ブラック派か砂糖ミルク派か、それが問題だ

「コーヒーをブラックで飲むは日本人だけ」というサイトを、いくつか見かけた。これは極論としても、アジア、ヨーロッパにかぎらず、海外ではみんなドバドバ砂糖とミルクを入れているような印象だ(本場アフリカとアラブではどうなのか)。エスプレッソでいえば、これを砂糖なしで飲む人を見るのは、たぶん日本だけだろう。

 

自販機でも、ブラック缶の躍進がめだつ。平成20年代までは、各自販機にブラック缶が1本あるかどうか、ではなかっただろうか。ところが、いまやコーヒー缶が5本ほどあるとすれば、1本はミルク砂糖入り、もう2本が微糖、のこりがブラックといったぐあいだ。健康志向の高まりか。

 

ただし、本当に健康に留意が必要な高齢者層は、圧倒的に砂糖ミルク派である。高齢者宅訪問時のデフォルトは、フレッシュ添えの砂糖入りコーヒー。ときには、砂糖・乳糖類とを入念にかき混ぜたものを供される。そこには、昭和の名キャッチコピー「●●●●を入れないコーヒーなんて」の残り香がただよっている。

 

考えてみればあたりまえだ。日本では、高度成長期まで砂糖は貴重品だった。牛乳を飲む習慣もそのころからで、子どもの栄養不足をおぎなうための学校給食を通じて定着した。大量の砂糖とミルクを入れた高栄養のコーヒーが、当時の人々にとって、どれほどおいしく贅沢に感じられたか想像に難くない。

 

その後、本来のコーヒーの香りや味が楽しめるまで、流通や保存の技術は向上した。だが、人間、出会い頭でおいしいとおもったものが、生涯を通じた味覚の基準になる。

 

ちなみにタハラは子ども時代の記憶から、長らくコーヒーぎらいだった。特に、酸味が強いとされるものを避けていた。が、酸化のすすんだ(つまり古い)豆を当時口にしたのが原因であることに気づき、軌道修正できた。単純なものである。

 

コーヒーをどう飲むかは、その人が、最初にどういう出会い方をしたかによるのだろう。勉強でもスポーツでも対人間でも同じだ。人生を左右するような好き嫌いも、案外単純なきっかけから生じるのかもしれない。

 

白いカーネーションと昭和な日々と

ゴールデンウイークのすぐ後にひかえるビックイベント、母の日。そう「母業」は、世間で最もブラックな仕事のひとつだ。

 

妊娠出産にミルクやりからおむつ替え、弁当づくりにベルマークはり、こどもの送り迎えに近所の付き合い、自分の飯は立って食う。一日平均4時間超、深夜・早朝手当どころか傷病休暇すらもらえぬこの激務。少子化が進むのも無理はない。

  

そのような母の恩は、海よりも深いとしるべし、という教育の一環だったのだろう。昭和40~50年代になるのか、幼稚園から小学生低学年まで、母の日の前後の図工の時間に、ティッシュペーパーでカーネーションを作らされた記憶がある。

 

先生から、ピンクのティッシュを半分に切って重ねたものをわたされる。それをもらったら、まず一センチ幅ぐらいのじゃばらに折る。そのタテ長のまんなかをゴムでとめ、扇を広げる要領で円形にする。そののち、じゃばらの薄い1枚をひとつづつほぐして立て、花の形にする。さいごに茎とおぼしき、はりがね状のみどりの物体と合体させる。カーネーションのできあがり。

 

単純作業だが、私をはじめ、どんくさい子どもには、ハードルが高かった。ゴムの位置を左右対称にしなかったために、いびつな花形になったり、じゃばらほぐしに失敗して、紙をボロボロにしてしまったり。もういちど、ティッシュをもらうはめになるのが、常だった。

 

このように、ピンクのティッシュと格闘するクラスのなかにあって、かならず1、2名、白い花を作っている子どもがいた。お母さんをなくした子である。先生から、ほかとは別に白いティッシュをわたされるのだ。

 

たしかに、亡き母にささげるのは白いカーネーションが、慣習ではある。が、いきなり白ティッシュをわたされた子どもの気持ちやいかに。その配慮のなさが、いかにも昭和的であった。

 

だが、このぐらいでひるんでは、学校でサバイバルできない。小1の時になかよしだったサカシタ君が、ご両親の離婚がきまったときのこと。朝礼で先生の横にひきだされ、クラス全員を前にこう宣言されたのである。

 

「サカシタ君のおうちでは、お父さんがいなくなったから、●●に名前が変わりました。みなさん、今日から●●君と呼んであげてください」。

 

こうした姓変更のおひろめも、ごくフツーの光景であった。なんとデリカシーのない、昭和という時代よ。『めでたさも、中ぐらいなり 昭和の日』。黒歴史を知るタハラは、強くそう思うのであった。

 

パンツ一丁、拳銃一丁、豆腐一丁

「ロシア語のあいさつ教えて」とたのまれ、ドキリとすることがある。ロシア語専攻とはいえ、怠慢な学生であったうえに、習ったのが四半世紀以上前だ。ありがとうは「スパイシーだ」、いいね!は「辛(から)そう」、こんにちはを「ズロース一丁(いっちょう)」などと伝え、お茶を濁している。

 

ズロース一丁、パンツ一丁、拳銃一丁、豆腐一丁。「丁」については、むかしから疑問がある。この助数詞が使われる原理原則が、いまだにわからないのだ。

 

精選版 日本語大辞典によると、丁(挺・梃)は

①鋤(すき)・銃・艪(ろ)など、細長い器具の類を数えるのに用いる

②駕籠や人力車など、乗り物を数えるのに用いる

③ 酒や樽を数えるのに用いる

この定義になんとかあてはまるのは、上にあげたもののうち、拳銃(銃)だけではないだろうか。

 

日本語上級学習者から、丁を使うケースについて質問を受けたことがある。「わからん。とにかく、パンイチ男が右手に拳銃、左手に豆腐を持っている姿をイメージし、暗記せよ」と教えた。が、彼女は首をかしげて「ラーメンは?」。

 

たしかに「へい、ラーメン一丁(いっちょう)!」は日常語だ。一本とられた(一丁ではない)。

 

ちなみに、「本」は細長い無生物をかぞえるらしい。ではカツオの一本釣りは?虫歯3本は?

ますます助数詞の深みにはまっていく。

 

*参考:助数詞「本」のカテゴリー化をめぐる一考察 (濱野・李2005?)

 

 

 

スベる比喩、ウケる比喩(アナロジー)

うーむ。「田舎から出てきた右も左もわからない〇娘を×××漬けする戦略」か。まともに書くことすらはばかられる比喩(アナロジー)である。

 

この発言時、某「デジタル時代の総合マーケティング講座」では、会場のあちこちで笑いが起きたとある。一流大のリッチな社会人講座を受講する、ふところの豊かさと深さを持つ聴衆である。失笑か冷笑か、ただの愛想笑いか。この上場企業役員は「ウケた」と解釈して舞い上がり、場外で炎上した。

 

滑落したアナロジー。おなじく、この会社の戦略自体もスベるような気がする。

 

マーケティングは、いうまでもなく買い手がすべてだ。その対象は、若年層の女性らしい。ところが最終顧客の顔が、一瞬でもよぎらないこのトークである。そんなセンスで立案したコンセプトが、ウケてほしい層に届くとは思えない。

 

会社の謝罪文もズレている。「多大なるご迷惑とご不快な思いをさせたことに対し、深くお詫び」ではない。安全安心であるはずの、学びの場を台無しにしたことについて、一企業として恥じてほしかった。また、主催者もおなじく恥じてほしい。市井の講師の立場からおもう。

 

で、本題である。アナロジーには、興味関心やバックグラウンドが、すべて出てしまう。使う語彙(ごい)が、その人の教養の範疇を出ることはないからだ。

 

動物好きは動物、スポーツ愛好者はスポーツ。私自身は、乗馬の経験があるので、つい、ウマの話に走りそうになる。だがいかんせん、競馬ファンも含めてウマ好きは多くない。このように、聴衆とに共通項がとぼしそうな題材は要注意だ、

 

昭和の講師は「ネタに詰まったときは、野球とマージャンとゴルフのたとえ話」といわれていたらしい(団塊の世代の必修項目)。行動の基本が個となったいまでは、なにがいいだろうか。

無難なところは食べ物。あと、コンビニ、銀行、スマホいじりなど、公共・半公共の場での人間のふるまい、か。

 

コツは、いいことは人の話、失敗談や滑稽談は、全部自分のせいにすることだ。言われたらどんな気がするか、違和感をチェックできる。なにより、他人を傷つけない。

 

たとえば冒頭の例を「右も左もわからない〇〇のオレを××新地にどっぷりはめた、アノ戦略」などと、ご自身を例に置き換える。世間様に通用するアナロジーかどうか、身に染みてわかるだろう。品位を下げるのも、自分だけですむというものだ。

 

 

学(まね)びの季節

コロナに振り回された日常が戻った、というよりは、コロナに慣れざるをえない2022年、ようやく新入社員研修がリアルに戻ってきた。5月いっぱいはこうした研修が続く。

 

やはり、講師にとってはリアル研修の方がありがたい。オンライン研修では、反応がつかみづらい。特に新採の場合は、ちゃんとついて来てくれているのか心配しつつ、見えにくい画面に目を凝らしつつ、ひとりオーバーアクションでしゃべる。孤独な作業であった。

 

対面する新入社員に対して、今年も、官民・業界を越えた、なんとなくの傾向を感じている。

 

びっくりするほど素直だ(少なくとも表面的には)。もちろん、自己承認欲求全開の「構ってちゃん」とか「みんな違ってみんなよい」多様性の誤認型はいる。そうしたタイプも含めて、総じて、前向きで元気であるとの印象を受けた。

 

ただ、年齢の乖離とともに、当方の「常識」が通用しなくなっている。表記ひとつをとっても「こんにちわ」を当たり前に使う(正しくは「こんにちは」。念のため)。また、ウルトラ性善説なのも心配だ。人とのコミュニケーションに、マイナスのイメージをもつことが難しい。笑顔で対すれば何とかなると思っているようだ。

 

真っ白で、のびしろいっぱいの新人。ローレンツ博士を慕った赤ちゃんガチョウのように、職場のすべてを全身で吸収し、そのカラーに染まりながら育っていく。

 

彼女彼らの配属先となる、先輩社会人のみなさん。ちゃんと学びの手本となる準備はできているかな?話し方や聴き方、ー挙手一投足を注目されるだろう。いいことも悪いことも、すぐにマネされるぞ!

 

メイド・イン・ジャパンのジレンマ

最近、着物にハマっている。

 

必要に迫られ、、なんとかひとりで着られるようになったのがきっかけだ。ハマるといっても、若いころあつらえたり、譲り受けたりした「おふる」を、着用可能か吟味しているレベルだ。 

新品の仕立てまでには、とてもいたらない。

 

反物からあつらえると、普段着でも数十万。よそいきだと、気合が入った帯や草履などとそろえると、2000CCクラスの国産車が買えるほどになる。まったく、シャネルやグッチなど海外ハイブランドの値段がかわいく思えてしまう。

 

というわけで、着られるおふるを選別している。虫食いや変色品、顔うつりの悪いものを処分。こうしたNG組のなかの古い襦袢(じゅばん)を解体してみた。

 

布は羽二重(正絹/シルク)なのだろう、薄手ながらずっしりした風合いで、なめらかさを失っていない。ミシンかと思われたミリ単位のステッチは、すべて手縫い。脇や裾にある生地の縫込みは、体型変化やオーナーチェンジによるリユースに備えたものだ。

 

細やかな手仕事ぶりに驚嘆する反面、21世紀のいまではオーバースペックであるという気もする。これじゃ気軽に洗濯にもだせない。襦袢はあくまでも下着で消耗品なのに。

 

ところが、呉服業界は、襦袢をはじめ、シルクや麻など天然繊維の手縫いを、現在でも主力商品としている。だからクルマ並みの価格帯になるのだ。ただしコスト削減のために、いまや原料を中国に、縫製をベトナムやインドネシアにたよっているときく。

 

原料と生産が国内でまかなえない状態で、正絹や手縫いの伝統にこだわるのはなぜか。高額品としてのブランドを保つためか?海外ハイブランドのオートクチュールが、シルクや手縫いに固執しているという話は聞かないが。

  

こだわりスペックで価格が高止まりし、売上が低迷する。利益率を確保するために、やむなく海外生産へシフトする。これに逆比例して、国内の生産者や技術継承者は減っていく。イノベーションも生まれない。旧態依然の商品にたいして、さらにマーケットが縮小する。

 

まさにメイド・イン・ジャパンが直面する悪循環。ハレの日の高額品として、生き残る道を選んだキモノの運命やいかに。

 

ポーランド語とロシア語とルンバ君

この1カ月間、不覚にもブログで沈黙してしまった。

 

ウクライナとロシアは、ともに学生時代に立ち寄ったことのある場所だ(当時はソ連邦)。今年に入って、その関係にきな臭さが立ち上っていたものの、まさか全面戦闘状態に入るとは。どう出口戦略を見出すつもりなのか。

 

気分が重い。うちのお掃除ロボット・ルンバ君から話をスタートさせようか。

 

ルンバ君は語学の達人で、15,16か国語をこなす。最初は「電源が切れました」などと日本語でしゃべっていたが、あちこちいじくっているうちに、どんどん言語が切り替わっていってしまった。今しゃべっているのは、たぶんポーランド語である。その前はロシア語だった。

 

この2つは言語として、とても近いらしい。使っている文字は違う。ポーランド語はアルファベット、ロシア語はキリル文字だ。文章を一読してもピンとこないが、話し言葉だとだいたい意味が通じちゃう、という間柄のようだ。

