので、実際とはことなるが)年々消えていくのである。

 

これを聞いて「よっしゃ、就活楽勝!」とほくそ笑んでいるそこの君。勘違いしないように。採用されたのち、一括大量採用と年功序列制度を続ける限り、残念ながら、キミをアシストしてれる後輩や部下はほぼいないということだ。また、「AIに仕事を奪われる」とお嘆きの貴兄よ。今まで以上に、労働時間が増えてやっていけるのか?奪ってもらえる仕事は奪ってもらった方がいいぞ。

 

 

2018年

3月

20日

新卒採用あれこれ2

入社年別でカラーがカテゴライズできる秘密は、新卒一括採用という日本企業独特の採用システムにある。一括採用した人員を終身雇用を前提として「正社員」と名付け、新入社員研修から技術研修、階層別研修まで教育を施す。世界レベルで見ると、相当レアものである。

 

業種にもよるが、伝統的に新入社員のプロファイリングは「日本人」が圧倒的なマジョリティで、管理職層では、「日本人」「男性」が8割以上だ。いわば特権階級である。これは国や自治体、大学でも同じである。

 

某国立大某学部では、とある女性教授の転出に伴い、あわてて他大学から女性の教授を借り受け、ダイバーシティの面目を保ったらしい。もちろん企業ではそんな自主規制もない(努力目標はあるが)。経営層が集う会議はオッサンランド、女性は居るか居ない程度に点在する風景が通例であろう。

 

各職場は、特権階級を頂点としたヒエラルキーが基本形だ。例えば10名の職場では、管理職をトップに、3・4人が正社員、残りはパートと派遣。2000年頃からの労働派遣法の緩和以来、多くの職場はこのような構成に落ち着いているのではないだろうか。体系的な社内教育を受けているのは新卒採用の社員のみ。そして正社員と派遣の平均給与の格差は1.5倍(厚労省2015年度調べ)、同じモチベーションは期待できない。しかも、私見を言えば、パートや若手派遣が職場を支え、ベテラン正社員が「お局化(男性でも)」して足を引っ張る。

 

よって今の管理職の仕事は、こうした立場やスキル、ヤル気がバラバラな集団のコミュニケーションを整え、ベクトルをそろえることから始まる。 こうした異質な要素からなる集団を扱うには相当なマネジメントスキルが求められる。しかし、そうしたスキルを内在している人はまれだ。当然うまくいかないことがほとんどである。

 

ところが、昭和な上級管理職は、こうした異質な集団のマネジメントに苦しむ中間管理職が理解できない。彼らの時代では新卒一括採用による、同質な群れを育成することが前提であったからだ。「何をモタついているんだ!」。前門のオオカミ、後門のトラ、中間管理職にウツが増えるのも無理はない。

 

お、長くなってきたのでこの辺でペンを置く。次回に続けようか、どうしようかな。

 

 

2018年

3月

06日

新卒採用あれこれ1

長くなりそうなので、このたびは2回シリーズにしよう。

 

新入社員の季節が近づいてきた。

 

私が独立後、初めて請け負った仕事は大学生向けの就職活動支援、次の仕事は某製薬会社の新入社員研修の講師であった。30代前半、受講生たちにとってお姉さんに近い年齢だったが、どんどん年の差が離れ、今やお母さんの年齢を超えつつある。彼ら彼女らにエネルギーを注入する存在でありたいが、最近は皆のピカピカのお肌から活気をもらっている。

 

新卒研修を請け負うとき、必ず人事担当者と話題になるのが「今年の新卒の特徴について」である。年ごとに、カラーがかなり違うのだ。研修の最初から妙にハイな集団、最中はだんまりのくせに終了後の懇親会になるとやたら盛り上がる集団。業種も所在地も違ういくつかの企業の新卒研修で、妙なことにその年度の共通項を感じることある。はたして、「今年の新入社員が放つカラー」は存在するのか。

 

これを紹介するリサーチとして有名なのは、1975(昭和50)年からスタートした公益財団法人 日本生産性本部『新入社員意識調査・特徴とタイプ』であろう。今からちょうど20年前の1998年度は「再生紙型」。無理に漂白(社風押し付け)するとダイオキシンが出るが、脱墨技術(育成法)の向上次第で新タイプの紙(新入社員)として大いに市場価値あり、とされる。

 

最新の2017年度は「キャラクター捕獲ゲーム型」。キャラクター(就職先)に恵まれたため、比較的容易に内定をゲットできた。ただしレアキャラ(優良企業)捕獲は困難であるため、すばやくネット・SNSを駆使して情報収集し、スマホ片手に東奔西走する種族…らしい。結構こじつけという感じだなぁ。日本生産性本部もネタが尽きて来たのか。

 

ただ冷静に考えてみると、入社年別でカラーがカテゴライズできること自体、ヘンじゃないか?日本生産性本部は、星占いの館ではないのだから。(つづく)。

 

 

2018年

2月

20日

忘却の彼方

最近、物忘れが激しい。ブログのネタをいくつか仕込んでいたが、パソコンを開いたとたん、何を書いていいか頭から飛んでしまった。

 

年齢のせいにしたいところだが、昔から非常に物忘れが激しかった。小学校時代から宿題を家でやったことは数えるほどしかない。家に帰ってカバンを置くと、すべてが記憶から消えてしまうのだ。ゆえに、学校に残ってやるか、当日の朝にするか。宿題をやっている現場に通りかかって、教師に叱責されることがたびたびだった(別に構わないんじゃね?いまだに叱られた理由が分からない)。

 

忘れ物も多かった。前の晩に連絡帳を見て一応用意をするのだが、カバンに詰め忘れたり置き忘れたりと、まともにすべて持っていった日には、一日気分が爽快だった。教科書も家への置き忘れが多かったので、ほとんどは机の中に入れて帰っていた。それらはしばしば掃除の際、机を移動するときに油を引いた床のうえに音を立てて落ちた。表紙と裏表紙は薄汚れ、油で異臭を放っていた。授業の時ぐらいしか開かないので、中身は比較的キレイだったが。

 

しかしながら、忘れるということは悪いことばかりではない。嫌なことをすぐ忘れるのだ。クラスメートともめごとがあっても、相手の「ごめんね」の一言できれいさっぱりである。反対に、オモシロいこと、良かったことはしつこく記憶にこびりつくたちなので、おめでたい性質ではある。

 

このような人物にとって、情報をクラウドに置ける今は、パラダイスのような時代である。考えた人間は、きっと忘れ物常習犯だったにちがいない。歩くのがめんどくさいから、馬を乗り物として使うことを考えた。そのメンテナンスの手抜きをめざし、車を作った。イノベーションとは、常に、世の中に自分を合わせるのを苦労する人間が起こす、というのが私の仮説である。

 

 

 

 

 

 

 

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2018年

2月

06日

問い続けずにはいられない

学校学校事故・事件の被害者家族が記した『問わずにはいられない』。著者の一人である工藤さんご夫婦からお礼のはがきをいただいた。「8年に及ぶ民事裁判が、ようやく終わりました。全国の皆様方に支えていただき、共に声をあげ動いていただいた御蔭様です…ありがとうございました」とある。

 

事件は2009年夏、大分県立竹田高校の剣道部の部室で起こった。数時間にわたる練習で休憩はたった1回。主将であった剣太君はと剣道部顧問の「しごき」のターゲットになり、室温36度以上のなか熱射症を発症し、亡くなってしまう。

 

ふらつく剣太君に、顧問は「たるんどる!」と椅子を投げつけ平手打ちし、気を失えば立ち上がらせ、無理やり竹刀を取らせて打ち込みを続ける。剣太君は混濁した意識のなか、フラフラと戸口に向かって壁にぶつかり、仰向けに倒れて痙攣した。顧問はこの上に馬乗りになり「そげん演技は通用せん!」と叫ぶ。剣太君の目に最期に映ったのは、さらに血が壁に吹き飛ぶほどの往復ビンタを十数発加えた顧問の顔だったか、この凄惨な光景を「部活ってこんなもんかなとおもった」と傍観していた副顧問の姿なのか。

 

この顧問は、前任地の京都府舞鶴高校でも、暴力行為を繰り返し生徒に左じん帯断裂の重傷を負わせている。教師としての適正云々の前に、近所でうろついてほしくないレベルである。

 

公務員の過失に対しては、通常、個人の責任は問われず、国あるいは地方自治体がその賠償責任を負う。両顧問は数カ月の停職の後、教壇に戻った。工藤さんご夫婦は検察に申し立てを行ったものの、不起訴。やむなく民事訴訟に至った。提訴の後、顧問に対しては地裁が「重過失」を認めたのが2016年。県はすぐに控訴したが、翌年高裁で判決が確定した。

 

わが子が、大勢が見ている前でなぶり殺しされたとしても、そこが学校であれば、事実を認めさせるのに8年間。そんな国に、私たちは生きている。

 

 

2018年

1月

15日

還付金詐欺?

ゆうちょATM横にある「詐欺にだまされない」というパンフが、やはり気になってしょうがない。以前もブログに書いたかと思うが、詐欺=だますことなのだから、「だますことにだまされない」では、言葉の共喰いである。そんなどんくさい重言を、全国津々浦々にいきわたる配布物に記載するのはいかがなものか。制作過程で指摘はなかったのかと、いちいち目障りなのである。

 

このパンフとともに目に付くのが、「お金を失くしたから振り込めというその話は詐欺」「税務職員が還付金返還について電話で確認することはありません」などと、そこかしこに貼られた警告文である。これだけ警戒網を張り巡らしても、やはり詐欺に引っかかってしまうものかと感心する次第だ。

 

さて、90年代末の話である。LC研究所としての最初の決算と、自身の確定申告を済ませた次の月。税務署員を名乗る男の声で、営業性個人の口座では還付金は送金できない、だから個人名の口座をこの電話で教えてくれとのこと。はいはいと返事をし、当時持っていた郵便貯金(民営化前)の口座番号を告げると「はい、遅くなったのですぐ振り込んどきますねー」との返事で電話は切れた。その3日後通帳を確かめると、還付金はちゃんと口座に納まっていた。

 

今は昔。オレオレ詐欺や振り込み詐欺が世間で取りざたされる以前の、牧歌的な時代の話である。世の中、便利なようで不便になったのかもしれない。

 

2018年

1月

09日

新年に思うこと

今年のキーワードは「信用と信頼」。ビジネスはこれに尽きると痛感させられる出来事が次々とあったが、お披露目はまたの機会に譲るとする。代わりに、両者はどう違うのかを考えてみたい。

 

まずはお手軽にデジタル広辞苑を紐解いてみよう。

 

【信用】

1.確かなものと信じて受け入れること。「相手の言葉を信用する」

2.それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること。また、世間が与える、そのような評価。「信用を得る」「信用を失う」「信用の置けない人物」「店の信用に傷がつく」

 

【信頼】

信じて頼りにすること。頼りになると信じること。また、その気持ち。「信頼できる人物」「両親の信頼にこたえる」「医学を信頼する」

 

…埒(らち)が明かん。特に信用の2はトートロジーに陥っている。ここは用例とともに考えてみよう。

 

 

会話1 太郎「A課長って〇〇できる人なん?」

     花子「そうだね。プライベートでは関わらない方がいいかも

会話2 花子「B課長って●●できる人なん?」

    太郎「うーん、見た目はあんな風だけど、ピンチにはめっぽう強いよ」

 

〇〇=信用、●●=信頼であることはお分かりだろうか。会話1では「信頼」でも意味は成立するが、会話2で「信用」は難しい。つまり、今まで培った評判、人間性といった社会的な評価は「信用」、より主観的にこれを捉えたものが「信頼」なのだろう。「両親の信用」ではなく「両親の信頼」となるのも、これで納得できる。

 

ちなみにアドラーは、信用=条件付き関わり、信頼=無条件の関わりとして信頼を信用の上に置いた。親鸞聖人と同様、他者を信じる際に「懐疑」を持ち込まないよう諭している。

 

ただし現実の社会では、相手を信頼したばっかりに、自身の信用が失われてしまったようなトンデモ事件も時には発生する。『明日は雨降り、他人は泥棒』という心構えでいた方が、このせちがらい世の中を渡るのには良いかもしれない。小心者のタハラが、アドラーや親鸞聖人の域に達するのは、なかなか難しそうだ。

 

2017年

12月

26日

ビール瓶とシャンパンボトル その2

いわゆる「立場主義」を貫くあまり弟子思いの親方に対し、見るも無残な結論を出した相撲界。予想はしていたとはいえ、八百長興行の闇はかくまで根深いものか。気を取り直して、標題のみを注視したい。液体を入れるための収納容器についての表現が、なぜ「瓶」と「ボトル」に分かれるかである。

 

仮説1 洋モノっぽいものは「ボトル」、和っぽいものは「瓶」、

確かに一理ある。ワインボトルにシャンパンボトル。酒瓶、醤油瓶、ビール瓶…あれ?ビールは紀元前4千年の古代メソポタミアが起源→古代エジプト→フランク王国→ドイツで、超・洋モノだぞ。またイタリアのジェノヴァ共和国発祥と言われるウイスキーは?「ウイスキーボトル」と「ウイスキー瓶」で検索したところ、件数はボトル38万>瓶32.5万。かろうじてボトルが瓶を上回った(単純比較はできないが)。この説はちょっと保留の必要がありそうだ。

 

仮説2 中身を含めて丸ごと見ると「ボトル」、容器に注目したら「瓶」、  

スナック(これも昭和の死語か)で「ママ、瓶キープね」というと、リサイクルの一時預かりみたいに聞こえてしまう点からは、この説にもうなずける。日刊スポーツのタイトルも下の通りであった。しかし、TVも含め、報道ではビールは「瓶」シャンパンは「ボトル」が圧勝だった。これをどう説明するか?

 

12/1日刊スポーツ ビール瓶でなくシャンパン瓶、滑った/中間報告要旨

 

仮説3 オサレだと「ボトル」、オジサン文化に属すると「瓶」

昭和以前に広まってオジサンたちに愛され、定着したものが「瓶」。平成以降、カップルや女子会などで横文字文化として定着したのが「ボトル」。これでどや、タハラとしてはこの説をイチオシにしたいが、少し疑念も残る。ワインは「ワインボトル」と表記されるのが常だが、かの有名な初の国産赤玉ポートワインは1907年、つまり明治40年発売である。結局、どうなのだ?!

 

こんなことを「どっちかな~」とあれこれ考察するのは楽しい。でも、相撲界の内紛に対し「どっちが悪いかな~」と行司役を代行するのは時間のムダであろう。これは単なる暴力事件である。法律に軍配を預ければよい。

 

 

2017年

12月

05日

ビール瓶とシャンパンボトル その1

いかにも日本的な隠ぺい体質、といっても事件を起こした当人らのルーツは外国なのだが。言わずと知れた、横綱力士による幕内力士への暴行事件のことである。まるで学校の事件事故に対する、教育界の隠ぺい構造を見ているようだ。

 

閉鎖的なコミュニティで、ある人物の身体や精神を毀損する事件が起こる。加害者はヒエラルキーの上位におり、被害者は底辺付近にいる。当然、コミュニティでは「問題はなかった」ことにされる。そこで被害者の保護者(親)が危機感を覚え、事件を明るみに出し警察に判断を委ねる。今回、内部告発を行なったのも、やはり「親方」だった。

 

事件が表ざたになったときの反応も、いじめのケースとまったく同じだ。内部告発者に対しては調和を乱す「裏切者」の烙印を押し、かつ「被害者に非があったから仕方ない」と責任転嫁する。タニマチやマスコミなどの外野はコミュニティの擁護に回る。大人からしてこれじゃ、いじめや虐待の撲滅なんて絶対にムリだ。

 

と、真面目に書いたが、タハラとして非常に気になる点がもう一つある。「ビール瓶とシャンパンボトル」である。 

 

日馬、振り上げたのはビール瓶ではなくシャンパンボトル 滑って落ちる 相撲協会危機管理委 (11/30 サンスポ)

白鵬、日馬のビール瓶殴打を否定(11/16 朝日新聞デジタル)

日馬富士はシャンパンボトルを…中間報告、詳細は(11/30 朝日新聞デジタル)

 

じゃあ、滑って落ちなかったらそのまま殴っていたのか、という素朴な疑問はさておき、ざっとチェックしたところ、大多数の記事は「ビール瓶」と「シャンパンボトル」という表記である。両方とも酒を入れる器であるのに、どうしてビールだと「瓶」でシャンパンだと「ボトル」なのだろうか?うーむ。

 

考察に手間取りそうなので、次回に続きを譲りたい。

 

2017年

11月

27日

アイドルを亡くした日

振り返れば、子どもの頃からブラウン管上(古いぞ)の偶像にはトキめかない体質であった。アイドル冷感症である。

 

小学校時代、一世を風靡した昭和の御三家、橋幸夫、舟木一夫…いや違う。郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹を一顧だにせず、中学時代には『たのきんトリオ』の田原俊彦にちなんでついた「としちゃん」のあだ名に「誰それ?」と返した。長じて、キムタクといえば「ああ、広島の選手か。グラウンドで命を落とすとは…」と反応したこともある。しょせんは画面上、二次元の偶像どもである、とシニカルに構えていた。

 

そんな低体温女子が唯一、ハマったのがДмитрий Хворостовскийであった。ホンの数年前のことである。あだ名は、Siberian Tiger、Elvis Presley of Opera Music。声良し、顔良し、姿良し。堂々たる体躯で銀髪を輝かせながら歌う姿に見ほれない女はいないだろう。一目だけでも実物を見たい、声を聴きたい。ところが、2年前のガンを発病し、舞台から遠ざかってしまった。

 

以来、変わっていく外見を痛ましい思いで見守りながら、来日を心待ちにしていた。だがそんな思いは11月22日に打ち砕かれてしまった。

 

享年55歳。私にとって永遠のアイドルになってしまった。

 

2017年

11月

07日

温故知新

山海経(せんがいきょう)という書物をご存じだろうか。紀元前3-4世紀の中国で成立した地誌で、各地の地勢や鉱物、動植物などの産物が記されている。参考図書として必要に迫られ、いそぎA社より中古本を取り寄せたものだ。

 

手に取ってパラパラとめくると、地誌とはいえ、そこは古代、しかも白髪三千丈のお国柄。現実とはかけ離れた、キテレツな生き物がこれでもかと列挙されている。

 

左のイラストは、刑天という名の元・神様である。「形天と帝がここに至って神あらそいをし、帝はその首を斬り、これを常羊の山に葬った。そして(形天)の乳を目となし臍(へそ)をば口となし、干(たて)と戚(まさかり)をもって舞った」。要は葬られた悔しさで化け物となって抗議の舞を踊ったのか。

 

それにしても、この古本「美品、キズ、折れ、書き込みなし」の謳い文句とは違い、ページの

いたるところに傍線やチェックなどの書き込みが見られる。『強いキャラにアレンジ?』『〇〇とかぶる?』などのメモから察するに、前の持ち主はゲームのクリエーターかなんかだったのではないか。

 

無から有は生じない。目の前のウシやらやブタやらをとっくりと眺め、その機能を足したり掛けたりしても、目新しいキャラの誕生は望めない。まさに、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知れば、以て師となるべし。これを実感させてくれた「美品な古本」を仲介したA社に、苦情を言うべきか感謝を表すべきか。考え中のタハラであった。

 

2017年

10月

13日

髀肉之嘆

2,3日前、数年ぶりに馬に乗った。今日になってもまだ腿(もも)裏が痛い。筋肉痛とは異なる種類の痛みだ。

 

子細に観察すると、腿の裏に赤黒い筋が縦横無尽に走っている。ちょうど紙をくしゃくしゃに丸めて広げたような様子だ。要は、馬に揺られているうち、豊かな太腿の重みに耐えかね、皮がよれて内出血をしたらしい。かなり情けない話だ。

 

「髀肉之嘆(ひにくのたん)」という故事成語がある。時は後漢~三国時代の中国で、主人公は『三国志』で有名な劉備。ゲーム好きはこれでわかるよね。ちょっと上の年代では、諸葛孔明の上司と言えばいいか、とにかくこの人にまつわるエピソードである。

 

とある宴席、厠へ中座した劉備、席に戻ってハラハラと涙を落している。不審に思った周囲が尋ねると、「常に馬上にいる戦場では、太腿のぜい肉がつかなかった。しかし馬に乗らない今、なんと太ももの裏にぜい肉がついていることよ(常時身不離鞍、髀肉皆消。今不復騎、髀裏肉生)」。転じて、「無為に過ごす」「機会に恵まれない」の意味となった。

 

私も泣きたい。肉の重みでよれた表皮に、パソコンチェアの上で身動きするたびチリチリとした刺激が走る。腰かける時も慎重に。まさに「皮肉之嘆」である。

 

2017年

10月

03日

毒親、という存在

おおい、約3カ月ぶりの更新だぜい。編集を生業としている者とは思えないほどの怠慢だ。

 

さて、標題について。

「毒親」という言葉が世間に広まったのは世紀が変わったぐらいからか。心理学者スーザン・フォワード著『Toxic Parents』が始まりのようだ。私自身はちびまるこちゃん的な凡百の家庭に育ちながら、毒親に限らず、ひずんだ家族関係の話に非常に敏感だった。

 

理由は分からない。小さい頃に神話を読み漁ったせいか(ギリシャ神話も日本の神話も親殺し、子殺し、近親相姦のオンパレードだ)、ひょっとしたら平々凡々な私の家庭に潜む「毒」を、無意識が嗅ぎつけたのかもしれない。長じて、毒親に育てられた人が少なからずいることに気づくにつれ、むしろ健全な家族関係とは何か、という定義が分からなくなった次第である。