 

ウクライナ語とロシア語はもっと近い。標準語と標準関西弁ぐらいという人もいる(バラエティ番組の司会と吉本芸人とのトークぐらいか)。そして同じキリル文字を使う。だから大国ロシアは「内政問題」と捉えているのだ。

 

だが話せばわかる間柄なら、なんとか話し合いで解決できなかったのか。「国々の衝突(戦争)が進歩をもたらす」といった学者もいるが、今の戦争はなにものも生み出さない。

 

かつて米軍の地雷除去ロボットだった、ルンバ君の華麗な転身ぶりをみるがいい。iRobot社が昨年発表した売上高は全世界で 14 億 3,040 万ドルで、前年比プラス18%以上。ちなみにうちのルンバの生まれは中国。多くの国が平和的にかかわってこそ、新しいものが生み出せるのに。

 

 

ターゲティング広告のナゾ

「監視されているのか!?」「盗聴されたか!」。FBやウェブサイトなどのターゲティング広告をみて、そう感じる方も多いのではないだろうか。私もそのひとりだ。

 

最近あった例を挙げてみる。

 

1 有名皮革メーカーのバーゲン会場でアルバイトした知人と、お茶を飲んだ。ご婦人方の靴・バッグ争奪戦ばなしに大笑い。それから数日間、なぜかFBでそのメーカーの広告がつづいた

2 マッチングアプリの「いいね!」数について、電話で知人からの長い自慢話をきく。それ以降、『中高年マッチングサイト』の広告表示が、FBやウェブサイトでやたら目につく

3 家電の設置に来た業者から、外壁塗装をすすめられる。その後、外壁塗装の広告があらゆるウェブサイトに顔を出すようになった

 

スマホやタブレット、パソコンは盗聴器、監視カメラなのか。そして関係各所に情報を提供しているのか。ほかに原因はないのか。

 

3については、業者が原因とにらんでいる。外壁塗装見込み客の登録リストが、なにかの拍子に漏えいしたのではないだろうか。

 

2は、キーワード検索や位置情報からターゲットになった可能性はゼロ。だから、類似ユーザーターゲット+因果関係の取り違え、をうたがっている。

 

つまり、広告は、年齢などの属性情報などをもとに、もともと表示されていた。それをスルーしていたのだが、知人との話をきっかけに、その手の広告に注意がむくようになった。認知の問題、という説である。

 

1については、正直なところ、まったくわからない。

 

年齢など属性情報からの広告だとすれば、ピンポイントすぎる。そのメーカーの購入歴もなければ、検索履歴などもない。そもそもインターネットで靴やバッグは買わないから、この分野の広告表示自体がないといっていい。×ユーザー情報、×コンテンツ情報、ナゾは深まる。

 

そして、わたしにとってターゲティング広告最大のナゾは、本の広告がほとんど表示されないことだ。検索回数とネットでの購入頻度は群を抜いているし、金額もコンスタントに高い。優良顧客なのに、無視されている。AIにやる気がないのか。

 

ちなみに、アマゾンのAIはなかなかのポンコツで、購買歴のある本を、くりかえしおすすめしてくれる。

 

AIよアルゴリズムよ、ちゃんと私の嗜好をよみとってくれたまえ。聞こえましたか? 

アナログへの誤解

「うちの会社はアナログですから」。

 

電気分野で独自技術を持つ、優良メーカーのトップからそういわれたときには、面食らった。が、次の瞬間、ああそうかと納得した。

 

アナログとはもともと「数値を、長さや角度などの連続する物理量であらわすこと」だ。水の流れに例えられる連続性は、電気の性質そのものだ。これを「アナログ」といわずしてなんといおうか。

 

とはいえアナログには、古臭い、前時代的な、なんてイメージがつきまとう。それはなぜか。

ひとつは、時代錯誤をあらわす「アナクロ」の影響だ。語感がよく似ている。

 

もうひとつは、ライバル語「デジタル」のせいだ。

 

20世紀の中ごろまでは、電圧の強弱で信号を伝えるアナログコンピューターが主流だった。その後、二進法のデジタルコンピュータが出現。時計にもこの考え方が適用され、アナログは駆逐された。ここからおそらく、前時代vs現代というイメージが生まれたのだ。

 

ただし、アナログコンピュータは今でも存在する。スケジューリングや医療用画像の解析など、多くの変数を必要とする分野は、デジタルコンピュータはむしろ苦手。最適解が決定できないらしい。そこを託すべく、現在、アナログコンピュータの開発がすすめられている。

 

そういう意味では「アナログ人間」とののしられたときには、にっこりと笑って「ありがとう」と返すべきなのだ。ただし「アナクロ野郎」に対しては、憤怒してよい。まちがえないようにね。

 

エントリーシートと論文は違いますです

先日、師匠筋が、いつもの文体をわざと「です・ます調」にしていた。その違いがけっこう強烈でおもしろかった。名文でマネをしてみる。

 

●吾輩は猫である。名前はまだ無い。

 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。

 

いわずとしれた、夏目漱石『吾輩は猫である(1905-07)』である。今から100年以上前の文章なのに、注釈なしでほぼわかるのがすごい。

 

これを、ですます調にしてみる。

 

○吾輩は猫です。名前はまだありません。

 どこで生まれたか、とんと見当がつきません。なんでも、薄暗いじめじめしたところでニャーニャー鳴いていたことだけは記憶しています。吾輩はここで始めて人間というものを見ました。しかもあとで聞くと、それは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうです。

 

後者○に違和感はないか?あるとすれば、それはまず「吾輩」にただよう、上から目線の一人称と、低姿勢な文体のミスマッチでではないか。「私」「ぼく(オスなので)」に修正したくなる。「オレ」でもちょっと合わない。

 

つまり、ですます調にしたとたんに、ひとりごと感、がなくなるのだ。読み手を想定した「読んでいただく」文章に様変わりする。

 

結論、読んでもらいたかったら、エントリーシートはですます調で書こう。

 

え?学術論文は、教授によんでいただくのに、である調だって?そりゃそうだよ。ですます、はいわばお飾り。粉飾された文章を、えんえんと何十枚も読んでごらん、うっとおしくて内容が頭に入ってこない。

 

 もうひとこと。句点はカンマ(,)、読点はピリオド(.)ではなく、点(、)とマル(。)でよろしい。

 

論文がこれを強いられるのは、昭和以前の昔、公文書に和文タイプを使っていたことが元になっているそうな。タテ書きのマス目の右上に「。」や「、」を設定するのは、技術的に至難の業だったらしい。

 

だから「君、カンマとピリオドを使うのが常識だよ」と卒論修論博論のチェック時にエラそうに注意されたら、「それって尾てい骨とか、シーラカンスと同じですかね」と言い返したまえ。

 

*参考

公用文の横書きのコンマ、時代遅れ?68年後の見直し案 朝日新聞デジタル2020/12/27

 

パソコン(スマホ)病

肩こりに目のつかれ。パソコン(スマホ)病は数々あれど、漢字のド忘れは深刻だ。添削業務では、手書きがベターである場面もまだまだ多いので、ド忘れは非効率である。

 

だが、副産物もあった。漢字が多い手書きは読みにくいと悟ったのだ。「よろしく」「宜しく」「夜露死苦」、いずれが読みやすいかは、いうまでもない。機械入力であっても、ウェブではキーワード以外には漢字を使わない方がいいかもしれないとさえ感じている。

 

ところが最近、英語のつづりでも、同じ度忘れをおこしていることに気づいた。感謝するはapriciateだったかappreciateだったか、ハサミのつづりはじめはsからcからか。つづりを入力しかけると、機械が正しい単語を表示してくれることに慣れすぎた。

 

お礼ハガキ程度の文面が進まない。漢字と違い、ひらがなという別選択がないのでやっかいだ。読み返した結果、修正液に登場いただくことだってある。

 

その点、19世紀以前の英語は、おおらかだったようだ。つづりの間違いはあたりまえ。それが発音を変化させたり、逆に発音の間違いがつづりに影響したことも多いらしい。oftenでtを発音する人が意外に多いのも、そのなごりといわれる。

 

さて21世紀に生きる自分はどう対処したか。スマホに話しかけてつづりをチェック(滑舌が悪くいっぺんで聞き取ってもらえないこともあり)。画面の文字を、せっせと紙面に移した。

 

Google先生のいらっしゃる現代は、スペルミスに不寛容な時代でもあるのだ。

 

英語の特徴のいろいろ(2) 能澤正雄(2003)

 

いいかげん

とある近所の飲食店の貼り紙を、いつも楽しみにしている。

 

『入院中のおばの見舞いのため、夜のみの営業とします』『腰痛のため、休業します』『スタッフ補充のめどが立たないため、席を間引いています』

 

なにがおもしろいか。期待をこえる情報を盛り込んでしまう、旺盛なサービス精神(ご本人にはたぶんそんなつもりはない)がである。

 

顧客がもとめているのは、「店が」「いつ」開いているかである。入店するか、断念するかの判断材料にしたいからだ。「店主が」「なぜ」は、ほとんどの顧客にとってムダ情報。そこにあえて力点をおくズレ方に、おかしみを感じてしまうのだ。

 

情報は、多ければ多いほどよいのではない。文章を書くことは、「書かなくていいことはなにか」を考えるのと同意義であるといっていい。絵やイラストもそうだ。

 

採用時のPRだって同じである。何を伝えるとより効果的か、加減乗除しながらいいかげんに調整する必要がある。

 

そこで、シューカツ生さんへのアドバイス。まず「自分らしさ」を知ってもらうという、主目的を忘れないこと。エピソードの伝達自体が目的ではない。また、あれもこれもとよくばりすぎると、「結局キミ、どんな人なの?」になってしまう。

 

採用側の方々へ。こと大企業に関して言えば、トレンドワードのSDGsをPRの主役にしないほうがいい。やって当たり前の話で、自社の差別化にはなりにくい。なにより「御社の、社会持続可能性をさぐる企業姿勢にひかれました」と、つかいまわしのセリフを、学生さんらからえんえんと聞かされるハメになりますぞ。

 

働き方改革の目指すもの

働き方改革とかけて「残業縮減」「DXの推進」ととく。そのココロは「組織の存続(短期的には’競争力の向上’)」。多くの企業の解釈はそれだ。

 

だが本来この解釈は正しいのか?旗振り役である厚労省のHP『働き方改革の目指すもの』をみてみよう。

 

我が国は、「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」などの状況に直面しています。(中略)

「働き方改革」は、この課題の解決のため、働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています。

 

わかりにくい文章だなぁ。願望と目標、目的と手段と結果がごっちゃになってぼやけている。

どうやら、「生産年齢人口が減少」→「育児や介護など家事労働が現役世代を圧迫」→それを「働き方改革」でなんとかせい、という図式のようだ。

 

ツッコミどころは以下のようなところか。

 ・「育児や介護の両立」は本当に「多様なニーズ」か。ニーズというよりは、今まで見ないでやり過ごしてきたものを、しゃーなしでスポットを当てているだけだとおもうが

・「より良い将来の展望が持てる」が、なぜ「目指す」ところになるのか。単なる副次的効果じゃないのか

 

つまり翻訳すると…労働力人口の減少により一人に求められるマルチタスクの本数が増えるから、みなさんは「多様な働き方」をしてね。そうすると我が国は「より良い将来の展望が持てる」から、ということだ。

 

なんのことはない。働き方改革とは官民挙げての『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』マンパワー編であった。みんなで幸せになろうよ、というメッセージが感じられないのが哀しい。厚労省の英訳は「健康と労働、豊かで幸せになる省(Ministry of Health, Labour and Welfare)」なのに。

 

視覚・聴覚・体感覚

自分の中に情報を取りこんで習得したり、取り出して表現したりするときの感覚経路の代表格は視覚、聴覚、体感覚だ。ただし、どの経路を優位に使うかは人によってさまざまらしい。

 

タハラはといえば、情報を習得するときは、聴覚優位である。小さいときから目が悪かったことが影響している。

 

小学校の高学年には、教室の席が2,3列目より後ろになると、黒板が見えづらい状態だった。かといって、眼鏡はかけたくない。前列移動を志願して、チョークの粉や教師のツバキを浴びる覚悟があるほどまじめでもない。板書はあきらめるとしても、サボっていないぜアピールが必要となる。そこで、聞き書きすることが常となった。

 

耳に残った語を拾って、〇や△や→でとりあえずつなぎ描くのが私のノートだった。ほとんど暗号だとよく教師におこられたが、今からおもえば「思考の視覚化」である。小学生のくせにエライ高度な技をつかっていたことになる。すなおに黒板を写した方がよっぽど楽だったろう。

 

おかげさまで、情報のインプットは聴覚優位、アウトプットは視覚優位となって定着した。

 

苦手だったのが体感覚、つまり手を動かして体で覚えることだ。漢字の百字練習や英単語の書き取り訓練にいたってはほとんど罰ゲームに感じられた。あんなことをして覚えられるわけないだろう、と成人後に恨み言をいうと「そういう感覚が信じられない」と多くの人に返されたのには驚いた。本当に人それぞれなのだ。

 

学習のやり方やペース、そして表現の方法はそれぞれ異なっている。大切なのは「人はみな違う」という前提に立つことだ。特に伝える側は、教室でも仕事場でも、相手がどういうタイプなのかよく観察する必要がある。自分のやり方を押し付けちゃいけない、としみじみおもう今日この頃である。

 

坂本龍馬≒空海説

タイトルを見て「なるほど、義経がジンギスカンになるよりは、空海が坂本龍馬に輪廻転生していた方がまだ可能性は高いか」と早合点しないでいただきたい。このヒーローたちには意外な共通点があるという意味だ。

 

それぞれの活躍の年代は1000年以上へだたっている。一方で、四国出身で(山脈を挟んで北と南に分かれているが)かつ諸国を行脚しているという点がまず同じである。

 