 

毒親は、究極のパワハラだ。「クラッシャー上司」なんかかわいいものである。子どもの生殺与奪を一手に握り、首に見えない鎖を幾重にも巻き付け、その一生を支配する。

 

だが、そもそも親とは、子どもに圧倒的な影響を与える過干渉な存在だ。だから子どもは、自分の魂に押し付けられた蓋を持ち上げ首をだし、きょろきょろと周囲を眺め、やにわに蓋を持ち上げ親の顔に叩きつけ、離れていく。自分自身がそうし、そうされたように。

 

これができるケースとできないケースとの違いは何か?今の自分の中の疑問である。

 

押し付けられている蓋の重さが尋常でないのか、子どもが敏いあまりに、脱出の機会を失ってしまうのか。あるいは救い出してくれる誰かを無意識に待ち続けているのか。そういえば、毒親に育てられた白雪姫は、白馬の王子様に助けられたんだったっけ。しかしその相手が、新たな支配者になる可能性は極めて高い。自らが蓋の隙間から這い出てこない限りは。

 

白雪姫は著作権上ムリなので、代わりにモーツアルトの歌劇『魔笛』を貼っておく。我が娘に人殺しを迫る毒親「夜の女王」。hihiFの絶叫をお聞きあれ。(空耳アワー付)

 

 

2017年

7月

11日

「希望が、ゆきわたる国へ」

言わずと知れた●●党のポスターのキャッチコピーだ。個人的にはこの党に、まったく恨みはない。だから、□□党をツイッターで口汚く批判したとか、都議選で最大与党の〇〇党から恨みを買ったとかの話は、ひとまず置いておこう。

 

私が気になるのは、冒頭見出しにした、このポスターの文言である。果たして、「希望」は、政治によって「国」にあまねく「ゆきわたる(ゆきわたらせる)」ことが可能なのだろうか。この点がどうも、コンセプトとして気持ち悪いのだ。

 

ブリタニカ国際大百科事典を紐解いてみよう。「一般的には、望ましいものを獲得しようとする期待を伴った欲求、あるいはその獲得や出現の期待そのものを意味する。(以下、宗教における希望のことを述べているので略。)」。

 

希望とは、1「欲しい」と思うものが現れる→2「欲しい」という欲求を自覚する→3それを獲得しようとがんばる、というメカニズムなのだ。この定義に沿って考えた場合、やっぱり意味上の主語を「●●党による政治」にするのは難しいんじゃないか。

 

1については、100歩譲って、政治が経済の活性化などによって、人民に最大公約数的な「欲しい」ものを提供することが可能であるとしよう。しかし、「欲しい」と感じるのも獲得のため努力するのも、しょせんは個人のマターである。

 

つまり、各人が何かを獲得するためにもがくプロセスそのものが、「希望」なのだ。お上が、他人が、これを操作できるというのは、考え違いも甚だしい。希望は、選挙公約のようにばらまけるものではないんだよ。 

 

2017年

7月

04日

ひさびさのブログ

あな、おそろし。約3か月ぶりのブログである。メインで手掛けている仕事が、なかなか前に進んでくれず、かなり精神的にタイトな時期であった。来週末には2つ目の山場を越える。が、肩の荷を下ろす間もなく、次のトンネルにはいり、気の抜けない日々はまだまだ続く。やれやれ。

 

この期間中、ブログを書かんとて、思いついたとき、アイデアを書き留めていた。「書き言葉文化人vs話し言葉文化人(2/28ブログ続編か)」「忖度しようぜ(どこからヒントを得たか、容易に見当がつく)」「キャリア教育におもうこと(就活生向けか)」「AIは、毎晩日記をつづるのか(『アンドロイドは電気羊の…』のパクリのつもりか。かなり苦しい)」「読書の対象としての辞書(新しいの買ったので)」…などなど。ネタはそれなりに貯めていたようだ。

 

時間がないことを理由に書かなかったのは、おそらく「書く気がしなかった」のだろう。そりゃそうだよね、仕事で文章を書く合間にブログの文章書いたって、全然気分転換にはならないもんね。

 

ということで、来週からは、週一のペースに戻り、細々とつづっていく予定だ。みなさま、ヨロシク 

 

2017年

4月

18日

うなづきの難しさ

先程から、原稿をまとめるためにインタビュー音声を聞き直している。

 

さっきから気になっているのは、インタビュアーである自分の口癖だ。相手の言葉を「そうですね」と肯定する文脈で「いえ」と否定語を口走り、内容を確認すべき場面で「ですから…」と、断定語を使っている。

 

そして、興味深いのは相手の反応だ。こうしたいわば、否定的、断定的な言葉の投げかけの後には、必ずレスポンスが遅れているのだ。ホンの0.数秒以下のタイミングだが、あきらかに言いよどみが見られる。

 

立て続けにそんな状態が発生しているわけではないので、対話自体はスムーズに流れている。ただ、こうしたやりとりが重なると、相手の心の無意識層に、「話の腰を折られたな」「強引だな」と、不快感が澱(おり)のようにたまっていくのではないか。

 

今をさかのぼる数十年前。漫才ブームの最中、相方の圧倒的なトーク力に押され、ただただあいづちとうなづきで追従するしかないツッコミ役がいた。3人集めて「うなづきトリオ」揶揄されながら、それなりに人気になっていた。。

 

確かに、たかがうなづき、されどうなづき。しゃべりまくる相方を鼓舞するのも凹ませるのも、うなづき一つで変わるのだ。漫才ブームが記憶のかなたに去り、M-1グランプリも17回目を迎えようとしている今、やっとあのトリオの存在意義を理解した私だった。

 

参考URL:「ですから」の一言が、ふつうのお客様をモンスターに変える

      ダイヤモンド社 書籍オンライン 

 

2017年

3月

28日

ノーブレスオブリージュ

最近の国会のばかばかしさよ。

 

成長期の子どもがいる親なら、TV画面を見つめる瞳を、後ろからそっと覆い隠したくなるような衝動にかられるだろう。

 少なくとも、「反面教師」という言葉の意味が理解できる年齢でなければ、教育上よろしくない。その悪影響たるや、エロやグロの比ではない。R-12に指定しておくのが適当だ。

  

標題のノーブレスオブリージュ。「「高貴さは(義務を)強制する」という意味の仏語である。和訳としては、「武士道精神」が適当だろうか。エリートは、恵まれた立場にいるんだから平時は下々に心を配り、いったんコトが起これば矢面に立てよ、ということだ。

 

上の写真は、関西の豪商、芝川家が地元に譲った梅園で、現在は公民館になっている。芝川家は、阪急電車の小林一三に対し、大学・高校・中学建設に伴う広大な敷地の提供を条件として、駅の誘致を図った。現在もこの辺りは緑豊かな文教地区で、閑静な住宅街となっている。

これが、金持ちにしかできない「寄付」である。

 

こんにゃくだの現ナマだのは、寄付とは言わない。「利益供与」と正しく呼ぼうぜ。

 

 

2017年

3月

14日

春の雑感

晴れの日はいつも、自宅から川べりを下ること数キロの自転車通勤である。「武庫川」という名のとおり、いつも無粋で無骨ないでたちだが、それでも今の季節は春らしい色めきを見せてくれる。

 

川面は、霞がたっているような風情で、気のせいか流れもゆっくりだ。広い中洲には鳥が騒いでいる。甲高い叫び声、歌うようなさえずり、つぶれたダミ声、声の種類も増えている。進路をふさいでいたハトの一群が、自転車に驚いて一斉に羽ばたく。雀にもそれに続く。

 

茶色ベースの河原に、ぽつん、ぽつんと黄色が見える。タンポポの季節である。河原にある菜の花の花壇は、わっと声をあげるような黄色で唱和する。そばを通り過ぎるとくしゃみがでた。鼻をくすぐるような香りがする。花粉だ。

 

風が冷たい。北風ではなく、東寄りの風だ。陽光にも圧力を感じ、フードを目深にかぶる。明日から日焼け止め指数をもう一ランク上にしよう。しっかりと口を閉じて走らないと、そろそろ虫が飛び込んでくる季節になるぞ。

 

2017年

2月

28日

書き言葉と話し言葉

文章構成に関するコラムを書こうかと思ったが、忙しいのと面白いネタを見つけたのでこっちにしよう。

 

社員を社内報で「馬鹿」「アホ共よ」  かっぱ寿司のコロワイド「会長独特の言い回し」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170227-00000007-jct-soci

 

ネット記事の一部をコピペする。

「私が嫌いで、嫌悪感すら感じるのだろう。そのアホが、何故会社にいる? 辞めて転職したらいいのに」「生殺与奪の権は、私が握っている。さあ、今後どうする。どう生きて行くアホ共よ」。

といった具合だ

 

『生殺与奪の権を握っているのは私』というワードそのものの是非は、「総合労働相談コーナー」のパワハラ担当に問題を預けよう。しかし文の全体的なトーンをみると、この御仁(と側近ら)はそもそも、話し言葉と書き言葉との役割が全く理解できていない様子がうかがえる。

 

話し言葉は、「場」と不可分のものである。つまり、話し手の声の調子、聞き手は多数か少数か、両者の関係性はなど、文字ヅラよりもそれ以外の情報が意味を決する。データ量は、常に音声データ>テキストデータということを思い出してほしい。対面コミュニケーションであればなおさらだ。画像データとして相手を圧するので、言外の意味がメッセージの意味を決定する。

 

つまり、悪気はないよ、キミを発奮させるために言ってるんだぜ、という「想い」が伝わっていれば、乱暴な表現でも受け入れてもらえるのだ。

 

それに対し、書き言葉は純粋テキストデータである。かつその場で訂正や補足説明ができない。ヒエログリフしかり楔形文字しかり、古(いにしえ)より、時と場所を超えひとり歩きさせることを前提に成立したからだ。粗い言葉を(にしても度を越しているが)ひとり歩きさせれば、それはただの暴言となってしまう。

 

ご本人をはじめその側近らも、まさか社内報が外部に流出し万人の目に触れようとはおもっていなかったろう。が、書き言葉である以上、そのリスクはある。その認識の甘さが「会長独特の言い回し」に透けてみえる。

 

ちなみに、私見だがSNSやメールで使う言語は、話し言葉に近い。読み手との双方向性を前提し、かつ即時性が高いからだ。書き込みなどがやたら長い=一方的に長話されているように感じられるのはそのためだ。だから1回の書き込み量を少なくする、1文も短めに40字までにまとめるのがベターだ。覚えておこう。

 

 

2017年

2月

20日

やっぱりディベートが好き

週末、ディベートの審判員をさせていただいた。(前々回物議をかもした『させていただく』だが、審議会答申に照らせば今回に限り適切かと)。その時おもったのは、「カウンセリングもコーチングもファシリテーションもじったものの、やっぱりわたしにゃディベートが一番」ということだった。

 

なぜか。ひとつめは、聴く時間としゃべる時間が担保されているからだ。カウンセリングだと特に初期段階では「それはおつらい体験だったでしょう」「無理もないですね」など、基本的に自分のセリフはあいづちのみ。根がおしゃべりな人間にとっては結構つらい。

 

ふたつめは、スピード感。相手の論点を追いかけ、頭をフル回転させて、チームでタッグを組んで論題に添ったカウンターコメントを考える。ハンパなく聴く力が要求される。

 

最後は、建設的であること。ディベートでは点数のほか、いかに論題の検証に貢献したかが俯瞰的に評価される。相手の揚げ足取りに終始すれば、点数という勝負には勝っても試合に負けてしまう。

 

しかしディベートは、ひところに比べて盛んではなくなったという。なぜか。確かに準備には手間がかかる。人数もそろえなきゃならない。

 

が、最大の理由はおそらく「討論」=真っ向から相手方とサシで勝負するというイメージが好まれないからに違いない。それが最近の、「共感」だの「絆」だのヨコのつながり大好き、白黒つけるの苦手、の風潮からは時代遅れに見えるのだろう。いやいや、どちらがより聴衆の支持、つまり共感を得られるかという勝負なのだが。もったいない話だ。

 

 

2017年

2月

13日

将来の夢は

以下、前を歩いていた小学生の朝の会話より。

 

小A:「将来なりたい職業、今日帰るまでに先生に出さなあかんな」

小B:「うん、まだ書いてないねん。『サッカー選手』って出してもいいんやけど、なんか、現実離れしてるやろ。どんくさい方やし。普通のやつ書いたら、夢ないって言われそうやし」

小A:「ぼくユーチューバーや」

小B:「ユーチューバー!!? ピコ太郎みたいなやつ!?

小A:「うん。1回されるごとに、お金が入るやつ。カキンや」

小B:「どれぐらい?」

小A:「1回に0.何円とか」

小B:「もうからへんやんか」

小A:「でも100万回とか再生されてみ。HIKAKINなんか1億円とからしいで」

小B:「…(HIKAKIN?知らんがな)それ、親に言うた?」

小A:「お母さんは面白い言うてくれた。でもお父さんには言うてない、反対される、安定してへんとか言って、絶対。」

 

…と、ここで分かれ道になってしまい、続きを聞き損ねた。

 

You tubeの誕生は2005年2月14日、今からちょうど12年前。小学生らが生まれたころだろうか。今から12年後、どんな世の中になっているだろうか。Youtubeは果たして存続しているのか。本日は私の誕生日。ちょっと長生きするのが楽しみになってきた。

 

 

2019年

4月

09日

メタ認知

 最近「シワ、シミを制する!」「オトナの匂い対策、はじめませんか?」などのリスティング広告にがやたら現出するようになった。パソコンにこんな忠告を受ける年まで生きた、という感慨の一方、中途半端な年齢に困ることもある。着るもの、のことだ。

 

ここ数十年、体型がさほど変わらないのは、安上りでたいへんに結構である。しかし、若いころ好んで着ていたタイプの色や形が、似合わないと感じることが増えた。そこで参考のため、通勤電車で同年齢と思しき女性のファッションを観察することにした。

 

観察によると、ファッションに敏感な層は、微妙に2タイプに分かれる。「若々しい」と「若づくり」である。努力を尽くした結果、前者は見かけ年齢<実年齢に成功、一方、後者はイタさを感じさせたうえに、見かけ年齢>実年齢に見えるのだ。なぜか。

 

これはおそらく、ご本人たちの「メタ認知」の違いだ、と推察する。

 

メタ認知とは、「自分を客観視できる能力」である。ハイパフォーマーのコンピタンスとして知られているが、普通の人でもなければ不便な能力だ。たとえば、道路上で自分の立ち位置がメタ認知できなかったら、通行を妨げ、必要以上に人に突き当たられる。

 

つまり、先述の「若々しい」タイプは、見られる自分を客観的に見ている。若さに価値を置く世界では勝負できない。そこを心得たうえで、自分の魅力を最大限に活かす装いは何か熟知し、その知を活用している。まさにメタ認知力の勝利だ。

 

そんなことを考えながら輪行バックを肩から下げて駅のホームを歩いていると、後ろから駅員に呼び止められた。

「そこのボク、輪行バックのチャックは、最後までちゃんとしめてから電車に乗ってね」

野球帽と輪行バック、ジーンズはメタ認知的には「小中学生」だったか。究極のイタい若づくりであった。

 

 

2019年

1月

22日

某人気占い師の文章力

最近、やたら表示されるターゲット広告は「占い」である。年末に『マクベス』について調べ物をしたことが祟ったらしい。(「今年こそ恋愛、結婚を成功させる!」などと今も表示されているので、既婚者であることは見抜かれていないようである)

 

私は、ふだん占いに関心を向けることはほとんどない。オカルトブームのさなかに育ったせいか、星占いからタロット占い、易経までひととおり調べ、子ども時代で早くも興味が尽きてしまったのだ。

 

が、そこは広告の威力。ひんぱんに表示される、女性向けWeb雑誌の人気占いコーナーが妙に気になり、サイトをちょこっとのぞいてみた。この占い師が、ウケる理由がよくわかった。2重の意味で文章がうまいのだ。

 

1つめのうまさは、あいまいさである。かつ「こんなことがあなたに起こるかも」という結果提示型を避けている。

 

その代わり「あなたの現状は、こうじゃないですか?」と、問いかけからからスタートする。そののち、読み手(に起こりがち)の心情に沿いながら、「そんな状態だと、このようになりますよね」と、今後をシュミレーションしながら、対処法をやんわりと提案していく。つまり、自分の書いたシナリオに、読み手をプロセス巧みに誘導しているのだ。

 

もうひとつは、励ましとポジティブな文言に満ち満ちていることだ。「~しなければ~しないだろう」といった、ベテラン占い師(例えば細**子氏)によくみられるような否定語が、極端に少ない。

 

もともと、占い(予言)の本質は、脅すことにある。キリスト教や仏教の終末思想も、その一種で、「悪いことすると地獄に落ちるぞ」だ。しかし、人間、脅されるだけではやってられない。そこに派生したのが、マリア様やお地蔵様など、ご本尊のワキを固める方々からの癒しである。宗教は、こうやってアメとムチとで人間を正しい道に導く。

 

癒しながら道を示す?WEB占い師は、さしずめ現代のマリア様・お地蔵様役なのか。となれば、人々をムチ打つ万能の神は誰だろう。ひょっとして「AI」か?

 

 

2019年

1月

15日

年の初めのブログとて

もう、1月も中盤ではないか。しかも、今年初ブログとはこはいかに。週一回を標榜しつつ、相変わらずのんびりとした更新っぷりである。

 

ブログをサボっている間、(私にしては)大きな買い物をした。ハイブリッド車である。先代が白で、駐車した時の捜索に苦労した経験があるので、白や黒やグレーなどの見つけにくい色は避けたい。さりとて青や赤や黄などの自己主張が強い色は困る、ということで選んだ、渋めの「オリーブグリーン」。

 

納車当日、一目見て驚いた。ひとことで言えば、『カナブン』だ。玉虫色に光り輝いているのである。どこがオリーブじゃ、カタログ作ったやつの色覚は大丈夫か、と某自動車メーカーの社長に声を大にして言いたかった。

 

ただし、あちらは別件で東京で拘留中なので、地方の1ユーザーの声は届くまい。取り換えはできないだろうから、ド派手なこの色に慣れるしかないか。

2018年

12月

18日

形容詞的組織文化 2

 

前回「形容詞的組織文化1」の続き。

 

では、形容詞的組織文化とは何か。定義すれば、「会話やメールなど、やりとりの文の述語がだいたい形容詞・形容動詞で終わる組織」である。形容詞的組織文化(略してKTSBとしようか)でよくみられる表現として、いくつか例を挙げてみよう。

 

●「業績がよい」「業績が悪い」  cf.「業績が上がった」「業績が落ちた」

●「仕事が多くなって大変になった」 cf.「仕事の量が増えて、こなしきれない」

●「そこが本当に問題だ」 cf.「問題の本質はそこだ」

●「手が汚い」  cf.「手が汚れている」

●「作業が遅い」 cf「作業が遅れている」

 

さて、印象としてどうか。後者の動詞的な表現に比べると、前者が主観的・感情的に響くことに気付かれたとおもう。

 

ちょっと専門的なことを言えば、形容詞には「属性形容詞」と「感情形容詞」がある。特に「感情形容詞」は、話者の内面から見た景色を表現するのに長けているのだ。裏返せば、客観性が欠如、つまりメタ認知に乏しい伝え方ということになる。そんな表現がデフォルトになっているのが、KTSBなのである。

 

さて、みなさんの組織の述語はどうか。動詞的か、それとも形容詞的か?

 

 

参考文献:辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術(2015)PHP新書 

 

2018年

12月

11日

形容詞的組織文化1

仕事柄、いろいろな企業に潜入、じっくり組織の内部を観察させてもらう機会が多い。それを踏まえて、「どうも、組織には『話し言葉文化タイプ』と『書き言葉文化タイプ』の2通りがあるようだ」というブログを、以前、書いたような気がする。

 

前者は、感性によるアイデアと構成員(他意はない。念のため)のノリ、スピード感を重視。後者は、理論(屁理屈、ともいう)武装と合意形成プロセスの明文化、そして再現性・持続性を重視する。と、ここまで書いて前者がカタカナ、後者が漢字満載になってしまったことに気付いた。それぞれの文化によって、好みの語彙や言い回しにも、その違いが表出しているのかもしれない。

 

私のイメージする話し言葉文化の典型は、人と組織のスクラップ&ビルドで有名な、情報サービス大手R社。あるいは、朝令暮改のトップが君臨する情報通信S社だろうか。書き言葉文化では旧逓信省のN社2つや旧鉄道省のJ社、そしてなんといっても現存する官公庁といったところだ。

 

どんな組織でも、どちらかに極端に針が触れると、前者はいいかげん、後者は融通が利かないのでまずい結果を招くことになるが、先日、もっと注視すべき言葉文化があるとの指摘が相次いであった。これが「形容詞的組織文化」である。

 

と、やたら前置きが長くなってしまった。次回に続く

 

2018年

11月

27日

ヒギンズ教授風『ボヘミアン・ラブソティ』鑑賞法

やっと映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見に行けた。

 

全編に流れる音楽を聴きつつ、気づいたことがある。長年の間、他のロックグループに比べて、クイーンの歌は耳から聞いて格段にわかりやすいことを、不思議に思っていた。その疑問が氷解した。

 

それはたぶん、フレディが移民の子だからだ。言語学者が、花売り娘のイライザを、ハンガリーの王女と間違えたのと同じ理由である。

 

出身はアフリカの孤島ザンジバル、両親はインドなまりのゾロアスター教徒、ロックスターとしては隠したい出自だったろう。中産階級の英語を母語とする他のメンバー3人とは大きく違っている。