空海の活動時期は8世紀末から9世紀初頭。讃岐国(四国)で生まれ、平城京~九州・博多から船で唐・長安(中国・西安)へ。そして帰国後、都で権力者たちと調整を図りつつ、高野山(和歌山)に寺を建てた。その合間に修業を積んだり、ため池と作ったりと、近畿・中国・四国地方など西日本に神出鬼没(即身成仏の身であられるが)している。

 

対して坂本龍馬は同じ四国でも、幕末の土佐郷士。1年ほど江戸に遊学したのちに土佐に戻るものの脱藩。以降、江戸~京都を行ったり来たり、あるいは長崎で商社を設立したり婚姻記念に宮崎に足を延ばしたりと活動範囲は広い。蝦夷地(北海道)の開拓も夢見ていたというから、もう少し長生きしていたら北は北海道から南は琉球まで、日本縦断は間違いなかっただろう。

 

もうひとつの共通点は、エピソードの多さである。

 

空海が中国留学中に投げた独鈷が飛んできた、という高野山の由緒は有名だ。政府の肝いりでため池造成に励むかとおもえば(農水省のHPのお墨付きである)、口と両手両足の五筆で書を記すわ、ライバル僧を呪詛で妖怪に変えるわ、大昔の人だからエピソードもやりたい放題だ。

 

だが龍馬だって負けてはいない。新婚旅行の始祖であり、FIRE組(=脱藩者)希望の星でもある。薩摩藩などの協力で設立した亀山社中(のち海援隊)は、日本初の株式会社といわれている。そしてもっとも名高い功績が、「薩長同盟」と新政府のビジョンを示した「船中八策」である。が近年、この2つをはじめ、明治維新に対する龍馬の貢献度合いに疑問符がつけられているらしい。

 

とすると、ひょっとしたら空海同様、龍馬も同世代と後世の人たちが作り上げた、ひとつのアイドル(偶像)なのかもしれない。

 

「遠くから来たエライ坊さまがこんなことをなさったらしい」「ホウホウ、それはきっと空海さまとおっしゃる方じゃ」、こんな感じで弘法大師伝説が成立していったように、志なかばで倒れた、多くの名もなき若き土佐の志士のエピソードが「坂本龍馬」として結実したのか。

 

11月15日は龍馬の誕生日&命日である。高知に残されたあちこちの足跡を見ながら、そんなおもいにかられた。 

話し上手と筆達者

得意=苦にならない+その分野でのアドバンテージがある、と定義しておく。世間を見ると、話すことが得意な人と書くことが得意な人では、人種が違うなあ、と感じることが多い。

 

昔々は司馬遼太郎のファンだった。が、ひとたび講演や対談となると、聴講中寝落ちするのがオチだった。文章であれほど滑らかにしゃべることができる人が、ひとたび肉声にのせると、どうしてあんなにつっかえるのか。

 

長じて、やや有名人のインタビューをまとめる仕事をしたが、ほぼ例外なく同じ感想を持った。あれだけユーモアあふれる作品を生み出す人たちが、なぜこんな四角四面な話しぶりなのかと。一方で、アナウンサーやタレントの魅力あふれる話を要約したら、たった1、2行になってしまうこともよくあった。(インタビュアーが下手クソだからという説は却下)

 

現在でも、筆達者な人々とは、おしゃべり自体が好きか嫌いかは別にして、電話で話すより、チャットでやり取りを優先する。逆もまたしかりで、講師仲間では、電話やZOOMなどがコミュニケーションの主体になる。そしていずれも、相手が得意な方法にゆだねた方が、やりとりに齟齬を生じないのだ。

 

頭に浮かんだことを文字(や絵)に移す作業と、瞬時に音声言語にのせる表現するのとでは、活動する脳の部位が違ったとしても不思議はないとは感じる。そのとき、一方の部位の活性化が、もう一方を抑制することに働くのか?それとも単に本人の怠慢で、一方のコミュニケーションで事足りるから、他方を手抜きするのか?最新の認知言語学の知見を問うてみたいところである。

 

シナリオ・プランニングとしての論作文

シナリオ・プランニングとは「将来起こり得る未来のシナリオを複数描き、それに基づいて戦略を導出していく手法のこと」である。近年では戦略的思考法の一つとして各方面に定着した感がある。

 

実は当研究所でもシナリオ・プランニング研修を裏メニューとして持っている。ファシリテーションを中心に、模造紙だのを囲んでみんなワイガヤする研修なので、コロナ禍の今は休眠中である。(巷ではオンライン研修でも開催)

 

ただ、そうしたワイガヤ手法を取らなくても、ひとりでも未来に思いをはせることはできる。

作文を書けばよい。

 

そもそも文章を書く目的は、「自分の考えを他人に知ってもらうこと」である。となると、例えば『●年後の日本』だと、●年後の日本に対する自分のイメージを、形(言葉)にしなければならない。言葉にするには、自分なりにいくつかの●年後像を具体的に描いておく必要がある。そのためには、予測データを見ながら、「いま」の行く末をしっかり観察することを迫られる。

 

つまり作文とは、ひとり脳内シュミレーションの発表の場なのだ。

 

これをシナリオ・プランニングに応用=ひとりひとりのシュミレーションを複数のシナリオに収束させるとすると…例えば、組織内で『●年後の日本』などといった統一テーマで作文を書く。その後、メンバーで話し合いをしながら言葉に(図式化)し、共通イメージを描いていく。こうすれば、未来に対する組織の共通認識を作ることができる、かな?

 

これならオンラインでもできそうなので、新・研修メニューとして導入を検討してみよう。

 

*参考 キリンホールディングスHP

 シナリオプランニング 4つのシナリオ

「くださる」vs「いただく」

就活生さんからの質問。「オンライン面接のメールでのお礼は『先日は面談くださいまして』『先日は面談いただきまして』、どっちがいいいんでしょうか?」

 

正解は(そもそも言葉遣いに正解なんかないと思うが)「どっちでも、好きな方に」である。ただし、ニュアンスの違いはある。

 

もともとの意味は

①~ください(る)=(相手が)くれる

②~いただく=(こっちが)もらう 

なので、いわゆる主語が違っているのだ。

 

たとえば

①’「ご来店くださる」②’「ご来店いただく」では

①’は(客が)来店する

②’(こちらが客に)来店してもらう

という感じだ。

 

敬意表現という観点では

①~くださる、は相手の動作なので「尊敬(客を上げる↑)」

②~いただく、はこっちの動作なので「謙譲(こっちがへり下る↓)」

の類いになる。

 

ますます、ややこしくなってきた。

 

そのために「ビジネスでは謙譲表現②『~いただく』を使うように」と、のたまうマナー講師も多い。

 

ただし、へり下り過ぎたるはなお及ばざるがごとし。究極の謙譲語?「させていただく」は、相手に有無を言わせない強制力を持つ。「実家に帰らせていただきますっ!」は家出するときの決め台詞だもんね。

 

*参考 「教えてくださり?」「教えていただき?」NHK放送文化研究所

 

 

「ハレンチ(破廉恥)」という法律用語

「独逸国領事勤方ファバー氏に邂逅し忽抜刀追逐して兇殺せし段甚以不届之儀に付破廉恥甚を以て〈略〉斬罪申付候事」。おお、明治7年9月の太政官達第120号として発せられた法令(死刑執行命令書)に「ハレンチ(破廉恥)」が登場している。

 

辞書によると、ハレンチとは「廉恥(恥を知る)心を破る」ということ。人の道に外れた行い、という意味らしい。しかも、現代においても「ハレンチ罪」は立派な法律用語のようだ。『道義に反する動機・原因によりなされる犯罪。殺人・詐欺・窃盗・放火・贈収賄など』という定義まである。

 

それにしても冒頭の執行書、人殺し自体が道に外れた行いであるのにもかからわず、わざわざ「ハレンチ」などと書き込んだ意図は何か。ふと性的な殺人動機が頭をよぎるのは、70年代の漫画『ハレンチ学園』の影響が大だろう。

 

ただし、最新の在留外国人向け日本語手引書のただし書きを見ると「ハレンチはあまり使われない単語」だそうだ。言葉は世につれ変わっていく。 

いじめ保険

LC研究所設立前のタハラの前歴は、実は、生命保険会社である。某公営放送の朝ドラの主人公が設立した会社だ。

 

広報畑が長いうえ、ちょうど在席10年でお払い箱になったので(いわゆるマタハラ退職)、保険屋さんらしいことはほとんどしていない。保険料算出の原理ぐらいは説明できるものの、どんな保険商品が世間にあるのか、百花繚乱、見当もつかない。

 

前職の記憶うすれゆく今、仰天の保険を発見した。いじめ保険である。正確に言えば、いじめをはじめとする家族のトラブルに関わる弁護士費用を、カバーするらしい。2019年つまり令和元年5月の発売だ。いじめの認知件数が対前年比112.6%増の61.2万件と、過去最高に跳ね上がった年である。

 

2020年度資料しか手元にないが、小中高学生の数はあわせて1260万人ほど。ということは、こどもの20人に1名ぐらいは、いじめのターゲットになっているということになる。残念ながら、ニーズとしては十分にありそうだ。

 

なんともはや、背筋が凍る話しだが、考えてみればあたりまえかもしれない。こどもの世界は、大人世界の縮図だからだ。

 

みわたせば、コロナ禍で正義を振りかざし、他府県ナンバーを取り締まる自粛警察、医療従事者を誹謗中傷する輩。TVをつければ、チームメイトに暴力をふるい移籍させられたスポーツ選手が、日を待たずに公式試合に出場している。国民栄誉賞を受けたOBが、それを激ボメするというポンコツな美談までつく。

 

イジメ礼賛を公然とみせつけて「いじめはよくない」と、大人のどの口が言うのか。ダメだこりゃ(故・いかりや長介風に)である。

 

※補足

2019年のいじめ認知件数の爆上がり原因は、おそらく、その3年ほど前に施行された『いじめ防止対策推進法』が、全国的に実行フェーズに入り、元来「なかったこと」にされていた案件があらわになったことが大きいと考えている。必ずしも、いじめ件数が爆上がりしたというわけではないと思いたい 

 

宴のあと

東京オリンピックが終わった。

 

このたびは運営の在り方など、むしろ場外にスポットライトが当たってしまった感があるが、オリンピックの主役はあくまでも選手のはずだ。トラックやコート、プールで輝く一瞬のため、選手たちは命を削るような練習を重ねる。

 

そんな鮮烈な体験を味わった後の長い長い「余生」に、選手たちを待ち受けているものは何か。1964年のオリンピックの焦点を当てたルポルタージュが、『東京五輪の残像(中公文庫2020年)』である。高度経済成長の真っただ中、日の丸を背負わされたそれぞれの重圧は、計り知れないものがあっただろう。

 

ステイホームでオリンピックロスに悩むあなたに、ぜひおすすめしたい一冊である。

 

ネガ語→ポジ語 変換で悩む貴兄に

「ネガティブな言葉をポジティブな言葉に言い換えて相手に伝えよう」という考え方が提唱されて久しい。「八方美人」を「人あたりがいい」、「能天気」を「いつでも前向き」と表現する感じである。

 

ただ、伝える側の語彙、あるいは受け取る側の言葉の知識が追い付かないために、かえって解釈をこじらせるケースがある(特に上司→部下)。ならばいっそ、伝えるときの表情や声のトーンに気を付けてストレートに伝えようよ、と以前ブログでお伝えした。

 

これに加え、今回は「日常的に否定表現を使わない」を提案したい。この「日常的に」がポイントである。みなさん、以下のような話しグセはないだろうか?

 

1「どうかなぁ」「そうだろうか」など、意味なく懐疑的なあいづちをうつクセ

2「いや、」「だけどね」などの否定表現で、話の口火を切るクセ

3「~はダメですね」「~できませんよ」など、できないことを強調する言い方になるクセ

 

こんなこと始終部下にやっていたら、言いたいことも言えなくなってしまう。対お客さんだったらイライラしだすぞ(タハラには、2の傾向が若干ある)。

  

1については、「なるほど」「そう考えているのか」と、とりあえずニュートラルに返し、疑問点は後でまとめて聞く。2は、絶対禁止。3は「~はOKです」「~だと大丈夫ですよ」と許容範囲を例示する言い方だと、受け入れられやすい。

  

書き言葉でもそうである。この間とある自治体のHPで、典型的なネガ表現があった。

 

・第5回接種は、●月●日以前は受付けません。

 

これをどう書き換えたら、よりわかりやすいか?みなさん、頭の中で変換練習してみよう。

 

もしも『一杯のかけそば』が「すうどん」だったら

ひさびさに関西脱出、「そば・うどん」の看板を見かけての雑感である。地元だと「うどん・そば」の順番が主流である。

 

バブル期の記憶があるアラフィフ世代以上なら、名作『一杯のかけそば』を覚えておられよう。舞台は大晦日の札幌の蕎麦屋で、その主人・女将と、客である3人の母子の交流を描いた短編である。「お母さんもお食べよ」と、一杯の年越しそばを身を寄せて分け合う、つつましやかな母子の様子が日本中に感動を呼んだ。

 

実は、関西育ちのタハラは「かけそば」なる食品がよくわからなかった。要は、何ものっていない温かいそば、で納得したものの、同時に冷たいVer.の「もりそば」なる存在を知り仰天した。「ざるそば」との違いは海苔の有無だという。そんなことで値段に差異を付けるセコさよ。ひょっとして、かけそばにはネギすらないのか。

 

うどん文化の関西であれば、かけそばよりも「すうどん」が鉄板である。もちろん、ネギはデフォルトだ。そもそもネギやショウガ、天かすはテーブルの上などにおいて入れ放題にしておかないと、客から苦情がでよう。