 

名を変え、しゃべり方を変え、マイフェア・レディとして生まれ変わった、ペルシア系インド人の子孫フレディ・マーキュリー。セクシャル・マイノリティについてのみ語られがちだが、民族のマイノリティにも注目されたい。

 

この映画を見た数日後、日本では入管法改定案が衆議院を通過した。来日し定住する外国人の暮らしをどうデザインしていくか。その議論も尽くされないまま国が開かれようとしている。子どもたちに「フレディ=先住民と同化すること」を強いるような国は困るんだが。

 

2018年

7月

24日

PDCAに必要なもの

初対面の人に「どんなお仕事をされていますか」と聞かれるたび、口ごもってしまう。「え~っと、研修講師とかコンサルティングとか、本やWebの編集やライティング。そうそう、社史も作ってますね。昔、大学でキャリア授業もやってました」。だんだん相手の顔が不審げに変わっていく。そこで最近は、「まあ、言葉のよろずやといったところでしょうか」と締めくくる。すると、ちょっと納得したような表情になってくれる。

 

先日、こうして自己紹介した後の、相手のリアクションがちょっと面白かった。

 

「そうですか…。ではもしかしてマニュアル作りでお手伝いくださることは可能でしょうか?当社では組織開発のコンサルティングもしておりまして。コンサルティングのあとの業務マニュアル作りは当社の若手の仕事なのですが、正直なところ、そこに手を取られるのはもったいないと思いまして…」

 

つまりこの会社は、「組織開発」のあとのマニュアル整備を、その組織との共同作業にするどころか「若手に任せるほどもない請負仕事」と見なしているようなのである。

 

一度でも組織を内部から見たことがある人間ならわかるように、実は、組織変革は、コンサルが去った後が勝負だ。変革担当者は、やれやれと息を吹き返す抵抗勢力を、トップの力を使って押さえつけ、いまだに他人事の顔をしている一般社員に向かってマインドの浸透を図っていかなければならない。

 

PDCAサイクルでいえば、コンサルができるのは、せいぜいP→Dまでだ。変革の成果を持続させるためのC→A→サイクルは組織にゆだねるしかない。 そこで、頼りになるのが「マニュアル」だ。とりあえずはこれを金科玉条のごとく振りかざし、拠りどころにするのがセオリーである。

 

キリスト教だってイスラム教だって、マニュアル(聖書)があるから千年以上も続く大宗教に育ちえた。だから権力者らはこぞって、自分たちが都合のいい内容に『欽定聖書(君主の命によって編集した聖書)』を編んだのだ。その重要性がわからない会社にコンサルを任せた、組織開発とやらの効果やいかに。

 

2018年

7月

13日

雑感

文筆家を標ぼうしている割には筆不精である。なんと、約3か月振りの更新だ。

 

個人的にはさておき、世間を振り返ると、ロクな出来事しか記憶にない。大学スポーツ部の老害ぶりの露呈、実の親による子どもの虐待、東海道新幹線内での突然の凶行(被害者は隣のビルの社員の方であった)。未だに釈然としないモリカケ問題、種子法、働き方法案の成立、オウム真理教事件死刑囚7名の突然の執行。関西では地震や大雨などの相次ぐ天災。米朝首脳会談という、マクロ的にはめでたいが地政学的には日本にとってあまりうまみのないニュースもあった。

 

平成、最後のあがき、世も末だ感を覚えてしまうが、果たしてそうだろうか?

 

ろくでもない事件が増えているようでいて、実は犯罪件数自体はは戦後最少を更新している。ちょっと古いソースだが、おそらく傾向には変わりあるまい。

 

犯罪件数が戦後最少を更新-景気回復が貢献か ブルームバーグ 2/22/2018

 

犯罪が少ないと、TVなど主要メディアでは同じニュースを朝から晩まで繰り返す。また

ネット系ニュースがこれでもかと続報を投下、ツイッターでは事件についての感想や憶測が飛び交う。これがおそらく「最近、ろくでもない事件が増えているのではないか」と感じてしまうゆえんであろう。

 

ただし、近畿から中国・四国地方にかけての水害は本当にひどい。メディアも伝えられていない部分も多い。3連休はささやかなながら、片付けのお手伝いに行く予定である。

 

 

2018年

4月

17日

美魔女とうばザクラ

それにしても今年は桜の散るのが早かった。

 

日も暮れてから、武庫川(兵庫県尼崎市-西宮市の市境)の下流から上流に向かって自転車で帰路を急いでいると、河原で笑いさんざめく声が聞こえる。見ると、人が河川敷に四角くひしめき合っている。花見であろう。かなり冷え込むなか、頭上には濃く茂った葉っぱがあるのみだ。

 

少し進むと、日当たりが悪い場所なのか、道端に、わずかな花びらをぶら下げた貧弱な桜の樹が目に留まった。こういうのを「姥桜(うばざくら)」というのかな、と感じた瞬間に自分の脳内辞書がそれを否定した。そう、姥桜は、年をとってもあでやかな女性のことを言うのだ。

 

Weblio辞書によると

1 葉の出るよりも先に花が咲く種類のサクラの俗称。ヒガンザグラ、ウバヒガンなど

2  娘盛りの年頃を過ぎても、なお美しい器量を保っている女

 

とある。由来は、「(歯)なしで花が咲く」意からという。とはいえ、人間に置き換えた場合、歯抜け婆さんに色香を感じる男はまれであろう。歯なし=お歯黒をしている(既婚者)ということかなと推察できる。今でいう「美魔女」だ。

 

ただ、「美魔女」が与える語感と「うばザクラ」に漂うそれとは、私に言わせればかなり違う。前者の定義が"エイジレスビューティー"であれば、後者は"エイジングビューティー"といったところか。

 

「美魔女」には不断の努力が必要だ。魔法の源はエステやジムや美容室。また笑ったときに披露される、ホワイトニングで輝く歯は最大の武器である。一方、「うばザクラ」はお歯黒が語源だから、これ見よがしの笑顔は無用。清潔感をベースにしつつ、必要以上の若作りはしない。

 

時はスタートアップの4月。「うばザクラ」をめざすなら、なんとかなるかもしれない。よしがんばろう、とおもったものの、何をどうがんばればよいのか、皆目見当のつかないタハラであった。 

 

 

2018年

4月

03日

新卒採用あれこれ3

 

この新卒一括採用はいつまでも続くまい。その破たんはもう目の前に来ている。イキイキフレッシュパーソンの母数が劇的に減るのだ。下は、H26年度総務省推計の「労働力の推移」である。

 

 

緑色が15~64歳人口の推移である。色が薄いので見づらいが2000年頃をピークに、年々300万人程減っていく。300万人と言えば甲子園球場60杯分以上の人数である。60敗なら勝率5割8分、十分優勝ラインだが(なんのこっちゃ)、60杯だぞ!その労働人口が(15~20歳も含まれているので、実際とはことなるが)年々消えていくのである。

 

これを聞いて「よっしゃ、就活楽勝!」とほくそ笑んでいるそこの君。勘違いしないように。採用されたのち、一括大量採用と年功序列制度を続ける限り、残念ながら、キミをアシストしてれる後輩や部下はほぼいないということだ。また、「AIに仕事を奪われる」とお嘆きの貴兄よ。今まで以上に、労働時間が増えてやっていけるのか?奪ってもらえる仕事は奪ってもらった方がいいぞ。

 

 

2018年

3月

20日

新卒採用あれこれ2

入社年別でカラーがカテゴライズできる秘密は、新卒一括採用という日本企業独特の採用システムにある。一括採用した人員を終身雇用を前提として「正社員」と名付け、新入社員研修から技術研修、階層別研修まで教育を施す。世界レベルで見ると、相当レアものである。

 

業種にもよるが、伝統的に新入社員のプロファイリングは「日本人」が圧倒的なマジョリティで、管理職層では、「日本人」「男性」が8割以上だ。いわば特権階級である。これは国や自治体、大学でも同じである。

 

某国立大某学部では、とある女性教授の転出に伴い、あわてて他大学から女性の教授を借り受け、ダイバーシティの面目を保ったらしい。もちろん企業ではそんな自主規制もない(努力目標はあるが)。経営層が集う会議はオッサンランド、女性は居るか居ない程度に点在する風景が通例であろう。

 

各職場は、特権階級を頂点としたヒエラルキーが基本形だ。例えば10名の職場では、管理職をトップに、3・4人が正社員、残りはパートと派遣。2000年頃からの労働派遣法の緩和以来、多くの職場はこのような構成に落ち着いているのではないだろうか。体系的な社内教育を受けているのは新卒採用の社員のみ。そして正社員と派遣の平均給与の格差は1.5倍(厚労省2015年度調べ)、同じモチベーションは期待できない。しかも、私見を言えば、パートや若手派遣が職場を支え、ベテラン正社員が「お局化(男性でも)」して足を引っ張る。

 

よって今の管理職の仕事は、こうした立場やスキル、ヤル気がバラバラな集団のコミュニケーションを整え、ベクトルをそろえることから始まる。 こうした異質な要素からなる集団を扱うには相当なマネジメントスキルが求められる。しかし、そうしたスキルを内在している人はまれだ。当然うまくいかないことがほとんどである。

 

ところが、昭和な上級管理職は、こうした異質な集団のマネジメントに苦しむ中間管理職が理解できない。彼らの時代では新卒一括採用による、同質な群れを育成することが前提であったからだ。「何をモタついているんだ!」。前門のオオカミ、後門のトラ、中間管理職にウツが増えるのも無理はない。

 

お、長くなってきたのでこの辺でペンを置く。次回に続けようか、どうしようかな。

 

 

2018年

3月

06日

新卒採用あれこれ1

長くなりそうなので、このたびは2回シリーズにしよう。

 

新入社員の季節が近づいてきた。

 

私が独立後、初めて請け負った仕事は大学生向けの就職活動支援、次の仕事は某製薬会社の新入社員研修の講師であった。30代前半、受講生たちにとってお姉さんに近い年齢だったが、どんどん年の差が離れ、今やお母さんの年齢を超えつつある。彼ら彼女らにエネルギーを注入する存在でありたいが、最近は皆のピカピカのお肌から活気をもらっている。

 

新卒研修を請け負うとき、必ず人事担当者と話題になるのが「今年の新卒の特徴について」である。年ごとに、カラーがかなり違うのだ。研修の最初から妙にハイな集団、最中はだんまりのくせに終了後の懇親会になるとやたら盛り上がる集団。業種も所在地も違ういくつかの企業の新卒研修で、妙なことにその年度の共通項を感じることある。はたして、「今年の新入社員が放つカラー」は存在するのか。

 

これを紹介するリサーチとして有名なのは、1975(昭和50)年からスタートした公益財団法人 日本生産性本部『新入社員意識調査・特徴とタイプ』であろう。今からちょうど20年前の1998年度は「再生紙型」。無理に漂白(社風押し付け)するとダイオキシンが出るが、脱墨技術(育成法)の向上次第で新タイプの紙(新入社員)として大いに市場価値あり、とされる。

 

最新の2017年度は「キャラクター捕獲ゲーム型」。キャラクター(就職先)に恵まれたため、比較的容易に内定をゲットできた。ただしレアキャラ(優良企業)捕獲は困難であるため、すばやくネット・SNSを駆使して情報収集し、スマホ片手に東奔西走する種族…らしい。結構こじつけという感じだなぁ。日本生産性本部もネタが尽きて来たのか。

 

ただ冷静に考えてみると、入社年別でカラーがカテゴライズできること自体、ヘンじゃないか?日本生産性本部は、星占いの館ではないのだから。(つづく)。

 

 

2018年

2月

20日

忘却の彼方

最近、物忘れが激しい。ブログのネタをいくつか仕込んでいたが、パソコンを開いたとたん、何を書いていいか頭から飛んでしまった。

 

年齢のせいにしたいところだが、昔から非常に物忘れが激しかった。小学校時代から宿題を家でやったことは数えるほどしかない。家に帰ってカバンを置くと、すべてが記憶から消えてしまうのだ。ゆえに、学校に残ってやるか、当日の朝にするか。宿題をやっている現場に通りかかって、教師に叱責されることがたびたびだった(別に構わないんじゃね?いまだに叱られた理由が分からない)。

 

忘れ物も多かった。前の晩に連絡帳を見て一応用意をするのだが、カバンに詰め忘れたり置き忘れたりと、まともにすべて持っていった日には、一日気分が爽快だった。教科書も家への置き忘れが多かったので、ほとんどは机の中に入れて帰っていた。それらはしばしば掃除の際、机を移動するときに油を引いた床のうえに音を立てて落ちた。表紙と裏表紙は薄汚れ、油で異臭を放っていた。授業の時ぐらいしか開かないので、中身は比較的キレイだったが。

 

しかしながら、忘れるということは悪いことばかりではない。嫌なことをすぐ忘れるのだ。クラスメートともめごとがあっても、相手の「ごめんね」の一言できれいさっぱりである。反対に、オモシロいこと、良かったことはしつこく記憶にこびりつくたちなので、おめでたい性質ではある。

 

このような人物にとって、情報をクラウドに置ける今は、パラダイスのような時代である。考えた人間は、きっと忘れ物常習犯だったにちがいない。歩くのがめんどくさいから、馬を乗り物として使うことを考えた。そのメンテナンスの手抜きをめざし、車を作った。イノベーションとは、常に、世の中に自分を合わせるのを苦労する人間が起こす、というのが私の仮説である。

 

 

 

 

 

 

 

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2018年

2月

06日

問い続けずにはいられない

学校学校事故・事件の被害者家族が記した『問わずにはいられない』。著者の一人である工藤さんご夫婦からお礼のはがきをいただいた。「8年に及ぶ民事裁判が、ようやく終わりました。全国の皆様方に支えていただき、共に声をあげ動いていただいた御蔭様です…ありがとうございました」とある。

 

事件は2009年夏、大分県立竹田高校の剣道部の部室で起こった。数時間にわたる練習で休憩はたった1回。主将であった剣太君はと剣道部顧問の「しごき」のターゲットになり、室温36度以上のなか熱射症を発症し、亡くなってしまう。

 

ふらつく剣太君に、顧問は「たるんどる!」と椅子を投げつけ平手打ちし、気を失えば立ち上がらせ、無理やり竹刀を取らせて打ち込みを続ける。剣太君は混濁した意識のなか、フラフラと戸口に向かって壁にぶつかり、仰向けに倒れて痙攣した。顧問はこの上に馬乗りになり「そげん演技は通用せん!」と叫ぶ。剣太君の目に最期に映ったのは、さらに血が壁に吹き飛ぶほどの往復ビンタを十数発加えた顧問の顔だったか、この凄惨な光景を「部活ってこんなもんかなとおもった」と傍観していた副顧問の姿なのか。

 

この顧問は、前任地の京都府舞鶴高校でも、暴力行為を繰り返し生徒に左じん帯断裂の重傷を負わせている。教師としての適正云々の前に、近所でうろついてほしくないレベルである。

 

公務員の過失に対しては、通常、個人の責任は問われず、国あるいは地方自治体がその賠償責任を負う。両顧問は数カ月の停職の後、教壇に戻った。工藤さんご夫婦は検察に申し立てを行ったものの、不起訴。やむなく民事訴訟に至った。提訴の後、顧問に対しては地裁が「重過失」を認めたのが2016年。県はすぐに控訴したが、翌年高裁で判決が確定した。

 

わが子が、大勢が見ている前でなぶり殺しされたとしても、そこが学校であれば、事実を認めさせるのに8年間。そんな国に、私たちは生きている。

 

 

2018年

1月

15日

還付金詐欺?

ゆうちょATM横にある「詐欺にだまされない」というパンフが、やはり気になってしょうがない。以前もブログに書いたかと思うが、詐欺=だますことなのだから、「だますことにだまされない」では、言葉の共喰いである。そんなどんくさい重言を、全国津々浦々にいきわたる配布物に記載するのはいかがなものか。制作過程で指摘はなかったのかと、いちいち目障りなのである。

 

このパンフとともに目に付くのが、「お金を失くしたから振り込めというその話は詐欺」「税務職員が還付金返還について電話で確認することはありません」などと、そこかしこに貼られた警告文である。これだけ警戒網を張り巡らしても、やはり詐欺に引っかかってしまうものかと感心する次第だ。

 

さて、90年代末の話である。LC研究所としての最初の決算と、自身の確定申告を済ませた次の月。税務署員を名乗る男の声で、営業性個人の口座では還付金は送金できない、だから個人名の口座をこの電話で教えてくれとのこと。はいはいと返事をし、当時持っていた郵便貯金(民営化前)の口座番号を告げると「はい、遅くなったのですぐ振り込んどきますねー」との返事で電話は切れた。その3日後通帳を確かめると、還付金はちゃんと口座に納まっていた。

 

今は昔。オレオレ詐欺や振り込み詐欺が世間で取りざたされる以前の、牧歌的な時代の話である。世の中、便利なようで不便になったのかもしれない。

 

2018年

1月

09日

新年に思うこと

今年のキーワードは「信用と信頼」。ビジネスはこれに尽きると痛感させられる出来事が次々とあったが、お披露目はまたの機会に譲るとする。代わりに、両者はどう違うのかを考えてみたい。

 

まずはお手軽にデジタル広辞苑を紐解いてみよう。

 

【信用】

1.確かなものと信じて受け入れること。「相手の言葉を信用する」

2.それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること。また、世間が与える、そのような評価。「信用を得る」「信用を失う」「信用の置けない人物」「店の信用に傷がつく」

 

【信頼】

信じて頼りにすること。頼りになると信じること。また、その気持ち。「信頼できる人物」「両親の信頼にこたえる」「医学を信頼する」

 

…埒(らち)が明かん。特に信用の2はトートロジーに陥っている。ここは用例とともに考えてみよう。

 

 

会話1 太郎「A課長って〇〇できる人なん?」

     花子「そうだね。プライベートでは関わらない方がいいかも

会話2 花子「B課長って●●できる人なん?」

    太郎「うーん、見た目はあんな風だけど、ピンチにはめっぽう強いよ」

 

〇〇=信用、●●=信頼であることはお分かりだろうか。会話1では「信頼」でも意味は成立するが、会話2で「信用」は難しい。つまり、今まで培った評判、人間性といった社会的な評価は「信用」、より主観的にこれを捉えたものが「信頼」なのだろう。「両親の信用」ではなく「両親の信頼」となるのも、これで納得できる。

 

ちなみにアドラーは、信用=条件付き関わり、信頼=無条件の関わりとして信頼を信用の上に置いた。親鸞聖人と同様、他者を信じる際に「懐疑」を持ち込まないよう諭している。

 

ただし現実の社会では、相手を信頼したばっかりに、自身の信用が失われてしまったようなトンデモ事件も時には発生する。『明日は雨降り、他人は泥棒』という心構えでいた方が、このせちがらい世の中を渡るのには良いかもしれない。小心者のタハラが、アドラーや親鸞聖人の域に達するのは、なかなか難しそうだ。

 

2017年

12月

26日

ビール瓶とシャンパンボトル その2

いわゆる「立場主義」を貫くあまり弟子思いの親方に対し、見るも無残な結論を出した相撲界。予想はしていたとはいえ、八百長興行の闇はかくまで根深いものか。気を取り直して、標題のみを注視したい。液体を入れるための収納容器についての表現が、なぜ「瓶」と「ボトル」に分かれるかである。

 

仮説1 洋モノっぽいものは「ボトル」、和っぽいものは「瓶」、

確かに一理ある。ワインボトルにシャンパンボトル。酒瓶、醤油瓶、ビール瓶…あれ?ビールは紀元前4千年の古代メソポタミアが起源→古代エジプト→フランク王国→ドイツで、超・洋モノだぞ。またイタリアのジェノヴァ共和国発祥と言われるウイスキーは?「ウイスキーボトル」と「ウイスキー瓶」で検索したところ、件数はボトル38万>瓶32.5万。かろうじてボトルが瓶を上回った(単純比較はできないが)。この説はちょっと保留の必要がありそうだ。

 

仮説2 中身を含めて丸ごと見ると「ボトル」、容器に注目したら「瓶」、  

スナック(これも昭和の死語か)で「ママ、瓶キープね」というと、リサイクルの一時預かりみたいに聞こえてしまう点からは、この説にもうなずける。日刊スポーツのタイトルも下の通りであった。しかし、TVも含め、報道ではビールは「瓶」シャンパンは「ボトル」が圧勝だった。これをどう説明するか?

 

12/1日刊スポーツ ビール瓶でなくシャンパン瓶、滑った/中間報告要旨

 

仮説3 オサレだと「ボトル」、オジサン文化に属すると「瓶」

昭和以前に広まってオジサンたちに愛され、定着したものが「瓶」。平成以降、カップルや女子会などで横文字文化として定着したのが「ボトル」。これでどや、タハラとしてはこの説をイチオシにしたいが、少し疑念も残る。ワインは「ワインボトル」と表記されるのが常だが、かの有名な初の国産赤玉ポートワインは1907年、つまり明治40年発売である。結局、どうなのだ?!