 

―テーブルの上の、1杯のそばを囲んだ母子3人の会話が、カウンターの中と外の2人に聞こえる。 「……おいしいね……」 「今年も北海亭のおそば食べれたね」―

 

物語のなかの心温まる会話。関西版「一杯のすうどん」では、こう変わるかもしれない。

 

「ちょっと●●ちゃん、そこにある天かすをスプーンですくってドバっとかけてから、そろーっとこぼれんように箸で汁にまぜこんで。そうそう。それからネギや。ミニトングでガッとつまんでうどんの上にドカッと三角盛りにするねん。これで母子3人分のカロリーとビタミン確保や!」

 

感染予防対策としてのケガレ祓い

ちょうど夏越の祓(なごしのはらえ)をはさんで、身内の祝い事と不祝儀をたてつづけに経験した。両者の基本思想は、ともに「清める」。特に後者は「ケガレ祓い=感染予防対策」なんだなあ、としみじみ感じた。死者がどんな病原菌をもたらすか、わからないがための先人の知恵である。

 

平成初めにあった祖母の村の葬儀では、田原家の門戸に「忌」を貼られ、全親戚が本当に7日間の出禁を食ったことを思い出す。緊急事態宣言発令である。

 

次に、家のかまどを封じられた。煮炊きは一切禁止で、近所の人が公民館を借り切って、炊き出しをしてくれた(正真正銘の肉なし精進料理だった)。身内だけの食事ながらも、できるだけ言葉を発してはならぬというお達しである。こうして、食事作りと会食による感染拡大を防ぐというわけだ。

 

また、戸口で精進料理を受け取るのは、孫や子など、家の中で一番若い人間、つまりワクチンの優先順位の低い層である。受け渡しのあとは、村人はかならず玄関の外にある盛り塩を踏んで帰っていった。今でいう出入りの際のアルコール消毒であろう。

 

もちろんわが家を含め、令和の葬儀の多くはもっと合理的になっていて、清め塩や通夜の線香(腐敗防止と防臭)に、感染防止の名残をとどめるのみである。初七日は告別式の当日おこなうし、四九日までの期間(神道の場合は五十日らしい)も、よほどのやんごとない家でない限り、禁足はないはずだ。

 

一方で、今でも旅行などの不要不急のイベントは延期する家もあるようだ。ただ、不祝儀のもともとのいわれが感染予防なのであれば、気持ちの折り合いさえついたら、わざわざ自粛する必要はないともいえる。国家行事のオリンピックだって、感染予防すれば開催できるらしいしね。

 

コレラ予防接種の思ひ出

平成もヒトケタ台の今は昔。アフリカ旅行を企てたとき、コレラの予防注射をしたことがある。

 

アフリカ大陸への渡航には、黄熱病とコレラの予防接種が必須であった。黄熱病といえば、子どもの頃『ポプラ社 子どもの伝記』で読んだあの野口英世。その命を奪った、おそろしい病である 。

 

一方で、コレラは私にとっては、なじみのある病名だった。大学時代、夏休み明けの学食で、こんな掲示板をよく見かけた。「××語科の●●さんに接触した人、すぐさま保健センターに申し出てください!!コレラ感染の可能性があります」。今となれば、個人情報への配慮のカケラもない注意書きである。

 

さて、接種パンフによると、黄熱は生ワクチンで、コレラは不活性ワクチンとあった。生ワクチンとは生きたままの菌を体に植え付けることだ。なんと恐ろしげなひびきであろうか。おまけに最低4週間あけなければ2回目の接種ができない。コレラも2回以上の接種が求められるが、1週間程度の間隔でよい。そこで、軽・コレラ→重・黄熱の順でワクチンを接種することになった。

 

コレラ接種の初日、隣県の果てにある接種センターにたどり着いた。ベッドがある広い診療室でかたち通りの問診を受けた後、医者はまくり上げた私の左腕のなかほどにズブリと針を刺した。とたんに「今、菌が静脈に侵入、体の中心に向かっております」という感覚が生じ、菌が進むたびにその部分が、重く、だるくなっていくように感じた。針が抜かれたときには、腕の付け根まで違和感が広がり、腕を持ち上げるのもおっくうな状態であった。

 

帰宅後さらに状態は悪化し、夜になると腕は太ももぐらいの大きさまで腫れあがった。触れると飛び上がるほど痛い。寝るときは体の右側を下にしなければならない。熱も37.5度近くまで上がった。接種でこれとは、実際にかかったらどんな具合だろう、と布団の中のぼんやりした頭で考えた。

 

熱は翌日にはひいたが、左腕の腫れとしびれは数日間残った。経験者に聞くと、コレラ接種で何ともない人は少数派で、38度を越える発熱はザラ、なかには脱水症状を起こして救急搬送される人もいるそうだ。

 

なんとかやり過ごし、しばらくして戦々恐々のコレラ2回目を接種。続いて、ラスボス黄熱を接種したが、とんと記憶はない。おそらく、大過なくすんだのだろう。

 

今月末から、民間人向けのコロナ接種が日本でスタートする。史上初の壮大な人体実験。強烈だとされる副反応は、あのコレラと比べてましなのか。医療従事者でもない高齢者でもないタハラが参加するのは、まだまだ先のことである。

同音異義語の妙味

コロナは「収束」か「終息」か。時事ネタをテーマにした、入社前研修の作文をチェックしていたとき、記述のバラツキを見て、あれれ、とおもった。

 

「収束」分裂・混乱していたものが、まとまっておさまりがつくこと。おさめること 例:事態の-を図る、争議が-する

「終息」物事が終わって、やむこと 例:蔓延していた悪疫が-する

 

どうやら、両方とも正解のようである(むむ、変換1発目『せいかいのよう=政界の要』と出たぞ)。

 

しいて言えば、前者は第三者が介入して事態を変化させることを含意するようなので「(ワクチンを打って)コロナ禍を収束させる」はおそらく「収束」が適当。英語で言えば、things betterとかget back to normalか。

 

それに対して、終息は、死亡フラグがたつということだ。だから「コロナウイルスが~」と生き物?を主語にしたときにしっくりくる。end とかdie downとかといったニュアンスだろう。

 

似たような意味を持つ同音異義語は、ことほどさようにややこしい。

 

ちなみに、グーグルをコーパス替わりにして調べると、「コロナ-収束」の用例は310万件ヒットする一方、「コロナー終息」では173万件である。まだまだ、全体的に終息(end)には程遠く、落ち着いてくれ(get back to normal)という認識なのだろう。できるだけ早いdie out(絶滅)を祈るばかりだ。

 

サボリ癖

それにしてもひどい。ひどすぎる。1カ月もHPブログを更新せずにいるのは、文筆家と名乗る資格はないだろう、と反省している(税務申告では、自営業ー文筆家、というカテゴリーにしている)。なぜ書けない、いや、書かないのだろうか?

 

とある本によると(タイトルは忘れた)、人が文章を書く理由は3つあるという

1 自分しか知らない情報を他人に知らせたい

2 周知の情報に対する、自分の意見に共感してほしい

3 他人の意見と異なる意見を述べたい(2の変形)

 

つまり、今の私には1新情報もなければ、2ものごとに対する定見もなく、3批判精神すら忘れている状態だ。精神がみずみずしさを失っているのだろう。とりあえず、この申告を終わらなさなければ。

 

聖書みたいに「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」なんて奇特なことをいってくれる収税人はいないだろうか…とほほ。ここで一句。

 

 この社会 あなたの税が生きている それにつけても 金の欲しさよ

 

酒、人を呑む

暦の上ではお正月ということで、アルコールに絡む話を少々。

 

私自身はアルコールはNGで、肌に触れてもかぶれる体質である。以前入院したときなどは、消毒のたびに皮膚が赤くなり、ついには看護師引継ぎ用として「田原さん、アルコール禁止」と朱書きされた紙が、デカデカと頭上に貼りだされてしまった。布団の中でのワンカップ大関の隠し飲みがバレたアル中患者のようで、少々恥ずかしかった記憶がある。

 

私は論外として、日本人をはじめとするアジア人はほぼ下戸の類に属するだろう。それにひきかえ、ヨーロッパ人、特にロシア人は恐るべき飲酒レベルの人がいるらしい(ロシアをヨーロッパに含めていいのかという議論は、ここでは触れない)

 

ロシアがまだソ連と言われていた大昔、時はゴルバチョフ禁酒令下の冬のモスクワ。外国人だけに出入りが許された専用バーのカウンター脇で、モスコーミュールをちびちびなめていたときのことだった。

 

ときおり、コートを着た人間が寒風とともにふわっと入ってきて、そのままカウンターに手をつく。バーテンダーはビーカーに手早く何かを注ぎ、客はそれを一気にあおる。そして黙って扉を押し開けて出ていく。その間数十秒。入れ替わり立ち代わり、この光景が少なくとも4,5回繰り返された。

 

「何飲んでいるの?」好奇心にたえかねて聞いたら、バーテンダーはガン無視。客は、こちらに向き直りまじめな顔で「水さ」という。その吐息がいかにも酒臭く、ああ、そういうことかと合点が行った。法の目をかいくぐって、現地人を外人バーに出入りさせていたのだ。

 

最近、ドイツに留学中の大学生からも面白い話を聞いた。ロックダウンが続く中で、寮生がコロナ濃厚接触者の判定を受け、最長2週間の禁足を食うことがひんぱんに起こるらしい。

 

その間、生活必需品はボランティアが玄関先に買い置きしてくれるが、アルコールは禁止である。そこで、上の階の友達に頼んでビールだのワインだのを調達、(玄関だとバレるためか)こっそりと窓から吊るしてもらい自室の窓から受け取るうそうだ。

 

禁じられれば禁じられるほど、あの手この手で対抗策を講じる。酒に呑まれた人間のやることは、今も昔も変わらない。

 

語りえぬもの

『語りえぬものについては、沈黙せねばならない』。19世紀末ウィーン生まれの哲学者ヴィトゲンシュタインの有名な言葉だ。

 

「わからんことについて何を言ってもムダで役に立たんから、われわれは、語るべき領域のことに専念した方がよい」が、通常の解釈である。

  

この言葉に反発を覚える、言語化・図式化大好きのタハラだが、つい先日、語りえぬ体験をした。

 

孤軍奮闘で経営改革を進めていたあるトップが、若手らの考えをひととおり聞き終わったあとに「私は、一人ではなかった」と落涙したのである。一瞬、すべての音が消えたような感覚、なにか温かいもので場が満たされていくような感じは、とてもじゃないけど、居合わせた人間しかわからないだろう。

 

ただし、その先のコミュニケーションは言葉や文字に頼らざるを得ない。トップや若手らが、感動を組織のすみずみに伝え経営改革を進めるためには、非言語体験を、言葉や文字で再現するしか手段がないのだ。

 

実は、先の名言にはもうひと通りの解釈がある。『言語化できないものに対しては、敬意を払ってだまって向きあおう』である。そう、言語化できない時は、その対象に、自分自身に、だまって向き合おう。

 

そしてしっかりと観察したうえで、なんとかかんとか、他人に伝える努力をしてみよう。それでも伝わらないかもしれないが、その人が言葉で耕せる範囲はじょじょに広まってくる。 そして、あきらめずに言語化に努める姿そのものが、聴く人の胸を打つのだと信じている。

 

わたしを〇〇にしないほうがいい

キャッチーな見出しを考えて、腕組みして椅子にもたれていた数日前の午後のことである。気分転換にはいった図書室(わが事務所の隣部屋。6,000冊の蔵書あり)で目にした一冊の本を見た瞬間、おおぅと声を出してしまった。

 

「わたしを空腹にしない方がいい」くどうれいん(2018)である。なんと巧妙なタイトルだろうか。

 

テーマが「食」であり、かつ「空腹」から日々のつつましやかな食事や間食を題材にしていることが連想できる。そして「空腹にさせない」でなく「しない」が、いわゆる個食についての内容であることを匂わせる。テーマ、題材、著者のキャラまでが、この長からぬ表現に凝縮されているのだ。

 

そしてなんといっても「わたしを〇〇にしないほうがいい」という、上から目線な感じがよろしい。このパターンは使えそうだ。さっそくまねた。

 

会社の業務用文書なので「私」は主語にならない。試行錯誤して「××を〇〇にしないほうがいい」という形式にあてはめた。あんまりおもしろくないが、まあ、おしごと用なので仕方がないか。題名づけの際のストックが増えたから、良しとしよう。

 

 

ストック中のマイベストは「帰ってきた●●」だ。世間でも「ランボー2」「ランボー3」など続編がぞくぞくと生まれると、苦肉の策で、作品の一つにはこれが混ざる。ウルトラシリーズでは「帰ってきたウルトラマン」がある。ヒーロー名以外のタイトルは「ウルトラQ」とこれだけのようだ。

 

ちなみに「帰ってきたウルトラマン」のシリーズ中の最高視聴率は、まさかの最終回だったらしい。やっぱり名タイトルの番組は強いのだ。シュワッ。

 

 

ブラック派か砂糖ミルク派か、それが問題だ

「コーヒーをブラックで飲むは日本人だけ」というサイトを、いくつか見かけた。これは極論としても、アジア、ヨーロッパにかぎらず、海外ではみんなドバドバ砂糖とミルクを入れているような印象だ(本場アフリカとアラブではどうなのか)。エスプレッソでいえば、これを砂糖なしで飲む人を見るのは、たぶん日本だけだろう。

 

自販機でも、ブラック缶の躍進がめだつ。平成20年代までは、各自販機にブラック缶が1本あるかどうか、ではなかっただろうか。ところが、いまやコーヒー缶が5本ほどあるとすれば、1本はミルク砂糖入り、もう2本が微糖、のこりがブラックといったぐあいだ。健康志向の高まりか。

 

ただし、本当に健康に留意が必要な高齢者層は、圧倒的に砂糖ミルク派である。高齢者宅訪問時のデフォルトは、フレッシュ添えの砂糖入りコーヒー。ときには、砂糖・乳糖類とを入念にかき混ぜたものを供される。そこには、昭和の名キャッチコピー「●●●●を入れないコーヒーなんて」の残り香がただよっている。

 

考えてみればあたりまえだ。日本では、高度成長期まで砂糖は貴重品だった。牛乳を飲む習慣もそのころからで、子どもの栄養不足をおぎなうための学校給食を通じて定着した。大量の砂糖とミルクを入れた高栄養のコーヒーが、当時の人々にとって、どれほどおいしく贅沢に感じられたか想像に難くない。

 

その後、本来のコーヒーの香りや味が楽しめるまで、流通や保存の技術は向上した。だが、人間、出会い頭でおいしいとおもったものが、生涯を通じた味覚の基準になる。

 

ちなみにタハラは子ども時代の記憶から、長らくコーヒーぎらいだった。特に、酸味が強いとされるものを避けていた。が、酸化のすすんだ(つまり古い)豆を当時口にしたのが原因であることに気づき、軌道修正できた。単純なものである。

 

コーヒーをどう飲むかは、その人が、最初にどういう出会い方をしたかによるのだろう。勉強でもスポーツでも対人間でも同じだ。人生を左右するような好き嫌いも、案外単純なきっかけから生じるのかもしれない。

 

白いカーネーションと昭和な日々と

ゴールデンウイークのすぐ後にひかえるビックイベント、母の日。そう「母業」は、世間で最もブラックな仕事のひとつだ。

 

妊娠出産にミルクやりからおむつ替え、弁当づくりにベルマークはり、こどもの送り迎えに近所の付き合い、自分の飯は立って食う。一日平均4時間超、深夜・早朝手当どころか傷病休暇すらもらえぬこの激務。少子化が進むのも無理はない。

  

そのような母の恩は、海よりも深いとしるべし、という教育の一環だったのだろう。昭和40~50年代になるのか、幼稚園から小学生低学年まで、母の日の前後の図工の時間に、ティッシュペーパーでカーネーションを作らされた記憶がある。

 

先生から、ピンクのティッシュを半分に切って重ねたものをわたされる。それをもらったら、まず一センチ幅ぐらいのじゃばらに折る。そのタテ長のまんなかをゴムでとめ、扇を広げる要領で円形にする。そののち、じゃばらの薄い1枚をひとつづつほぐして立て、花の形にする。さいごに茎とおぼしき、はりがね状のみどりの物体と合体させる。カーネーションのできあがり。

 

単純作業だが、私をはじめ、どんくさい子どもには、ハードルが高かった。ゴムの位置を左右対称にしなかったために、いびつな花形になったり、じゃばらほぐしに失敗して、紙をボロボロにしてしまったり。もういちど、ティッシュをもらうはめになるのが、常だった。

 

このように、ピンクのティッシュと格闘するクラスのなかにあって、かならず1、2名、白い花を作っている子どもがいた。お母さんをなくした子である。先生から、ほかとは別に白いティッシュをわたされるのだ。

 

たしかに、亡き母にささげるのは白いカーネーションが、慣習ではある。が、いきなり白ティッシュをわたされた子どもの気持ちやいかに。その配慮のなさが、いかにも昭和的であった。

 

だが、このぐらいでひるんでは、学校でサバイバルできない。小1の時になかよしだったサカシタ君が、ご両親の離婚がきまったときのこと。朝礼で先生の横にひきだされ、クラス全員を前にこう宣言されたのである。

 

「サカシタ君のおうちでは、お父さんがいなくなったから、●●に名前が変わりました。みなさん、今日から●●君と呼んであげてください」。

 

こうした姓変更のおひろめも、ごくフツーの光景であった。なんとデリカシーのない、昭和という時代よ。『めでたさも、中ぐらいなり 昭和の日』。黒歴史を知るタハラは、強くそう思うのであった。

 

パンツ一丁、拳銃一丁、豆腐一丁

「ロシア語のあいさつ教えて」とたのまれ、ドキリとすることがある。ロシア語専攻とはいえ、怠慢な学生であったうえに、習ったのが四半世紀以上前だ。ありがとうは「スパイシーだ」、いいね!は「辛(から)そう」、こんにちはを「ズロース一丁(いっちょう)」などと伝え、お茶を濁している。

 

ズロース一丁、パンツ一丁、拳銃一丁、豆腐一丁。「丁」については、むかしから疑問がある。この助数詞が使われる原理原則が、いまだにわからないのだ。

 

精選版 日本語大辞典によると、丁(挺・梃)は

①鋤(すき)・銃・艪(ろ)など、細長い器具の類を数えるのに用いる

②駕籠や人力車など、乗り物を数えるのに用いる

③ 酒や樽を数えるのに用いる

この定義になんとかあてはまるのは、上にあげたもののうち、拳銃(銃)だけではないだろうか。

 

日本語上級学習者から、丁を使うケースについて質問を受けたことがある。「わからん。とにかく、パンイチ男が右手に拳銃、左手に豆腐を持っている姿をイメージし、暗記せよ」と教えた。が、彼女は首をかしげて「ラーメンは?」。

 

たしかに「へい、ラーメン一丁(いっちょう)!」は日常語だ。一本とられた(一丁ではない)。

 

ちなみに、「本」は細長い無生物をかぞえるらしい。ではカツオの一本釣りは?虫歯3本は?

ますます助数詞の深みにはまっていく。

 

*参考:助数詞「本」のカテゴリー化をめぐる一考察 (濱野・李2005?)

 

 

 

スベる比喩、ウケる比喩(アナロジー)

うーむ。「田舎から出てきた右も左もわからない〇娘を×××漬けする戦略」か。まともに書くことすらはばかられる比喩(アナロジー)である。

 

この発言時、某「デジタル時代の総合マーケティング講座」では、会場のあちこちで笑いが起きたとある。一流大のリッチな社会人講座を受講する、ふところの豊かさと深さを持つ聴衆である。失笑か冷笑か、ただの愛想笑いか。この上場企業役員は「ウケた」と解釈して舞い上がり、場外で炎上した。

 

滑落したアナロジー。おなじく、この会社の戦略自体もスベるような気がする。

 

マーケティングは、いうまでもなく買い手がすべてだ。その対象は、若年層の女性らしい。ところが最終顧客の顔が、一瞬でもよぎらないこのトークである。そんなセンスで立案したコンセプトが、ウケてほしい層に届くとは思えない。

 

会社の謝罪文もズレている。「多大なるご迷惑とご不快な思いをさせたことに対し、深くお詫び」ではない。安全安心であるはずの、学びの場を台無しにしたことについて、一企業として恥じてほしかった。また、主催者もおなじく恥じてほしい。市井の講師の立場からおもう。

 

で、本題である。アナロジーには、興味関心やバックグラウンドが、すべて出てしまう。使う語彙(ごい)が、その人の教養の範疇を出ることはないからだ。

 

動物好きは動物、スポーツ愛好者はスポーツ。私自身は、乗馬の経験があるので、つい、ウマの話に走りそうになる。だがいかんせん、競馬ファンも含めてウマ好きは多くない。このように、聴衆とに共通項がとぼしそうな題材は要注意だ、

 

昭和の講師は「ネタに詰まったときは、野球とマージャンとゴルフのたとえ話」といわれていたらしい(団塊の世代の必修項目)。行動の基本が個となったいまでは、なにがいいだろうか。

無難なところは食べ物。あと、コンビニ、銀行、スマホいじりなど、公共・半公共の場での人間のふるまい、か。

 

コツは、いいことは人の話、失敗談や滑稽談は、全部自分のせいにすることだ。言われたらどんな気がするか、違和感をチェックできる。なにより、他人を傷つけない。

 

たとえば冒頭の例を「右も左もわからない〇〇のオレを××新地にどっぷりはめた、アノ戦略」などと、ご自身を例に置き換える。世間様に通用するアナロジーかどうか、身に染みてわかるだろう。品位を下げるのも、自分だけですむというものだ。

 

 

学(まね)びの季節

コロナに振り回された日常が戻った、というよりは、コロナに慣れざるをえない2022年、ようやく新入社員研修がリアルに戻ってきた。5月いっぱいはこうした研修が続く。

 

やはり、講師にとってはリアル研修の方がありがたい。オンライン研修では、反応がつかみづらい。特に新採の場合は、ちゃんとついて来てくれているのか心配しつつ、見えにくい画面に目を凝らしつつ、ひとりオーバーアクションでしゃべる。孤独な作業であった。

 

対面する新入社員に対して、今年も、官民・業界を越えた、なんとなくの傾向を感じている。

 

びっくりするほど素直だ(少なくとも表面的には)。もちろん、自己承認欲求全開の「構ってちゃん」とか「みんな違ってみんなよい」多様性の誤認型はいる。そうしたタイプも含めて、総じて、前向きで元気であるとの印象を受けた。

 

ただ、年齢の乖離とともに、当方の「常識」が通用しなくなっている。表記ひとつをとっても「こんにちわ」を当たり前に使う(正しくは「こんにちは」。念のため)。また、ウルトラ性善説なのも心配だ。人とのコミュニケーションに、マイナスのイメージをもつことが難しい。笑顔で対すれば何とかなると思っているようだ。

 

真っ白で、のびしろいっぱいの新人。ローレンツ博士を慕った赤ちゃんガチョウのように、職場のすべてを全身で吸収し、そのカラーに染まりながら育っていく。

 

彼女彼らの配属先となる、先輩社会人のみなさん。ちゃんと学びの手本となる準備はできているかな?話し方や聴き方、ー挙手一投足を注目されるだろう。いいことも悪いことも、すぐにマネされるぞ!

 

メイド・イン・ジャパンのジレンマ

最近、着物にハマっている。

 

必要に迫られ、、なんとかひとりで着られるようになったのがきっかけだ。ハマるといっても、若いころあつらえたり、譲り受けたりした「おふる」を、着用可能か吟味しているレベルだ。 

新品の仕立てまでには、とてもいたらない。

 

反物からあつらえると、普段着でも数十万。よそいきだと、気合が入った帯や草履などとそろえると、2000CCクラスの国産車が買えるほどになる。まったく、シャネルやグッチなど海外ハイブランドの値段がかわいく思えてしまう。

 

というわけで、着られるおふるを選別している。虫食いや変色品、顔うつりの悪いものを処分。こうしたNG組のなかの古い襦袢(じゅばん)を解体してみた。

 

布は羽二重(正絹/シルク)なのだろう、薄手ながらずっしりした風合いで、なめらかさを失っていない。ミシンかと思われたミリ単位のステッチは、すべて手縫い。脇や裾にある生地の縫込みは、体型変化やオーナーチェンジによるリユースに備えたものだ。

 

細やかな手仕事ぶりに驚嘆する反面、21世紀のいまではオーバースペックであるという気もする。これじゃ気軽に洗濯にもだせない。襦袢はあくまでも下着で消耗品なのに。

 

ところが、呉服業界は、襦袢をはじめ、シルクや麻など天然繊維の手縫いを、現在でも主力商品としている。だからクルマ並みの価格帯になるのだ。ただしコスト削減のために、いまや原料を中国に、縫製をベトナムやインドネシアにたよっているときく。

 

原料と生産が国内でまかなえない状態で、正絹や手縫いの伝統にこだわるのはなぜか。高額品としてのブランドを保つためか?海外ハイブランドのオートクチュールが、シルクや手縫いに固執しているという話は聞かないが。

  

こだわりスペックで価格が高止まりし、売上が低迷する。利益率を確保するために、やむなく海外生産へシフトする。これに逆比例して、国内の生産者や技術継承者は減っていく。イノベーションも生まれない。旧態依然の商品にたいして、さらにマーケットが縮小する。

 

まさにメイド・イン・ジャパンが直面する悪循環。ハレの日の高額品として、生き残る道を選んだキモノの運命やいかに。

 

ポーランド語とロシア語とルンバ君

この1カ月間、不覚にもブログで沈黙してしまった。

 

ウクライナとロシアは、ともに学生時代に立ち寄ったことのある場所だ(当時はソ連邦)。今年に入って、その関係にきな臭さが立ち上っていたものの、まさか全面戦闘状態に入るとは。どう出口戦略を見出すつもりなのか。

 

気分が重い。うちのお掃除ロボット・ルンバ君から話をスタートさせようか。

 

ルンバ君は語学の達人で、15,16か国語をこなす。最初は「電源が切れました」などと日本語でしゃべっていたが、あちこちいじくっているうちに、どんどん言語が切り替わっていってしまった。今しゃべっているのは、たぶんポーランド語である。その前はロシア語だった。

 

この2つは言語として、とても近いらしい。使っている文字は違う。ポーランド語はアルファベット、ロシア語はキリル文字だ。文章を一読してもピンとこないが、話し言葉だとだいたい意味が通じちゃう、という間柄のようだ。

 

ウクライナ語とロシア語はもっと近い。標準語と標準関西弁ぐらいという人もいる(バラエティ番組の司会と吉本芸人とのトークぐらいか)。そして同じキリル文字を使う。だから大国ロシアは「内政問題」と捉えているのだ。

 

だが話せばわかる間柄なら、なんとか話し合いで解決できなかったのか。「国々の衝突(戦争)が進歩をもたらす」といった学者もいるが、今の戦争はなにものも生み出さない。

 

かつて米軍の地雷除去ロボットだった、ルンバ君の華麗な転身ぶりをみるがいい。iRobot社が昨年発表した売上高は全世界で 14 億 3,040 万ドルで、前年比プラス18%以上。ちなみにうちのルンバの生まれは中国。多くの国が平和的にかかわってこそ、新しいものが生み出せるのに。