 

こんなことを「どっちかな~」とあれこれ考察するのは楽しい。でも、相撲界の内紛に対し「どっちが悪いかな~」と行司役を代行するのは時間のムダであろう。これは単なる暴力事件である。法律に軍配を預ければよい。

 

 

2017年

12月

05日

ビール瓶とシャンパンボトル その1

いかにも日本的な隠ぺい体質、といっても事件を起こした当人らのルーツは外国なのだが。言わずと知れた、横綱力士による幕内力士への暴行事件のことである。まるで学校の事件事故に対する、教育界の隠ぺい構造を見ているようだ。

 

閉鎖的なコミュニティで、ある人物の身体や精神を毀損する事件が起こる。加害者はヒエラルキーの上位におり、被害者は底辺付近にいる。当然、コミュニティでは「問題はなかった」ことにされる。そこで被害者の保護者(親)が危機感を覚え、事件を明るみに出し警察に判断を委ねる。今回、内部告発を行なったのも、やはり「親方」だった。

 

事件が表ざたになったときの反応も、いじめのケースとまったく同じだ。内部告発者に対しては調和を乱す「裏切者」の烙印を押し、かつ「被害者に非があったから仕方ない」と責任転嫁する。タニマチやマスコミなどの外野はコミュニティの擁護に回る。大人からしてこれじゃ、いじめや虐待の撲滅なんて絶対にムリだ。

 

と、真面目に書いたが、タハラとして非常に気になる点がもう一つある。「ビール瓶とシャンパンボトル」である。 

 

日馬、振り上げたのはビール瓶ではなくシャンパンボトル 滑って落ちる 相撲協会危機管理委 (11/30 サンスポ)

白鵬、日馬のビール瓶殴打を否定(11/16 朝日新聞デジタル)

日馬富士はシャンパンボトルを…中間報告、詳細は(11/30 朝日新聞デジタル)

 

じゃあ、滑って落ちなかったらそのまま殴っていたのか、という素朴な疑問はさておき、ざっとチェックしたところ、大多数の記事は「ビール瓶」と「シャンパンボトル」という表記である。両方とも酒を入れる器であるのに、どうしてビールだと「瓶」でシャンパンだと「ボトル」なのだろうか?うーむ。

 

考察に手間取りそうなので、次回に続きを譲りたい。

 

2017年

11月

27日

アイドルを亡くした日

振り返れば、子どもの頃からブラウン管上(古いぞ)の偶像にはトキめかない体質であった。アイドル冷感症である。

 

小学校時代、一世を風靡した昭和の御三家、橋幸夫、舟木一夫…いや違う。郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹を一顧だにせず、中学時代には『たのきんトリオ』の田原俊彦にちなんでついた「としちゃん」のあだ名に「誰それ?」と返した。長じて、キムタクといえば「ああ、広島の選手か。グラウンドで命を落とすとは…」と反応したこともある。しょせんは画面上、二次元の偶像どもである、とシニカルに構えていた。

 

そんな低体温女子が唯一、ハマったのがДмитрий Хворостовскийであった。ホンの数年前のことである。あだ名は、Siberian Tiger、Elvis Presley of Opera Music。声良し、顔良し、姿良し。堂々たる体躯で銀髪を輝かせながら歌う姿に見ほれない女はいないだろう。一目だけでも実物を見たい、声を聴きたい。ところが、2年前のガンを発病し、舞台から遠ざかってしまった。

 

以来、変わっていく外見を痛ましい思いで見守りながら、来日を心待ちにしていた。だがそんな思いは11月22日に打ち砕かれてしまった。

 

享年55歳。私にとって永遠のアイドルになってしまった。

 

2017年

11月

07日

温故知新

山海経(せんがいきょう)という書物をご存じだろうか。紀元前3-4世紀の中国で成立した地誌で、各地の地勢や鉱物、動植物などの産物が記されている。参考図書として必要に迫られ、いそぎA社より中古本を取り寄せたものだ。

 

手に取ってパラパラとめくると、地誌とはいえ、そこは古代、しかも白髪三千丈のお国柄。現実とはかけ離れた、キテレツな生き物がこれでもかと列挙されている。

 

左のイラストは、刑天という名の元・神様である。「形天と帝がここに至って神あらそいをし、帝はその首を斬り、これを常羊の山に葬った。そして(形天)の乳を目となし臍(へそ)をば口となし、干(たて)と戚(まさかり)をもって舞った」。要は葬られた悔しさで化け物となって抗議の舞を踊ったのか。

 

それにしても、この古本「美品、キズ、折れ、書き込みなし」の謳い文句とは違い、ページの

いたるところに傍線やチェックなどの書き込みが見られる。『強いキャラにアレンジ?』『〇〇とかぶる?』などのメモから察するに、前の持ち主はゲームのクリエーターかなんかだったのではないか。

 

無から有は生じない。目の前のウシやらやブタやらをとっくりと眺め、その機能を足したり掛けたりしても、目新しいキャラの誕生は望めない。まさに、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知れば、以て師となるべし。これを実感させてくれた「美品な古本」を仲介したA社に、苦情を言うべきか感謝を表すべきか。考え中のタハラであった。

 

2017年

10月

13日

髀肉之嘆

2,3日前、数年ぶりに馬に乗った。今日になってもまだ腿(もも)裏が痛い。筋肉痛とは異なる種類の痛みだ。

 

子細に観察すると、腿の裏に赤黒い筋が縦横無尽に走っている。ちょうど紙をくしゃくしゃに丸めて広げたような様子だ。要は、馬に揺られているうち、豊かな太腿の重みに耐えかね、皮がよれて内出血をしたらしい。かなり情けない話だ。

 

「髀肉之嘆(ひにくのたん)」という故事成語がある。時は後漢~三国時代の中国で、主人公は『三国志』で有名な劉備。ゲーム好きはこれでわかるよね。ちょっと上の年代では、諸葛孔明の上司と言えばいいか、とにかくこの人にまつわるエピソードである。

 

とある宴席、厠へ中座した劉備、席に戻ってハラハラと涙を落している。不審に思った周囲が尋ねると、「常に馬上にいる戦場では、太腿のぜい肉がつかなかった。しかし馬に乗らない今、なんと太ももの裏にぜい肉がついていることよ(常時身不離鞍、髀肉皆消。今不復騎、髀裏肉生)」。転じて、「無為に過ごす」「機会に恵まれない」の意味となった。

 

私も泣きたい。肉の重みでよれた表皮に、パソコンチェアの上で身動きするたびチリチリとした刺激が走る。腰かける時も慎重に。まさに「皮肉之嘆」である。

 

2017年

10月

03日

毒親、という存在

おおい、約3カ月ぶりの更新だぜい。編集を生業としている者とは思えないほどの怠慢だ。

 

さて、標題について。

「毒親」という言葉が世間に広まったのは世紀が変わったぐらいからか。心理学者スーザン・フォワード著『Toxic Parents』が始まりのようだ。私自身はちびまるこちゃん的な凡百の家庭に育ちながら、毒親に限らず、ひずんだ家族関係の話に非常に敏感だった。

 

理由は分からない。小さい頃に神話を読み漁ったせいか(ギリシャ神話も日本の神話も親殺し、子殺し、近親相姦のオンパレードだ)、ひょっとしたら平々凡々な私の家庭に潜む「毒」を、無意識が嗅ぎつけたのかもしれない。長じて、毒親に育てられた人が少なからずいることに気づくにつれ、むしろ健全な家族関係とは何か、という定義が分からなくなった次第である。

 

毒親は、究極のパワハラだ。「クラッシャー上司」なんかかわいいものである。子どもの生殺与奪を一手に握り、首に見えない鎖を幾重にも巻き付け、その一生を支配する。

 

だが、そもそも親とは、子どもに圧倒的な影響を与える過干渉な存在だ。だから子どもは、自分の魂に押し付けられた蓋を持ち上げ首をだし、きょろきょろと周囲を眺め、やにわに蓋を持ち上げ親の顔に叩きつけ、離れていく。自分自身がそうし、そうされたように。

 

これができるケースとできないケースとの違いは何か?今の自分の中の疑問である。

 

押し付けられている蓋の重さが尋常でないのか、子どもが敏いあまりに、脱出の機会を失ってしまうのか。あるいは救い出してくれる誰かを無意識に待ち続けているのか。そういえば、毒親に育てられた白雪姫は、白馬の王子様に助けられたんだったっけ。しかしその相手が、新たな支配者になる可能性は極めて高い。自らが蓋の隙間から這い出てこない限りは。

 

白雪姫は著作権上ムリなので、代わりにモーツアルトの歌劇『魔笛』を貼っておく。我が娘に人殺しを迫る毒親「夜の女王」。hihiFの絶叫をお聞きあれ。(空耳アワー付)

 

 

2017年

7月

11日

「希望が、ゆきわたる国へ」

言わずと知れた●●党のポスターのキャッチコピーだ。個人的にはこの党に、まったく恨みはない。だから、□□党をツイッターで口汚く批判したとか、都議選で最大与党の〇〇党から恨みを買ったとかの話は、ひとまず置いておこう。

 

私が気になるのは、冒頭見出しにした、このポスターの文言である。果たして、「希望」は、政治によって「国」にあまねく「ゆきわたる(ゆきわたらせる)」ことが可能なのだろうか。この点がどうも、コンセプトとして気持ち悪いのだ。

 

ブリタニカ国際大百科事典を紐解いてみよう。「一般的には、望ましいものを獲得しようとする期待を伴った欲求、あるいはその獲得や出現の期待そのものを意味する。(以下、宗教における希望のことを述べているので略。)」。

 

希望とは、1「欲しい」と思うものが現れる→2「欲しい」という欲求を自覚する→3それを獲得しようとがんばる、というメカニズムなのだ。この定義に沿って考えた場合、やっぱり意味上の主語を「●●党による政治」にするのは難しいんじゃないか。

 

1については、100歩譲って、政治が経済の活性化などによって、人民に最大公約数的な「欲しい」ものを提供することが可能であるとしよう。しかし、「欲しい」と感じるのも獲得のため努力するのも、しょせんは個人のマターである。

 

つまり、各人が何かを獲得するためにもがくプロセスそのものが、「希望」なのだ。お上が、他人が、これを操作できるというのは、考え違いも甚だしい。希望は、選挙公約のようにばらまけるものではないんだよ。 

 

2017年

7月

04日

ひさびさのブログ

あな、おそろし。約3か月ぶりのブログである。メインで手掛けている仕事が、なかなか前に進んでくれず、かなり精神的にタイトな時期であった。来週末には2つ目の山場を越える。が、肩の荷を下ろす間もなく、次のトンネルにはいり、気の抜けない日々はまだまだ続く。やれやれ。

 

この期間中、ブログを書かんとて、思いついたとき、アイデアを書き留めていた。「書き言葉文化人vs話し言葉文化人(2/28ブログ続編か)」「忖度しようぜ(どこからヒントを得たか、容易に見当がつく)」「キャリア教育におもうこと(就活生向けか)」「AIは、毎晩日記をつづるのか(『アンドロイドは電気羊の…』のパクリのつもりか。かなり苦しい)」「読書の対象としての辞書(新しいの買ったので)」…などなど。ネタはそれなりに貯めていたようだ。

 

時間がないことを理由に書かなかったのは、おそらく「書く気がしなかった」のだろう。そりゃそうだよね、仕事で文章を書く合間にブログの文章書いたって、全然気分転換にはならないもんね。

 

ということで、来週からは、週一のペースに戻り、細々とつづっていく予定だ。みなさま、ヨロシク 

 