 

 

ターゲティング広告のナゾ

「監視されているのか!?」「盗聴されたか!」。FBやウェブサイトなどのターゲティング広告をみて、そう感じる方も多いのではないだろうか。私もそのひとりだ。

 

最近あった例を挙げてみる。

 

1 有名皮革メーカーのバーゲン会場でアルバイトした知人と、お茶を飲んだ。ご婦人方の靴・バッグ争奪戦ばなしに大笑い。それから数日間、なぜかFBでそのメーカーの広告がつづいた

2 マッチングアプリの「いいね!」数について、電話で知人からの長い自慢話をきく。それ以降、『中高年マッチングサイト』の広告表示が、FBやウェブサイトでやたら目につく

3 家電の設置に来た業者から、外壁塗装をすすめられる。その後、外壁塗装の広告があらゆるウェブサイトに顔を出すようになった

 

スマホやタブレット、パソコンは盗聴器、監視カメラなのか。そして関係各所に情報を提供しているのか。ほかに原因はないのか。

 

3については、業者が原因とにらんでいる。外壁塗装見込み客の登録リストが、なにかの拍子に漏えいしたのではないだろうか。

 

2は、キーワード検索や位置情報からターゲットになった可能性はゼロ。だから、類似ユーザーターゲット+因果関係の取り違え、をうたがっている。

 

つまり、広告は、年齢などの属性情報などをもとに、もともと表示されていた。それをスルーしていたのだが、知人との話をきっかけに、その手の広告に注意がむくようになった。認知の問題、という説である。

 

1については、正直なところ、まったくわからない。

 

年齢など属性情報からの広告だとすれば、ピンポイントすぎる。そのメーカーの購入歴もなければ、検索履歴などもない。そもそもインターネットで靴やバッグは買わないから、この分野の広告表示自体がないといっていい。×ユーザー情報、×コンテンツ情報、ナゾは深まる。

 

そして、わたしにとってターゲティング広告最大のナゾは、本の広告がほとんど表示されないことだ。検索回数とネットでの購入頻度は群を抜いているし、金額もコンスタントに高い。優良顧客なのに、無視されている。AIにやる気がないのか。

 

ちなみに、アマゾンのAIはなかなかのポンコツで、購買歴のある本を、くりかえしおすすめしてくれる。

 

AIよアルゴリズムよ、ちゃんと私の嗜好をよみとってくれたまえ。聞こえましたか? 

アナログへの誤解

「うちの会社はアナログですから」。

 

電気分野で独自技術を持つ、優良メーカーのトップからそういわれたときには、面食らった。が、次の瞬間、ああそうかと納得した。

 

アナログとはもともと「数値を、長さや角度などの連続する物理量であらわすこと」だ。水の流れに例えられる連続性は、電気の性質そのものだ。これを「アナログ」といわずしてなんといおうか。

 

とはいえアナログには、古臭い、前時代的な、なんてイメージがつきまとう。それはなぜか。

ひとつは、時代錯誤をあらわす「アナクロ」の影響だ。語感がよく似ている。

 

もうひとつは、ライバル語「デジタル」のせいだ。

 

20世紀の中ごろまでは、電圧の強弱で信号を伝えるアナログコンピューターが主流だった。その後、二進法のデジタルコンピュータが出現。時計にもこの考え方が適用され、アナログは駆逐された。ここからおそらく、前時代vs現代というイメージが生まれたのだ。

 

ただし、アナログコンピュータは今でも存在する。スケジューリングや医療用画像の解析など、多くの変数を必要とする分野は、デジタルコンピュータはむしろ苦手。最適解が決定できないらしい。そこを託すべく、現在、アナログコンピュータの開発がすすめられている。

 

そういう意味では「アナログ人間」とののしられたときには、にっこりと笑って「ありがとう」と返すべきなのだ。ただし「アナクロ野郎」に対しては、憤怒してよい。まちがえないようにね。

 

エントリーシートと論文は違いますです

先日、師匠筋が、いつもの文体をわざと「です・ます調」にしていた。その違いがけっこう強烈でおもしろかった。名文でマネをしてみる。

 

●吾輩は猫である。名前はまだ無い。

 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。

 

いわずとしれた、夏目漱石『吾輩は猫である(1905-07)』である。今から100年以上前の文章なのに、注釈なしでほぼわかるのがすごい。

 

これを、ですます調にしてみる。

 

○吾輩は猫です。名前はまだありません。

 どこで生まれたか、とんと見当がつきません。なんでも、薄暗いじめじめしたところでニャーニャー鳴いていたことだけは記憶しています。吾輩はここで始めて人間というものを見ました。しかもあとで聞くと、それは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうです。

 

後者○に違和感はないか?あるとすれば、それはまず「吾輩」にただよう、上から目線の一人称と、低姿勢な文体のミスマッチでではないか。「私」「ぼく(オスなので)」に修正したくなる。「オレ」でもちょっと合わない。

 

つまり、ですます調にしたとたんに、ひとりごと感、がなくなるのだ。読み手を想定した「読んでいただく」文章に様変わりする。

 

結論、読んでもらいたかったら、エントリーシートはですます調で書こう。

 

え?学術論文は、教授によんでいただくのに、である調だって?そりゃそうだよ。ですます、はいわばお飾り。粉飾された文章を、えんえんと何十枚も読んでごらん、うっとおしくて内容が頭に入ってこない。

 

 もうひとこと。句点はカンマ(,)、読点はピリオド(.)ではなく、点(、)とマル(。)でよろしい。

 

論文がこれを強いられるのは、昭和以前の昔、公文書に和文タイプを使っていたことが元になっているそうな。タテ書きのマス目の右上に「。」や「、」を設定するのは、技術的に至難の業だったらしい。

 

だから「君、カンマとピリオドを使うのが常識だよ」と卒論修論博論のチェック時にエラそうに注意されたら、「それって尾てい骨とか、シーラカンスと同じですかね」と言い返したまえ。

 

*参考

公用文の横書きのコンマ、時代遅れ?68年後の見直し案 朝日新聞デジタル2020/12/27

 

パソコン(スマホ)病

肩こりに目のつかれ。パソコン(スマホ)病は数々あれど、漢字のド忘れは深刻だ。添削業務では、手書きがベターである場面もまだまだ多いので、ド忘れは非効率である。

 

だが、副産物もあった。漢字が多い手書きは読みにくいと悟ったのだ。「よろしく」「宜しく」「夜露死苦」、いずれが読みやすいかは、いうまでもない。機械入力であっても、ウェブではキーワード以外には漢字を使わない方がいいかもしれないとさえ感じている。

 

ところが最近、英語のつづりでも、同じ度忘れをおこしていることに気づいた。感謝するはapriciateだったかappreciateだったか、ハサミのつづりはじめはsからcからか。つづりを入力しかけると、機械が正しい単語を表示してくれることに慣れすぎた。

 

お礼ハガキ程度の文面が進まない。漢字と違い、ひらがなという別選択がないのでやっかいだ。読み返した結果、修正液に登場いただくことだってある。

 

その点、19世紀以前の英語は、おおらかだったようだ。つづりの間違いはあたりまえ。それが発音を変化させたり、逆に発音の間違いがつづりに影響したことも多いらしい。oftenでtを発音する人が意外に多いのも、そのなごりといわれる。

 

さて21世紀に生きる自分はどう対処したか。スマホに話しかけてつづりをチェック(滑舌が悪くいっぺんで聞き取ってもらえないこともあり)。画面の文字を、せっせと紙面に移した。

 

Google先生のいらっしゃる現代は、スペルミスに不寛容な時代でもあるのだ。

 

英語の特徴のいろいろ(2) 能澤正雄(2003)

 

いいかげん

とある近所の飲食店の貼り紙を、いつも楽しみにしている。

 

『入院中のおばの見舞いのため、夜のみの営業とします』『腰痛のため、休業します』『スタッフ補充のめどが立たないため、席を間引いています』

 

なにがおもしろいか。期待をこえる情報を盛り込んでしまう、旺盛なサービス精神(ご本人にはたぶんそんなつもりはない)がである。

 

顧客がもとめているのは、「店が」「いつ」開いているかである。入店するか、断念するかの判断材料にしたいからだ。「店主が」「なぜ」は、ほとんどの顧客にとってムダ情報。そこにあえて力点をおくズレ方に、おかしみを感じてしまうのだ。

 

情報は、多ければ多いほどよいのではない。文章を書くことは、「書かなくていいことはなにか」を考えるのと同意義であるといっていい。絵やイラストもそうだ。

 

採用時のPRだって同じである。何を伝えるとより効果的か、加減乗除しながらいいかげんに調整する必要がある。

 

そこで、シューカツ生さんへのアドバイス。まず「自分らしさ」を知ってもらうという、主目的を忘れないこと。エピソードの伝達自体が目的ではない。また、あれもこれもとよくばりすぎると、「結局キミ、どんな人なの?」になってしまう。

 

採用側の方々へ。こと大企業に関して言えば、トレンドワードのSDGsをPRの主役にしないほうがいい。やって当たり前の話で、自社の差別化にはなりにくい。なにより「御社の、社会持続可能性をさぐる企業姿勢にひかれました」と、つかいまわしのセリフを、学生さんらからえんえんと聞かされるハメになりますぞ。

 

働き方改革の目指すもの

働き方改革とかけて「残業縮減」「DXの推進」ととく。そのココロは「組織の存続(短期的には’競争力の向上’)」。多くの企業の解釈はそれだ。

 

だが本来この解釈は正しいのか?旗振り役である厚労省のHP『働き方改革の目指すもの』をみてみよう。

 

我が国は、「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」などの状況に直面しています。(中略)

「働き方改革」は、この課題の解決のため、働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています。

 

わかりにくい文章だなぁ。願望と目標、目的と手段と結果がごっちゃになってぼやけている。

どうやら、「生産年齢人口が減少」→「育児や介護など家事労働が現役世代を圧迫」→それを「働き方改革」でなんとかせい、という図式のようだ。

 

ツッコミどころは以下のようなところか。

 ・「育児や介護の両立」は本当に「多様なニーズ」か。ニーズというよりは、今まで見ないでやり過ごしてきたものを、しゃーなしでスポットを当てているだけだとおもうが

・「より良い将来の展望が持てる」が、なぜ「目指す」ところになるのか。単なる副次的効果じゃないのか

 

つまり翻訳すると…労働力人口の減少により一人に求められるマルチタスクの本数が増えるから、みなさんは「多様な働き方」をしてね。そうすると我が国は「より良い将来の展望が持てる」から、ということだ。

 

なんのことはない。働き方改革とは官民挙げての『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』マンパワー編であった。みんなで幸せになろうよ、というメッセージが感じられないのが哀しい。厚労省の英訳は「健康と労働、豊かで幸せになる省(Ministry of Health, Labour and Welfare)」なのに。

 

視覚・聴覚・体感覚

自分の中に情報を取りこんで習得したり、取り出して表現したりするときの感覚経路の代表格は視覚、聴覚、体感覚だ。ただし、どの経路を優位に使うかは人によってさまざまらしい。

 

タハラはといえば、情報を習得するときは、聴覚優位である。小さいときから目が悪かったことが影響している。

 

小学校の高学年には、教室の席が2,3列目より後ろになると、黒板が見えづらい状態だった。かといって、眼鏡はかけたくない。前列移動を志願して、チョークの粉や教師のツバキを浴びる覚悟があるほどまじめでもない。板書はあきらめるとしても、サボっていないぜアピールが必要となる。そこで、聞き書きすることが常となった。

 

耳に残った語を拾って、〇や△や→でとりあえずつなぎ描くのが私のノートだった。ほとんど暗号だとよく教師におこられたが、今からおもえば「思考の視覚化」である。小学生のくせにエライ高度な技をつかっていたことになる。すなおに黒板を写した方がよっぽど楽だったろう。

 

おかげさまで、情報のインプットは聴覚優位、アウトプットは視覚優位となって定着した。

 

苦手だったのが体感覚、つまり手を動かして体で覚えることだ。漢字の百字練習や英単語の書き取り訓練にいたってはほとんど罰ゲームに感じられた。あんなことをして覚えられるわけないだろう、と成人後に恨み言をいうと「そういう感覚が信じられない」と多くの人に返されたのには驚いた。本当に人それぞれなのだ。

 

学習のやり方やペース、そして表現の方法はそれぞれ異なっている。大切なのは「人はみな違う」という前提に立つことだ。特に伝える側は、教室でも仕事場でも、相手がどういうタイプなのかよく観察する必要がある。自分のやり方を押し付けちゃいけない、としみじみおもう今日この頃である。

 

坂本龍馬≒空海説

タイトルを見て「なるほど、義経がジンギスカンになるよりは、空海が坂本龍馬に輪廻転生していた方がまだ可能性は高いか」と早合点しないでいただきたい。このヒーローたちには意外な共通点があるという意味だ。

 

それぞれの活躍の年代は1000年以上へだたっている。一方で、四国出身で(山脈を挟んで北と南に分かれているが)かつ諸国を行脚しているという点がまず同じである。

 

空海の活動時期は8世紀末から9世紀初頭。讃岐国(四国)で生まれ、平城京~九州・博多から船で唐・長安(中国・西安)へ。そして帰国後、都で権力者たちと調整を図りつつ、高野山(和歌山)に寺を建てた。その合間に修業を積んだり、ため池と作ったりと、近畿・中国・四国地方など西日本に神出鬼没(即身成仏の身であられるが)している。

 

対して坂本龍馬は同じ四国でも、幕末の土佐郷士。1年ほど江戸に遊学したのちに土佐に戻るものの脱藩。以降、江戸~京都を行ったり来たり、あるいは長崎で商社を設立したり婚姻記念に宮崎に足を延ばしたりと活動範囲は広い。蝦夷地(北海道)の開拓も夢見ていたというから、もう少し長生きしていたら北は北海道から南は琉球まで、日本縦断は間違いなかっただろう。

 

もうひとつの共通点は、エピソードの多さである。

 

空海が中国留学中に投げた独鈷が飛んできた、という高野山の由緒は有名だ。政府の肝いりでため池造成に励むかとおもえば(農水省のHPのお墨付きである)、口と両手両足の五筆で書を記すわ、ライバル僧を呪詛で妖怪に変えるわ、大昔の人だからエピソードもやりたい放題だ。

 

だが龍馬だって負けてはいない。新婚旅行の始祖であり、FIRE組(=脱藩者)希望の星でもある。薩摩藩などの協力で設立した亀山社中(のち海援隊)は、日本初の株式会社といわれている。そしてもっとも名高い功績が、「薩長同盟」と新政府のビジョンを示した「船中八策」である。が近年、この2つをはじめ、明治維新に対する龍馬の貢献度合いに疑問符がつけられているらしい。

 

とすると、ひょっとしたら空海同様、龍馬も同世代と後世の人たちが作り上げた、ひとつのアイドル(偶像)なのかもしれない。

 

「遠くから来たエライ坊さまがこんなことをなさったらしい」「ホウホウ、それはきっと空海さまとおっしゃる方じゃ」、こんな感じで弘法大師伝説が成立していったように、志なかばで倒れた、多くの名もなき若き土佐の志士のエピソードが「坂本龍馬」として結実したのか。

 

11月15日は龍馬の誕生日&命日である。高知に残されたあちこちの足跡を見ながら、そんなおもいにかられた。 

話し上手と筆達者

得意=苦にならない+その分野でのアドバンテージがある、と定義しておく。世間を見ると、話すことが得意な人と書くことが得意な人では、人種が違うなあ、と感じることが多い。

 

昔々は司馬遼太郎のファンだった。が、ひとたび講演や対談となると、聴講中寝落ちするのがオチだった。文章であれほど滑らかにしゃべることができる人が、ひとたび肉声にのせると、どうしてあんなにつっかえるのか。

 

長じて、やや有名人のインタビューをまとめる仕事をしたが、ほぼ例外なく同じ感想を持った。あれだけユーモアあふれる作品を生み出す人たちが、なぜこんな四角四面な話しぶりなのかと。一方で、アナウンサーやタレントの魅力あふれる話を要約したら、たった1、2行になってしまうこともよくあった。(インタビュアーが下手クソだからという説は却下)

 

現在でも、筆達者な人々とは、おしゃべり自体が好きか嫌いかは別にして、電話で話すより、チャットでやり取りを優先する。逆もまたしかりで、講師仲間では、電話やZOOMなどがコミュニケーションの主体になる。そしていずれも、相手が得意な方法にゆだねた方が、やりとりに齟齬を生じないのだ。

 

頭に浮かんだことを文字(や絵)に移す作業と、瞬時に音声言語にのせる表現するのとでは、活動する脳の部位が違ったとしても不思議はないとは感じる。そのとき、一方の部位の活性化が、もう一方を抑制することに働くのか?それとも単に本人の怠慢で、一方のコミュニケーションで事足りるから、他方を手抜きするのか?最新の認知言語学の知見を問うてみたいところである。

 

シナリオ・プランニングとしての論作文

シナリオ・プランニングとは「将来起こり得る未来のシナリオを複数描き、それに基づいて戦略を導出していく手法のこと」である。近年では戦略的思考法の一つとして各方面に定着した感がある。

 

実は当研究所でもシナリオ・プランニング研修を裏メニューとして持っている。ファシリテーションを中心に、模造紙だのを囲んでみんなワイガヤする研修なので、コロナ禍の今は休眠中である。(巷ではオンライン研修でも開催)

 

ただ、そうしたワイガヤ手法を取らなくても、ひとりでも未来に思いをはせることはできる。

作文を書けばよい。

 

そもそも文章を書く目的は、「自分の考えを他人に知ってもらうこと」である。となると、例えば『●年後の日本』だと、●年後の日本に対する自分のイメージを、形(言葉)にしなければならない。言葉にするには、自分なりにいくつかの●年後像を具体的に描いておく必要がある。そのためには、予測データを見ながら、「いま」の行く末をしっかり観察することを迫られる。

 

つまり作文とは、ひとり脳内シュミレーションの発表の場なのだ。

 

これをシナリオ・プランニングに応用=ひとりひとりのシュミレーションを複数のシナリオに収束させるとすると…例えば、組織内で『●年後の日本』などといった統一テーマで作文を書く。その後、メンバーで話し合いをしながら言葉に(図式化)し、共通イメージを描いていく。こうすれば、未来に対する組織の共通認識を作ることができる、かな?

 

これならオンラインでもできそうなので、新・研修メニューとして導入を検討してみよう。

 

*参考 キリンホールディングスHP

 シナリオプランニング 4つのシナリオ

「くださる」vs「いただく」

就活生さんからの質問。「オンライン面接のメールでのお礼は『先日は面談くださいまして』『先日は面談いただきまして』、どっちがいいいんでしょうか?」

 

正解は(そもそも言葉遣いに正解なんかないと思うが)「どっちでも、好きな方に」である。ただし、ニュアンスの違いはある。

 

もともとの意味は

①~ください(る)=(相手が)くれる

②~いただく=(こっちが)もらう 

なので、いわゆる主語が違っているのだ。

 

たとえば

①’「ご来店くださる」②’「ご来店いただく」では

①’は(客が)来店する

②’(こちらが客に)来店してもらう

という感じだ。

 

敬意表現という観点では

①~くださる、は相手の動作なので「尊敬(客を上げる↑)」

②~いただく、はこっちの動作なので「謙譲(こっちがへり下る↓)」

の類いになる。

 

ますます、ややこしくなってきた。

 

そのために「ビジネスでは謙譲表現②『~いただく』を使うように」と、のたまうマナー講師も多い。

 

ただし、へり下り過ぎたるはなお及ばざるがごとし。究極の謙譲語?「させていただく」は、相手に有無を言わせない強制力を持つ。「実家に帰らせていただきますっ!」は家出するときの決め台詞だもんね。

 

*参考 「教えてくださり?」「教えていただき?」NHK放送文化研究所

 

 

「ハレンチ(破廉恥)」という法律用語

「独逸国領事勤方ファバー氏に邂逅し忽抜刀追逐して兇殺せし段甚以不届之儀に付破廉恥甚を以て〈略〉斬罪申付候事」。おお、明治7年9月の太政官達第120号として発せられた法令(死刑執行命令書)に「ハレンチ(破廉恥)」が登場している。

 

辞書によると、ハレンチとは「廉恥(恥を知る)心を破る」ということ。人の道に外れた行い、という意味らしい。しかも、現代においても「ハレンチ罪」は立派な法律用語のようだ。『道義に反する動機・原因によりなされる犯罪。殺人・詐欺・窃盗・放火・贈収賄など』という定義まである。

 

それにしても冒頭の執行書、人殺し自体が道に外れた行いであるのにもかからわず、わざわざ「ハレンチ」などと書き込んだ意図は何か。ふと性的な殺人動機が頭をよぎるのは、70年代の漫画『ハレンチ学園』の影響が大だろう。

 

ただし、最新の在留外国人向け日本語手引書のただし書きを見ると「ハレンチはあまり使われない単語」だそうだ。言葉は世につれ変わっていく。 

いじめ保険

LC研究所設立前のタハラの前歴は、実は、生命保険会社である。某公営放送の朝ドラの主人公が設立した会社だ。

 

広報畑が長いうえ、ちょうど在席10年でお払い箱になったので(いわゆるマタハラ退職)、保険屋さんらしいことはほとんどしていない。保険料算出の原理ぐらいは説明できるものの、どんな保険商品が世間にあるのか、百花繚乱、見当もつかない。

 

前職の記憶うすれゆく今、仰天の保険を発見した。いじめ保険である。正確に言えば、いじめをはじめとする家族のトラブルに関わる弁護士費用を、カバーするらしい。2019年つまり令和元年5月の発売だ。いじめの認知件数が対前年比112.6%増の61.2万件と、過去最高に跳ね上がった年である。

 

2020年度資料しか手元にないが、小中高学生の数はあわせて1260万人ほど。ということは、こどもの20人に1名ぐらいは、いじめのターゲットになっているということになる。残念ながら、ニーズとしては十分にありそうだ。

 

なんともはや、背筋が凍る話しだが、考えてみればあたりまえかもしれない。こどもの世界は、大人世界の縮図だからだ。

 

みわたせば、コロナ禍で正義を振りかざし、他府県ナンバーを取り締まる自粛警察、医療従事者を誹謗中傷する輩。TVをつければ、チームメイトに暴力をふるい移籍させられたスポーツ選手が、日を待たずに公式試合に出場している。国民栄誉賞を受けたOBが、それを激ボメするというポンコツな美談までつく。

 

イジメ礼賛を公然とみせつけて「いじめはよくない」と、大人のどの口が言うのか。ダメだこりゃ(故・いかりや長介風に)である。

 

※補足

2019年のいじめ認知件数の爆上がり原因は、おそらく、その3年ほど前に施行された『いじめ防止対策推進法』が、全国的に実行フェーズに入り、元来「なかったこと」にされていた案件があらわになったことが大きいと考えている。必ずしも、いじめ件数が爆上がりしたというわけではないと思いたい 

 

宴のあと

東京オリンピックが終わった。

 

このたびは運営の在り方など、むしろ場外にスポットライトが当たってしまった感があるが、オリンピックの主役はあくまでも選手のはずだ。トラックやコート、プールで輝く一瞬のため、選手たちは命を削るような練習を重ねる。

 

そんな鮮烈な体験を味わった後の長い長い「余生」に、選手たちを待ち受けているものは何か。1964年のオリンピックの焦点を当てたルポルタージュが、『東京五輪の残像(中公文庫2020年)』である。高度経済成長の真っただ中、日の丸を背負わされたそれぞれの重圧は、計り知れないものがあっただろう。

 

ステイホームでオリンピックロスに悩むあなたに、ぜひおすすめしたい一冊である。

 

ネガ語→ポジ語 変換で悩む貴兄に

「ネガティブな言葉をポジティブな言葉に言い換えて相手に伝えよう」という考え方が提唱されて久しい。「八方美人」を「人あたりがいい」、「能天気」を「いつでも前向き」と表現する感じである。

 

ただ、伝える側の語彙、あるいは受け取る側の言葉の知識が追い付かないために、かえって解釈をこじらせるケースがある(特に上司→部下)。ならばいっそ、伝えるときの表情や声のトーンに気を付けてストレートに伝えようよ、と以前ブログでお伝えした。

 

これに加え、今回は「日常的に否定表現を使わない」を提案したい。この「日常的に」がポイントである。みなさん、以下のような話しグセはないだろうか?

 

1「どうかなぁ」「そうだろうか」など、意味なく懐疑的なあいづちをうつクセ

2「いや、」「だけどね」などの否定表現で、話の口火を切るクセ

3「~はダメですね」「~できませんよ」など、できないことを強調する言い方になるクセ

 

こんなこと始終部下にやっていたら、言いたいことも言えなくなってしまう。対お客さんだったらイライラしだすぞ(タハラには、2の傾向が若干ある)。

  

1については、「なるほど」「そう考えているのか」と、とりあえずニュートラルに返し、疑問点は後でまとめて聞く。2は、絶対禁止。3は「~はOKです」「~だと大丈夫ですよ」と許容範囲を例示する言い方だと、受け入れられやすい。

  

書き言葉でもそうである。この間とある自治体のHPで、典型的なネガ表現があった。

 

・第5回接種は、●月●日以前は受付けません。

 

これをどう書き換えたら、よりわかりやすいか?みなさん、頭の中で変換練習してみよう。

 

もしも『一杯のかけそば』が「すうどん」だったら

ひさびさに関西脱出、「そば・うどん」の看板を見かけての雑感である。地元だと「うどん・そば」の順番が主流である。

 

バブル期の記憶があるアラフィフ世代以上なら、名作『一杯のかけそば』を覚えておられよう。舞台は大晦日の札幌の蕎麦屋で、その主人・女将と、客である3人の母子の交流を描いた短編である。「お母さんもお食べよ」と、一杯の年越しそばを身を寄せて分け合う、つつましやかな母子の様子が日本中に感動を呼んだ。

 

実は、関西育ちのタハラは「かけそば」なる食品がよくわからなかった。要は、何ものっていない温かいそば、で納得したものの、同時に冷たいVer.の「もりそば」なる存在を知り仰天した。「ざるそば」との違いは海苔の有無だという。そんなことで値段に差異を付けるセコさよ。ひょっとして、かけそばにはネギすらないのか。

 

うどん文化の関西であれば、かけそばよりも「すうどん」が鉄板である。もちろん、ネギはデフォルトだ。そもそもネギやショウガ、天かすはテーブルの上などにおいて入れ放題にしておかないと、客から苦情がでよう。

 

―テーブルの上の、1杯のそばを囲んだ母子3人の会話が、カウンターの中と外の2人に聞こえる。 「……おいしいね……」 「今年も北海亭のおそば食べれたね」―

 

物語のなかの心温まる会話。関西版「一杯のすうどん」では、こう変わるかもしれない。

 

「ちょっと●●ちゃん、そこにある天かすをスプーンですくってドバっとかけてから、そろーっとこぼれんように箸で汁にまぜこんで。そうそう。それからネギや。ミニトングでガッとつまんでうどんの上にドカッと三角盛りにするねん。これで母子3人分のカロリーとビタミン確保や!」

 