2017年

4月

18日

うなづきの難しさ

先程から、原稿をまとめるためにインタビュー音声を聞き直している。

 

さっきから気になっているのは、インタビュアーである自分の口癖だ。相手の言葉を「そうですね」と肯定する文脈で「いえ」と否定語を口走り、内容を確認すべき場面で「ですから…」と、断定語を使っている。

 

そして、興味深いのは相手の反応だ。こうしたいわば、否定的、断定的な言葉の投げかけの後には、必ずレスポンスが遅れているのだ。ホンの0.数秒以下のタイミングだが、あきらかに言いよどみが見られる。

 

立て続けにそんな状態が発生しているわけではないので、対話自体はスムーズに流れている。ただ、こうしたやりとりが重なると、相手の心の無意識層に、「話の腰を折られたな」「強引だな」と、不快感が澱(おり)のようにたまっていくのではないか。

 

今をさかのぼる数十年前。漫才ブームの最中、相方の圧倒的なトーク力に押され、ただただあいづちとうなづきで追従するしかないツッコミ役がいた。3人集めて「うなづきトリオ」揶揄されながら、それなりに人気になっていた。。

 

確かに、たかがうなづき、されどうなづき。しゃべりまくる相方を鼓舞するのも凹ませるのも、うなづき一つで変わるのだ。漫才ブームが記憶のかなたに去り、M-1グランプリも17回目を迎えようとしている今、やっとあのトリオの存在意義を理解した私だった。

 

参考URL:「ですから」の一言が、ふつうのお客様をモンスターに変える

      ダイヤモンド社 書籍オンライン 

 

2017年

3月

28日

ノーブレスオブリージュ

最近の国会のばかばかしさよ。

 

成長期の子どもがいる親なら、TV画面を見つめる瞳を、後ろからそっと覆い隠したくなるような衝動にかられるだろう。

 少なくとも、「反面教師」という言葉の意味が理解できる年齢でなければ、教育上よろしくない。その悪影響たるや、エロやグロの比ではない。R-12に指定しておくのが適当だ。

  

標題のノーブレスオブリージュ。「「高貴さは(義務を)強制する」という意味の仏語である。和訳としては、「武士道精神」が適当だろうか。エリートは、恵まれた立場にいるんだから平時は下々に心を配り、いったんコトが起これば矢面に立てよ、ということだ。

 

上の写真は、関西の豪商、芝川家が地元に譲った梅園で、現在は公民館になっている。芝川家は、阪急電車の小林一三に対し、大学・高校・中学建設に伴う広大な敷地の提供を条件として、駅の誘致を図った。現在もこの辺りは緑豊かな文教地区で、閑静な住宅街となっている。

これが、金持ちにしかできない「寄付」である。

 

こんにゃくだの現ナマだのは、寄付とは言わない。「利益供与」と正しく呼ぼうぜ。

 

 

2017年

3月

14日

春の雑感

晴れの日はいつも、自宅から川べりを下ること数キロの自転車通勤である。「武庫川」という名のとおり、いつも無粋で無骨ないでたちだが、それでも今の季節は春らしい色めきを見せてくれる。

 

川面は、霞がたっているような風情で、気のせいか流れもゆっくりだ。広い中洲には鳥が騒いでいる。甲高い叫び声、歌うようなさえずり、つぶれたダミ声、声の種類も増えている。進路をふさいでいたハトの一群が、自転車に驚いて一斉に羽ばたく。雀にもそれに続く。

 

茶色ベースの河原に、ぽつん、ぽつんと黄色が見える。タンポポの季節である。河原にある菜の花の花壇は、わっと声をあげるような黄色で唱和する。そばを通り過ぎるとくしゃみがでた。鼻をくすぐるような香りがする。花粉だ。

 

風が冷たい。北風ではなく、東寄りの風だ。陽光にも圧力を感じ、フードを目深にかぶる。明日から日焼け止め指数をもう一ランク上にしよう。しっかりと口を閉じて走らないと、そろそろ虫が飛び込んでくる季節になるぞ。

 

2017年

2月

28日

書き言葉と話し言葉

文章構成に関するコラムを書こうかと思ったが、忙しいのと面白いネタを見つけたのでこっちにしよう。

 

社員を社内報で「馬鹿」「アホ共よ」  かっぱ寿司のコロワイド「会長独特の言い回し」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170227-00000007-jct-soci

 

ネット記事の一部をコピペする。

「私が嫌いで、嫌悪感すら感じるのだろう。そのアホが、何故会社にいる? 辞めて転職したらいいのに」「生殺与奪の権は、私が握っている。さあ、今後どうする。どう生きて行くアホ共よ」。

といった具合だ

 

『生殺与奪の権を握っているのは私』というワードそのものの是非は、「総合労働相談コーナー」のパワハラ担当に問題を預けよう。しかし文の全体的なトーンをみると、この御仁(と側近ら)はそもそも、話し言葉と書き言葉との役割が全く理解できていない様子がうかがえる。

 

話し言葉は、「場」と不可分のものである。つまり、話し手の声の調子、聞き手は多数か少数か、両者の関係性はなど、文字ヅラよりもそれ以外の情報が意味を決する。データ量は、常に音声データ>テキストデータということを思い出してほしい。対面コミュニケーションであればなおさらだ。画像データとして相手を圧するので、言外の意味がメッセージの意味を決定する。

 

つまり、悪気はないよ、キミを発奮させるために言ってるんだぜ、という「想い」が伝わっていれば、乱暴な表現でも受け入れてもらえるのだ。

 

それに対し、書き言葉は純粋テキストデータである。かつその場で訂正や補足説明ができない。ヒエログリフしかり楔形文字しかり、古(いにしえ)より、時と場所を超えひとり歩きさせることを前提に成立したからだ。粗い言葉を(にしても度を越しているが)ひとり歩きさせれば、それはただの暴言となってしまう。

 

ご本人をはじめその側近らも、まさか社内報が外部に流出し万人の目に触れようとはおもっていなかったろう。が、書き言葉である以上、そのリスクはある。その認識の甘さが「会長独特の言い回し」に透けてみえる。

 

ちなみに、私見だがSNSやメールで使う言語は、話し言葉に近い。読み手との双方向性を前提し、かつ即時性が高いからだ。書き込みなどがやたら長い=一方的に長話されているように感じられるのはそのためだ。だから1回の書き込み量を少なくする、1文も短めに40字までにまとめるのがベターだ。覚えておこう。

 

 

2017年

2月

20日

やっぱりディベートが好き

週末、ディベートの審判員をさせていただいた。(前々回物議をかもした『させていただく』だが、審議会答申に照らせば今回に限り適切かと)。その時おもったのは、「カウンセリングもコーチングもファシリテーションもじったものの、やっぱりわたしにゃディベートが一番」ということだった。

 

なぜか。ひとつめは、聴く時間としゃべる時間が担保されているからだ。カウンセリングだと特に初期段階では「それはおつらい体験だったでしょう」「無理もないですね」など、基本的に自分のセリフはあいづちのみ。根がおしゃべりな人間にとっては結構つらい。

 

ふたつめは、スピード感。相手の論点を追いかけ、頭をフル回転させて、チームでタッグを組んで論題に添ったカウンターコメントを考える。ハンパなく聴く力が要求される。

 

最後は、建設的であること。ディベートでは点数のほか、いかに論題の検証に貢献したかが俯瞰的に評価される。相手の揚げ足取りに終始すれば、点数という勝負には勝っても試合に負けてしまう。

 

しかしディベートは、ひところに比べて盛んではなくなったという。なぜか。確かに準備には手間がかかる。人数もそろえなきゃならない。

 

が、最大の理由はおそらく「討論」=真っ向から相手方とサシで勝負するというイメージが好まれないからに違いない。それが最近の、「共感」だの「絆」だのヨコのつながり大好き、白黒つけるの苦手、の風潮からは時代遅れに見えるのだろう。いやいや、どちらがより聴衆の支持、つまり共感を得られるかという勝負なのだが。もったいない話だ。

 

 

2017年

2月

13日

将来の夢は

以下、前を歩いていた小学生の朝の会話より。

 

小A:「将来なりたい職業、今日帰るまでに先生に出さなあかんな」

小B:「うん、まだ書いてないねん。『サッカー選手』って出してもいいんやけど、なんか、現実離れしてるやろ。どんくさい方やし。普通のやつ書いたら、夢ないって言われそうやし」

小A:「ぼくユーチューバーや」

小B:「ユーチューバー!!? ピコ太郎みたいなやつ!?

小A:「うん。1回されるごとに、お金が入るやつ。カキンや」

小B:「どれぐらい?」

小A:「1回に0.何円とか」

小B:「もうからへんやんか」

小A:「でも100万回とか再生されてみ。HIKAKINなんか1億円とからしいで」

小B:「…(HIKAKIN?知らんがな)それ、親に言うた?」

小A:「お母さんは面白い言うてくれた。でもお父さんには言うてない、反対される、安定してへんとか言って、絶対。」

 

…と、ここで分かれ道になってしまい、続きを聞き損ねた。

 

You tubeの誕生は2005年2月14日、今からちょうど12年前。小学生らが生まれたころだろうか。今から12年後、どんな世の中になっているだろうか。Youtubeは果たして存続しているのか。本日は私の誕生日。ちょっと長生きするのが楽しみになってきた。

 

 

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こんばんは

びにに

『問わずにはいられない』 編集中記

やれやれ、やっとゴールが見えてきた。

学校でいじめや事故などに遭った、21の被害者家族・遺族の方々が、わが子の思い出、教育現場への怒りや提言をつづった自主出版の文集『問わずにはいられない』が、9月20日頃の出版に向けて、現在編集の佳境を迎えている。報道関係に案内したところ、各紙が競うようにして取り上げてくれた。ありがたいことである。


8/8京都新聞 http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/2015080800003

教育関係者や子どもを持つ家庭の保護者だけでなく、「なぜ組織は隠ぺいするのか」という組織論のエスノメスドロジーとして捉えても興味深いのではないか。

この本を手にとったときは、内容だけでなく、表現・言葉の選び方にも注目してもらいたい。
一生懸命書いたのにもかかわらず、編集者・タハラから、これじゃ伝わらんよ、とやんわりと言われて突っ返され、何度もやり直した方が大半である。過去の過酷な体験に向き合うことが耐えられず、筆を折った方も何人かおられた。

巧みではないかも知れないが、まさに、当事者だけが持つ言葉の迫力がある。ぜひ、ご一読いただきたく。

ご希望の方は  に メールに 件名「問わずにはいられない 希望」⒈お名前  ⒉郵便番号 ⒊住所 ⒋希望冊数 を記載のうえ、toiawase@lc-lab.com まで。10月からAMAZONでも販売予定だが、ギリギリしか印刷しないので、確実に欲しい方はぜひ予約を。

  *価格 1296円(税込み)+送料 (1冊の場合300円)

 

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