感染予防対策としてのケガレ祓い

ちょうど夏越の祓(なごしのはらえ)をはさんで、身内の祝い事と不祝儀をたてつづけに経験した。両者の基本思想は、ともに「清める」。特に後者は「ケガレ祓い=感染予防対策」なんだなあ、としみじみ感じた。死者がどんな病原菌をもたらすか、わからないがための先人の知恵である。

 

平成初めにあった祖母の村の葬儀では、田原家の門戸に「忌」を貼られ、全親戚が本当に7日間の出禁を食ったことを思い出す。緊急事態宣言発令である。

 

次に、家のかまどを封じられた。煮炊きは一切禁止で、近所の人が公民館を借り切って、炊き出しをしてくれた(正真正銘の肉なし精進料理だった)。身内だけの食事ながらも、できるだけ言葉を発してはならぬというお達しである。こうして、食事作りと会食による感染拡大を防ぐというわけだ。

 

また、戸口で精進料理を受け取るのは、孫や子など、家の中で一番若い人間、つまりワクチンの優先順位の低い層である。受け渡しのあとは、村人はかならず玄関の外にある盛り塩を踏んで帰っていった。今でいう出入りの際のアルコール消毒であろう。

 

もちろんわが家を含め、令和の葬儀の多くはもっと合理的になっていて、清め塩や通夜の線香(腐敗防止と防臭)に、感染防止の名残をとどめるのみである。初七日は告別式の当日おこなうし、四九日までの期間(神道の場合は五十日らしい)も、よほどのやんごとない家でない限り、禁足はないはずだ。

 

一方で、今でも旅行などの不要不急のイベントは延期する家もあるようだ。ただ、不祝儀のもともとのいわれが感染予防なのであれば、気持ちの折り合いさえついたら、わざわざ自粛する必要はないともいえる。国家行事のオリンピックだって、感染予防すれば開催できるらしいしね。

 

コレラ予防接種の思ひ出

平成もヒトケタ台の今は昔。アフリカ旅行を企てたとき、コレラの予防注射をしたことがある。

 

アフリカ大陸への渡航には、黄熱病とコレラの予防接種が必須であった。黄熱病といえば、子どもの頃『ポプラ社 子どもの伝記』で読んだあの野口英世。その命を奪った、おそろしい病である 。

 

一方で、コレラは私にとっては、なじみのある病名だった。大学時代、夏休み明けの学食で、こんな掲示板をよく見かけた。「××語科の●●さんに接触した人、すぐさま保健センターに申し出てください!!コレラ感染の可能性があります」。今となれば、個人情報への配慮のカケラもない注意書きである。

 

さて、接種パンフによると、黄熱は生ワクチンで、コレラは不活性ワクチンとあった。生ワクチンとは生きたままの菌を体に植え付けることだ。なんと恐ろしげなひびきであろうか。おまけに最低4週間あけなければ2回目の接種ができない。コレラも2回以上の接種が求められるが、1週間程度の間隔でよい。そこで、軽・コレラ→重・黄熱の順でワクチンを接種することになった。

 

コレラ接種の初日、隣県の果てにある接種センターにたどり着いた。ベッドがある広い診療室でかたち通りの問診を受けた後、医者はまくり上げた私の左腕のなかほどにズブリと針を刺した。とたんに「今、菌が静脈に侵入、体の中心に向かっております」という感覚が生じ、菌が進むたびにその部分が、重く、だるくなっていくように感じた。針が抜かれたときには、腕の付け根まで違和感が広がり、腕を持ち上げるのもおっくうな状態であった。

 

帰宅後さらに状態は悪化し、夜になると腕は太ももぐらいの大きさまで腫れあがった。触れると飛び上がるほど痛い。寝るときは体の右側を下にしなければならない。熱も37.5度近くまで上がった。接種でこれとは、実際にかかったらどんな具合だろう、と布団の中のぼんやりした頭で考えた。

 

熱は翌日にはひいたが、左腕の腫れとしびれは数日間残った。経験者に聞くと、コレラ接種で何ともない人は少数派で、38度を越える発熱はザラ、なかには脱水症状を起こして救急搬送される人もいるそうだ。

 

なんとかやり過ごし、しばらくして戦々恐々のコレラ2回目を接種。続いて、ラスボス黄熱を接種したが、とんと記憶はない。おそらく、大過なくすんだのだろう。

 

今月末から、民間人向けのコロナ接種が日本でスタートする。史上初の壮大な人体実験。強烈だとされる副反応は、あのコレラと比べてましなのか。医療従事者でもない高齢者でもないタハラが参加するのは、まだまだ先のことである。

同音異義語の妙味

コロナは「収束」か「終息」か。時事ネタをテーマにした、入社前研修の作文をチェックしていたとき、記述のバラツキを見て、あれれ、とおもった。

 

「収束」分裂・混乱していたものが、まとまっておさまりがつくこと。おさめること 例:事態の-を図る、争議が-する

「終息」物事が終わって、やむこと 例:蔓延していた悪疫が-する

 

どうやら、両方とも正解のようである(むむ、変換1発目『せいかいのよう=政界の要』と出たぞ)。

 

しいて言えば、前者は第三者が介入して事態を変化させることを含意するようなので「(ワクチンを打って)コロナ禍を収束させる」はおそらく「収束」が適当。英語で言えば、things betterとかget back to normalか。

 

それに対して、終息は、死亡フラグがたつということだ。だから「コロナウイルスが~」と生き物?を主語にしたときにしっくりくる。end とかdie downとかといったニュアンスだろう。

 

似たような意味を持つ同音異義語は、ことほどさようにややこしい。

 

ちなみに、グーグルをコーパス替わりにして調べると、「コロナ-収束」の用例は310万件ヒットする一方、「コロナー終息」では173万件である。まだまだ、全体的に終息(end)には程遠く、落ち着いてくれ(get back to normal)という認識なのだろう。できるだけ早いdie out(絶滅)を祈るばかりだ。

 

サボリ癖

それにしてもひどい。ひどすぎる。1カ月もHPブログを更新せずにいるのは、文筆家と名乗る資格はないだろう、と反省している(税務申告では、自営業ー文筆家、というカテゴリーにしている)。なぜ書けない、いや、書かないのだろうか?

 

とある本によると(タイトルは忘れた)、人が文章を書く理由は3つあるという

1 自分しか知らない情報を他人に知らせたい

2 周知の情報に対する、自分の意見に共感してほしい

3 他人の意見と異なる意見を述べたい(2の変形)

 

つまり、今の私には1新情報もなければ、2ものごとに対する定見もなく、3批判精神すら忘れている状態だ。精神がみずみずしさを失っているのだろう。とりあえず、この申告を終わらなさなければ。

 

聖書みたいに「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」なんて奇特なことをいってくれる収税人はいないだろうか…とほほ。ここで一句。

 

 この社会 あなたの税が生きている それにつけても 金の欲しさよ

 

酒、人を呑む

暦の上ではお正月ということで、アルコールに絡む話を少々。

 

私自身はアルコールはNGで、肌に触れてもかぶれる体質である。以前入院したときなどは、消毒のたびに皮膚が赤くなり、ついには看護師引継ぎ用として「田原さん、アルコール禁止」と朱書きされた紙が、デカデカと頭上に貼りだされてしまった。布団の中でのワンカップ大関の隠し飲みがバレたアル中患者のようで、少々恥ずかしかった記憶がある。

 

私は論外として、日本人をはじめとするアジア人はほぼ下戸の類に属するだろう。それにひきかえ、ヨーロッパ人、特にロシア人は恐るべき飲酒レベルの人がいるらしい(ロシアをヨーロッパに含めていいのかという議論は、ここでは触れない)

 

ロシアがまだソ連と言われていた大昔、時はゴルバチョフ禁酒令下の冬のモスクワ。外国人だけに出入りが許された専用バーのカウンター脇で、モスコーミュールをちびちびなめていたときのことだった。

 

ときおり、コートを着た人間が寒風とともにふわっと入ってきて、そのままカウンターに手をつく。バーテンダーはビーカーに手早く何かを注ぎ、客はそれを一気にあおる。そして黙って扉を押し開けて出ていく。その間数十秒。入れ替わり立ち代わり、この光景が少なくとも4,5回繰り返された。

 

「何飲んでいるの?」好奇心にたえかねて聞いたら、バーテンダーはガン無視。客は、こちらに向き直りまじめな顔で「水さ」という。その吐息がいかにも酒臭く、ああ、そういうことかと合点が行った。法の目をかいくぐって、現地人を外人バーに出入りさせていたのだ。

 

最近、ドイツに留学中の大学生からも面白い話を聞いた。ロックダウンが続く中で、寮生がコロナ濃厚接触者の判定を受け、最長2週間の禁足を食うことがひんぱんに起こるらしい。

 

その間、生活必需品はボランティアが玄関先に買い置きしてくれるが、アルコールは禁止である。そこで、上の階の友達に頼んでビールだのワインだのを調達、(玄関だとバレるためか)こっそりと窓から吊るしてもらい自室の窓から受け取るうそうだ。

 

禁じられれば禁じられるほど、あの手この手で対抗策を講じる。酒に呑まれた人間のやることは、今も昔も変わらない。

 

語りえぬもの

『語りえぬものについては、沈黙せねばならない』。19世紀末ウィーン生まれの哲学者ヴィトゲンシュタインの有名な言葉だ。

 

「わからんことについて何を言ってもムダで役に立たんから、われわれは、語るべき領域のことに専念した方がよい」が、通常の解釈である。

  

この言葉に反発を覚える、言語化・図式化大好きのタハラだが、つい先日、語りえぬ体験をした。

 

孤軍奮闘で経営改革を進めていたあるトップが、若手らの考えをひととおり聞き終わったあとに「私は、一人ではなかった」と落涙したのである。一瞬、すべての音が消えたような感覚、なにか温かいもので場が満たされていくような感じは、とてもじゃないけど、居合わせた人間しかわからないだろう。

 

ただし、その先のコミュニケーションは言葉や文字に頼らざるを得ない。トップや若手らが、感動を組織のすみずみに伝え経営改革を進めるためには、非言語体験を、言葉や文字で再現するしか手段がないのだ。

 

実は、先の名言にはもうひと通りの解釈がある。『言語化できないものに対しては、敬意を払ってだまって向きあおう』である。そう、言語化できない時は、その対象に、自分自身に、だまって向き合おう。

 

そしてしっかりと観察したうえで、なんとかかんとか、他人に伝える努力をしてみよう。それでも伝わらないかもしれないが、その人が言葉で耕せる範囲はじょじょに広まってくる。 そして、あきらめずに言語化に努める姿そのものが、聴く人の胸を打つのだと信じている。

 

わたしを〇〇にしないほうがいい

キャッチーな見出しを考えて、腕組みして椅子にもたれていた数日前の午後のことである。気分転換にはいった図書室(わが事務所の隣部屋。6,000冊の蔵書あり)で目にした一冊の本を見た瞬間、おおぅと声を出してしまった。

 

「わたしを空腹にしない方がいい」くどうれいん(2018)である。なんと巧妙なタイトルだろうか。

 

テーマが「食」であり、かつ「空腹」から日々のつつましやかな食事や間食を題材にしていることが連想できる。そして「空腹にさせない」でなく「しない」が、いわゆる個食についての内容であることを匂わせる。テーマ、題材、著者のキャラまでが、この長からぬ表現に凝縮されているのだ。

 

そしてなんといっても「わたしを〇〇にしないほうがいい」という、上から目線な感じがよろしい。このパターンは使えそうだ。さっそくまねた。

 

会社の業務用文書なので「私」は主語にならない。試行錯誤して「××を〇〇にしないほうがいい」という形式にあてはめた。あんまりおもしろくないが、まあ、おしごと用なので仕方がないか。題名づけの際のストックが増えたから、良しとしよう。

 

 

ストック中のマイベストは「帰ってきた●●」だ。世間でも「ランボー2」「ランボー3」など続編がぞくぞくと生まれると、苦肉の策で、作品の一つにはこれが混ざる。ウルトラシリーズでは「帰ってきたウルトラマン」がある。ヒーロー名以外のタイトルは「ウルトラQ」とこれだけのようだ。

 

ちなみに「帰ってきたウルトラマン」のシリーズ中の最高視聴率は、まさかの最終回だったらしい。やっぱり名タイトルの番組は強いのだ。シュワッ。

 

 

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こんばんは

びにに

『問わずにはいられない』 編集中記

やれやれ、やっとゴールが見えてきた。

学校でいじめや事故などに遭った、21の被害者家族・遺族の方々が、わが子の思い出、教育現場への怒りや提言をつづった自主出版の文集『問わずにはいられない』が、9月20日頃の出版に向けて、現在編集の佳境を迎えている。報道関係に案内したところ、各紙が競うようにして取り上げてくれた。ありがたいことである。


8/8京都新聞 http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/2015080800003

教育関係者や子どもを持つ家庭の保護者だけでなく、「なぜ組織は隠ぺいするのか」という組織論のエスノメスドロジーとして捉えても興味深いのではないか。

この本を手にとったときは、内容だけでなく、表現・言葉の選び方にも注目してもらいたい。
一生懸命書いたのにもかかわらず、編集者・タハラから、これじゃ伝わらんよ、とやんわりと言われて突っ返され、何度もやり直した方が大半である。過去の過酷な体験に向き合うことが耐えられず、筆を折った方も何人かおられた。

巧みではないかも知れないが、まさに、当事者だけが持つ言葉の迫力がある。ぜひ、ご一読いただきたく。

ご希望の方は  に メールに 件名「問わずにはいられない 希望」⒈お名前  ⒉郵便番号 ⒊住所 ⒋希望冊数 を記載のうえ、toiawase@lc-lab.com まで。10月からAMAZONでも販売予定だが、ギリギリしか印刷しないので、確実に欲しい方はぜひ予約を。

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